ロシア帝国 宗教

ロシア帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 06:42 UTC 版)

宗教

宗教 信者数[120]
正教会 87,123,604
イスラム教 13,906,972
ローマ・カトリック 11,467,994
ユダヤ教 5,215,805
ルター派 3,572,653
古儀式派と諸セクト[121] 2,204,596
アルメニア使徒教会 1,179,241
仏教ラマ教 433,863
その他非キリスト教 285,321
カルヴァン派 85,400
メノナイト 66,564
アルメニア典礼カトリック教会英語版 38,840
バプテスト教会 38,139
カライ派 12,894
聖公会 4,183
その他のキリスト教宗派 3,952

1897年の国勢調査に基づく1905年の報告書によれば、ロシア帝国内の各宗教宗派の概算信者数は右表のとおりである。1905年の「信教の自由に関する勅令」により公的には全ての信仰が認められるようになった。

正教会

ロシア帝国の国教正教会ギリシャ正教、東方正教会)である。独立教会ロシア正教会の首長は「教会の最高守護者」の称号を有する皇帝であった。皇帝は人事権を有していたが、教義や説教に関する問題を決定することは無かった[120]

モスクワの救世主ハリストス大聖堂。1903年撮影。
この聖堂は1931年にスターリンの指令によって爆破されている。

ロシア帝国の多数を占める東スラヴ系ロシア人小ロシア人ウクライナ人)、白ロシア人(ベラルーシ人)は正教もしくは無数にあるその分派を信仰している。東スラヴ系以外ではルーマニア人モルドバ人)、グルジア人も正教である。フィンランドカレリア地方の正教徒はロシア革命後の1917年に自治教会フィンランド正教会を創設している。ウラル・ヴォルガ地方ではモルドヴィン人のほとんどが正教であり、ウドムルト人ヴォグル人、チェレミス人(マリ人) とチュヴァシ人も同様であるがキリスト教やイスラム教の影響を受けたシャーマニズムとの混合であった[120]。シベリアではヤクート人が18世紀後半頃に正教に改宗しているが、これもシャーマニズムの要素を残している[122]

ロシア正教会

ロシアのキリスト教受容は10世紀頃のことである。以降、コンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下に置かれ、ほとんどの府主教がギリシャ人であったが[123]東ローマ帝国が衰退してバーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議で東西教会の合同が宣言されたことを受け、1448年にモスクワ府主教座がコンスタンディヌーポリ総主教庁から事実上独立した[124]。東ローマ帝国の滅亡に伴って、モスクワはローマ帝国ローマ、東ローマ帝国のコンスタンティノープル古期ロシア語ではツァリグラードと呼ばれた)に次ぐ「第三のローマ」であるという言説が見られるようになった[125]。1589年にロシア正教会はコンスタンディヌーポリ総主教イェレミアス2世より、独立教会の祝福を正式に受け、モスクワ総主教座が成立した[126]

ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)以前の正教会の修道院・教会は農民の4分の1を支配し、世俗権力から独立した勢力を持っていた[127]。ピョートル1世はロシア正教会をプロテスタント諸国の国教会的な組織に改編すべく、教会改革を断行した[128]。1700年にモスクワ総主教アドリアン英語版が死去するとピョートル1世は後任の選出を許さず、皇帝に忠実なフェオファン大主教を起用して1721年に「聖務規則」を作成させ、総主教位を廃止して合議制の宗務院を設け[n 11]、教会を国家権力の統制下に置かせた[129]。皇帝の代理人である俗人の総監に指導される宗務院は聖務に対する広範な権限を有するようになり、教会は国家の一機関と化した[130]。聖界領地は国家管理とされ(エカチェリーナ2世の時代に国有地化)、独自の収入を断たれた聖職者たちは国家からの給与に依存することになり、従属の度を深めた[131]

ロシアの東方拡大とともにロシア正教会も東方へと進出し、ウラル・ヴォルガ地方の諸民族そしてシベリア先住民の正教への改宗が進められた。ウドムルト人、チェレミス人、ヤクート人[122]といった民間信仰の民族に対しては正教への改宗は順調だったが、ムスリムに対しては概して上手くゆかなかった[132]タタール人の上級階級の正教受容は一定の成功を収め、彼らはロシア貴族化したが[133]、民衆はごく一部が改宗したのみで[n 12]、それも表面的に洗礼を受けただけの者が多く、後に棄教者が続出する事態が起こっている[134]バシキール人は改宗に強く抵抗して反乱を繰り返し[135]、19世紀後半にロシアの版図に入った中央アジアのトルキスタン総督府では正教会による宣教自体が禁止されていた[136]。このような動きに危機感を持った正教会では、19世紀後半にイリミンスキーロシア語版が洗礼タタール人に対する現地語、習慣を尊重した教育活動を行い、この方式が政府に採用されてイリミンスキー・システムと呼ばれるキリスト教化した異族人全般に対する教育制度が構築されることになる[137]

帝政時代のロシア正教会の伝道活動は国外にも及んでおり、聖インノケンティ・ヴェニアミノフはロシア領アラスカ初の主教となり、先住民への伝道を行った。1868年にアラスカが売却されるとロシア正教会はアメリカ合衆国へと進出して1872年にサンフランシスコ、1905年にはニューヨークに主教座が設けられている[138]。日本へは、1861年に宣教師ニコライが来日して、後の日本ハリストス正教会の基礎を築いている。

ソロヴェツキー修道院
古儀式派の拠点となり、1668年から1676年まで抵抗を続けた。
セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー撮影の最初期のカラー写真。1915年。

ロシア帝国は征服した土地の異宗派信徒や異教徒の改宗自体はさほど重視していなかったが[139]、ロシア語と正教を強制するロシア化政策が強化された19世紀後半のアレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代にはポベドノスツェフ宗務院総監の指導のもとで、カトリック・プロテスタント・アルメニア教会への規制強化と正教への改宗が促され、中央アジアのタタール人に対しては半ば強制的な正教への改宗が行われた[140]。1905年革命によって信教の自由が認められると多数の人々がカトリック、プロテスタントそしてイスラム教に改宗・復帰している[141]

帝政下のロシア正教会では綱紀の紊乱や村司祭の貧困といった問題が深刻化しており、19世紀後半になるとこれら諸問題を解決するための教会改革を求める運動が起こり、この動きが1905年革命の際の地方公会(1681年に廃止)再開と総主教制復活の要求に結びついた[142]。二月革命で帝政が倒れた直後の1917年8月に地方公会が開催されてティーホンが総主教に選出されるが[143][142]、この後、ロシア正教会は無神論ソビエト政権下で厳しい迫害と宗教活動の制約を受けることになる[144]

20世紀はじめ頃のロシア正教会の上座には3人の府主教(サンクトペテルブルク、モスクワ、キエフ)、14人の大主教、50人の主教がいた[120]。1912年時点の数値によるとロシア国内には正教会の教会と礼拝堂が60,000、公認された修道院298、女子修道院400があり、司祭45,000人、長司祭2,400人、輔祭15,000人、修道士・修練士17,583人、修道女・見習い修道女52,927人の聖職者がいた[145]

ロシア正教会以外

17世紀の総主教ニーコン英語版の典礼改革を巡ってロシアの正教会では分裂が生じ、ツァーリ・アレクセイ(在位1645年 - 1676年)と対立したニーコンは失脚したが、同時に改革反対派も正教会から破門を受けた[146]。ロシア伝統の典礼を護持する彼らは古儀式派(スタロオブリャージェストヴォ:Старообрядчество[n 13]と呼ばれた。古儀式派は激しい迫害を受けるが[147]、ピョートル1世の教会改革によってロシア正教会に対する統制が強められると勢力を伸ばすようになり、国民の3分の1から5分の1が古儀式派に属するようになった[148]

古儀式派はロシア正教会から分離した際に主教を欠いていたため司祭の叙階が困難になり、17世紀末頃に司祭の存在を前提とする司祭派英語版と無用とする無司祭派とに分裂した[149]。無司祭派は狂信の度を深めて無数に分裂を繰り返し、勢力を弱めている[149]。18世紀後半のエカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代には古儀式派に対する弾圧が緩められたが[150]ニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代に再び弾圧を受けるようになり、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代にはポベドノスツェフ宗務総監の指導のもとで迫害が行われた[151]。司祭派はこれらの迫害を耐えて1881年に政府の公認を受けている[149]。1897年の国勢調査によると総人口の15%にあたる1750万人が古儀式派であった[152]

グルジアには5世紀以来の独立教会グルジア正教会が存在していたが、19世紀にグルジアが併合されるとグルジア正教会の独立が否定されて総主教も廃止されている[153]。ロシア人の大主教が派遣され、礼拝でのグルジア語の使用も制限されており、これに反発した民衆蜂起への報復としてさらなるロシア化が強制されている[153]。グルジア正教会が独立を回復するのは1917年の二月革命後であり、ロシア正教会が正式にこれを認めたのは第二次世界大戦中の1943年のことであった。

正教会以外のキリスト教

ワルシャワの聖十字架教会英語版。1890年代撮影

ポーランド人とほとんどのリトアニア人ローマ・カトリックである。ウクライナ人、ベラルーシ人の一部は東方典礼カトリック教会、アルメニア人の一部はアルメニア典礼カトリック教会英語版に属していた。エストニア人を含む全ての西部フィン人ドイツ人そしてスウェーデン人プロテスタントであり、ルター派バルト地方イングリアそしてフィンランド大公国での支配的宗派であった。アルメニアには独自のアルメニア使徒教会が存在する。

1721年のニスタット条約でロシアに編入されたバルト地方のルター派教会は存続を保障され、1809年にロシアの属国となったフィンランド大公国の教会も同様の措置が取られた。

18世紀末のポーランド分割で併合されたウクライナおよびベラルーシ[n 14]の合同派教会(ウクライナ東方カトリック教会)に対しては正教会への復帰が強制されており、強い抵抗とこれに対する迫害が繰り返されることになる[154]。1861年にワルシャワにおいて総督府の兵士と民衆との衝突が発生した際にカトリック教会、プロテスタント教会そしてユダヤ教寺院が合同で教会を閉鎖する抗議行動を起こして総督を辞任に追い込んでいる[155]。1863年から1864年にかけてポーランド・リトアニアで起こった大規模な武装蜂起(一月蜂起)が鎮圧されると、ロシア政府は蜂起にカトリック教会の聖職者が関与していたとして規制が強化されて修道院の大半が閉鎖され、弾圧に抗議する司祭が追放されたためポーランド王国内で実質的に活動する教区が僅か1つとなる事態になっている[156]。1882年にアレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)と教皇庁との間で政教条約(コンコルダート)が結ばれたものの、ポベドノスツェフ宗務総監の宗教政策により、この合意は無効同然にされた[157]。アレクサンドル3世の時代には、それまで寛容であったバルト地方のルター派教会に対しても規制が強められている[158]

19世紀にロシアの統治下に入ったアルメニアは4世紀以来の長い歴史を持つ独自のアルメニア使徒教会が存在しており、正教会に併合されることなく存続を許されていた[159]。アレクサンドル3世の時代にはアルメニア使徒教会も迫害を受け、ロシア化政策により1885年に教区学校が閉鎖された[160]ニコライ2世(在位1894年 - 1917年)治世には、1896年に図書館・友愛団体も閉鎖され、1903年には教会財産が没収される「アルメニア教会の危機」と呼ばれる事態になっている[161][159]

帝政時代のロシアでは霊的キリスト教系のさまざまな諸派(主流派正教会の観点からは異端、分離派あるいはセクト)が生じており、有力なものにはドゥホボール派[162]や信者が100万人に達したモロカン派[163]がある。またこの時代に誕生し極端なセクトと呼ばれていた教派の事例としてはフルイスト派(鞭身派)やスコプツィ派(去勢派)が知られる[n 15]。これらのセクトは反社会分子として迫害を受けた[164]。だが、現在も存続している。

非キリスト教

ヴォルガ・ウラル地方のタタール人バシキール人そしてアゼルバイジャン人を含むカフカース諸民族の一部、中央アジア諸民族はムスリムイスラム教徒)であり、この内キルギス人は土俗のシャーマニズムをイスラムの信仰と合わせ持っている。ムスリム以外の非キリスト教徒にはラマ教徒カルムイク人や、シャーマニズムサモエード人をはじめとするシベリア諸民族がいた。

イスラム教

ムスリム宗務協議会によって1830年に建設されたウファのモスク。

16世紀中頃、イヴァン4世(在位1533年 - 1584年)のカザン・ハン国アストラハン・ハン国の併合以降、ロシアはムスリム社会を内包するようになった。イヴァン4世は征服地にカザン大主教座を置き、強制的な改宗が試みられたが、すぐに撤回している[165]。正教に改宗したタタール人は僅かであり、彼らはクリャシェンと呼ばれた[166]。ピョートル1世はタタール人の司祭をつくるべく神学校を開設させたが失敗した[167]。18世紀に入ると新規改宗者取扱局が置かれてクリャシェンの監督とムスリムに対する抑圧が行われ、カザンでは536あったモスクのうち418が取り壊されている[168]

エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代にクリミア・ハン国が併合されて多くのクリミア・タタール人がロシアの支配に入った。エカチェリーナ2世は宗教寛容政策を採り、それまでの抑圧策を廃止してムスリムを統治体制に組み込む方針に転換させた[169]。1789年にムスリム宗務協議会ウファに設立され、この行政組織を通じてウラマー(イスラム法学者)の統制やシャリーア (イスラム法)の執行、モスクの管理が行われるようになった[170]。1831年にクリミア地方を管轄するウヴリーダ・ムスリム宗務理事会、1872年にザカフカース・ムスリム宗務理事会がそれぞれ開設されている[171]

18世紀末から19世紀前半にかけてカフカースが征服され、北カフカースの山岳民族やザカフカースのアゼルバイジャン人といったムスリムがロシアの支配に組み込まれた。アゼルバイジャン人に対する改宗の試みは成果なく、同化政策に対する反発を引き起こしている[172]。北カフカースの山岳民族は長期にわたってロシア人の支配に抵抗した(カフカース戦争)。

ガスプリンスキー
1872年撮影。

早くにロシアの支配に入ったヴォルガ・タタール人の商人や企業家は言語・宗教の同質を利用してイスラム諸国との貿易に活躍して財を蓄え、ロシアにおけるムスリム社会の経済発展そしてイスラム文化復興に貢献している[173]。ロシアのウラマーの多くは中央アジアに留学しており、ブハラ・ハン国で中心的だったスーフィズムがロシアでも盛んになった[174]。19世紀に入ると中央アジア礼賛に批判的なウトゥズ・イマニーや法源を主体的に解釈するイジュティハードを主張するクルサヴィーによるイスラム改革運動が生まれている[175]。この一方で、裕福なタタール商人をはじめとするムスリムの知識階層も形成され、ロシア式教育が行われるようなり、彼らは飲酒をはじめとするロシア文化を受容しており、厳格なスーフィズム教団やウラマーの改革運動とは距離があった[176]

19世紀後半になるとカフカース戦争の激化とともに政府のムスリムへの警戒が強まり、アラビア文字トルコ語出版物への規制が行われた[177]。この時期にメルジャーニーやチュクリー、ナースィリーがロシア文化受容を唱え、ウラマーの改革運動とムスリム知識人を取り結ぶ動きが起こっている[178]。そして、ガスプリンスキーマドラサの伝統教育に代わる近代的な新方式学校の設立と共通トルコ語使用の運動を起こし、これが19世紀末から20世紀のムスリム社会の近代化を目指したジャディード運動に結びついた[179]

1860年代から1880年代にかけて中央アジアがロシアの版図に組み入れられ、これらの地域のムスリムもロシア帝国の臣民となった。ロシア帝国は彼らを異族人と規定して、ムスリム社会の風俗慣習に基本的に立ち入らない政策を採っている[180]

1905年革命が起こるとムスリムの政治運動も活発化し、ロシア・ムスリム大会が開催され、ロシア・ムスリム連盟英語版が発足した[181]。ロシア・ムスリム連盟は立憲民主党と共同歩調をとり、ドゥーマ(国会)に議員団を送り込んでいる[182]

ユダヤ教

13世紀のカリシュ法以降、ユダヤ人に寛容だったポーランド・リトアニアの領土が、18世紀末のポーランド分割でロシアに併合されたことにより、ロシア帝国は世界有数のユダヤ人人口を抱える国となった[183]。ユダヤ人はウクライナ、ベラルーシそしてリトアニアに集中しており、1897年の国勢調査では521万人になっている[183]エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は「ジード」の卑称を用いず「エブレイ」(ヘブライ人)と呼び、ユダヤ人に権利と自由を保証したが、都市行政から排除し、1791年には移動制限を課している[184]。1835年に定住地制度が定められ、ユダヤ人は指定された定住区域に居住することを義務づけられた[185]。ユダヤ人の中には貴族に取り立てられる者や企業活動・芸術分野で活躍する者もいたが国政に参画することは許されなかった[186]

アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の大改革の際にはユダヤ人に対する規制が緩和されたが、1881年の皇帝暗殺事件の犯人の中にユダヤ人女性が加わっていたことが明らかになるとポーランドやウクライナでユダヤ人を襲撃するポグロムが巻き起こった[187]。ロシア政府はこの事態を黙認する態度をとり、「ユダヤ人=搾取者説」が流布されて虐殺が助長された[188]。事件後にユダヤ人臨時条例が制定されて農村移住・不動産取得が禁止された[189]。19世紀末には中・高等教育機関のユダヤ人の数に制限がかけられ、ゼムストヴォ(地方自治機関)からも排除されている[190]

1903年から1906年にかけて再び大規模なポグロムがあり、ベッサラビアでのユダヤ人襲撃を契機にウクライナ・ロシア西部に広まった[188]。これには極右団体だけでなく警察や軍隊まで関与している[190]。これらの迫害によって150万人のユダヤ人がロシアを去って北米・西欧へ移住しており、やがてイスラエルの地に祖国の再建を目指すシオニズム運動へとつながることになる[191]。彼らの移住はフランク・ゴールドスミスなどが支援した。また、数多くのユダヤ人が革命運動に参加しており[192]、その中にはカーメネフスヴェルドロフそしてトロツキーといったボリシェヴィキの指導者たちもいた。


注釈

  1. ^ 支配民族であるドイツ人が極度な少数派で、しかも隣の統一ドイツ帝国から取り残されているという特異な多民族国家であった。
  2. ^ 1897年の国勢調査によると、スラブ人の割合はオーストリアで3,600万人のうち2,100万人、オーストリア=ハンガリー帝国で51,390,000人のうち25,465,000人、ロシア帝国では1億2,920万人のうち1億900万人であった。
  3. ^ "Царство"に「Царьの国」「帝国」「治世」などの訳語を当て、"Царь"に「帝王」「皇帝」「国王」「ロシヤ皇帝」「第一人者」「王」などの訳語を当てている出典:八杉貞利著『岩波ロシヤ語辞典 増訂版』岩波書店(1465頁、第9刷、1970年11月20日発行)
  4. ^ "Царство"に「帝国」「王国」「治世」などの訳語を当て、"Царь"に「(ロシア)皇帝」「ツァーリ」「帝王」「国王」「第一人者」などの訳語を当てている出典:共編『ロシア語ミニ辞典』白水社(414頁、第8刷、2008年2月10日発行)
  5. ^ ピョートル2世の治世に2年間(1728年-1730年)だけモスクワに還都している。
  6. ^ 1897年の国勢調査によるとロシア人(大ロシア人)は総人口1億2,896万7,694人の43.2パーセントに当たる5,567万3,408人である。Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"”. p. 874. 2012年2月12日閲覧。
  7. ^ 日本はサンフランシスコ講和条約で南樺太の領有権を放棄したが、ロシアの領有は承認していない。外川継男・栗生沢猛夫. “樺太- Yahoo!百科事典”. 日本大百科全書(小学館). 2012年3月8日閲覧。[リンク切れ]
  8. ^ 当時の様子は「北槎聞略」からも窺える。桂川甫周『北槎聞略・大黒屋光太夫ロシア漂流記』亀井高孝校訂、岩波書店(岩波文庫)1993年
  9. ^ この当時の様子は岩倉使節団の記録『米欧回覧実記』にも記載されている。久米邦武 編『米欧回覧実記・4』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、42頁
  10. ^ a b ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい。田中他(1994),pp.132-133.
  11. ^ a b 1720年の設立当初の名称は「聖職参議会」で、翌1721年に元老院と同格の「宗務院」に改称された。田中他(1994),p.42.
  12. ^ 正教徒となったタタール人はクリャシェンと呼ばれる。18世紀初頭に2万人前後、19世紀末には11万となったが、その後激減しており、2002年現在は2万5000人程度になっている。濱本(2011),p.56.
  13. ^ 分離派(ラスコーリニキ:раскольники)とも呼ばれる。
  14. ^ ロシア編入時、ベラルーシ住民の75%が合同派教会だった。服部(2004),p.23.
  15. ^ フルイスト派やスコプツィ派については次の論考を参照。*青山太郎「ロシアの性愛論 (7) : 去勢派」『言語文化論究』第13巻、九州大学大学院言語文化研究院、2001年、121-138頁、doi:10.15017/5362 
  16. ^ ロシア初の国勢調査による数値。
  17. ^ ピョートル1世が官等表を制定した時点では十四等官で一代貴族、九等官で世襲貴族になれた。岩間他(1979),p.256.
  18. ^ 17世紀後半にはカザーク も農耕に従事し始めている。和田他(2002),p.151.
  19. ^ 18世紀後半のイギリスでははん播種量の10倍の収穫であったのに対して、ロシアでは半分の5倍に留まっている。土肥(2007),p.241.
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  291. ^ 小松他(2000),p.324.





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