リンドン・ジョンソン 外交政策

リンドン・ジョンソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 20:30 UTC 版)

リンドン・ベインズ・ジョンソンLyndon Baines Johnson1908年8月27日 - 1973年1月22日)は、アメリカ合衆国政治家。同国第36代大統領(在任: 1963年11月22日 - 1969年1月20日)。


注釈

  1. ^ ケネディがジョンソンを副大統領候補に指名した経緯については明らかになっていない。弟のロバートはジョンソン嫌いであったことは有名で、このことでケネディ暗殺後にジョンソン政権に残ることを潔しとしなかった。また指名しても受諾しないだろうとジョンが予測した上で礼儀的に対立候補に打診したら予想外に受け入れてしまったという説もあるが、父親のジョセフ・パトリック・ケネディがやはりテキサスを味方につけることでジョンソンを副大統領に強く推したというのが定説になっている[6]
  2. ^ ジョンソンには心臓発作の既往があったこともあり、ジョンソンは腕に軽傷を負い心臓発作を起こしたという誤報が生じていた。
  3. ^ ケネディ政権内でジョンソンは旧知のヒューズを連邦判事に推薦したがこの時は拒否され、やむなくジョンソンは別人を推薦したところ、下院議長の要請を受けた政権がジョンソンに相談なくヒューズを任命している。このようなことが重なってジョンソンの政治的信用は失墜していた。ヒューズはケネディ政権から任命された連邦判事のうち唯一の女性。
  4. ^ この時に機内からマサチューセッツ州ハイアニスポートに住むケネディ大統領の母ローズ・ケネディにお悔やみの電話をしている。
  5. ^ 聖書が無かったため、機内のケネディの机の上にあったミサ典書を使用した。
  6. ^ この作戦をネガティブ・キャンペーンとする向きもあるが、対立候補のゴールドウォーター自身の超保守的な言動が、米ソ対立がまだ続いていた時代のやや時代遅れの言説に、彼を忌避する動きが共和党自体の中にもあり、共和党の有力候補であったロムニー州知事は最後までゴールドウォーター支持を明確にせず、この選挙期間は共和党は分裂した状態になったことが彼の大敗の原因である。彼が獲得したのが人種差別の厳しい深南部の州だけであったことは、彼の政治姿勢の結果である。そして以後に共和党の組織の再編成と新しい組織作りに動いたのがリチャード・ニクソンであり、それが4年後の大統領当選につながっていった。
  7. ^ ひなぎくと少女」などのテレビ広告はこういった作戦の一環として流された。
  8. ^ 後にすべてアメリカ側が作ったウソであったとされたが、実際は2回あった攻撃の最初の1回目は事実で北ベトナムから攻撃であり、2回目の「攻撃」はアメリカ海軍側の作り話(と言うよりもレーダーゴーストの誤認を大げさに報告した)であった[要出典]
  9. ^ この時サイゴンにマクジョージ・バンディ大統領補佐官が情勢視察のために来ていた。バンディはこの攻撃で強硬論に凝り固まったと言われている。しかしジョージ・ボール国務次官はベトナムへの全面介入には批判的な立場であった[27]
  10. ^ 歴史資料では死者を出していないトンキン湾事件は大きく扱われる一方で、多くの死傷者を出したアメリカ軍基地爆破事件(ブレイク基地)は殆ど触れていないという意見もあるが[誰?]、この前年11月にビエンホア基地が攻撃されてアメリカ軍事顧問5人が死亡して、さらにクリスマスイブにサイゴンのホテルで爆弾が仕掛けられて民間のアメリカ人2人が殺害される事態が生じている。ブレイク基地での7名死亡はその動きの一連の経過の一つに過ぎず、むしろその報復としての軍事行動が歯止めの効かない大量の兵士の投入につながったことで、トンキン湾決議は歴史的に重い課題である[要出典]
  11. ^ デイビッド・ハルバースタムによる、ベトナム戦争当時の政府閣僚らを取り上げたドキュメンタリー書籍のタイトル。ラスク国務長官、マクナマラ国防長官を始め、マクジョージ・バンディ、ウォルト・ロストウ、ジョージ・ボール、ウイリアム・バンディらを指す。
  12. ^ 1968年には1週間のベトナムにおける米兵の死者が約250人に達して、勝利の展望の無い長期戦になって大きな出血を強いられている事実が次第に明らかになって早期終結を望む声が大きくなった[31]
  13. ^ このテト攻勢について軍事的にはアメリカが圧倒して南ベトナム解放民族戦線側の死者が5万人にのぼり解放民族戦線の方が敗れているとの見方もあるが、個々の戦闘の勝敗よりもサイゴンの中枢を襲われアメリカ大使館を一時占拠されたこと自体が、それまでアメリカの一般国民が抱いていたベトナム戦争のイメージを覆し、急速に幻滅と悲観論が広がった。そして後にこのテト攻勢のアメリカ軍の死者が3,895人に上ったことを明らかにした。これは1968年の戦死者数1万2,000人の30%であり、犠牲が大きかったことが明確になった。そして政治的には大統領選挙の予備選挙が始まるタイミングで衝撃を与えて、結果アメリカの国内で地殻変動を起こしてベトナム戦争が大きなテーマになったことは政治的に極めて大きなものであった。
  14. ^ ウォルター・クロンカイトもそれまで「我々は戦争に勝利しつつあると思っていた」と語っている[33]
  15. ^ 3月25日にホワイトハウスで、クリフォードの提案で各長老や顧問を集めて会議を開いた。出席者はアチソン元国務長官、ディロン元財務長官、リッジウェイ将軍、テーラー将軍(元南ベトナム大使)、ロッジ元南ベトナム大使、ジョージ・ボール元国務次官、マクジョージ・バンディ大統領補佐官などで、この会議でベトナム政策の変更を求める意見が多かった。これがジョンソンに大きな影響を与え直後の3.31声明につながった。
  16. ^ 実際には20万人の増派要求に対して2万人の増派を行った。しかしこれはもういくら増派しても問題の解決にならないことを示しており、今後は南ベトナム軍により大きい戦争遂行の責任を持たすことを要求したものであった。これがベトナム戦争のベトナム化の始まりであった。またその背景として増派が財政を圧迫して1967年秋ごろから財政危機に見舞われ、それが為替相場でのドル危機を招き、この1968年3月第1週に金準備が3億ドル減少して、さらに第2週に再び3億ドル以上が流出することとなり(この問題は3年後のニクソン・ショックの原因であった)、またこのベトナム戦争の過大出費が国内の「偉大な社会」政策を直撃していて、もはや増税なしには増派できず、金融危機が発生する可能性も予想される事態にいたっていた。
  17. ^ ケネディ暗殺の首謀者はジョンソンであるとの仮説は映画や著書の中で論じられてはいるが、ジョンソンが本件で刑事裁判所で有罪判決を受けたことはなく、刑事裁判所に起訴されたこともなく、司法省に告訴されたこともなく、ケネディ大統領の遺族から民事裁判所に提訴されたこともない。本件に関して、ウォーターゲート事件におけるニクソン大統領や大統領の側近、また実行犯のように、連邦議会に証人喚問され、連邦議会議員からの尋問や証拠調べにより、ジョンソンが首謀者であるとの仮説が証明されたこともない。ジョンソン首謀者説は、刑事裁判所や民事裁判所や連邦議会のような公的な場所で、事実と認定されたことはなく、真偽を検証されたこともなく、ジョンソンの死後に発表された、私人による仮説にとどまっている。

出典

  1. ^ a b 砂田一郎『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』芦書房、1981年、pp.90 - 91
  2. ^ 加藤寛一郎『零戦の秘術』講談社、1991年、p.344
  3. ^ 藤本一美ほか『戦後アメリカ大統領事典』大空社、2009年p.155
  4. ^ a b 『戦後アメリカ大統領事典』p.156
  5. ^ 仲晃『ケネディ暗殺事件~その背景と真実~』弘文堂、1964年、p.84
  6. ^ ギャレス・ジェンキンズ(澤田澄江翻訳)『ジョン・F・ケネディ - フォトバイオグラフィ』原書房、2006年、p.134P
  7. ^ ヘンリー・キッシンジャー『外交』日本経済新聞社、1996年[要ページ番号]
  8. ^ アレックス・アベラ『ランド 世界を支配した研究所』文藝春秋、2008年[要ページ番号]
  9. ^ 『ケネディ暗殺事件~その背景と真実~』p.83
  10. ^ 『ケネディ暗殺事件~その背景と真実~』pp.36 - 39
  11. ^ 『ケネディ暗殺事件~その背景と真実~』pp.94 - 95
  12. ^ 藤本一美・濱賀祐子『米国の大統領と国政選挙~リベラルとコンサヴァティブの対立~』専修大学出版局、2004年、p.102
  13. ^ 有賀正編著 『世界歴史大系~アメリカ史2~』 山川出版社、1993年、p.406
  14. ^ ヴァンサン・ミシュロ(藤本一美翻訳)『アメリカ大統領ーその権力と歴史』創元社、2009年、p.85
  15. ^ ウォルター・クロンカイト(浅野輔翻訳)『クロンカイトの世界』TBSブリタニカ、1999年[要ページ番号]
  16. ^ The House and Selma: Bridging History and Memory”. Artandhistory.house.gov. 2015年3月22日閲覧。
  17. ^ President Johnson's Special Message to the Congress: The American Promise”. LBJ PRESIDENTIAL LIBRARY. 2015年3月22日閲覧。
  18. ^ 「黒人暴動 米各地に波及 連邦軍、黒人街に入る」『朝日新聞』昭和42年7月26日朝刊、12版、1面
  19. ^ 野村達朗『アメリカ合衆国の歴史』ミネルヴァ書房、1998年 [要ページ番号]
  20. ^ 『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』p.96
  21. ^ 『戦後アメリカ大統領事典』p.164
  22. ^ 土田宏『アメリカの50年 ケネディの夢は消えた?』彩流社、2015年、p.55
  23. ^ デイビッド・ルー『アメリカ 自由と変革の軌跡』日本経済新聞出版社、2009年、p.282
  24. ^ 佐々木卓也(編著)『戦後アメリカ外交史』有斐閣《有斐閣アルマ》、2009年、p.111
  25. ^ 『戦後アメリカ外交史』p.112
  26. ^ a b 秋元英一・菅英輝『アメリカ20世紀史』東京大学出版会、2003年、p.229
  27. ^ 『世界歴史大系~アメリカ史2~』p. 410
  28. ^ 『アメリカ 自由と変革の軌跡』、p.285
  29. ^ 『アメリカ20世紀史』p.230
  30. ^ a b 『アメリカ20世紀史』p.231
  31. ^ a b 『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』p.113
  32. ^ a b c 『世界歴史大系~アメリカ史2~』p.416参照
  33. ^ a b 『アメリカ20世紀史』p.232
  34. ^ 『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』p.115
  35. ^ a b 『現代アメリカ政治~60-80年代への変動過程~』p.116
  36. ^ http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1968
  37. ^ 『戦後アメリカ大統領事典』p.165
  38. ^ The Grand Lodge of Free and Accepted Masons of Pennsylvania. 2013年5月3日閲覧。
  39. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 ケイト・アンダーセン・ブラウワー著 光文社 2016年 p127
  40. ^ 『20世紀を伝えた男 クロンカイトの世界』 ウォルター・クロンカイトTBSブリタニカ 1999年 p294
  41. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 p96、194-195、
  42. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 p197-202
  43. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 p349-353
  44. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 p206-207
  45. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 p307-308
  46. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 p310-312
  47. ^ 『使用人が見たホワイトハウス』 p323
  48. ^ ‘Hello, Lyndon!’ Joins Campaign At Democratic Parley Next Week - 1964年8月21日 The New York Times ARCHIVES
  49. ^ A Brief History of Campaign Songs - TIME
  50. ^ http://www.va.gov/health/newsfeatures/2015/february/list-of-presidents-who-were-veterans.asp






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