上杉治憲 老婆の手紙

上杉治憲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/12 03:51 UTC 版)

老婆の手紙

安永6年12月6日(1778年1月4日)、米沢西郊の遠山村(米沢市遠山町)のヒデヨという老婆が、嫁ぎ先の娘に宛てて書いた手紙が残っている。

一トフデ申シ上ゲマイラセ候アレカラオトサタナク候アイダ
タツシヤデカセキオルモノトオモイオリ候
オラエモタッシャデオルアンシンナサレタク候
アキエネノザンギリボシシマイユーダチガキソウデキヲモンデイタラ
ニタリノオサムライトリカカツテオテツダイウケテ
カエリニカリアゲモチアゲモウスドコヘオトドケスルカトキイタラ
オカミヤシキキタノゴモンカライウテオクトノコト
ソレデフクデモチ三十三マルメテモツテユキ候トコロ
オサムライドコロカオトノサマデアッタノデコシガヌケルバカリデタマゲハテ申シ候
ソシテゴホウビニギン五マイヲイタタキ候
ソレデカナイヂウトマゴコノコラズニタビくレヤリ候
オマイノコマツノニモヤルカラオトノサマヨリハイヨーモノトシテダイシニハカセラレベク候
ソシテマメニソタテラルベククレグレモネガイアゲ候
十二かつ六か
トウベイ
ヒデヨ
おかのどの
ナホ申シアケ候マツノアシニアワヌトキワダイジニシマイオカルベク候
イサイショガツニオイデノトキハナスベク候
老婆の手紙と足袋(米沢市宮坂考古館所蔵)

ある日、干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそうで、手が足りず困っていたが、通りかかった武士2人が手伝ってくれた。取り入れの手伝いには、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を配るのが慣例であった。そこで、餅を持ってお礼に伺いたいと武士たちに言ったところ、殿様お屋敷(米沢城)の北門[注釈 7]に(門番に話を通しておくから)と言うのである。お礼の福田餅(丸鏡餅ときな粉餅の両説あり)を33個持って伺ってみると、通された先にいたのは藩主(治憲)であった。

お侍どころかお殿様であったので、腰が抜けるばかりにたまげ果てた上に、(その勤勉さを褒められ)褒美に銀5枚まで授けられた。その御恩を忘れず記念とするために、家族や孫たちに特製の足袋を贈ることにしたのである。なお、「トウベイ」とは屋号と推定されている。

講談水戸黄門漫遊記』のように、お忍びの殿様が庶民を手助けする話(架空)はよく語られるが、こうした実例が示されることは他にないであろう。

遠山村では安永元年(1772年)より、治憲が籍田の礼を行っていた。これは古代中国の代に君主が行った、自ら田畑を耕すことで領土領民に農業振興を教え諭し、収穫を祖先に捧げて加護を祈る儀礼で、儒学の教えに則ったものである。4の籍田で収穫された米は、謙信公御堂白子神社、城内春日神社に奉納され、残りは下級武士に配給された。これは歴代藩主に受け継がれた。

この手紙の逸話については、莅戸善政の記録に、該当すると思われる記述がある。

手紙は現在、米沢市宮坂考古館にて所蔵、展示されている。ほぼ片仮名で書かれ、現代人にも容易に読むことができる。当時の識字率書法の一例としても興味深い。


注釈

  1. ^ 末期養子の禁に抵触して無嗣断絶となるのを回避するため、公家の子弟から替え玉の藩主が擁立された。なお、当初は治憲が相良家の養子に所望されていたが、既に上杉家との養子話が進行中だったため弟が選ばれた経緯があった。
  2. ^ いずれも先代による後継指名ではなく、前者は先代死後に末期養子を認められたもので(代償で所領は半減した)、後者は後継者争いの内乱(御館の乱)を経ていた。
  3. ^ 実際、家臣団の人数は47万石の福岡藩にほぼ相当していた。
  4. ^ 新しい鉄製の鍋・釜・鉄瓶などで湯を沸かすときに染み出る鉄臭い渋味
  5. ^ なお、武鑑の『諸大名御隠居方並御家督』で治憲の表記が「米沢侍従越前守藤原治憲」から「米沢侍従鷹山藤原治憲」に変更されたのは文化9年(1812年)からである。
  6. ^ 現代では鷹山の和歌の方が馴染みがあるが元々は武田信玄の名言をコピーしたもので、武田信玄の名言「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」を変えて言ったものとされる。「してみせて 言って聞かせて させてみる」の言葉を残しており、山本五十六(武田家家臣山本勘助の子孫と伝えられる山本家の養子)も信玄の影響を受けたとされる。[要出典]
  7. ^ 米沢城は東門が正門で藩主専用、北門が藩士、出入りの者の通用門である。
  8. ^ このように言われているが、この時、宗勝は既に死亡している。実際には徳川宗睦と思われる。

出典

  1. ^ a b 故上杉輝虎外四名贈位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10110299500 
  2. ^ 上杉鷹山 三助” (日本語). 福井県で自主防災を支援する“まちの防災研究会”ページ!. 2021年11月19日閲覧。
  3. ^ 5 防災まちづくりの推進 | 防災情報”. www.bousai.go.jp. 2021年11月19日閲覧。
  4. ^ 小社会 自助、共助、公助 | 高知新聞” (日本語). www.kochinews.co.jp. 2021年11月19日閲覧。
  5. ^ 海音寺潮五郎 『武将列伝 江戸篇』(新装版)文藝春秋〈文春文庫〉、2008年7月10日。ISBN 978-4167135577 
  6. ^ 横山 1987.
  7. ^ 宮本義己 『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』中央労働災害防止協会、2002年、116-117頁。 
  8. ^ a b 安田尚義 『高鍋藩史話』鉱脈社、1998年。ISBN 4860613325 
  9. ^ 伝国社 特別展「上杉鷹山~改革への道~” (日本語). 米沢市上杉博物館. 2009年7月20日閲覧。
  10. ^ 三重県立博物館"崇廣堂扁額"
  11. ^ 上杉鷹山”. 置賜文化フォーラム
  12. ^ 内村 1995.
  13. ^ a b 奈良本辰也、綱淵謙錠 著「藩政を改革した米沢の名君 上杉鷹山」、角川書店、西沢国雄(構成) 編 『日本史探訪13 幕藩体制の軌跡』角川書店〈角川文庫〉、1984年。ISBN 4041533139 
  14. ^ 滋賀大学附属図書館 『修身教科書』 第1部 明治期から昭和戦前期の変遷、サンライズ出版、2006年10月23日。ISBN 4883253082NCID BA79052260https://hdl.handle.net/10441/392 
  15. ^ 外国人が称賛した山形” (日本語). 山形県. 2021年3月8日閲覧。
  16. ^ J・F・ケネディが尊敬した政治家・上杉鷹山” (日本語). 日経BizGate. 2021年3月8日閲覧。
  17. ^ 【歴史編】「上杉鷹山」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る” (日本語). NECネクサソリューションズ. 2021年3月8日閲覧。
  18. ^ J.F.ケネディ大統領が就任間もなく、日本人記者とのインタビューで尊敬する人物として、上杉鷹山の名前をあげた。この時の記事を探している。”. レファレンス事例詳細(Detail of reference example). レファレンス協同データベース (2012年8月1日). 2018年1月25日閲覧。
  19. ^ 小野榮 『シリーズ藩物語 米沢藩』現代書館、2006年、204頁。ISBN 4768471048 
  20. ^ 鷹山ゆかりの地…ケネディ大使が米沢市訪問”. 日テレNews24 (2014年9月27日). 2018年1月25日閲覧。






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