ロサンゼルス・エンゼルス 球団の歴史

ロサンゼルス・エンゼルス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/15 02:14 UTC 版)

球団の歴史

球団創設

戦前までMLB球団は東海岸に集中していたため、ロサンゼルスなどの大都市を抱える西海岸へのMLB球団の移転の話はたびたび持ち上がっていた。初めにこれを検討したのがアメリカンリーグで、1940年にセントルイス・ブラウンズ(現・ボルチモア・オリオールズ)がロサンゼルスへの移転を計画した。しかし1941年の末に太平洋戦争が勃発したため、戦場となる可能性のあった西海岸でのプロスポーツの開催が困難となり、この計画は頓挫した。1953年にはブラウンズが再びロサンゼルスへの移転を計画したが、球団自体が売却されたことで代わりにボルチモアへ移転することとなった。その後ワシントン・セネタース(現・ミネソタ・ツインズ)やフィラデルフィア・アスレチックス(現・オークランド・アスレチックス)といった球団もロサンゼルスへの移転を計画したが、どれも実行はされなかった。

1957年ナショナルリーグのブルックリン・ドジャース(現・ロサンゼルス・ドジャース)がロサンゼルスに移転し、戦後初めて西海岸にMLB球団が誕生した。また同年にはニューヨーク・ジャイアンツ(現・サンフランシスコ・ジャイアンツ)も西海岸に移転する。ドジャースとジャイアンツは初年度から多くの観客を集め、興行的に大きな成功を収めた。そのため、アメリカンリーグでも西海岸に球団を置くことが再度検討され、1961年のアメリカンリーグの球団拡張計画(エクスパンション英語版)に基づき、ロサンゼルスにおける新球団の設置が決定した。新球団の名前はロサンゼルスの地名の由来である「天使たち = the angels」から採り、これにロサンゼルスを冠して「ロサンゼルス・エンゼルス」となった。こうしてエンゼルスはその歴史を歩み始める。

アナハイムへの移転

1961年は初年度となったシーズンは70勝91敗でリーグ8位(10球団中)に終わった。しかしこれは戦後の新設球団の成績の中では最も良いものだった。初年度はロサンゼルス・リグレー・フィールドを使用していたが、2年目からはドジャースの本拠地球場であるドジャー・スタジアムを間借りする。2年目には86勝76敗で早くも勝ち越し、リーグ3位に食い込んだ。なお、この年の5月5日のオリオールズ戦ではボー・ベリンスキーがエンゼルス初のノーヒットノーランを達成している。

1964年には82勝80敗で再び勝ち越し。この年にはディーン・チャンスが防御率1.65・20勝9敗を記録し、エンゼルスでは初の個人タイトルとなるサイ・ヤング賞を獲得している。

しかしこうしたチームの好成績とは裏腹に観客数は伸び悩んだ。1962年から1965年までの4年間の合計観客数は300万人程で、同じ本拠地のドジャースと比べても半分以下だった。そのため間借りしているドジャー・スタジアムの賃貸料は割高となり、新球場の建設の必要性は明らかだった。1966年にロサンゼルス南郊のアナハイムにアナハイム・スタジアム(現・エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム)が完成し、チームもアナハイムへ移転。球団名も「カリフォルニア・エンゼルス」と改称した(州名を冠したのはミネソタ・ツインズに続き2球団目)。移転の効果は抜群で、1965年には57万人程だった観客数も移転した初年度には140万人を記録している。1968年からはア・リーグ西地区に所属。しかし1970年代後半まで負け越しのシーズンが続き、なかなか優勝には手が届かなかった。

初の地区優勝(1979年)

1972年ニューヨーク・メッツからトレードでノーラン・ライアンが移籍。当時のライアンは持ち前の豪速球には凄まじいものがあったが、制球に苦しみ、なかなか活躍できない状況が続いていた。しかしエンゼルスに移籍するや否や防御率2.28・19勝16敗・329奪三振という活躍をみせる。

1973年にはサンディー・コーファックスが1965年に記録したシーズン382奪三振を抜くシーズン383奪三振を記録。翌年以降も毎年20勝前後を挙げ、エンゼルスで4度のノーヒットノーランを達成するなど、MLBを代表する投手へと成長する。

1978年のシーズン途中にジム・フレゴシが36歳という若さで監督に就任。フレゴシは元エンゼルスの遊撃手で、ライアンとのトレードでメッツに移籍した経緯を持ち、この年の5月に引退したばかりだった。この年には、ツインズから移籍したライマン・ボストックが射殺される悲劇もあったが、フレゴシ監督の下で87勝75敗と8年ぶりに勝ち越し、2位でシーズンを終える。そして1979年には、ライアンに加えてロッド・カルードン・ベイラーボビー・グリッチらを擁し、初の地区優勝を遂げた。カルーは首位打者こそ逃したものの打率.318と期待にそぐわぬ活躍をみせ、ベイラーは打率.296・36本塁打・139打点を記録し、ア・リーグMVPに輝いた。続くリーグチャンピオンシップシリーズではアール・ウィーバー率いるオリオールズと対戦し、1勝3敗で敗れた。

1979年限りでライアンがチームを離れ、翌1980年には65勝95敗と大きく負け越した。また、この年にはNFLロサンゼルス・ラムズがアナハイム・スタジアムを使用するようになり、球場もアメフト兼用に改修され、収容人数も43,000人から64,593人に増加された。このためアメフト兼用に球場を改築した他球団と同様に、試合数の少ないアメフトの試合では観客席が埋まる一方、試合数の多い野球の試合では空席が目立つといった弊害に悩まされることとなる。

1981年は前後期制が導入され、前期は31勝29敗で4位だったものの、50日間に及ぶストライキで短縮された後期には20勝30敗で最下位に沈んだ。なお、この年にはグリッチが22本塁打で本塁打王に輝いている(22本塁打でのタイトルは戦後では最少。他にも3人が22本塁打を記録した)。

2度の地区優勝(1982年、1986年)

1982年ニューヨーク・ヤンキースからレジー・ジャクソンが移籍。前年は15本塁打と不調だったジャクソンだが、エンゼルスに移籍するや復活、39本塁打を放ち本塁打王に輝いた。また、チームもジャクソンの活躍もあり、93勝69敗で2度目の地区優勝を果たす。続くリーグチャンピオンシップシリーズではミルウォーキー・ブルワーズと対戦。第1戦、第2戦と勝利し、リーグ優勝に王手をかけたが、その後2連敗。迎えた最終戦では7回まで3対2とリードしていたものの、7回裏に逆転を許してしまい、結局3対4で敗れた。その後、1983年は5位、1984年1985年は2年連続でカンザスシティ・ロイヤルズに次ぐ2位に終わった。1984年9月30日にマイク・ウィットがMLB史上11人目の完全試合を達成している。

1986年ウォーリー・ジョイナーチャック・フィンリーがメジャーデビュー。特にジョイナーは打率.290・22本塁打・100打点を記録し、新人王候補に名を連ねた(新人王は33本塁打・117打点を記録したホセ・カンセコ)。この年にはウィットを中心とした投手陣も抜群の安定感を誇り、92勝70敗で3度目の地区優勝に輝いた。リーグチャンピオンシップシリーズではボストン・レッドソックスと対戦。先に3勝をあげてリーグ優勝に王手をかけ、第5戦でもエンゼルスが8回まで5対2とリードし、優勝は目前と思われた。しかし9回表に、ここまでレッドソックス打線を抑えていた先発のウィットが、元エンゼルスのベイラーに2ランホームランを打たれ、5対4と追いすがられる。代わったゲイリー・ルーカスがリッチ・ゲドマンに死球を与えて出塁。ここでたまらず抑えのドニー・ムーアを登板させるが、デーブ・ヘンダーソンを2ストライクと追い込みながら、粘られた末に2ランホームランを打たれ、5対6と逆転された。結局、9回裏にエンゼルスが1点を返して延長戦に突入するも、11回表にヘンダーソンに決勝の犠牲フライを放たれ、まさかの逆転負けを喫した。これによって流れが完全にレッドソックスに傾き、続く第6戦、第7戦と連敗、またしてもリーグ優勝を逃した(なお、ナショナルリーグはニューヨーク・メッツが優勝したため、エンゼルスが勝っていれば史上初の「エクスパンションチーム同士によるワールドシリーズ」になるところだった)。ムーアは1988年にエンゼルスを解雇され、翌1989年に拳銃自殺するという悲劇も起こっている。

1990年代

1992年ティム・サーモンがメジャーデビュー。

1993年にサーモンが打率.283・31本塁打・95打点を記録し、新人王に輝いた。

1994年ギャレット・アンダーソンがメジャーデビュー。

1995年にアンダーソンは打率.321、16本塁打、69打点で新人王投票で2位に入った。1990年代はフィンリー、サーモン、アンダーソンを投打の柱として、一定の成績は残すものの、なかなか優勝には縁がないシーズンが続いた。特に1995年は8月2日の時点で2位のシアトル・マリナーズに13ゲームもの大差をつけたが、その後失速して同率首位に並ばれ、ワンゲームプレーオフではマーク・ラングストンの乱調で1-9と大敗し地区優勝を逃した。その1995年にラムズがセントルイスへ移転したことで、1997年にはアナハイム・スタジアムが野球専用球場に再改修された。またこの年にはウォルト・ディズニー社も経営に参加(この頃ディズニー社はNHLアナハイム・ダックスを創設するなど、プロスポーツチームの経営に注力していた)。球団名も地元アナハイムの地域密着型チームを目指すという理由から、ホームタウンの名前を冠して「アナハイム・エンゼルス」に変更した。

2000年代

2000年からはマイク・ソーシアが監督に就任。同年にはトロイ・グロースが47本塁打を放って本塁打王に輝いている。

2001年にもグロースは41本塁打を放ち、2年連続でシルバースラッガー賞を受賞するなど、チームの主砲として活躍した。

2002年には、地区2位だったものの、99勝63敗でワイルドカードを獲得。ディビジョンシリーズでヤンキースを3勝1敗で下し、リーグチャンピオンシップシリーズではツインズを4勝1敗で下して初のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではバリー・ボンズ擁するジャイアンツと対戦。ジャイアンツもワイルドカードから勝ちあがっており、史上初のワイルドカード獲得チーム同士の対戦となった。第1戦では敗れたものの、第2戦では弱冠20歳のフランシスコ・ロドリゲスが中継ぎとして登板し、3回を投げて初勝利をあげ、史上最年少のワールドシリーズ勝利投手として一躍注目を浴びた。続く第3戦は10対4で勝利。しかし、第4戦、第5戦と連敗し、ジャイアンツに王手をかけられてしまう。地元に戻った第6戦では、7回まで0対5とリードされていたが、7回と8回に3点ずつ取って、6対5で逆転勝利を収めた。第7戦では、先発のジョン・ラッキーが6回まで投げ、ジャイアンツを1点に抑え込むと、ドネリー、ロドリゲス、トロイ・パーシバルと繋ぎ、最終的に4対1で勝利。球団創設42年目にして初のワールドシリーズ優勝を成し遂げた。

2003年のシーズンオフにヒスパニックで実業家のアルトゥーロ・モレノが球団オーナーに就任。約1億4600万ドルを費やし、大規模な戦力増強を行った。ブラディミール・ゲレーロ(5年契約、計7000万ドル)、バートロ・コローン(4年契約、計5100万ドル)、ケルビム・エスコバー(3年契約、計1875万ドル)といった一流選手を次々と獲得。

2004年は、2位アスレチックスを1ゲーム差でかわし、4度目の地区優勝。しかし、続くディビジョンシリーズでは、この年86年ぶりのワールドシリーズ制覇を果たしたレッドソックスに3連敗を喫した。

2005年には、球団名を「ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム」と改称。この年には、地区2連覇を果たし、ディビジョンシリーズでヤンキースを3勝2敗で下すが、リーグチャンピオンシップシリーズでは、88年ぶりのワールドシリーズ優勝を果たしたシカゴ・ホワイトソックスに破れ、リーグ優勝はならなかった。

2006年は2位に終わった。

2007年は2位シアトル・マリナーズをシーズン終盤で突き放し、8度目の地区優勝を果たした。しかし、ディビジョンシリーズではレッドソックスと対戦し、またしても3連敗を喫た。

2008年はエースのジョン・ラッキーケルビム・エスコバーを開幕から欠き苦戦が予想されたが、前年不調だったアービン・サンタナと8勝を挙げたジョー・ソーンダースが開幕から最多勝争いに絡む大活躍。新加入のジョン・ガーランドや前年2桁勝利のジェレッド・ウィーバーも期待通りの活躍を見せ、5月には既に独走態勢に入っていた。ラッキーも復帰後は好投を見せ、結局ローテーション投手全員が10勝を成し遂げた。打線もFAで加入のトリー・ハンターや8月にトレードで加入したマーク・テシェイラがクリーンナップに座り、元来のスモールベースボールを軸とした安定した攻撃力を保った。チームは勢いそのままに9月上旬に早くも2年連続の地区優勝も打ち立てた。また、チームが圧倒的に勝ちを重ねる状況もあり、クローザーフランシスコ・ロドリゲスは開幕から驚異的なペースでセーブを稼ぎ、セーブのシーズン記録を更新した。しかし、ディビジョンシリーズではレッドソックス相手に1勝3敗とまたも苦杯、オフにはロドリゲスとテシェイラがFAで退団した。

2009年もラッキーやサンタナ、エスコバーをはじめとする先発投手陣に故障が相次ぎ困難なスタートとなった。将来有望な若手投手であるニック・エイデンハートに期待が集まったが、4月8日の登板後に交通事故で死去するという衝撃的な出来事が起きる。このニュースは全米でも大きく取り上げられ、翌日の試合は中止になった。その後、レイズのエースだったスコット・カズミアーをトレードで獲得することでローテーションを再建。主軸を担うようになったケンドリス・モラレスの活躍や復帰したサンタナの好投もあり3年連続の地区優勝を達成した。地区シリーズでは3年連続でレッドソックスとの対戦となったが、3連勝で2007年&2008年の雪辱を果たした。リーグチャンピオンシップはヤンキースと争ったが、2勝4敗で敗退しワールドシリーズ進出はならなかった。オフにはヤンキースからFAとなった松井秀喜を獲得した。

2010年代

2010年は、不可もない成績で開幕のスタートを切った。ところが5月29日のマリナーズ戦で満塁サヨナラホームランを放った主砲のモラレスが喜びのあまりジャンプしてホームベースに着地した際、バランスを崩し転倒して左足下腿部を骨折した。結局、モラレスは残りのシーズンを棒に振ることになった。また、開幕当初は4番を務めた新戦力の松井も期待された成績を挙げられず、7月にダン・ヘイレンをトレードで獲得すると強力な投手陣の下で後半戦に追い上げを見せた。しかし得点力不足が響き、80勝82敗にとどまり地区3位でシーズンを終えた。

2011年は地区2位ながらも優勝したレンジャーズから10ゲーム差も離された。実質1年目のマーク・トランボが29本塁打でブレイクした。オフにはセントルイス・カージナルスからFAとなっていたアルバート・プホルスを10年2億5400万ドル、レンジャーズからFAとなっていたC.J.ウィルソンを5年7750万ドルで獲得した。シーズンでは7月8日にプロスペクトだったマイク・トラウトがメジャーデビューを果たした。

2012年ジェレッド・ウィーバーが自己最多の20勝で最多勝のタイトルを、史上初となる新人での30-30を達成したトラウトが新人王のタイトルを獲得するも、89勝73敗で地区3位に終わった。

2013年オフにはトラウトと2019年までの6年総額1億4450万ドルで契約を延長し、チームの中心に据えた。

2014年は、5年振りに地区優勝を決めた[4]。また、実質1年目のマット・シューメーカーが16勝で大ブレイクした。

2015年は、5月5日のマリナーズ戦でメキシコ民族衣装のソンブレロ帽子をかぶった人数でギネス世界記録を達成した[5]。オフには正遊撃手としてトレードでアンドレルトン・シモンズの獲得に成功する。

2016年は球団名を「ロサンゼルス・エンゼルス」に戻した。オフには正捕手としてトレードでマーティン・マルドナードを獲得した。

2017年シーズン途中にトレードでジャスティン・アップトンを獲得した。オフには日本プロ野球北海道日本ハムファイターズからポスティングシステムMLB挑戦を目指した大谷翔平を獲得した[6]。レッズからFAとなっていたザック・コザートを獲得し、三塁手コンバートした。正二塁手としてタイガースとのトレードでイアン・キンズラーを獲得した。

2018年4月13日の開幕15試合で12勝3敗という好成績を挙げ、1979年以来39年ぶりの球団タイ記録となる好スタートを切った。開幕からの敵地9試合で8勝1敗は球団史上初で、敵地8連勝は2014年9月以来4年ぶりとなった[7]。4月14日にカンザスシティ・ロイヤルズに勝ち、開幕16試合での13勝3敗で球団新記録となった[8]。しかし、チームは故障者続出もあり地区4位に低迷、ポストシーズン進出を逃し、80勝82敗でシーズンを終了した。9月30日に2000年から指揮を執っていたマイク・ソーシア監督が同年限りでの退任を発表。同一球団を率いる期間は現役監督最長の19年目だった[9]。オフの10月22日にブラッド・オースマスが監督に就任した[10]

2019年はシーズン開幕前の3月20日にトラウトと2020年までの2年総額6650万ドルの契約に10年総額3億6000万ドルを上乗せする形で当時北米4大プロスポーツ史上最高額となる12年総額4億2650万ドルで契約延長し、平均年俸3554万ドルはMLB史上最高額となった。契約には全球団へのトレード拒否権が含まれている一方でオプトアウトは含まれておらず、事実上の「生涯契約」となった[11]。シーズンでは7月1日にテキサス・レンジャーズ戦に向けた遠征の際に宿泊先のホテルでタイラー・スカッグスが意識不明の状態で発見され、その後死亡が確認された[12]。7月12日に本拠地エンゼル・スタジアムでのマリナーズ戦でスカッグスの追悼試合が行われ、この試合でテイラー・コール(英語版)フェリックス・ペーニャの2投手による継投でのノーヒットノーランを達成した。球団では史上11度目。また、オープナーでの初の達成となった[13]。だが、チームは右膝を痛めたアップトンや左膝の手術を受けた大谷に続いてトラウトも右足の手術で離脱と、シーズン終盤に主力選手の故障者が続出。先発投手のチーム防御率が5.64とMLB30球団中29位と大きく苦しんだ。それまでも絶望的だったポストシーズン進出が完全に消滅。72勝90敗と大きく負け越し、地区4位でシーズンを終えた[14]。9月30日に同年から監督に就任していたオースマスを解任したことを発表した。わずか1年での解任となり、2年の契約を残していたが、チームとして20年ぶりに90敗を喫するという屈辱となり、球団が解任を決断。なお、2000年から2018年まで指揮を執った前任のマイク・ソーシアは最大でも88敗(2016年)だった。オフの10月19日に球団は22代目の監督として、過去にエンゼルスで代理監督を2回務め、MLB最優秀監督賞を3度獲得した(2020年シーズン終了時)MLB屈指の知将、ジョー・マドンと3年契約を結んだと正式に発表した[15]

2020年代

2020年オフにシモンズが契約満了で退団。その一方でオリオールズとのトレードでホセ・イグレシアス、レッズとのトレードでライセル・イグレシアスを獲得した。

2021年はシーズン開幕前にカブスからFAとなっていたホセ・キンタナを、オリオールズとのトレードでアレックス・カッブを獲得した。一方で開幕前にタイ・バトリーが現役を引退した。オールスターゲームにはチームからトラウト、大谷、ジャレッド・ウォルシュが選出された。トラウトは怪我で辞退したものの、大谷とウォルシュは出場した。 最終的に77勝85敗の地区4位の成績に終わった。大谷が9勝46本塁打100打点の活躍で満票でのMVPを獲得した。

2022年は開幕直後から投打が噛み合い、5月9日にはリーグ最速タイで20勝に到達。翌10日のレイズ戦でリード・デトマーズが球団史上12回目(継投による達成を含む)、新人では史上24人目、MLB史上251人目のノーヒットノーランを達成するなど、5月16日時点で24勝13敗と好調だったが、5月26日のレンジャーズ戦から6月9日のレッドソックス戦にかけてチームワーストを更新する14連敗を喫して貯金を全て吐き出す[16]と、責任を取る形でジョー・マドン監督が辞任し代行監督としてフィル・ネビンコーチが指揮を取ることに。8月2日、投打の主力だったノア・シンダーガードブランドン・マーシュフィラデルフィア・フィリーズに、守護神ライセル・イグレシアスアトランタ・ブレーブスに交換トレードで放出した。8月10日には、大谷がアスレチックス戦にて二桁勝利・二桁本塁打を達成した。8月23日の試合前にアルトゥーロ・モレノオーナーが球団の売却先を検討していることを発表した [17]。 最終的にチームは73勝89敗で地区3位に終わったが、大谷は最終戦でMLB史上初となる規定投球回(162回)、規定打席(502打席)に同時到達[18]し、投手としては防御率2.33(リーグ4位)、15勝(リーグ4位)、219奪三振(リーグ3位)、奪三振率11.87(リーグ1位)、野手としても160安打(リーグ14位)を放って自身最高を更新したほか、打率.273(リーグ25位)、34本塁打(リーグ4位)、95打点(リーグ7位)、OPS.875(リーグ5位)と好成績を残した。トラウトも規定打席には3打席不足だったものの、リーグ2位の40本塁打、リーグ3位相当のOPS.999をマーク。ルイス・レンヒフォテイラー・ウォードの2人も初めて規定打席に到達し、飛躍を遂げた。一方で打線は7月3日のアストロズ戦で延長戦を除くとMLB史上最多の20被三振を喫し、シーズンでもリーグワーストの1539三振を喫するなど全体としては不調で、投手陣もチーム防御率こそ3.77(MLB11位)と前年の4.69から大きく良化させたものの、大谷に次ぐ勝ち頭がホセ・スアレスの8勝にとどまり、救援陣も5月以降に軒並み不調に陥り、その後はジミー・ハーゲットの台頭もあって持ち直したものの救援防御率はMLB18位の3.97と微妙な成績に終わった。


注釈

  1. ^ 著名な歌手であり、エンゼルス創設者・初代オーナー
  2. ^ 1997年指定

出典

  1. ^ “大谷翔平からメジャーリーグを観ようと思っている人へ【その6】チームの略称と愛称。LAAと「天使の輪」”. 宇根夏樹. (2018年2月14日). https://news.yahoo.co.jp/byline/unenatsuki/20180214-00081615 2018年2月15日閲覧。 
  2. ^ ディズニーランドと大谷翔平が所属するエンゼルスの意外な「接点」とは?”. フロントロウ (2018年5月12日). 2022年8月25日閲覧。
  3. ^ a b MLB:球団売却を検討、大谷翔平の去就は…「長期契約の締結を」との声も”. 読売新聞 (2022年8月24日). 2022年8月25日閲覧。
  4. ^ Angels' playoff picture has yet to be painted
  5. ^ 【米国はこう見ている】またも“珍記録”に挑んだエンゼルスがマリナーズ戦でギネス記録樹立 Full-Count (2015年5月6日) 2015年6月21日閲覧
  6. ^ “エンゼルス入り決断の大谷、日本時間10日にも入団会見へ”. livedoor NEWS. (2017年12月9日). http://news.livedoor.com/article/detail/14004208/ 2017年12月9日閲覧。 
  7. ^ “エンゼルス39年ぶり開幕12勝3敗の快進撃 「大谷翔平」効果? - ライブドアニュース” (日本語). ライブドアニュース. http://news.livedoor.com/article/detail/14580741/ 2018年4月15日閲覧。 
  8. ^ “エンゼルス、開幕13勝3敗は球団新記録 開幕3連勝を目指す大谷翔平へ弾み” (日本語). スポーツ報知. (2018年4月15日). http://www.hochi.co.jp/baseball/mlb/20180415-OHT1T50088.html 2018年4月15日閲覧。 
  9. ^ 株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部「ソーシア監督、涙の退任発表 大谷は感謝「楽しく野球できたのは監督のおかげ」 - スポニチ Sponichi Annex 野球」『スポニチ Sponichi Annex』。2018年10月18日閲覧。
  10. ^ “大谷翔平のエンゼルスにブラッド・オースマス新監督就任 新監督はデータ主義”. https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/240080 2022年1月29日閲覧。 
  11. ^ エンゼルス、トラウトとの“生涯契約”を発表 12年472億円「ずっとここにいたい」” (日本語). Full-count | フルカウント ―野球・MLBの総合コラムサイト―. 2019年9月17日閲覧。
  12. ^ 大谷の同僚、エンゼルスの左腕スカッグスが27歳で急死 2日の試合は中止” (日本語). Full-count | フルカウント ―野球・MLBの総合コラムサイト―. 2019年7月13日閲覧。
  13. ^ “スキャッグスを背に”エンゼルスが本拠地で継投ノーヒッター 大谷翔平は猛攻に繋がる左前打で8戦連続H” (日本語). ベースボールチャンネル(BaseBall Channel). 2019年7月13日閲覧。
  14. ^ エンジェルスの店じまい。大谷翔平に続き、トラウトも手術を受けてシーズン終了(宇根夏樹) - Yahoo!ニュース” (日本語). Yahoo!ニュース 個人. 2019年9月17日閲覧。
  15. ^ Joe Maddon agrees to be new manager of Los Angeles Angels(ESPN News Services) - ESPN” (英語). ESPN MLB. 2019年10月17日閲覧。
  16. ^ エンゼルス3週間足らずで11の貯金が0に トラウトがまさかの大ブレーキ”. 日刊スポーツ (2022年6月5日). 2022年11月3日閲覧。
  17. ^ 大谷翔平3打数1安打 エンゼルス・モレノオーナーが球団売却へ、チームは大敗/詳細”. 日刊スポーツ (2022年8月24日). 2022年8月24日閲覧。
  18. ^ 大谷翔平が「ダブル規定」達成…初回3者凡退で自身初の規定投球回到達、二刀流の新境地”. スポーツ報知 (2022年10月6日). 2022年11月3日閲覧。
  19. ^ Angels induct Guerrero into Hall of Fame MLB.com (英語) (2017年8月26日) 2017年8月28日閲覧





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