ラテン文字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/19 09:30 UTC 版)
使用言語
古代から中世まで
古代のラテン文字は、最初期の古ラテン語から共和制ローマ以降の古典ラテン語において用いられた。また、中世のラテン文字は、ローマ帝国の東西分裂以降もゲルマン人の言語やキリスト教の典礼言語の表記に用いられることで、さらに広まっていった。
古代
ラテン文字は本来、その名があらわす通り、ラテン語の表記に用いる文字として成立した。このため、ラテン語を公用語とするローマ帝国の勢力が伸長するとともにラテン文字の使用圏も拡大していった。しかし、ギリシア語を使用する帝国の東部においては、文字もギリシア文字が主流であった。
395年のローマ帝国の東西分裂以降、東ローマ帝国においてギリシア語化が進む一方で、西ローマ帝国はラテン語を使用し続け、文字もラテン文字を引き続き使用していた。
中世
西ローマ帝国は、ゲルマン民族の大移動などにより衰退してゆくことで476年に事実上の滅亡を迎えたとされるが、この地域に侵入したゲルマン人たちはラテン語とラテン文字を行政言語として使用するようになり、やがて彼らの祖語であるゲルマン諸語もラテン文字によって表記するようになっていった。また、このころから力を強めていったローマ教会は中世ラテン語を教会ラテン語と称して典礼言語にしており、それを表記するためのラテン文字も西方教会圏全域に広まっていき、西方教会圏の諸言語を表記するためにラテン文字が転用されるようになった。
こうして中世以降は、俗ラテン語に由来するロマンス諸語のみならず、西ヨーロッパや中央ヨーロッパのカトリックやプロテスタントを含む西方教会地域のほぼ全ての言語でラテン文字が使われるようになった。具体的にはゲルマン語派とスラヴ語派の一部、バルト語派やケルト語派、加えてバスク語やウラル語族の一部などである。
系統 | 言語 |
---|---|
ロマンス諸語 | |
ゲルマン語派 | |
スラヴ語派 | |
バルト語派 | |
ケルト語派 |
|
ウラル語族 |

近代以降のラテン文字化
近代以降、西ヨーロッパの諸国が勢力を強めていき、19世紀には世界の大半を植民地化するようになった。当時の列強は、ロシア帝国と大日本帝国を除きすべてがラテン文字の使用する国家であり、このためラテン文字は世界で最も使用される文字となった。この西欧の覇権の影響を受け、西方教会圏の諸言語以外においてもラテン文字を採用する言語が多く表れるようになった。このラテン文字化には、もとより文字を持たない言語が新たに文字を採用する場合と、すでにもっていた文字をラテン文字に切り替えた場合がある。
特に、文字を持たない言語が新たに正書法を定める場合については、新たに文字を発明したり、そのほかの文字を転用したりするよりも、多くラテン文字が採用された。こうした無文字言語社会に積極的に接触する者には、カトリックやプロテスタントのキリスト教の宣教師が多く、彼らは布教のために現地語のラテン文字表記の正書法および文法を整備したからである[3]。ラテン文字が表音文字であり、各地の言語を音訳しやすかったこともこの変化を進める要因となった[4]。あるいは基礎的なラテン文字の文字数は、26文字とキリル文字などに比べて非常に少なく、簡便であったことも導入を後押しした[注 2]。
もっとも文字数が少ないことは、表記できる発音が少ないことと表裏一体である。こうした発音を文字としてあらわすために各言語は、ひとつの発音に2文字以上を用いたり、これを1つの文字として合字することでリガチャをさらに増やしたり、あるいはダイアクリティカルマークを付す文字を増やしたりすることで文字の不足を補ったほか、新しい文字や声調記号などを新たに開発してラテン文字表記につけ加えるようになった。無文字言語のラテン文字化はアフリカやオセアニアなどで特に広く行われ、多くの言語がラテン文字による正書法を定められるようになった。
ヨーロッパ以外の地域において、もとより文字を持っていた言語がラテン文字に切り替えた場合、多くは西洋の列強による植民地化を経た地域の言語において行われた。こうした言語においてもカトリックやプロテスタントの宣教師によって各言語に相当するラテン文字表記の正書法が開発されたことは同じであるが、その後西欧列強の支配をうける中で支配層の言語であるラテン文字の表記が広まり、従来の言語においてもラテン文字で表記するようにしたほうが便利となったためである。
こうして近代以降に植民地化を原因としてラテン文字に切り替えた言語には、東南アジアの言語においてはアラビア文字を基にしたジャウィ文字から切り替えたインドネシア語やマレー語、アラビア文字とブラーフミー系文字であるアリバタの併用から切り替えてフィリピン語、漢字とそれを基にしたチュノムの併用から切り替えたベトナム語、アフリカ東部の言語においてはアラビア文字から切り替えたスワヒリ語などがある。
この例外はトルコ語であり、オスマン帝国は植民地化を受けていなかったものの、これに代わってトルコ共和国を建国したケマル・アタチュルクがトルコの近代化を目指して使用文字の変更を決定し、1928年にアラビア文字から置き換えられたものである[5][6]。
またそれとは別の例外として、すべての植民地において必ずしも宗主国がラテン文字化を推進したり、あるいはラテン文字化を完了したりしたわけではなく、南アジアのインド地域やキリスト教化できなかったイスラム世界にあるアラブ圏の各国などのように植民地支配を受けたが、用いる文字を変更しなかった地域も多い。
植民地となった地域がラテン文字を用いるようになるのとは別に、ヨーロッパにおいても18世紀以降、西方教会地域でない地域においてもラテン文字化が一部で進められるようになった。ルーマニア語はルーマニア正教会のもとで正教会圏であったため文語においてキリル文字を使用していたが、16世紀ごろには一部地域でハンガリーの言語であるマジャル語をまねた筆記法が用いられ、18世紀には民族主義の高まりによりロマンス諸語であることが強く意識され、ラテン文字化運動が広がっていき、1859年から1860年にかけて正式にラテン文字が採用されることとなった[7]。アルバニア語においてはラテン文字をはじめギリシア文字やアラビア文字など各種表記法が混在していたが、1908年にラテン文字による表記が正式に決定した[8]。
旧ソビエト連邦地域におけるラテン文字化
旧ソビエト連邦の諸言語の表記は、当初ラテン文字を採用していたものの、1940年にキリル文字が採用され、ソビエト連邦内の多くの言語でキリル文字化が進められた。しかしソビエト連邦の崩壊後、これら諸言語のいくつかにおいてふたたびラテン文字を再導入する動きが活発になった。元来、アラビア文字を用いていた地域においてはウズベク語やトルクメン語、アゼルバイジャン語が、初期のソビエト連邦にラテン文字に切り替えられ、その後1940年に連邦政府の言語政策の変化によりキリル文字に再び切り替えられた[9]が、ソビエト連邦の崩壊後、ウズベク語とトルクメン語とにおいてラテン文字表記の導入が決定され、以前定められたものとは異なるものの、再びラテン文字への切り替えが行われることとなった。
同じく元来、アラビア文字を用いていたカザフスタンにおいてはソビエト連邦崩壊後もキリル文字の使用が続いてきたが、ヌルスルタン・ナザルバエフ大統領が2017年10月に、カザフ語の表記をラテン文字に改める準備を整えるよう担当部署に指示した[10]。2018年には学校教育においてラテン文字の使用を開始し[11]、2025年には完全にカザフ語の表記をラテン文字に移行することを表明した[12][13]。
このほか、ロマンス諸語に属し、ルーマニア語[注 3]ときわめて似ている関係にあるモルドバ語においては、従前のラテン文字から1940年にキリル文字化されたものの、1989年には再度表記をラテン文字に改めることが決定され、ふたたびラテン文字を用いる国となった[7][注 4]。
日本におけるローマ字論
日本においては、漢字廃止論の一環としてのラテン文字化、いわゆるローマ字論が明治初期から唱えられており、第二次世界大戦後には、1946年の第一次アメリカ教育使節団報告書によって、漢字と平仮名、片仮名を廃止し、日本語表記をローマ字表記に一本化することが提言された。これを受け、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) のもとで「日本語表記は複雑であるため識字率が低く、識字率を高めるために簡便なローマ字表記への切り替えが必要」との意見が強まり、実態を調査するため1948年に全国各地で文部省教育研修所、現在の国立教育政策研究所とGHQの共催による漢字テストが行われた。しかし、その結果はGHQの予想とは異なり、識字率はおよそ10割に近いという結果が出たため、このローマ字表記化計画は頓挫、事実上撤回されることになった[14][15]。
他文字使用言語のラテン文字表記法の成立
独自の文字を使用する言語でも、ほとんどはラテン文字による表記法が確立されており、借用語や略語などでもラテン文字を用いることが多い。日本語においては、1867年にアメリカ人のジェームス・カーティス・ヘボンがヘボン式ローマ字の表記法を考案し、さらに1885年に田中舘愛橘が日本式ローマ字を考案、さらにこれを発展させて1937年に発表された訓令式ローマ字があり、実際には訓令式とヘボン式の2つの表記法が並立している形となっている。
訓令式は1字または2字で多くの音を表記できるため使用はしやすい一方、英語の発音からやや離れた表記となっており、よく「普段からラテン文字で書かれる西欧系各言語を母語とする欧米人からは正しく発音されにくいことが欠点だ」と指摘される。対して「ヘボン式はその逆で、実際の発音に沿った表記[要出典]となっており、普段からラテン文字で書かれる西欧系各言語西欧系各言語を母語とする欧米人からも正しく発音されやすい」などとみなされる半面、表記が長くやや使用しにくい面がある。
もっとも読みに関しては、ヘボン式で書いたところでそもそも、ラテン文字の読みがしばしば言語間で異なり、つまりフランス人が読めばフランス語読みになる。したがってヘボン式ローマ字は、アメリカ人や英語圏の人々から正しく発音されるかどうかはさておき、ヨーロッパの人々およびラテン文字を用いるあまねく人々に正しく発音される保証はなく、それはほかのどのローマ字にもいえることである[注 5]。また、ある言語で用いる文字とその表記法については、特に使用する文字を完全に改めるような場合において、その言語をよくとらえているかどうかが論点のひとつとなる。この点について現代の日本語は、その発音を五十音表のようにとらえている話者が多く、したがって日本語話者にとってヘボン式は、タ行のように同じ行でも子音の文字が変わり、拗音の「シャ」などの「小さいヤ段」の表記が揺れるなど、日本語話者にとって変則的な表記が多い、日本語をよくとらえていない表記となる。この意味では、ヘボン式ローマ字は、外国人に向けて用いる場合はさておき、日本人の書く日本語のラテン文字化には向かないといえる。
文部省は1954年に訓令式に基づいた「ローマ字のつづり方」を定め、事情がある場合に限りヘボン式での表記を認めるという立場を取った[16][17]。これに沿って、日本の教育現場においては訓令式での表記を教えている。しかし、実際のローマ字表記は、特に公共の場などにおいて一般に外国人に向けて用いられるため「普段からラテン文字で書かれる西欧系各言語を母語とする欧米人にわかりやすい」というねらいから、ヘボン式での表記が圧倒的であり、統一を求める声も上がっている[注 6]。
注釈
- ^ なお、他の言語に対し同様の表現が使われることはまれであり、たとえば漢字略称で「仏語」とされるフランス語の表記に用いても、フランス語で用いていることを強調しない場合は「仏字」などとは呼ばない。したがってフランス語で書かれていることがさほど重要ではない場合、ひとまとめに「英字」と称することさえ珍しくない。
- ^ なお、ギリシャ文字の文字数は22文字、現代ギリシャ語においても24文字とさらに少ない。
- ^ ルーマニアの語源は「ローマの」といった意味であり、ラテン文字を用いる。
- ^ なお、モルドバ語は1996年にモルドバ共和国の公用語ではなくなり、名称が違うだけで同じ言語ともされるルーマニア語が現在のモルドバ共和国の公用語である。
- ^ たとえば、学校教育により訓令式に慣れた日本人にとって、ヘボン式の「つ」の表記「tsu」は、見慣れないことから日本人でさえ読みづらいことがあり、あるいはMicrosoft 日本語 IMEのローマ字入力に慣れたユーザーにとって、ヘボン式のラ行に「l」を用いる表記は、事前に断りがなければ小書き仮名文字の表記として誤読される可能性がある。
- ^ 主に教育現場において、児童が混乱するなどの理由から統一が求められている[18]。なお、この記事に関して「あくまで国語教育の中で行われるローマ字教育に対する問題を、英語教育が関係するとの誤解のもと書かれている」という指摘がある[19]。
- ^ 特に紀元前338年に、第二次ラティウム戦争で共和政ローマが勝利し、それ以前のラテン人にラテン市民権を与えたことで、ローマ共和国の人々としてラテン人はローマ人と呼ばれるようになる。
- ^ なお、ルーン文字に関しては、その多くがラテン文字に由来するとされるため、異字体が別の文字として追加されただけともいえる。
出典
- ^ 梶茂樹、中島由美、林徹『事典世界のことば141』(初版第1刷)大修館書店、東京、2009年4月20日、266頁。ISBN 9784469012798。 NCID BA89745081。
- ^ 町田和彦『世界の文字を楽しむ小事典』(初版第1刷)大修館書店、東京、2011年11月15日、124-128頁。ISBN 9784469213355。 NCID BB07474128。
- ^ 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 編『図説 アジア文字入門』(初版発行)河出書房新社、東京、2005年4月30日、102頁。ISBN 9784309760629。 NCID BA71677265。
- ^ 町田和彦 編『図説 世界の文字とことば』(初版発行)河出書房新社、東京〈ふくろうの本〉、2009年12月30日、19頁。ISBN 9784309761336。 NCID BB00577235。
- ^ 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 編『図説 アジア文字入門』(初版発行)河出書房新社、東京〈ふくろうの本〉、2005年4月30日、105頁。ISBN 9784309760629。 NCID BA71677265。
- ^ 町田和彦 編『図説 世界の文字とことば』(初版発行)河出書房新社、東京〈ふくろうの本〉、2009年12月30日、61頁。ISBN 9784309761336。 NCID BB00577235。
- ^ a b 柴宜弘 著、柴宜弘 編『バルカンを知るための66章』(第2版第1刷)明石書店、東京〈エリア・スタディーズ〉、2016年1月31日、272頁。ISBN 9784750342986。 NCID BB20639903。
- ^ 柴宜弘 著、柴宜弘 編『バルカンを知るための66章』(第2版第1刷)明石書店、東京〈エリア・スタディーズ〉、2016年1月31日、269-270頁。ISBN 9784750342986。 NCID BB20639903。
- ^ 宇山智彦 著、宇山智彦 編『中央アジアを知るための60章』(初版第1刷)明石書店、東京〈エリア・スタディーズ〉、2003年3月10日、104頁。ISBN 9784750331379。 NCID BB01243734。
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- ^ 日本語での各文字の名称は『広辞苑』第五版、岩波書店、1998年に拠る。
- ^ 編、赤羽美鳥, 澤田治美 訳(フランス語)『世界の文字の歴史文化図鑑 : ビジュアル版 : ヒエログリフからマルチメディアまで』(第1刷)柊風舎、東京、2012年4月15日、284-285頁。ISBN 9784903530574。 NCID BB09123769。
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