一関藩 一関藩の概要

一関藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:12 UTC 版)

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藩史

前史:伊達政宗の時代

江戸幕府が開幕されて伊達政宗が初代仙台藩主になると、一関は仙台藩領となり、慶長9年(1604年)から政宗の叔父である留守政景、政景が慶長12年(1607年)に死去した後は息子の宗利によって統治された[1]元和2年(1616年)からは仙台藩蔵入地となる[1]

伊達宗勝の時代

寛永18年(1641年)からは政宗の十男で仙台藩第2代藩主忠宗の異母弟の宗勝の領地となる[1]万治3年(1660年)に、宗勝は3万の分知を受けてこの地に陣屋を置き、仙台藩の内分分知大名としての一関藩が正式に立藩した[1]。ただし、宗勝の所領は後代の田村家と同じ3万石だが、領域は多少異なっていた[1]

この2年前、(1658年(万治元年))に忠宗は死去し、嫡男の綱宗が跡を継いで第3代藩主となるも、綱宗は不行跡を理由に、一関藩が成立した年に逼塞を命じられていた[2]。このため、綱宗の隠居により2歳で藩主となった綱村の後見役として、大叔父の宗勝、叔父の田村宗良(忠宗の三男)が選ばれて後見政治が行なわれた[2]。ところが、幼君の下で藩内で政権をめぐる家老(奥山常辰と茂庭定元)の抗争が起こり、さらに後見である宗勝と宗良の間にも確執が起こるなど、伊達騒動(寛文事件)の下地となる対立が出来上がっていく[3]

仙台藩の主導権は宗勝の下にあり、宗勝は自らの専断に反対する派閥を徹底して弾圧した[3]。このため、寛文11年(1671年)に伊達一門の伊達宗重[3]、所領境界問題の裁定を不満として宗勝の専断や不正を幕府に訴えて受理されたことにより、伊達騒動が発生する[4]。この騒動は、家老の原田宗輔が宗重に斬りかかって斬殺したことから宗勝一派が逆臣として一掃、失脚した[4]。宗勝は罪人として土佐藩にお預けとなり、延宝7年(1679年)に死去した[4]。息子の宗興や孫の千之助もお預けとなり、後に死亡したことにより宗勝家は断絶した[4]。一関藩は改易となり、その領地は仙台藩に収公されて家臣も仙台藩に帰属した[5]

田村家の時代

延宝9年(1681年)3月に陸奥岩沼より田村建顕(宗永)が移封され[5]、5月2日(5月3日とも)に入封したことにより[6]、再び一関藩が立藩した。

そもそも田村家は三春(現在の福島県田村郡)に根を張る戦国大名であったが、田村清顕の時に娘愛姫(陽徳院)を伊達政宗の正室に配することで蘆名家相馬家と対抗した[7]。しかし清顕が死去すると、田村家は伊達派と相馬派に分裂して抗争し、やがて伊達家に属した[7]天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置において、政宗は惣無事令違反の咎で蘆名領などを没収されたが、田村郡のみは舅の清顕の所領であったことを理由に秀吉に請うて認められ、伊達領として編入した[7]。このため田村家は改易となり、清顕の甥宗顕は旧領復帰のために政宗と対立して蒲生氏郷を頼り、さらに秀吉に訴えようとしたがその中途で病死し[7]、田村家は断絶した[8]

愛姫は実家が断絶したことを嘆き、政宗やその間に生まれた息子の忠宗にたびたび田村家の再興を懇請した[9]。愛姫は忠宗の三男で自らの孫である宗良を田村家の後継に望んだ[9]。愛姫は承応2年(1653年)に86歳で没したが、忠宗は同年にその遺言を容れて、宗良に田村家を継承させた[10]。宗良は名取郡で岩沼藩3万石を立藩し[3]、伊達宗勝と共に伊達綱村の後見役となっていたが、宗勝との叔父・甥の関係から確執、宗良の温厚な性格と病弱、宗勝の才気煥発と強引な性格により、伊達騒動では主導権を宗勝に握られていた[3]

建顕は宗良の子であり、外様大名ながら奥詰として将軍徳川綱吉の側近として仕えた。 一関藩主となった建顕は、松の廊下で刃傷事件を起こした赤穂藩浅野長矩を預かり、江戸上屋敷(藩邸)内で切腹させたことでも知られる(詳しくは赤穂事件田村建顕など参照)。 また田村通顕は、桜田門外の変でも水戸浪士のうち無傷だった森山繁之介を趣意書と共に預かったが、しばらくして足利藩・戸田家へ移された[11]

明治元年(1868年)の戊辰戦争では、仙台藩に従い奥羽列藩同盟に参加、後に仙台藩とともに明治政府へ降伏した。戊辰戦争後の明治2年(1869年)、3千石の削減の上で藩主の実弟田村崇顕に家督相続を許されたが、同年4月に版籍奉還した。崇顕は一関藩知事に任じられたものの、明治4年(1871年)の廃藩置県によって一関藩は廃され、一関県が置かれた。

居城・居館

  • 一関城(一城令以降は一関要害と称す)
    • 伊達氏時代。絵図には「御殿」の名称で二層の天守代わりの櫓が描かれている[12]
  • 一関陣屋
    • 田村氏入部以降。西端の磐井川と東端の吸川との間につくられ、中心は釣山の北麓に藩主居館(現町名・城内)があった。

現存建物

  • 一関陣屋の表門が、平泉町毛越寺の正門として移築され現存している。

遺構・復元建物

  • 藩主の居館(陣屋址)を見下ろす釣山は、現在「釣山公園」として、石と木の階段のある急な坂の中腹から磐井川を望める。
  • 太鼓櫓(復元) - 田村健顕が陣屋裏門の一角に建てた櫓を復元したもの(実物は市内の長昌寺に保存)[13]
  • 田村神社 - 坂上田村麻呂(近衛少将・越後介から(史上二代)征夷大将軍、田村氏は坂上田村麻呂の末裔と伝承されている)を祀る。釣山公園内の千畳敷に遷座。

  1. ^ a b c d e 大島 2006, p. 10.
  2. ^ a b 大島 2006, p. 18.
  3. ^ a b c d e 大島 2006, p. 19.
  4. ^ a b c d 大島 2006, p. 20.
  5. ^ a b 大島 2006, p. 21.
  6. ^ 大島 2006, p. 22.
  7. ^ a b c d 大島 2006, p. 12.
  8. ^ 大島 2006, p. 13.
  9. ^ a b 大島 2006, p. 14.
  10. ^ 大島 2006, p. 15.
  11. ^ 徳富蘇峰『近世日本国民史 桜田事変』
  12. ^ 「一関城下絵図」
  13. ^ 「やぐらの広場」説明パネル(昭和61年「花と緑のモデル地区」指定により整備・一関市)
  14. ^ 「江戸切絵図 芝愛宕下絵図(一部)尾張屋版」(国立国会図書館)
  15. ^ 長矩の遺言が田村家により不明となったため、芝居などの創作だが人口に膾炙した「風誘う」の句が刻まれている。
  16. ^ 「田村家家伝文書」(一関市博物館)
  17. ^ 一関藩『内匠頭御預かり一件』
  18. ^ 「大慈山 祥雲寺 ご案内図」(一関市祥雲寺)
  19. ^ 環二通りの建設工事による(2011年、東京都)
  20. ^ 『徳川実紀』『田村家家伝文書』など
  21. ^ 「田村家文書」より「物成高調べ」(天保二年から安政三年まで)
  22. ^ 嘉永四年の年貢大豆が一千五百五石余。同「物成高調べ」(嘉永四年)
  23. ^ https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/18,24403,148,402,html 豊吉之墓(岩手県指定文化財)
  24. ^ 「滝沢村百姓持高表(安政4(1857)年8月)」・一関市博物館ほか


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