リック・フレアー
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ナビゲーションに移動 検索に移動リック・フレアー | |
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![]() ルイビルのGalaxyConにて(2019年) | |
プロフィール | |
リングネーム |
リック・フレアー ブラック・スコーピオン |
本名 | リチャード・モーガン・フレイアー |
ニックネーム |
ネイチャー・ボーイ 狂乱の貴公子 |
身長 | 183cm - 185cm |
体重 | 100kg - 110kg |
誕生日 | 1949年2月25日(72歳) |
出身地 |
![]() ![]() シェルビー郡メンフィス |
スポーツ歴 |
レスリング アメリカンフットボール |
トレーナー |
バーン・ガニア ビル・ロビンソン |
デビュー | 1972年12月10日 |
その試合巧者ぶりから「業界一卑劣な男(Dirtiest Player in the Game)」の異名を取った。日本でのニックネームは「狂乱の貴公子」。息子のデビッド・フレアーとリード・フレアー、娘のアシュリー・フレアーもプロレスラー。
人物
NWA、WCW、WWEの世界ヘビー級王座のベルトを巻き、16回の世界王者(16-time World Champion)とも呼ばれる。
歴代のNWA王者がそうであったように、正攻法で攻めるよりもずるがしこい戦法を得意とした。これは元々NWA王者が巡業の行く先々で地元の英雄を相手にする必要があったところから生じたものであり、対戦相手を引き立てつつ、数々のムーブ(試合中の動作)で観客を沸かせる術に長け、「箒相手でもプロレスができる」と形容された。跪いて相手に攻撃を躊躇させるムーブやフラフラ歩き前方に倒れるムーブは大きな見せ場となっている。そのスタイルは数々のレスラーに賞賛され、武藤敬司は「自身のプロレスのベース」と語っている。
なお、彼の地髪は元々赤っぽいブラウンで、ブロンドヘアーは貴公子ムードを出すのとラフファイトの際に流血が映えるよう、自ら染めたものである。
来歴
初期
1950年に発覚し全米を騒がせたw:Georgia_Tannがテネシー児童福祉協会 (Tennessee Children's Home Society) で繰り広げたとされる養子縁組用の乳幼児売買事件の被害者の1人。生後1か月ほどで当時デトロイトで産婦人科医を開業していた養父母の元に引き取られ、ミネソタ州ミネアポリスで少年時代を過ごす。
少年時代からプロレスファンで、特にクラッシャー・リソワスキーが好きだったと語っている。学生時代はレスリングおよびアメリカンフットボールの選手であった。ミネソタ大学を退学後、保険外交員の職に就いていたが、バーン・ガニアのレスリング・キャンプに参加しプロレスラーとなるための訓練を受ける。このキャンプの同期にはケン・パテラ、コシロ・バジリ、グレッグ・ガニア、ジム・ブランゼルらがいる。1972年12月10日、ガニアが主宰していた地元ミネアポリスのAWAにてデビュー戦を行った。
NWA
1974年、ジム・クロケット・ジュニアが運営するNWAミッドアトランティック地区(本拠地はノースカロライナ州シャーロット)に活動の場を移す。金髪ヒールの先達であるベテランのリップ・ホークのパートナーに起用され[1]、同年7月4日にミッドアトランティック・タッグ王座を獲得、プロ入りして初のタイトル戴冠を果たした[2][3]。1975年2月8日にはポール・ジョーンズからミッドアトランティックTV王座を奪取し[4]、シングルタイトルを初めて獲得している[2]。同年下期からは、AWA時代の先輩でもあるワフー・マクダニエルを相手にミッドアトランティック・ヘビー級王座を争った[5]。
1975年10月4日、セスナ機の事故に遭い背骨を骨折、医師から引退勧告を受けるも奇跡的にレスラーとして復帰した(この事故ではパイロットは死亡、同乗していたジョニー・バレンタインなどは半身不随となり引退している)[6]。復帰後の1976年12月26日にはグレッグ・バレンタインと組んでミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座を奪取[7]。以降もミッドアトランティックを主戦場に、USヘビー級王座をはじめ同地区認定のタイトルを立て続けに獲得[2][8]。「ネイチャー・ボーイ」の異名が定着したのも、生涯のライバルにして親友でもあるロディ・パイパーやリッキー・スティムボートらとの邂逅もこの時期である。
1981年9月17日、ダスティ・ローデスを相手のブレーンバスターを空中で体を捻って体を浴びせて破りNWA世界ヘビー級王座に初戴冠[9]。後に同王座を8回(7〜10回と諸説有)獲得して一時代を築く。1986年には、オレイ・アンダーソン、アーン・アンダーソン、タリー・ブランチャード、およびマネージャーのJ・J・ディロンと共に、今や伝説と化したチーム、フォー・ホースメンを結成した。
NWAからWCWへの移行期となる1980年代末から1990年代初頭にかけては、若手として台頭してきたスティング、グレート・ムタ、レックス・ルガーらとの戦いを繰り広げ、初期WCWの目玉カードとなった。
WWF
1991年9月、ジム・ハード副社長との確執から、それまで所属していたNWAの流れを汲むWCWを離脱、WWFへ電撃移籍した。WCW首脳部にとってはフレアーは「すでに全盛期の過ぎた時代遅れの選手」でしかなく、ハードからは思い付きで「古代の剣闘士」スパルタカスなるキャラにギミック変更を要求されるなどの扱いを受けていた。なお離脱前の一時期にトレードマークだったロングヘアーが短くカットされたのは、このキャラチェンジ命令を完全には拒否することができずに妥協したためである。
トップ・ヒールとして迎えられたWWFではボビー・ヒーナン、カート・ヘニングと組むこととなり、かつての宿敵で親友でもあったロディ・パイパーとの抗争、その後はハルク・ホーガンとの頂上対決が組まれた。引退を考えていたホーガンとの抗争は今一つ盛り上がらなかったが、1992年1月にロイヤルランブルで優勝、およびこの試合に懸けられていたWWF世界ヘビー級王座を獲得した。
レッスルマニア8ではランディ・サベージを相手に王座防衛戦を戦い、敗れたもののサベージの愛妻エリザベスの唇を奪った。同年のサマースラムでタイトル奪回にも成功するが、アルティメット・ウォリアーとの試合で三半規管を損傷。欠場の必要に迫られ、ブレット・ハートに王座を明け渡した。
WCW
1993年2月にWWFを離脱、WCWへ復帰しフォー・ホースメンを再結成した。また、インタビューコーナー "A Flair for the Gold" のホストも担当している。1998年に、エリック・ビショフとの対立からWCW離脱寸前までいくも、アーン・アンダーソンの働きにより残留。その後WCWには消滅まで所属していたが、ビショフら首脳陣やホーガン、ナッシュを筆頭とする主流派グループとの確執は激しく、脇役扱いも多くかつての輝きを取り戻すことはなかった。脚本家のビンス・ルッソーがWWFから移籍してからはその傾向がさらに顕著になり、精神的・肉体的な理由から一時期はセミリタイヤ状態であった。
2001年3月26日のマンデー・ナイトロ最終回ではメインイベントでスティングと戦っているが、この時もコンディションは非常に悪く、体型を隠すためにTシャツを着たまま試合を行った。
WWE

WCW消滅後、2001年末よりWWEに所属する。50%の株式を保有するビンス・マクマホンとのWWE共同経営者というギミックを与えられ、ベビーフェイスとして活躍した。2002年のレッスルマニア18ではジ・アンダーテイカーと対戦、同年WWEがブランド分けを行った際にはRAWのオーナーとなってアンダーテイカーをドラフト1位指名し抗争を継続した。2003年には、トリプルH、バティスタ、ランディ・オートンと共にヒールのユニット、エボリューションを結成した。
その後、ランディ・オートン、バティスタらが単独でファンを沸かすことができるキャラクターに成長して次々と抜けていき(アングル上はエボリューションと抗争するための脱退)、トリプルHも休養に入ったためにエボリューションはフェードアウト。2005年8月に、ショーン・マイケルズと組んでフェイスターン。カリート、クリス・マスターズと抗争後10月のWWE・ホームカミングからは旧友のトリプルHとの抗争に入った。
トリプルHとの抗争はサバイバー・シリーズまで続いた。サバイバー・シリーズ後はプライベートで起こした交通トラブルネタをエッジがあげつらったことをきっかけに抗争開始した。
2006年11月5日のサイバー・サンデーでは、抗争中だったスピリット・スクワッド(ケニー&マイキー)の持つ世界タッグ王座に、ファン投票で選ばれたパートナーのロディ・パイパーと組んで挑戦。足4の字固めでギブアップを奪い王座奪取を果たした。
2007年6月11日、RAWで行われたドラフトにより、RAWからスマックダウンに移籍。約2年ぶりにバティスタと同じブランドでの再会を果たす(リックの移籍を決めた試合を行ったのもバティスタである)。
移籍後、3か月の欠場を経て11月26日にRAWで復帰し、「私は引退しない」と宣言した[10]。この時、ビンス・マクマホンから「もし1試合でも負けたら強制的に引退とする」と通告されたため、以後の試合は日本遠征(2008年2月11日の有明コロシアム大会・2月12日の日本武道館大会)を含めてすべて「負けたら引退」マッチとなった(レッスルマニア前最後のRAWでの対戦相手はビンスだった)。
2008年は現役レスラーでは初めてWWE殿堂に迎えられたが、3月30日、フロリダ州オーランドにて開催されたレッスルマニア24にてショーン・マイケルズに敗れ、引退決定。翌日のRAWの放送で引退セレモニーが行われた。
引退後はWWEのエージェントとしてイベントや授賞式などに登場していたが、8月3日をもってWWEを退団。その後はWWE、ROH、インディー団体などにゲストで登場(試合はしない。ただし乱入はする)。2009年に入り、クリス・ジェリコによる映画『レスラー』の主演ミッキー・ロークへのアングル上での批判に端を発したジェリコ対レジェンド(フレアー、パイパー、リッキー・スティムボート、ジミー・スヌーカ)の抗争ストーリーが組まれ、レッスルマニア25ではレジェンド軍のセコンドについた。また、大会前日のWWE殿堂式典では、殿堂入りを果たしたスティムボートのプレゼンターを務めた。
ジャッジメント・デイ以降はランディ・オートンとバティスタの抗争に関わる。これはオートンがエボリューション時代からの遺恨だとしてトリプルHやマクマホン家との抗争を経たもので、フレアーはオートンに再三自身と(引退したため正式な試合ではないが)闘うよう要求した。結局オートンはエクストリーム・ルールズ直前のRAWでのパーキング・ロット戦に同意、待ち伏せしたフレアーはオートンを叩きのめし未だ衰えない存在感を見せ付けるが、オートン率いるレガシーの介入により形勢逆転し、最後にはRKOを喰らった。
WWE以降
再度WWEを離れた後はROHやインディー団体へのゲスト出場を経て、2009年11月にはハルク・ホーガンがオーストラリアにて開催したハルカマニアに参戦。約1年8カ月ぶりにリングに復帰し、メルボルン、パース、ブリスベン、シドニーにてホーガンとの連戦が行われた[2]。
2010年1月よりTNAに登場し、A・J・スタイルズの指南役となって活動。4月18日のロックダウンではスティングやデズモンド・ウルフらをメンバーにチーム・フレアーを組織し、ホーガン率いるチーム・ホーガン(アビス、ジェフ・ジャレット、ロブ・ヴァン・ダム、ジェフ・ハーディー)との対戦を指揮した[2]。同年下期からはスタイルズ、ウルフ、ビアマネー・インクらによるTNA版フォー・ホースメンのフォーチュン(Fortune)を結成、ユニットの総帥として活動した。
2012年、アーン・アンダーソン、タリー・ブランチャード、バリー・ウインダム、マネージャーのJ・J・ディロンと共に、フォー・ホースメンとしてWWE殿堂入り[11]。2008年に続き、2回に渡って殿堂に迎えられた初の人物となった[12]。
日本との関わり
初来日は1973年6月、国際プロレスの『ビッグ・サマー・シリーズ』である[13]。来日前に雑誌やパンフレットなどに掲載されていた写真は、汚らしい赤毛に下品な口髭、ポッコリと出た腹、とかなり冴えないスタイルだったが、実際に日本に来た時には精悍な顔に口髭はきれいに剃り落とされ、髪型もダイナマイト・キッドを彷彿とさせるショート・ヘア、腹もシェイプアップされ関係者を驚かせた[14][15]。初来日の国際プロレスのリングでは、6月18日の市原で大位山勝三と来日第一戦を行い[16]、6月26日に大館でラッシャー木村との金網デスマッチも行われている(フレアーは、ケージマッチへの出場はもとより、試合での流血もこのときが初めてであったと自著で述懐している[17])。TV中継では、マイティ井上戦(6月30日)と寺西勇戦(7月10日)がTBS『TWWAプロレス中継』にて放送された(いずれも敗退)[18]。なお、同シリーズには後にNWA世界王座を巡るライバルとなるダスティ・ローデスとディック・マードックのジ・アウトローズがエース格として参加していた。木村戦での流血も、彼らの指示によるものだったという[17]。
二度目の来日となる1978年4月、NWAルートにより全日本プロレスに初参戦(『エキサイト・シリーズ』前半戦への特別参加)。当時のフレアーはすでにミッドアトランティック地区のトップスターであり、次期NWA世界王者候補として5年前の初来日時とは比較にならないほどの注目を集め、4月27日に青森県野辺地町にてジャンボ鶴田のUNヘビー級王座に挑戦した[19]。同シリーズには初来日時に遥かに格上だったディック・マードックも参戦していたが、このシリーズでのフレアーはマードックと同等以上の大物扱いを受けた[19]。
その後、NWA世界王者となった1981年10月、全日本プロレスへの再来日が実現(『ジャイアント・シリーズ』序盤戦への特別参加)。シリーズ中は天龍源一郎、テリー・ファンク、ジャンボ鶴田の3者の挑戦を受けている[20]。以降もNWA世界王者として全日本プロレスに何度となく来日し、1982年から1987年にかけて、鶴田、天龍、リッキー・スティムボート、ブルーザー・ブロディ、テッド・デビアス、ザ・グレート・カブキ、ハーリー・レイス、長州力、谷津嘉章、タイガーマスク、輪島大士らを挑戦者に迎え、防衛戦を行った。
その間、1984年5月7日にテキサス州フォートワースでケリー・フォン・エリックにNWA世界王座を奪われるも、同月24日に横須賀にてケリーを破り、日本でタイトルを奪還[21]。1985年10月21日には両国国技館にて当時のAWA世界王者リック・マーテルと、史上初になるNWAとAWAの世界ダブル・タイトルマッチを闘っている(結果は両者リングアウト)[22]。
1991年3月21日、WCWとの提携ルートで新日本プロレスに初参戦、東京ドームにてIWGP王者藤波辰爾とのダブル・タイトル戦が実現した。1995年4月29日には、新日本が主催した北朝鮮でのプロレス興行『平和のための平壌国際体育・文化祝典』に出場、綾羅島メーデー・スタジアムにてアントニオ猪木とシングルマッチで対戦している。また、武藤敬司がWCWでグレート・ムタとして活躍していた1989年から1990年にかけては、ムタはテリー・ファンク、フレアーはスティングをパートナーに抗争を展開し、連日のように対戦していた。
2002年3月1日、WWF横浜アリーナ大会『スマックダウン・ツアー・ジャパン』で久々に来日。リング上で挨拶を行った際、過去に日本で対戦したレスラーの名前を挙げた。順番に「ジャンボ鶴田」「天龍源一郎」「ブルーザー・ブロディ」「スタン・ハンセン」「テリー・ファンク」「ハーリー・レイス」「アントニオ猪木」「長州力」「蝶野正洋」「藤波辰爾」「ジャイアント馬場」「グレート・ムタ」の12選手である。なお、この時ゲストとして実況席にいた武藤には、フレアーが自ら手を差し向けて敬意を示した。また、2005年2月4日WWEテレビショーさいたまスーパーアリーナ大会『ROAD TO WRESTLEMANIA 21 JAPAN TOUR』ではショーン・マイケルズとシングルで対戦している。
2008年、WWE有明コロシアム大会(2月11日)・日本武道館(2月12日)大会のPRのため、クリス・ジェリコ、キャンディス・ミシェルとともに来日。司会を務めた草野仁からチョップを貰った。お返しはサイン入りのベルトだった。
2013年1月26日、全日本プロレスに息子のリード・フレアーと共に参戦した。急病で試合には出られずセコンドでの応援となった。
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- ^ “Mid-Atlantic Gateway: Rip Hawk Interview”. Mid-Atlantic Gateway. 2014年9月30日閲覧。
- ^ a b c d e “Wrestler Profiles: "Nature Boy" Ric Flair”. Online World of Wrestling. 2010年6月4日閲覧。
- ^ “NWA Mid-Atlantic Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年6月4日閲覧。
- ^ “NWA Mid-Atlantic Television Title”. Wrestling-Titles.com. 2008年4月12日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年6月4日閲覧。
- ^ “NWA Mid-Atlantic Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年6月4日閲覧。
- ^ “The plane crash that changed wrestling”. SLAM! Sports (December 28, 2000). 2010年6月4日閲覧。
- ^ “NWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年6月4日閲覧。
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- ^ [1] Robinson, Bryan(2007-11-26). Win or go home - for good. WWE
- ^ “WWE Hall of Fame: The Four Horsemen”. WWE.com. 2012年4月2日閲覧。
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- ^ “IWE 1973 Big Summer Series”. Puroresu.com. 2020年6月20日閲覧。
- ^ 『THE WRESTLER BEST 100』P160(1981年、日本スポーツ出版社)
- ^ フレアー初来日時は田舎の力自慢アンちゃん 東スポweb 2015年2月8日
- ^ “IWE Big Summer Series - Day 1”. Wrestling-Titles.com. 2014年11月22日閲覧。
- ^ a b リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』P44(2004年、エンターブレイン、ISBN 4757721536)
- ^ 『忘れじの国際プロレス』P96(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)
- ^ a b “AJPW 1978 Excite Series”. Puroresu.com. 2015年9月20日閲覧。
- ^ “The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1981”. Wrestling-Titles.com. 2012年9月16日閲覧。
- ^ “The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1984”. Wrestling-Titles.com. 2012年9月16日閲覧。
- ^ “The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1985”. Wrestling-Titles.com. 2012年9月16日閲覧。
- ^ Ric Flair def. Mick Foley ("I Quit" Match) - WWE
- ^ Mick Foley vs Ric Flair (TNA, 10-7-2010) - Tape Machines Are Rolling
- ^ 月刊ビッグレスラー 1982年10月号 『石川敬士インタビュー』より (立風書房)
- ^ Gスピリッツ No.17『追憶の昭和・全日本』(辰巳出版)の天龍源一郎インタビューより
- ^ 『日本プロレス事件史 Vol.2』P76(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 9784583621876)
- 1 リック・フレアーとは
- 2 リック・フレアーの概要
- 3 得意技
- 4 獲得タイトル
- 5 関連項目
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