ロシア帝国
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軍事
陸軍
17世紀末時点のピョートル1世(在位1682年 - 1725年)のロシア帝国軍は約16万の兵力を有しており、この規模は他のヨーロッパ諸国の軍隊と比べて遜色ないものであった[70]。だが、大北方戦争(1700年 - 1721年)緒戦のナルヴァの戦い(1700年)でロシア軍はカール12世のスウェーデン軍に惨敗を喫してしまう。この後、カール12世がポーランド=リトアニア=ザクセン制圧に転戦したため、ピョートル1世は軍隊を再建する余裕を得ることができた。ピョートル1世は教会の鐘を鋳つぶして大砲を製作するとともに都市民や農民を対象とした本格的な徴兵を開始した。これ以前にも臨時の徴兵は行われていたが、租税民である農民を対象とした恒常的な徴兵制度ははじめてであった[71]。「20世帯につき1人」の兵士供出が各村に命じられたが、兵役は25年であり、事実上生涯に渡って村から切り離されることを意味しており、苛酷で死亡率の高い軍隊勤務は貧農に押しつけられる傾向が強かった[72]。「兵士の滞納」は後を絶たなかったが、それでもピョートル1世はこの徴兵制によって年間2万人以上の新兵を得ることができた[72]。貴族の国家勤務査閲を強化して将校の養成を行い[73]、不足は外国人を雇用していたが、1721年の段階でほぼロシア人将校で充足することができるようになっている[74]。陸軍参議会、海軍参議会、砲兵官庁、兵站部そして参謀本部が設けられ軍事行政も整備された[70]。これら軍制改革で強化されたロシア軍はポルタヴァの戦い(1709年)でロシアに侵攻したスウェーデン軍を壊滅させ、大北方戦争を勝利に導いた。
18世紀のロシア軍は数次にわたるオスマン帝国やペルシアとの戦争に勝利して領土を拡大させ、七年戦争ではプロイセン王フリードリヒ2世を破滅寸前に追い込んでいる。19世紀のナポレオン戦争ではロシア軍はアウステルリッツの戦い(1805年)やフリートラントの戦い(1807年)でナポレオンに敗北したものの、ロシア遠征に向かったナポレオンに壊滅的な打撃を与え、最終的な勝利者となったアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)は「ヨーロッパの救済者」と呼ばれた[75]。「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれたニコライ1世(在位1825年 - 1855年)は欧州政治に積極的に介入し、軍事力を持ってポーランドやハンガリーの革命運動を粉砕している。
しかしながら、指揮官の大部分を占める貴族出身の将校で有能な者は一部であり[76]、兵士出身の将校・下士官は教養が低かった[77]。ピョートル1世以来の徴兵制度は25年の兵役を課して社会から切り離すものであり、農民にとっては刑罰同然のものと考えられ[78]、兵士の待遇は劣悪であり貴族の将校は兵士を農奴同様に扱い、軍隊内での体罰や病気での死亡率も高かった[77]。
クリミア戦争(1853年 - 1856年)が勃発した時点のロシア軍は将校27,745人、下士官兵112万人で、ヨーロッパ最大の規模であった[79]。だが、装備は旧式で砲弾も不足しており、加えて国内の鉄道網が未整備で軍隊の急速な展開が不可能な状態にあった[80]。ロシア軍はセヴァストポリ攻囲戦(1854年 - 1855年)で英仏軍に敗れて黒海の非軍事化を含む屈辱的な内容のパリ講和条約を結ばされ[81]、「ヨーロッパ最強国」の自尊心は打ち砕かれた[82]。
敗戦後、アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)は大改革と呼ばれる農奴解放を含んだ行政改革を実施しており、軍制改革もこれに含まれる。この当時、ドイツやフランスの軍隊は国民男子全員に兵役を課して軍隊経験を積ませる国民皆兵であるのに対し、ごく一部の国民に長期の兵役を課す農奴制・身分制的なロシアの軍制は幅広い予備兵力層を欠いており、時代遅れなものになっていた[83]。軍事大臣ミリューチンは軍制の近代化に着手し始め、まず、軍隊内での体罰は禁止された[84]。1861年に兵役は16年に短縮され、1874年には国民皆兵制が施行されて陸軍は兵役6年予備役9年、海軍は兵役7年予備役3年となった[84]。もっとも、家族状況による兵役免除もあって実際の召集率は対象者の25-30%程度に留まっており、また学校教育を受けた者は兵役期間を軽減される規定により裕福な特権階級層は事実上兵役を免れている[85]。初等兵学校、中等兵学校そして士官学校といった教育機関が整備され[86]、貴族以外からの将校への道も広げられた[78]。軍事行政は総合参謀本部と七つの軍事最高機関が設けられ、各部門の長による軍事評議会が組織された[86]。
露土戦争(1877年 - 1878年)でロシア軍はバルカン半島とザカフカースでオスマン軍と戦い、苦戦の末にプレヴェン要塞を陥落させてイスタンブールに迫った。オスマン帝国はサン・ステファノ条約によってバルカン半島の大部分の喪失を余儀なくされ、ベルリン会議を経てモンテネグロ、ルーマニアそしてセルビアが独立、ブルガリア公国が成立している。
アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代には総動員に必要とする日数の短縮、戦時における騎兵の即応性および下馬歩兵戦闘への適応(軽騎兵や槍騎兵が竜騎兵に置き換えられた)、国境地帯の要塞および鉄道網の強化そして砲兵および輜重隊の強化が図られている[5]。
ニコライ2世(在位1894年 - 1917年)の時代にはアジア方面の戦力と即応性が強化され、民兵も再編された[5]。日露戦争(1904年 - 1905年)開戦時、シベリア鉄道はバイカル湖迂回区間が未開通であったためヨーロッパロシアからの兵員輸送に時間を要し、糧食の一部は現地調達に頼らざるを得なかった[87]。戦術思想は銃剣突撃に固執して銃剣を固定した小銃を用いた結果、射撃精度が低下しており、運用もナポレオン戦争と大差ない密集隊形による一斉射撃だった[88]。機関銃は配備されていたがその価値が認められるまでには時間を要した[89]。兵士は困苦欠乏に慣れ、皇帝を素朴に崇拝しており、困難な状況でも頑強に戦ったが、戦争目的を理解していなかった[90]。将校の質は義和団事件(1900年)の際にイギリス軍士官から「(ロシア軍は)ロバに率いられたライオン」と酷評されたもので、一部を除けば無気力で能力も低かった[91]。ロシア陸軍は日本陸軍の攻勢を前に後退を繰り返すことになり、旅順要塞を失陥し、奉天会戦でも敗れた。この敗北が1905年革命を引き起こすことになった。
この時期のロシア軍は正規兵、カザーク(コサック)そして民兵におおまかに区分される。1911年時点の平時戦力は将校42,000、兵110万人(うち戦闘員は95万人)であり、戦時戦力は将校75,000人、兵450万人になっていた[5]。この兵力にほぼ無尽蔵な人的資源を加味すると第一次世界大戦(1914年 - 1918年)開戦時のロシア軍の規模はヨーロッパ最大であったが、鉄道網の慢性的な不効率はロシアの潜在的戦力を大きく減じていた[6]。高級司令部と兵站部は汚職と不効率によってひどく弱められており、工場生産の不備から武器弾薬が不足していた[92]。将校の質的な弱点は改善されない上に数が不足していた[93]。近代装備についても通信システムが未整備で師団司令部が平文で無線連絡を交わし合う有り様であり、軍の自動車は700台に満たなかった[93]。
第一次世界大戦が開戦するとロシア軍はドイツ軍の予想よりも早く動員を終えて主力が不在の東プロイセンに攻め込んだが、タンネンベルクの戦いで包囲殲滅され大損害を出してしまう。ロシア軍はドイツ軍の攻勢に敗走を余儀なくされ、ポーランド、リトアニアそしてベラルーシ西部を占領された。大戦はドイツ軍、オーストリア・ハンガリー軍そしてオスマン軍を相手の総力戦となり、ロシア軍は1400万人もの動員を行ったが2年間の戦闘で530万人の犠牲者を出している[20]。軍の士気は低下して厭戦気分が広まった[94]。1917年に首都ペトログラードで二月革命が起こると兵士たちは皇帝の命令に従うことを拒否して蜂起した労働者の側に付き、労兵ソビエトを組織して帝政打倒を訴え、ロシア帝国を崩壊に追い込むことになる。
海軍
ロシア海軍はピョートル1世(在位1682年 - 1725年)によってつくられた[70]。1695年にオスマン帝国の属国クリミア・ハン国領のアゾフ要塞攻略に失敗したピョートル1世はモスクワ近郊の町やヴォロネジで平底川船1300艘、ガレー船22艘、火船4艘の艦隊を建造し、1696年にこの艦隊を用いて海上補給路を断ち、3か月の包囲戦の末に要塞を陥れて念願の海への出口を手に入れた[95]。スウェーデンとの大北方戦争(1700年 - 1721年)では占領したイングリアやバルト地方にクロンシュタットをはじめとする造船所をつくり、バルチック艦隊を建造した[96]。バルチック艦隊はガングートの海戦(1714年)やグレンガム島沖の海戦(1720年)でスウェーデン艦隊に勝利してバルト海の制海権を確保し、戦争の勝利に貢献した。
エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代の第一次露土戦争(1768年 - 1774年)ではクロンシュタットを発したオルロフ提督率いるバルチック艦隊がジブラルタル海峡を経て地中海に入り、オスマン艦隊を撃破してロシアの海軍力を誇示している[97]。戦争に勝利してクリミア・ハン国を併合したエカチェリーナ2世はポチョムキンを新領土総督に任命してクリミア経営にあたらせた。ポチョムキンはセヴァストポリを根拠地とする黒海艦隊を創設する[97]。その後に発生した第二次露土戦争(1787年 - 1792年)やアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の時の第三次露土戦争(1806年 - 1812年)でもロシア艦隊とオスマン艦隊は戦火を交えている[98]。
ニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代に入るとギリシャ独立戦争(1821年 - 1832年)に介入したロシアは地中海に艦隊を派遣して英仏と連合艦隊を組み、ナヴァリノの海戦(1827年)でオスマン・エジプト連合艦隊を撃滅しており、この勝利によりギリシャを独立へと導いている[99]。
1853年にロシアとオスマン帝国は再び開戦した(クリミア戦争:1853年 - 1856年)。開戦早々にナヒモフ提督の黒海艦隊がスィノプ港に停泊していたオスマン艦隊に奇襲をかけて全滅させ、港湾機能を破壊した(シノープの海戦)[100]。海戦には勝利したが、英仏の新聞が「スィノプの虐殺」と報道したことにより反ロシア的世論を煽る結果となってしまう。参戦した英仏連合艦隊が黒海に入り、黒海艦隊はセヴァストポリに籠城する作戦をとったが、1年以上の包囲戦の末にセヴァストポリは陥落し、黒海艦隊は降伏前に自沈した[101]。パリ講和条約の条項により、黒海の艦艇保有数に厳しい制限がかけられ、艦隊を配備することは禁じられた[102]。
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アゾフ攻略(1696年)
Robert Kerr Porter画。1842年以前。 -
ガングートの海戦(1714年)
Алексей БОГОЛЮБОВ画。1877年。 -
ナヴァリノの海戦(1827年)
Ambroise-Louis Garneray画。1830年頃。 -
シノープの海戦(1853年)
イヴァン・アイヴァゾフスキー画。1853年。
クリミア戦争の敗戦後、アレクサンドル2世(在位1855-1881)の弟コンスタンチン大公が艦隊の再編と近代化を指揮した[102]。1860年代に帆走軍艦は姿を消し、蒸気軍艦が主体となった[103]。南北戦争でのハンプトン・ローズ海戦(1862年)に関心を持ったロシア海軍はさっそく木造軍艦2隻を装甲艦に改装させ、さらにアメリカの装甲艦モニター号に類した沿岸防衛用のモニター艦を17隻建造している[104]。普仏戦争(1870年 - 1871年)にフランスが敗れて第二帝政が倒れるとロシアはパリ条約を破棄して黒海艦隊を再建した[105]。露土戦争(1877年 - 1878年)では発明されて間もない魚雷を用いてオスマン海軍の船を撃沈することに成功している[106]。
1860年の北京条約で清国から沿海地方を割譲されており、この地に建設されたウラジオストクが太平洋艦隊の根拠地となる。1898年に清国から大連・旅順地域を租借したロシアは旅順要塞を築いて太平洋艦隊の根拠地となし、日本に備えた。
20世紀はじめのロシア海軍はバルチック艦隊、黒海艦隊、太平洋艦隊そしてカスピ海艦隊から成っていた。日露戦争(1904年 - 1905年)開戦時の戦力は戦艦21隻(5隻建造中)、海防戦艦3隻、旧式装甲巡洋艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦13隻(5隻建造中)、軽巡洋艦8隻、駆逐艦49隻(11隻建造中)の主要艦艇からなり[107]、イギリス、ドイツに次ぐ世界第三位の海軍大国であった[7]。
日本の連合艦隊と対することになった太平洋艦隊の主力(旅順艦隊)は旅順港に封じ込められた。艦隊はウラジオストクへの脱出を図るが黄海海戦で大損害を受けて阻止され、旅順陥落で全滅した。ヨーロッパロシアから長距離の航海を経て極東にたどり着いたバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は日本海海戦(ツシマ海戦)でほぼ全滅する。陸海での敗戦に国内は動揺し、黒海艦隊では戦艦ポチョムキンの反乱が起こっている。この戦争でロシア海軍は戦艦14隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦5隻、巡洋艦6隻、駆逐艦21隻を失った[108]。
1907年、海軍省は戦艦32隻、巡洋戦艦16隻、巡洋艦36隻、駆逐艦156隻からなる野心的な建艦計画を提出するが、ドゥーマ(国会)の猛反対にあい、縮小した計画も承認を得られず、1909年のドイツとの関係悪化でようやくバルチック艦隊向け弩級戦艦4隻の予算が承認された[7]。日本との関係が緩和する一方で独墺とは険悪化すると1911年に黒海艦隊向けの弩級戦艦3隻その他の予算が承認される。1911年のモロッコ危機で対独関係がさらに悪化すると海軍省は「大建艦計画」と呼ばれる野心的な海軍法をドゥーマに承認させた[7]。これは1927年までに総計戦艦27隻、巡洋戦艦12隻を建造しようとするものであったが、実現することはなかった[109]。
艦隊再建の途上でロシア海軍は第一次世界大戦(1914年 - 1918年)を迎える。このためバルチック艦隊と黒海艦隊の作戦は機雷戦を中心とした防御的なものになった[110]。ロシア海軍は開戦早々の1914年8月に触雷沈没したドイツの軽巡洋艦マクデブルクから暗号表を回収してイギリスへ送り、連合国の戦争努力への大きな貢献を果たしている[111]。戦前に起工された戦艦のうちバルチック艦隊向けのガングート級戦艦4隻と黒海艦隊向けのインペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦3隻が大戦中に竣工したが、インペラトリッツァ・マリーヤ級は戦争と内戦の混乱で全て失われた。
1917年の二月革命で帝政が瓦解し、さらに十月革命ではバルチック艦隊の水兵がボリシェヴィキに与し、巡洋艦アヴローラが冬宮を砲撃した。続く内戦の混乱によって海軍の組織は崩壊し、レーニンをはじめとするボリシェヴィキの指導者は海軍の必要性を理解せず、その結果、艦艇の多くが失われるか行動不能になり、建造中の艦は放置されることになる[112]。
航空隊
西ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国と同じくロシアでも19世紀後半から動力飛行機の試みがなされており、ソ連時代には世界初の動力飛行はライト兄弟よりも20年近く早い、1884年のモジャイスキーによるものであると主張されていた[113]。19世紀末にツィオルコフスキーが先進的なロケット技術の諸論文を発表しており、今日では「宇宙ロケットの父」と呼ばれている[114]。1909年には「ロシア航空の父」と呼ばれるジューコフスキーがロシア初の航空団体を設立した[115]。そして、1914年にシコールスキイが世界初の4発飛行機イリヤー・ムーロメツを完成させた。
第一次世界大戦(1914年 - 1918年)開戦時、陸軍は約250機、海軍は約50機の航空機を保有していた[116]。国産軍用機も存在していたが少数生産に留まっており、ロシア軍は輸入機やライセンス生産機主体で戦った[117]。イリヤー・ムーロメツの爆撃型が製造され、シコールスキイ自身が率いる爆撃隊の活躍があったもの[118]、ロシア軍航空隊は用兵と運用の拙劣さもあってドイツ帝国軍航空隊を相手に劣勢を強いられている[119]。
注釈
- ^ 支配民族であるドイツ人が極度な少数派で、しかも隣の統一ドイツ帝国から取り残されているという特異な多民族国家であった。
- ^ 1897年の国勢調査によると、スラブ人の割合はオーストリアで3,600万人のうち2,100万人、オーストリア=ハンガリー帝国で51,390,000人のうち25,465,000人、ロシア帝国では1億2,920万人のうち1億900万人であった。
- ^ "Царство"に「Царьの国」「帝国」「治世」などの訳語を当て、"Царь"に「帝王」「皇帝」「国王」「ロシヤ皇帝」「第一人者」「王」などの訳語を当てている出典:八杉貞利著『岩波ロシヤ語辞典 増訂版』岩波書店(1465頁、第9刷、1970年11月20日発行)
- ^ "Царство"に「帝国」「王国」「治世」などの訳語を当て、"Царь"に「(ロシア)皇帝」「ツァーリ」「帝王」「国王」「第一人者」などの訳語を当てている出典:共編『ロシア語ミニ辞典』白水社(414頁、第8刷、2008年2月10日発行)
- ^ ピョートル2世の治世に2年間(1728年-1730年)だけモスクワに還都している。
- ^ 1897年の国勢調査によるとロシア人(大ロシア人)は総人口1億2,896万7,694人の43.2パーセントに当たる5,567万3,408人である。“Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"”. p. 874. 2012年2月12日閲覧。
- ^ 日本はサンフランシスコ講和条約で南樺太の領有権を放棄したが、ロシアの領有は承認していない。外川継男・栗生沢猛夫. “樺太- Yahoo!百科事典”. 日本大百科全書(小学館). 2012年3月8日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 当時の様子は「北槎聞略」からも窺える。桂川甫周『北槎聞略・大黒屋光太夫ロシア漂流記』亀井高孝校訂、岩波書店(岩波文庫)1993年
- ^ この当時の様子は岩倉使節団の記録『米欧回覧実記』にも記載されている。久米邦武 編『米欧回覧実記・4』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、42頁
- ^ a b ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい。田中他(1994),pp.132-133.
- ^ a b 1720年の設立当初の名称は「聖職参議会」で、翌1721年に元老院と同格の「宗務院」に改称された。田中他(1994),p.42.
- ^ 正教徒となったタタール人はクリャシェンと呼ばれる。18世紀初頭に2万人前後、19世紀末には11万となったが、その後激減しており、2002年現在は2万5000人程度になっている。濱本(2011),p.56.
- ^ 分離派(ラスコーリニキ:раскольники)とも呼ばれる。
- ^ ロシア編入時、ベラルーシ住民の75%が合同派教会だった。服部(2004),p.23.
- ^ フルイスト派やスコプツィ派については次の論考を参照。*青山太郎「ロシアの性愛論 (7) : 去勢派」『言語文化論究』第13巻、九州大学大学院言語文化研究院、2001年、121-138頁、doi:10.15017/5362。
- ^ ロシア初の国勢調査による数値。
- ^ ピョートル1世が官等表を制定した時点では十四等官で一代貴族、九等官で世襲貴族になれた。岩間他(1979),p.256.
- ^ 17世紀後半にはカザーク も農耕に従事し始めている。和田他(2002),p.151.
- ^ 18世紀後半のイギリスでははん播種量の10倍の収穫であったのに対して、ロシアでは半分の5倍に留まっている。土肥(2007),p.241.
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