ルイジアナ州
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州名の由来
ルイジアナ(Louisiana)という地名は、フランス王ルイ14世(Louis XIV、在位:1643年〜1715年)に由来する。ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールが、ミシシッピ川の流れるこの領域をフランス領と宣言したときに、ラ・ルイジアーヌ(La Louisiane)と名付けた[2]。The 接尾辞の-ana(ないし-ane)はラテン語の接尾辞で「特定の個人、対象または場所に関するもの」を指す。したがって、大まかに言えば「Louis」+「ana」で「ルイに関するもの」を意味することになる。フランス領ルイジアナはフランス植民地帝国の一部として、現在のモービル湾からカナダとの国境の北にまで延び、カナダ南西部の小部分を含んでいた。
歴史
前史時代
16世紀にヨーロッパ人がルイジアナ州となった地域に到着する以前、数千年前から先住民であるインディアンが住んでいた。現在のモンロー市に近いワトソン・ブレイク遺跡は、北アメリカでは最も初期にマウンドと呼ばれる塚が築かれた場所であり、アメリカ大陸で最古とされる複合的な構造物があった場所である。11のマウンドで構成されるこの遺跡は約5,400年前、紀元前3500年ごろに建設された[3]。中古期のケイニーとフレンチマンズ・ベンド遺跡は5,600年ないし5,000年前のものと推定されており、狩猟採集を行っていた部族が季節を選んで州北部で組織化され、複合的な構造物を建設したことを示している。リンカーン郡のヘッジペス遺跡は少し新しく、5,200年ないし4,500年前のものと推定されている[4]。
それから2,000年近く後、後古期で最大かつ最も良く知られた遺跡であるポヴァティ・ポイントが建設された。現在のエップス村がその近くで発展した。ポバティ・ポイント文化は紀元前1500年ごろにその頂点を迎えた可能性があり、北アメリカでは最初の複合構造物を造り、おそらくは最初の部族文化を創った[5]。この文化は紀元前700年ごろまで続いた。
ポヴァティ・ポイント文化の後、チューラ期のチェフンクト文化とレイクコーモラント文化が続いた。これはウッドランド期のこの地方での姿だった。チェファンクト文化は、この地域で初めて大量の土器を生み出した。これらの文化は西暦200年ごろまで続いた。ウッドランド中期は南部と東部でマークスヴィル文化として、また北西部ではフーシュマリーン文化で始まった。マークスヴィル文化はアボイルズ郡のマークスヴィル前史インディアン遺跡からその名前が得られた。これらの文化はオハイオ州やイリノイ州のホープウェル文化と同時期のものであり、ホープウェルの交易網の中に入っていた。南西方向の人々との交流で弓と矢がもたらされた[6]。この時代に最初の墳墓が建設された[7]。世襲的政治と宗教の指導力を高めるために、儀式の中心として最初の壇状マウンドが建設されると、政治的な権力が統合され始めた[7]。西暦400年までに南部ではベイタウン文化と共にウッドランド後期が始まったが、この地域の文化史に起きた変化の一つに過ぎなかった。人口が劇的に増加し、文化と政治の複雑さを増したという強力な証拠がある。コールズ・クリーク遺跡はウッドランド初期の墳墓の上に建てられており、特権階級が出現してその先祖を象徴的かつ物理的に崇めさせ、その権威を強調したとする学説がある[8]。ルイジアナ地域でのミシシッピ期では、プラークミン文化とカドー・ミシシッピ文化が現れた。この時期は広範にトウモロコシ栽培が採用された時である。ミシシッピ州西部とルイジアナ州東部におけるミシシッピ川河谷下流域のプラークミン文化は、西暦1200年ごろに始まり、1400年ごろまで続いた。この文化の例としては、ルイジアナ州ウェストバトンルージュ郡のメドラ遺跡や、ミシシッピ州のエメラルド・マウンド、ウィンタービル遺跡、ホリーブラフ遺跡がある[9]。
プラークミン文化はミズーリ州セントルイスに近いカホキア遺跡に象徴されるミシシッピ文化中期と同時代である。この文化に所属していた人々はナチェズ族やタエンザ族の先祖と考えられている[10]。西暦1000年までに周北西部のフーシュ・マリン文化はカドー・ミシシッピ文化へと進化していた。カドー・ミシシッピ文化は、現在のオクラホマ州東部、アーカンソー州西部、テキサス州北東部、ルイジアナ州北西部など広い範囲に広がっていた。考古学調査によって、この文化は前史時代から現在まで途切れずに続いており、前史時代とヨーロッパ人による最初の接触時のカド族の直接先祖とカド語を話す人々、および現在オクラホマ州にいるカド族との繋がりは疑問の余地の無いものとされている[11]。
現在ルイジアナ州の多くの地名、例えばアチャファライア、ナケテシュ、カドー、ホウマ、タンジパホア、アボイルは、様々なインディアン言語で使われていた単語の音訳である。
ヨーロッパ人による探検と植民地化
1528年にスペインのパンフィロ・デ・ナルバエスが率いた探検隊がミシシッピ川河口に到達した。1542年にはエルナンド・デ・ソトのスペイン探検隊が、ルイジアナの北部と西部を通り(カド族やトゥニカ族と遭遇した)、その後の1543年にはミシシッピ川を下ってメキシコ湾に達していた。しかしスペインはその後長い間この地域を放置したままだった。17世紀後半、フランス人とフランス系カナダ人の遠征隊が地域支配と宗教及び交易の目的を持ってミシシッピ川とメキシコ湾岸に拠点を築いた。
1682年、フランス領カナダから南下したフランス人ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがこの地をルイ14世にちなんでルイジアナと命名した。1699年、カナダから来たフランス軍人ピエール・ル・モワン・ディベールヴィルが、最初の恒久的開拓地であるモーレパ砦を今日のミシシッピ州ビロクシ近くのオーシャンスプリングスに設立した。この時までに、ミシシッピ川河口にもラ・バリーズ(フランス語で航路目標の意)という小さな砦を建設していた。1721年には川を航行する船を導くために、木造の高さ62フィート (19 m) の灯台のような構造物を建設した。フランス領ルイジアナはミシシッピ川流域からカナダに至る広大な領域であるが、実際にはいくつかの交易拠点の網の目によって構成されていた。フランスの開拓地には2つの目的があった。すなわちスペイン領テキサスにおけるスペインとの交易を行うことと、ルイジアナへのスペインの進出を阻止することだった。オールド・サンアントニオ道路(スペイン語でエル・カミノ・レアル・デ・ロス・テハス、「テキサスの王道」)の北端にできた開拓地のナケテシュはすぐに河港および街道の交わる町として栄え、川沿いに広大な綿花王国が生まれた。農園主は大型のプランテーションを造り、成長する町には瀟洒な家を建設した。これはニューオーリンズなど他の町でも繰り返された。
ルイジアナのフランス開拓地からさらなる探検が行われ、ミシシッピ川やその主要支流沿いに、ルイジアナから北に、今日のセントルイス周辺のイリノイ・カントリーと呼ばれた地域にまで前身基地ができた。
当初はアラバマ州モービルとミシシッピ州ビロクシが植民地の首都として機能していた。フランスは交易面と軍事面でミシシッピ川の重要性を再認識し、1722年、フランス領ルイジアナの首府をニューオーリンズ市(フランス語でヌーヴェル・オルレアン、つまり新オルレアン)に移した。この時から約80年間、ニューオーリンズからフランスとスペインが交互に植民地帝国の支配を行った。1720年、ドイツ人移民が、今日ジャーマン・コーストと呼ばれるミシシッピ川沿いの地域に入植した。
北米ではフレンチ・インディアン戦争と呼ばれる七年戦争の結果、フランスはカナダ植民地と(ニューオリンズ付近を除く)ミシシッピ川以東の地をイギリスに割譲し、残りのニューオーリンズ市及びミシシッピ川以西も1762年のフォンテーヌブロー条約でスペインに譲渡された。なおカナダ東部沿海アカディア植民地(現ノヴァスコシア州、ニューブランズウィック州とプリンスエドワードアイランド州)のフランス系住民は、1765年に英国王に対する忠誠表明を拒んで強制追放され、ルイジアナ南西部の現在アケイディアナと呼ばれる地域に大挙して移住し、ルイジアナのフランス系人口を飛躍的に増大させた。これらアカディア人の子孫はケイジャンと呼ばれている。スペインはカトリック教徒の移民を得ようとしていたので、アカディアからの移民を歓迎した。スペイン領カナリア諸島からもイスレニョと呼ばれた島人が1778年から1783年の間に移住してきた。
スペインを支配したナポレオンは1800年のサンイルデフォンソ条約で、ルイジアナをスペインから取り戻したが、これはその後2年間秘密にされていた。1803年、ナポレオンは財政上の必要性などからアメリカ合衆国に売却した。ルイジアナは1762年から1800年までスペイン領だったが、この間行政官はスペイン人であったにもかかわらず新規のスペイン人入植者はほとんどなく、フランス系社会が存続した。つまりルイジアナ州はフランス系植民社会としての歴史を100年以上もっていたことになる。
奴隷制度の拡大
1709年、フランスの資本家アントワヌ・クロザーが、メキシコ湾からイリノイまで広がるフランス領ルイジアナの商業独占権を獲得した。イギリスの歴史家ヒュー・トーマスは「この利権で毎年アフリカから黒人という積荷を運んで来ることが可能になった」と記した[12]。
1803年にフランスがルイジアナをアメリカ合衆国に売却すると、隣接するミシシッピ州に黒人奴隷を連れてくるのと同じくらい容易にルイジアナにも連れて来られるようになった。ただし、当時それは違法だった[13]。19世紀初めのルイジアナの砂糖の生産量は少なく、比較的少数の奴隷がその生産に従事していたが、プランテーション所有者が奴隷を購入して無給で働かせたので、間もなく一大生産地になった。奴隷はアフリカからサウスカロライナ州に連れてこられ、その後にルイジアナへと売買された。アメリカ合衆国の新しい領土では奴隷制度を違法とする連邦法があり[13]、下院議員ジェイムズ・ヒルハウスや論客のトマス・ペインがこの法を強制するよう要求したが、奴隷は少ないコストで大きな利益を生む資源だったので、ルイジアナに広まっていった。最後のスペイン知事は、「ルイジアナで奴隷制なしにやっていくのは事実上不可能であり」、奴隷を使うことで「繁栄と富に向かって大きな一歩を踏み出した」と記していた[13]。
ルイジアナ州初代知事のウィリアム・C・C・クレイボーンは、白人の自由労働者はここの不健康な気候では働かないので、奴隷の強制労働が必要だと語った[14]。ヒュー・トーマスは、クレイボーンは人身売買を廃止する責務を負っていたにもかかわらずそれを実行することができなかったと記した。
ハイチ移民とその影響
フランスのルイジアナ全権公使ピエール・クレマン・ド・ローサーは「サン=ドマングがアンティル諸島の植民地の中で、その精神性と慣習が最もルイジアナに影響を与えたと記した(1718年)。
ルイジアナとその母体になったカリブ海の植民地は18世紀に親密な関係を築き、海洋貿易、資本と情報の交換、植民者の移住が盛んだった。その始まりからハイチ人はルイジアナの政治、市民、宗教、文化に大きな影響を与えた。植民地の役人は、島での反奴隷制度陰謀や蜂起に反応して、1763年、サン=ドマングの奴隷の入国を禁じた。サン=ドマングの反乱はアメリカ独立戦争とフランス革命の時代を通じて、ルイジアナの奴隷貿易と移民政策に影響を与え続けた。
1763年から1800年までルイジアナを統治したスペイン人も、これら2つの民主闘争を怖れた。治安攪乱と見なすものを抑圧し、その植民地を民主革命の広がりから孤立させるような無益な試みにおける破壊工作を禁じた。1790年5月、国王令によって、奴隷であろうと自由人であろうと西インド諸島からの黒人の入国を禁じた。その1年後、サン=ドマングで世界史の中でも最初の奴隷による革命が成功し、ハイチの建国につながった[15]。
サン=ドマングの革命で、様々な人種の人々が大量に植民地を脱出した。フランス人は奴隷を連れて逃げた。自身が奴隷所有者でもあった自由有色人種も逃亡した。さらに1793年には主要都市であるカプ=フランセ(現在のカパイシャン)の3分の2を焼き尽くす大火が発生し、1万人近い人々が永久に島を離れた。革命に続く時代には、外国の侵略や内乱があり、さらに多くの人々が逃亡した。多くの者は東のサントドミンゴ(現在のドミニカ共和国)、あるいはカリブ海の近くの島に移動した。白人であれ黒人であれ多くの人々は北アメリカの、特にニューヨーク、ボルティモア、フィラデルフィア、ノーフォーク、チャールストン、サバンナ、あるいはスペイン領フロリダに移動した。しかしルイジアナほどこれらの難民から影響を受けた土地は無かったといえる。
1791年から1803年、1,300人の避難民がニューオーリンズに到着した。現地政府はその中に治安攪乱の意図を持った者がいないか心配した。1795年春、ポワントクーペで暴動がおき、農園主の家が焼かれた。これに続いてサン=ドマングからの自由難民ルイ・ブノワが、「植民地を破壊した革命思想に染まっている」と告発され、追放された。暴動が起きたことで農園主のジョセフ・ポンタルバは「サン=ドマングの惨事に注意し、革命の芽が我々の奴隷の間に広がらないよう」気をつけることになった。ポワントクーペとジャーマン・コーストでは不安定な状態が続き、1796年春には奴隷貿易を全的に停止する決断が下された。
1800年、ルイジアナの役人は奴隷貿易の再開について議論したが、サン=ドマングの黒人は入国を禁じることで合意した。フランス領西インド諸島の黒人と白人の暴動にも注目し「我々のニグロの間に危険な思想を宣伝している」と言っていた。彼等の奴隷は5年前よりも横柄で、始末に負えず、言うことを聞かなくなっていると見ていた。
同年、スペインがルイジアナをフランスに戻し、農園主達は革命を恐れながら生活を続けた。1803年、サン=ドマングに対する遠征の失敗が財政状態を悪化させ、軍事力を希薄にしたため、後に皇帝になったナポレオン・ボナパルトがアメリカ合衆国にルイジアナを売却した後、島で起こった事件の影響がより大きくルイジアナに影を落とすようになった[17]。
アメリカ合衆国によるルイジアナ買収
1783年、アメリカ合衆国がイギリスからの独立を勝ち取ったとき、アメリカ合衆国の懸案事項の1つはヨーロッパの強国がその西側国境に接していることであり、ミシシッピ川に無制限に渡航できるようにする必要性だった。アメリカ人開拓者が西に進むにつれて、アパラチア山脈が東に品物を運ぶときの障害になることが分かってきた。商品を運ぶ最も容易な方法は、平底船でオハイオ川からミシシッピ川をニューオーリンズ港まで運び、そこから大洋航行可能な船に積み替えることだった。このルートの問題点は、ナチェズより下流のミシシッピ川は両岸ともにスペインが所有していることだった。ルイジアナにおけるナポレオンの野望は、カリブ海の砂糖貿易を中心にして新しい帝国を造ることだった。1800年のアミアンの和約により、イギリスがフランスにマルティニーク島とグアドループ島の所有権を返還した。ナポレオンはルイジアナをこれら砂糖の島にとっての中継地点、またアメリカ開拓地に対する緩衝地帯と見なしていた。1801年10月、ナポレオンは重要なサントドミンゴ島を征服して奴隷制度を再導入するために大規模な軍隊を派遣した。サン=ドマングでは奴隷革命の後の1792年から1793年に奴隷制度が廃止されていた。またフランス植民地では1794年に法と憲法で奴隷制度を廃止していた。
ナポレオンの義弟ルクレールが指揮したフランス軍が、サントドミンゴ市民で構成され奴隷制度再導入に反対する軍隊に敗れたとき、ナポレオンはルイジアナを売却することに決めた。
第3代アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンは、アメリカにフランスの植民地を再度樹立しようというナポレオンの計画に悩まされていた。ナポレオンがニューオーリンズを所有していれば、アメリカは通商に不可欠なミシシッピ川の出口をいつでも抑えられてしまうからである。ジェファーソンは、駐フランス全権公使のロバート・リビングストンにミシシッピ川東岸のニューオーリンズ市を購入し、アメリカの交易のためにミシシッピ川を自由に航行できるようにする交渉を行わせた。リビングストンは200万ドルまで支払う権限を与えられた。
スペインからフランスへのルイジアナ返還は公式には終わっておらず、スペインとのナポレオンの取引は、フロンティアでは秘密が保たれていなかった。しかし、1802年10月18日、ルイジアナの行政長官代行フアン・ベンチュラ・モラレスが、アメリカ合衆国からの全ての貨物についてニューオーリンズでの預託品の権利を取り消すというスペインの意図を公にした。この重要な港の閉鎖はアメリカ合衆国を怒らせ驚愕させた。西部での交易が事実上封鎖された。預託品権利の取り消しは、アメリカ人が法を濫用したこと、特に密貿易によって促進されたのであり、当時信じられたようにフランスの陰謀ではなかったというのが、歴史家の解釈である。ジェファーソン大統領はフランスとの戦争を要求する世論を無視し、ジェームズ・モンローをナポレオンへの特使として派遣し、ニューオーリンズ獲得を支援するように仕向けた。ジェファーソンは買収額の上限を1,000万ドルに上げることも認めた。
しかし1803年4月11日、フランスの外務大臣タレイランが、ニューオーリンズとその周辺地域のみならず、フランス領ルイジアナ全体の譲渡についてアメリカ合衆国が幾ら払う用意があるかを尋ねてきて、リビングストンを驚かせた。モンローとリビングストンは、ナポレオンが何時でもその申し出を撤回する可能性があること、ジェファーソン大統領の承認を得るためには数か月掛かる可能性があることで意見の一致を見たので、即座に交渉を開始すると決断した。4月30日、総面積828,000平方マイル (2,145,000 km2) のルイジアナ全土を、6,000万フラン(約1,500万米ドル)で購入する契約を行った。支払額の一部はフランスが既にアメリカ合衆国から借りていた負債で相殺されることとした。支払いはアメリカ合衆国の公債で行われ、ナポレオンはそれを額面価格でオランダのホープ・アンド・カンパニーに、また100ドルにつき87.5ドルの割引価格で、イギリスのベアリングス銀行に売却した。最終的にフランスがルイジアナの代償として受け取ったのは8,831,250米ドルに過ぎなかった。イギリスの銀行家アレクサンダー・ベアリングはパリでマルボワと会合し、アメリカ合衆国に行って公債を回収してイギリスに運び、現金にしてフランスに渡した。ナポレオンはこの金でイギリスに対する戦争を始めた。
ルイジアナ買収の報せがアメリカ合衆国に届くと、ジェファーソンは驚かされた。ニューオーリンズの買収に1,000万ドル遣うことを認めていたが、国土の広さを倍にするような領土を1,500万米ドルで購入するという条約が出来上がっていたからだった。ジェファーソンの政敵である連邦党は、ルイジアナ領土が価値の無いものであり、合衆国憲法では上院の承認無しに新しい領土を獲得したり条約の交渉をしたりすることは許されないと主張した。連邦党を悩ませていた真実のところは、ルイジアナ領土から新しい州ができることは避けられず、その場合には議会における西部と南部の勢力を強め、ニューイングランドを基盤にする連邦党の国政の場での影響力を削ぐことになるというものだった。ジェファーソン大統領は西方への拡大を熱心に支持しており、この条約にも確固たる支持を与えた。連邦党は反対したが、1803年10月20日、アメリカ合衆国上院はルイジアナ買収を批准した。
管轄権限移譲の式は1803年11月29日、ニューオーリンズで開催された。ルイジアナ領土はまだ正式にフランスに返還されていなかったので、まずスペインがその国旗を降ろし、フランスが国旗を掲揚した。翌日、アメリカ合衆国のジェイムズ・ウィルキンソン将軍がニューオーリンズの領有を受け入れた。1804年3月9日、セントルイスでも同じような儀式が行われた。川近くでスペイン国旗に替わってフランス国旗が揚げられた。翌日、アメリカ第1砲兵隊のエイモス・ストッダード大尉の率いる部隊が町を行軍し、砦の国旗掲揚台にアメリカ国旗を掲げた。ルイジアナ領土はメリウェザー・ルイスが代表として出席したアメリカ合衆国政府に公式に移管された。
ルイジアナ領土は1エーカー (4,000 m2) あたり3セント足らずで購入され、しかも戦争も無く、一人のアメリカ人の命も失われずにアメリカ合衆国国土を2倍にした。これはその後の領土拡大で土地を購入していく先例となり、最終的にはアメリカ合衆国が太平洋にまで到達する足がかりとなった。
1812年、アメリカ合衆国の州としてのルイジアナ州が成立し、1849年に州都がニューオーリンズ市からバトンルージュ市に移された。豊饒なルイジアナの大地に綿花と砂糖のプランテーションが形成され、非常に豊かな州となったが、1861年に勃発した南北戦争では南部連合に加盟して合衆国から脱退し、1862年には北軍に占領された。北軍占領中、州都はバトンルージュ市から戦略的に重要なニューオーリンズ市に置かれた。1868年、ルイジアナ州の合衆国への復帰が認められた。1901年には州内で石油が発見され、ルイジアナ州は一時重要な産油地帯となった。
地理
地形
州全体がメキシコ湾大平原の一角を占め、州北部の東境は北米最大のミシシッピ川、対岸はミシシッピ州であるが、州の南部はミシシッピ川が貫通している。州の南はメキシコ湾に面し、西はテキサス州、北はアーカンソー州と接する。
州領域は北側の高台と海岸に沿った沖積平野に分けることができる。沖積平野には標高の低い沼地、海岸の湿地と海浜、および約20,000平方マイル (51,800 km2) の防波列島がある。この地域は基本的にメキシコ湾に沿っており、また総延長600マイル (1,000 km) のミシシッピ川が州内を南北に貫通してからメキシコ湾に注いでいる。その支流としてレッド川とワシタ川が主なものであり、それらに数多い小流が合流している(その多くはバイユーと呼ばれている)。ミシシッピ川に沿った沖積平野は幅が10ないし60マイル (15 – 100 km) あり、その他の川に沿った地域も幅が10マイル (15 km) ほどある。ミシシッピ川はレヴィー(levee。人工の堤防と同じ語である)と呼ばれる堆積物で形成された自然堤防に沿って流れ、川に向かう土地は平均して1マイルあたり3フィート (3 m/km) の傾斜が付いている。その他の水流に沿った土地も同様な形状にある。
州北部と北西部の標高が高い丘陵地は25,000平方マイル (64,750 km2) 以上の広さがある。ここは草原と森林地である。標高は川岸部や湿地で10フィート (3 m)、草原や沖積平野で50ないし60フィート (15 – 18 m) である。州内最高地点は標高535フィート (163 m) のドリスキル山である。
この地域の水流としては、西側州境をなすサビーン川、東側州境のパール川、カルカシュー川、マーメントー川、バーミリオン川、バイユー・テシュ、アチャファライア川、ビーフ川、バイユー・ラフォーシェ、コータブロー川、バイユー・ダルボン、メイコン川、テンソー川、エイミート川、チャファンクタ川、ティックフォー川、ナットルバニー川など無数にあり、船舶が航行できるものだけでもその延長は4,000マイル (6,400 km) ある。
メキシコ湾の大陸棚は、幅3マイル (5 km) が州の管轄の及ぶ範囲になっている。ただし、アメリカ合衆国の政治地理学の奇矯さから、隣接するテキサス州やフロリダ州は幅9マイル (14 km) の大陸棚を保有している[18]。
州南部の海岸は、世界でも最大級の速度で消失を続けている地帯である。その原因として、人間が管理を誤ったことが大きなものになっている。昔は毎年春にミシシッピ川の水が溢れて堆積物を増やし、湿地を増やしていたので、土地は成長していたが、その土地が現在は減少している。これには幾つかの原因がある[19]。人工の堤防が、沼地に新鮮な水と堆積物を運ぶはずの春の増水による氾濫を止めている。湿地では広い範囲で樹木が伐採され、運河や溝を通じて塩水が内陸まで運ばれるようになっている。石油・ガス産業のために掘られた運河も、嵐によって海水を内陸に運ぶようになっており、沼地や湿地に被害を与えている。さらに海面の上昇が問題を悪化させている。毎日球技場30面に相当する陸地が失われているという推計もある。ミシシッピ川からの自然の溢水を復活させるなど、人間による被害を減らして海岸地域を保護するための提案も多い。それらの救済策が打たれなければ、海岸の地域社会は消失し続けることになる[20]。地域社会の消失とともに、より多くの人々が地域を離れるようになっている[21]。海岸の湿地は経済的に重要な漁業も支えているので、湿地が失われることは漁業にも打撃となる。湿地を生息域とする魚以外の野生生物種にも悪影響があるが、ミシシッピ川の河口は広大な湿地や沼地の森林を支え続けることに疑いは無い。これらの問題がありながら、ルイジアナ州の海岸部には生態系を探索するための多くの美しい湿地や沼地が現在もあり[22]、野生のアメリカアリゲーターを見たり、カッショクペリカンやダイサギの群れを見るための遊覧船がルイジアナ観光の目玉になっている。
ニューオーリンズ市郊外のポンチャートレイン湖には世界最長のポンチャートレイン湖コーズウェイ(全長38.4キロ)がかかっている。
地質
2億5,000万年前、南北アメリカは1つの超大陸パンゲア大陸の一部で、メキシコ湾は存在しなかった。パンゲアが分裂したときに大西洋とメキシコ湾が形成された。ルイジアナの大地は数百万年にわたって海から陸へ、北から南へとゆっくりと形成された[22]。最古の岩盤はキサッチー国有林のような北部に露出している。その岩は古第三紀初期、およそ6,000万年前のものとされている。これらの岩盤の形成過程はスピアリングの『ルイジアナの地質史』で見ることができる[23]。
州内で最も若い地層はマリングイン、テシュ、セントバーナード、ラフーシュ、現代のミシシッピ、そして今日のアチャファライアといったミシシッピ川の三角州であり、その形成は7,500年前から現在まで続いている[24]。堆積物は北から南にミシシッピ川が運んできた。
北部の第三紀岩盤と、比較的新しい海岸部堆積層の間には、更新世テラスと呼ばれる広大なベルト地帯がある。その年代と分布は最終氷期の海面の上昇下降に関連づけられる。概して北部のテラスは川が長い年月を掛けて深い水路を刻んでおり、新しいテラスは比較的平坦なものになっている[25]。
州内には岩塩ドームも見られる。その起源は浅い大洋の蒸発率が高かったメキシコ湾形成期にまで遡ることができる。州内には数百の岩塩ドームがあり、中でもタバスコの産地としても知られるエイヴァリー島が有名である[26]。岩塩ドームは塩の採取源としてだけでなく、地下に石油やガスを封じ込めるものとしても重要である[27]。さらに沖合い部はテキサス州沖合い部と並んで米国有数の油ガス田地帯になっている。
白亜紀の地層を第三紀と第三紀以降の堆積物が覆っている、州の多くの地形、湿地帯はミシシッピ川に依るところが大きく、元々海であった地域は河流を下ったシルトなどの堆積で陸になっている。そのような地域は標高が低く、標高50mに過ぎないウィークス・アイランドが「アイランド」と呼ばれるほど目立つ地形となる。
気候
バトンルージュ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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レイクチャールズ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ニューオーリンズ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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シュリーブポート | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ルイジアナ州は温暖湿潤気候(ケッペンの気候区分Cfa)にあり、アメリカ合衆国の南中部の州では最も典型的な湿潤温帯気候の様相を呈している。夏は長く、暑く、湿度が高い。冬は短く温暖である。これにはメキシコ湾の存在が大きく、州内の最も内陸の地点でもメキシコ湾から200マイル (320 km) に満たない。降水は年間を通じてあり、夏にやや多く、10月には少ない。南部では特に冬季に雨量が多い。夏は暑くて湿度が高く、6月半ばから9月半ばの最高気温は90°F (32 ℃) 以上となり、夜間の最低気温でも70°F (22 ℃) 以上である。夏の気温は南部よりも北部で高くなる傾向がある。湾岸近くでは100°F (38 ℃) に達することもあるが、95°F (35 ℃) が通常である。北部では105°F (41 ℃) 以上になることもある。
南部の冬季は概して温暖であり、ニューオーリンズ、バトンルージュ周辺、および湾岸の日中最高気温は66°F (19 ℃) である。北部ではやや冷涼で59°F (15 ℃) となる。夜間の最低気温は氷点まで下がることは少なく、湾岸で46°F (8 ℃)、北部で37°F (3 ℃) である。寒冷前線が通ったときは、北部では20°F (-8 ℃) 以下になることも多いが、南部では滅多に冷え込まない。降雪は湾岸地域では希であり、北部では年間1ないし3インチ (2.5 - 7.5 cm) の降雪があり、その頻度も北部に行くにつれて高くなる。過去最高気温は1936年8月10日にプレーンディーリングで記録された114°F (46 ℃)、過去最低気温は1899年2月13日にミンデンで記録された-16°F (-27 ℃) である。
ルイジアナ州は熱帯低気圧に影響されることが多く、特にニューオーリンズ周辺の低地は大型ハリケーンに襲われやすく、多くのバイユー、湿地、入り江がある独特の地形のために、ハリケーンによる浸水被害が大きくなる。また特に夏には雷雨が発生しやすい。年間平均60日以上雷雨が発生しており、これはフロリダ州に続いて高い数字である。竜巻も年間平均27個発生している。州全体が竜巻の被害を受けているが、州の最南部はやや頻度が少ない。南部では1月から3月に多く、北部では2月から3月に多い[28]。
ハリケーン
- 1856年8月10日、ハリケーン1号、上陸時カテゴリー4、ラストアイランドで上陸、長さ25マイル (40 km) の防波諸島が5つの島に分割され、200人以上が死亡した。
- 1957年6月、ハリケーン・オードリー、カテゴリー4、州南西部を襲いキャメロン市からグランドシェニエの範囲で60ないし80%の家屋と企業に損害を与え、4万人が家を失い、死者は300人以上になった。
- 1965年9月9日、ハリケーン・ベッツィ、上陸時カテゴリー3、被害総額が初めて10億ドルを超したハリケーンとなった。ニューオーリンズの被害が特に大きく、市内の約35%が浸水し、州全体での死者は76人に上った。
- 1969年8月、ハリケーン・カミーユ、カテゴリー5。高潮が23.4フィート (7.1 m) に及び、死者は250人となった。公式にはミシシッピ州に上陸して大きな被害を与えたが、ルイジアナ州でも影響が大きかった。ニューオーリンズは嵐の矛先を逃れたが、低地の大半が洪水に見舞われた。
- 1992年8月、ハリケーン・アンドリュー、上陸時カテゴリー3、州南中部を襲い、4人が死亡し、15万人近くの世帯が停電になった。農作物被害は数億ドル規模と推計された。
- 2002年10月3日、ハリケーン・リリー、上陸時カテゴリー1
- 2005年8月29日、ハリケーン・カトリーナ、上陸時カテゴリー3[29] が州南東部を襲い、ニューオーリンズの堤防を破壊し、市の80%が浸水した。大半の市民は脱出していたが、その多くは家屋を失った。市は実質的に10月まで閉鎖された。湾岸地域で200万人以上が避難し、ルイジアナ州だけで1,500人以上が死亡した。地方、州、および国の準備と対応が迅速でなく不適切だったという非難の声が上がった。この影響で多くの州民が国中に避難した。
- 2005年9月24日、ハリケーン・リタが上陸時カテゴリー3で州南西部を襲い、湾岸のキャメロン郡やレイクチャールズ市など多くの郡や町を洪水にした。ニューオーリンズ市の堤防に損傷を与え、市の一部にも洪水が及んだ。
- 2008年9月1日、ハリケーン・グスタフが州南東部、ココドリー近くで上陸した。8月31日にはカテゴリー3の強度を保っていたが、9月1日に上陸したときにはカテゴリー2、その後間もなくカテゴリー1となった[30]。「世紀のハリケーン」になるという予報もあり、3年前のハリケーン・カトリーナよりも強い可能性があったので、多くの市民がニューオーリンズから脱出したが[31]、それほどの強さにはならなかった。それでも多くの死者が出た[32]。9月1日の停電で約150万人に影響があった[33]。
保護地域
ルイジアナ州はその位置や地形の故に多様な生物が生息している。南西部平原のような重要な地域では生物種の98%以上が失われてきた。フロリダ郡部(州東部の北側地域)の松林低地も深刻な危険にさらされており、その原因は森林火災の予防と都市のスプロール現象が大きい[22]。ルイジアナ州の生物多様性を保護するための適切に組織化された仕組みはまだ無い。そのような仕組みができるとすれば、フロリダ州が計画しているような緑の回廊で結ばれた生物多様性の中核地域を保護する仕組みで構成されることになる[34]。
いずれにしても州内には、その程度は異なるものの人間の介入を防いでいる多くの地域がある[35]。アメリカ合衆国国立公園局や国有林局の管轄する場所や地域に加えて、ルイジアナ州は州立公園、州立歴史史跡、1つの州立保存地域、1つの州有林、多くの野生生物管理地域を運営している。自然管理委員会も自然地域を所有し管理している[36]。州内最大級の自然地域はキサッチー国有林である。面積は60万エーカー (2,400 km2) あり、その半分以上が重要な森林地帯で、多くの希少な植物や動物が生息しており[22]、中にはルイジアナパインヘビやホオジロシマアカゲラが含まれる。ポンチャートレイン湖周辺のラクウショウ沼地保護地も大規模で重要な自然地域であり、南部湿地にはシラサギ、アリゲーター、チョウザメなどが生息している。州内に保護地域の体系を作ろうとすれば、少なくとも12の中核地域が必要とされる。これらは、南西部平原から東部のパール川氾濫原、北部のミシシッピ川沖積沼地にまで及ぶことになる[22]。
ルイジアナ州自然景観河川体系では州内48の川、水流およびバイユーを保護している。これはルイジアナ州野生生物魚類保護省が管轄している。
国立公園局
アメリカ合衆国国立公園局が管理、保護し、あるいは別の形で認知している歴史、および景観地域は以下の通りである。
- ケーン川国立歴史遺産地域、ナケテシュ市近く
- ケーン川クレオール国立歴史公園、ナケテシュ市近く
- ジャン・ラフィット国立歴史公園および保存地、ニューオーリンズに本部があり、セントバーナード郡、バラタリア(クラウンポイント)、およびアケイディアナ(ラファイエット)に支所がある。
- ポヴァティポイント国立保護区、エップス
- セイリーン・バイユー、州北部のウィン郡近く、国立野生景観河川に指定
国有林局
州立公園とレクリエーション地域
ルイジアナ州は22の州立公園、17の州立歴史史跡、および1つの州立保存地域を運営している。
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