一関藩 藩邸・菩提寺

一関藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 06:45 UTC 版)

藩邸・菩提寺

  • 上屋敷:愛宕ノ下大名小路(現在の新橋四丁目新虎通り(環二通り)南側)[15]
    • 藩邸跡から50mほど離れた場所の日比谷通りの新橋四丁目交差点脇の東側歩道に、切腹した浅野長矩を偲ぶ「浅野内匠頭終焉之地」の石碑が21世紀に設置されている[16]
    • 田村家では、長矩が収容された座敷のふすまを釘付けにする、また庭先で筵の上で切腹させる、介錯に使おうと田村家伝来の由緒ある刀を家臣が持ち出してきたので藩主が激怒した、切腹した場所には今後誰も近づかないよう藩士に厳命した[17]など、非常に対応が悪かった記録が残るが[18]、それでも田村家の菩提寺である祥雲寺の裏山には浅野長矩の供養塔がある[19](戦後になって江戸の藩邸跡に建てられた切腹した場所を示す記念碑は撤去されている[20] )。
    • なお田村家自体は、勅使饗応役を立派に勤め上げている[21]
  • 中屋敷:愛宕ノ下田村小路(現在の西新橋二丁目)
  • 下屋敷:青山百人町(現在の北青山三丁目)
  • また、伊達宗勝の菩提寺は願成寺である。

特徴

田村氏一関藩は、将軍から伊達家に代々発給される判物と領地目録に、62万石のうち3万石を田村家に与えることが明記され、分知されて成立した藩である。そのため将軍の直臣として扱われ、幕府から直接の指示を受けた。初代藩主建顕の代に外様の小藩でありながら奥詰・奏者番という要職に就いたのは、幕府から直接指示を受ける外様の小藩という立場が、5代将軍徳川綱吉の権力集中のため譜代を抑圧して小藩を取り立てるという政策に合致したためである。建顕以後は幕府中枢に関わる役目に就くことはなかったが、勅使御馳走役を始めとする譜代衆同様の役目に就いた。

仙台藩との関係

一関藩は、将軍家から直接領地朱印状や領地判物を交付されておらず、幕府から仙台藩への領地判物に内分するものとして記載されているに過ぎなかった。上述のように譜代並の役目を務めた一関藩であるが、それゆえに仙台藩から独立への牽制を常に受けていた。

仙台藩の干渉の始まりは、大名取立から間もない寛文2年(1662年10月)にあり、「領内仕置六ヶ条」により、領内での仙台藩以外の制札が禁止された。これにより、自主的な法令を公布することが不可能になり、仙台藩の基本方針を踏襲することを強制される。また、一関所替後の所領は北上川に二分されていたが、二分された一関藩領の間には仙台藩領の村落が10余村あり、一関藩は政治と経済ともに仙台藩の影響下に置かれた。藩職に仙台留守居役が設置され、須原屋武鑑でも仙台藩の支藩扱いであった。

以上のように仙台藩との従属的関係があった一方、大名級の知行地を持つ仙台藩内の一門衆や新田分知と異なり、独自の家臣団と徴税機構を有し、年貢米などの直接徴収が可能だったという点では比較的自立していた。

一関出身の大槻家は仙台藩の藩校養賢堂の学頭を勤めるなど、「仙台藩の頭脳」として活躍した。 明治維新の際の戊辰戦争では、養賢堂の学頭、大槻磐渓が藩論を指導し、仙台藩ともに一関藩は奥羽越列藩同盟(北部政府)に参加し、明治新政府と戦った。新朝廷を創設する動きまであったが、敗戦により「東武朝廷」の誕生は成らなかった。 1869年(明治2年)8月15日より、一関藩は仙台藩が北方警備のため陣屋を建設していた北海道胆振国白老郡(現・白老町)の支配を命ぜられ、陣屋を壊し、新たに役所等を建築、廃藩置県まで支配地とした。

なお、田村建顕は丹波国発祥の田村氏である江戸幕府奥医師田村安栖家の分家から誠顕を迎えているが、以降は伊達家の血縁者が藩主家を継いでいる。


  1. ^ a b c d e 大島 2006, p. 10.
  2. ^ 一関市の歴史上p.132
  3. ^ a b 大島 2006, p. 18.
  4. ^ a b c d e 大島 2006, p. 19.
  5. ^ a b c d 大島 2006, p. 20.
  6. ^ a b 大島 2006, p. 21.
  7. ^ 大島 2006, p. 22.
  8. ^ a b c d 大島 2006, p. 12.
  9. ^ 大島 2006, p. 13.
  10. ^ a b 大島 2006, p. 14.
  11. ^ 大島 2006, p. 15.
  12. ^ 徳富蘇峰『近世日本国民史 桜田事変』
  13. ^ 「一関城下絵図」
  14. ^ 「やぐらの広場」説明パネル(昭和61年「花と緑のモデル地区」指定により整備・一関市)
  15. ^ 「江戸切絵図 芝愛宕下絵図(一部)尾張屋版」(国立国会図書館)
  16. ^ 長矩の遺言が田村家により不明となったため、芝居などの創作だが人口に膾炙した「風誘う」の句が刻まれている。
  17. ^ 「田村家家伝文書」(一関市博物館)
  18. ^ 一関藩『内匠頭御預かり一件』
  19. ^ 「大慈山 祥雲寺 ご案内図」(一関市祥雲寺)
  20. ^ 環二通りの建設工事による(2011年、東京都)
  21. ^ 『徳川実紀』『田村家家伝文書』など
  22. ^ 「田村家文書」より「物成高調べ」(天保二年から安政三年まで)
  23. ^ 嘉永四年の年貢大豆が一千五百五石余。同「物成高調べ」(嘉永四年)
  24. ^ https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/18,24403,148,402,html 豊吉之墓(岩手県指定文化財)
  25. ^ 「滝沢村百姓持高表(安政4(1857)年8月)」・一関市博物館ほか


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