ラリー・モンテカルロ ラリー・モンテカルロ・ヒストリック

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ラリー・モンテカルロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/28 14:10 UTC 版)

ラリー・モンテカルロ・ヒストリック

現在、ゆかりのあった「パルクール・デ・コンサントラシオン」は「ラリー・モンテカルロ・ヒストリック」として1997年から受け継がれており、1955年から1980年までのモンテカルロ・ラリーに当時参戦記録のあった車両がエントリー可能で、毎年世界中のエンスージアストの手によりレストアされ集う、現代版ミッレミリア同等の競技としてカテゴライズされている。FIAヒストリック・ラリー選手権の初戦。

参戦資格

以下、100周年である2011年大会のレギュレーション上では、FIAのヒストリックラリーカテゴリ[4]に準じ、1955年の第25回大会から1980年の第48回大会までACMが把握しているラリー・モンテカルロ出場記録に記録が残っている車種でなければエントリーできない[注釈 12]。かつ、2005年例ではFIA発行の「ヒストリックカー」証明書の所持も必要となり、条件をパスしていたとしてもドライバー・コドライバーの戦歴を考慮した上で選考漏れする例があり、参戦は誰しもができるわけではない[5]

競技形式

競技の形式的には近代版ミッレミリア等とは異なり、コンマ1秒を争うレギュラリティラン形式が用いられ、他の短距離のパレード的なデモンストレーションランと言えるヒストリックカー競技とは一線を画している。その最大の魅力としては昔ながらの一週間で計3,000km超とする走破距離にあり、2011年ルールでのスタート地点の選択肢はスコットランドグラスゴーポーランドワルシャワモロッコマラケシュスペインバルセロナフランスランスにパルクフェルメが設定され、現地で車検を終えた順に出走当日まで保管後、出走と言う流れとなる。ただし、距離面で有利となるスタート地点であるランスとバルセロナは年式が古いクラスと小排気量車クラスのみエントリーが許されている。

競技詳細

スタート地点により走破日数が異なるコンサントラシオンを無事完走すると、第2ステージである「エタップ・クラスマン」から「エタップ・コミュン」1、2と1日ずつのスケジュールとなり、コミュン2到着直後はチュリニ峠のSSが含まれるナイトステージである「エタップ・フィナル」へとコマが進められる。ヒストリックでのグラスゴーからのスタートの場合、全行程7日間。全走行距離はゆうに3,500kmを超える。

それまでのWRCラリーラウンド上ではエタップ・クラスマンよりコマ地図が各エントラントに配布されるが、ヒストリックの場合は全ステージとも原則としてレギュラリティ・テスト区間であるZR区間(WRCでのSSにあたる)以外配布されない(これも現在は廃止されている)。

ZR区間では区間指示速度が与えられ、その区間実走時間との差分減点となり、指示速度は50km/hに近い速度からなり、SSではスタート/フィニッシュ間で車載GPSにより数か所でタイム計測が行われる。2011年のZR区間は14か所にのぼり、最長区間距離は66kmに及ぶ箇所もある。

いずれも、現地交通法規より低い指示速度を与えられている建前上、競技中は区間封鎖はされないため、不意の対向車が現れたりするところは昔ながらのルールさながらである。ただし、区間やその時の路面状態により、その指示速度が維持できないことも多く、結果的に普通のスペシャルステージのように「速い者勝ち」となることも多い。

コ・ドライバーのZR区間での役割としては常に指示速度どおりに進んでいるかを機械式トリップメーターと計算機で計算しながらの進行となり、いわゆる近年のラリーコンピューターの類は使用は許されていない。中には車体前輪に車速センサを取り付け、カーナビを堂々とつけるエントラントも見受けられるが、古き良きラリーを楽しむエントラントは社交辞令として勿論装着はしていない。

エントラント

往年の世界ラリー選手権経験ラリードライバーレーシングドライバーからのエントラントも多く、ジャン・ラニョッティやブルーノ・サビー、ラウノ・アルトーネンエリック・コマスブルーノ・ティリー、ヴァルター・ロールらも参戦しているため、上位層は非常にレベルの高い走りとサポートが要求される。

日本のエントラントによる参戦

2009年には前述の中川一・森川修が1979年にクラス優勝したマツダRX-7そのもので出場し完走(サービス隊も1979年時と同じ体制)。2011年には森川修が日本人エントラントのコ・ドライバーとして日産・240Zで出走。また2012年、2013年、2014年にも連続出場のあと2017年、2019年、2020年にも出場している。

2011年、東京大学特任教授(当時)の草加浩平率いる東京大学とホンダテクニカルカレッジ関東の学生たちは授業の一環として世界初となる学生チームによるラリー・モンテカルロ・ヒストリック参戦を果たした。同授業は東京大学の掲げる国際化教育とタフな東大生[6]を育成する場として、計画・運営・資金調達・規則翻訳・レストア・整備・改造まで全てを学生が担当した。日本での活動に加え、現地に於ける競技車の整備・修復・サポートまで一貫して学生が行うという今までに類をみない画期的な授業として日本のみならず世界各国でも注目を集めた。学生チームはトヨタ・スプリンタートレノ (TE27) を競技車両としてレストア・改造・整備を行った。草加浩平と現オリジナルボックス代表である国政久郎のタルガ・タスマニアにおけるクラス&カテゴリー優勝経験のあるコンビがグラスゴーより出走した。競技車両のTE27に大きなトラブルはなく、現地でサービスを行った学生たちもワークスさながらのサービスワークをこなし無事完走を果たした。学生チームは、日本人として史上最高位を獲得し、大会参加者からも賞賛を受ける結果となった。

世界最高知名度の伝統的ラリーに教育の一環として学生チームが出場するということは現地ヨーロッパでも注目を集め、東京大学ホンダテクニカルカレッジ関東チームはテレビニュースや新聞、雑誌などに多数取材を受け、世界各国で放映・掲載された。この学生プロジェクトは2012年に松波登・森川修組TA22セリカ、山口義則・木村哲也組TE27トレノで参戦し2台完走を果たした後、2013年から17年は対象を他のイベントに変更したものの、2018年以降東京大学とホンダテクニカルカレッジ関東の共同プロジェクトとして再びRallye Monte-Carlo Historiqueに参戦している。

上記の様に、ホンダ・シビック 1200RS(EB1)、トヨタ・カローラ・レビンスプリンター・トレノ(TE27)、トヨタ・セリカ(TA22)、日産フェアレディ240Z 等のモータリゼーション期に投入された車で当時の参戦メンバーの手により2000年代中頃から参戦するエントラント[7]も多数見受けられる。


  1. ^ これは業界内では珍しいことではなく、ダカール・ラリーやル・マン24時間レースも世界戦のカレンダーから除外されていた時期は長くあった。
  2. ^ 「コンセントレーション(集結)」を意味するフランス語。
  3. ^ 1996年1997年にも行われたが、この年はWRCのタイトルが掛けられていない
  4. ^ 1906年には初の国際グランプリとなるACFグランプリがフランスで開催された。
  5. ^ 上位はアミルカー1100、セルティック・ビニャーニ。他にもドイツ製シュタイア等がエントリーしていた。
  6. ^ BMC・ADO16に代表されるバッジエンジニアリング車であるライレー・エルフ及びケストレル、ウーズレー・ホーネットバンデン・プラ・プリンセス、MG・1100など、年々ミニ母体のエンジン仕様の違いによってもエントリー分散化していく。
  7. ^ それ以前にもACMが「アンチ・ミニ」の態度を示しているようにも見えた事からこの様な事態へと繋がった。この繰上りで優勝となったのはヘンリの父であるパウリ・トイヴォネン。
  8. ^ 1980年代初頭までにワルター・ロールによるフィアット・アバルト131オペル・アスコナ400などFR車がランキングトップに台頭してくるとそのジンクスも薄れていった。
  9. ^ 1968年、アテネ-モナコでのコンサントラシオン中、コ・ドライバーであるルチアーノ・ロンバルディの運転するフルヴィアは一般車と衝突、ロンバルディは死亡。助手席で仮眠を取っていたムナーリは重傷を負う事故となり、翌日ベッドの上でこの悲運を知る事になる。以後、ムナーリ自身このラリーに特別な並々ならぬ感情を抱き、成長していくことになる。
  10. ^ ランチア・ストラトスでは4連ライトポッド、フィアット・124・アバルトスパイダーダットサン・280Zなどではボンネット埋め込み形状のものが試されている。
  11. ^ 無線機をラリーやレースに持ち込み始めたのはランチアを率いるチェーザレ・フィオリオで、ストラトスを実戦投入すると変わりゆく山岳の天候や現地側トラブルにいち早く対応できており、後の1985年ラリー037時代でのSS中のサービスが禁止されていなかった当時、コースコンディションが変わる直前のSS中路肩でのタイヤ交換等でも無線機が活躍している(三栄ムック ラリーカーズ Vol.1 Lanchia Stratos HF「Interview with Key Person チェザーレ・フィオリオ」、1985年当時映像より抜粋参考)。
  12. ^ ただし、当時実際参戦した履歴のある同一シリアルN.O.のマシンでなくても同型、同年式の市販車を競技規則に則した範囲の改造及びリビルドを施した上での参戦も可能。





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