メキシコシティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/19 15:12 UTC 版)
概要
メキシコ最大の都市であり、2016年の近郊を含む都市圏人口は2,023万人であり、世界第12位である[3]。メキシコのみならずラテンアメリカの経済の中心地の一つであり、2014年の都市圏GDPは3,837億ドルである[4]。これはラテンアメリカではサンパウロ(ブラジル)に次ぐ第2位であり、世界では第18位に位置する。
日本の森記念財団都市戦略研究所が2016年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では、世界37位と評価されており、ラテンアメリカでは首位である[5]。また、アメリカのシンクタンクが2016年に発表した世界都市ランキングにおいて、世界39位と評価されており、ラテンアメリカではブエノスアイレス(アルゼンチン首都)、サンパウロに次ぐ3位である[6]。
かつて行政上の正式名称は連邦区(Distrito Federal、D.F.)だったが、2016年にメキシコシティ(Ciudad de México)に変更され、独立した州となった[7][8]。
地理
地形
地形としては四方を山に囲まれた盆地である。北にはグアダルーペ山地、西から南にかけてはアフスコ山やトラロック山といった山々が広がる。かつては市域のかなりをテスココ湖が占めていたが、17世紀以降に干拓が進められ、1900年にはテキスアク・トンネルによる排水路が建設されて湖は東部の一部に残るのみとなった。そのほかに、南部のソチミルコにはアステカ時代から続く水路などが残っている。しかし、干拓と排水によって陸地化した地域は地盤が弱く、ベジャス・アルテス宮殿やソカロ広場近くの一部の古い建物のように建物自体が沈下しつつある例もある。またこの軟弱な地盤は、1985年メキシコ地震の時に液状化現象を起こし、多くの建物が倒壊する原因となった。
気候
ハワイより南にあり緯度帯は熱帯だが、標高2240mの高原に位置しているため夏の暑さは穏やかである。ただし高地のため一日の気温の変化はやや大きい。5月から10月の雨季と11月から4月にかけての乾季に分かれ、降雨は雨季に集中している。北半球にあるため12月から2月は冬となり、日中の最高気温に変化は無いものの最低気温はやや低くなる。市域の北部から中心部にかけては年600mmから800mm程度の降水量であるが、南部の山岳地帯では年間降水量は1500mmを超える。
メキシコシティの気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 21.2 (70.2) |
22.9 (73.2) |
25.7 (78.3) |
26.6 (79.9) |
26.5 (79.7) |
24.6 (76.3) |
23.0 (73.4) |
23.3 (73.9) |
22.3 (72.1) |
22.2 (72) |
21.8 (71.2) |
20.8 (69.4) |
23.4 (74.1) |
平均最低気温 °C (°F) | 5.8 (42.4) |
7.1 (44.8) |
9.2 (48.6) |
10.8 (51.4) |
11.7 (53.1) |
12.2 (54) |
11.5 (52.7) |
11.6 (52.9) |
11.5 (52.7) |
9.8 (49.6) |
7.9 (46.2) |
6.6 (43.9) |
9.6 (49.3) |
雨量 mm (inch) | 11.0 (0.433) |
4.3 (0.169) |
10.1 (0.398) |
25.9 (1.02) |
56.0 (2.205) |
134.8 (5.307) |
175.1 (6.894) |
169.2 (6.661) |
144.8 (5.701) |
66.9 (2.634) |
12.1 (0.476) |
6.0 (0.236) |
816.2 (32.134) |
平均降雨日数 | 2.3 | 2.1 | 3.1 | 7.9 | 12.7 | 17.7 | 23.4 | 22.8 | 18.9 | 9.5 | 4.4 | 2.6 | 127.4 |
% 湿度 | 51 | 47 | 41 | 43 | 51 | 63 | 69 | 69 | 70 | 64 | 57 | 54 | 56 |
平均月間日照時間 | 240 | 234 | 268 | 232 | 225 | 183 | 176 | 176 | 157 | 194 | 232 | 236 | 2,555 |
出典1:World Meteorological Organisation (UN) (30 yr record)[9] | |||||||||||||
出典2:Servicio Meteorológico Nacional (sun, RH for 1981–2000) |
街並み
市の中心は中央広場であるソカロ広場から、その西にある繁華街ソナ・ロサにかけての地区である。ソカロ広場とその周辺はアステカの都テノチティトランと同じ位置であり、テノチティトランを破壊してその上に建設された、建設当時の「メキシコシティ」に当たる地区である。国立宮殿やメキシコシティ・メトロポリタン大聖堂(カテドラル)などスペイン統治時代から続く歴史ある建物も多い。また、テノチティトラン時代のアステカ帝国の神殿跡であるテンプロ・マヨール遺跡もこの地区にある。
市の東部はかつてテスココ湖が広がっていたが、現在ではそのほとんどが埋め立てられ一部を残すのみとなり、その跡地には住宅街が広がるようになった。東部にはメキシコ・シティ国際空港があり、また低所得者の多く住むネサワルコヨトル市に接する。
中心部を東西に伸びるレフォルマ通りは、フランス第二帝政がメキシコ出兵で即位させた皇帝マクシミリアンがフランスの首都パリのシャンゼリゼ通りをモデルに作らせた通りで[10]、高層ビルの立ち並ぶメインストリートとなっている。レフォルマ通りの南に広がるソナ・ロサはメキシコシティ一の繁華街であり、一流ブランドの店が立ち並ぶ。ソナ・ロサの西にはポルフィリオ・ディアス時代に建設された独立記念塔が立ち、さらにその西には小高い丘に作られたチャプルテペック公園が広がる。チャプルテペック公園内にはメソアメリカ文明の遺産を集めたメキシコ国立人類学博物館や、チャプルテペク城などがある。また、この一帯は中所得者層の住宅地区となっている。
南西部から南部にかけては高級住宅街となっており、またメキシコ国立自治大学のある文教地区でもある。南部のソチミルコはアステカ時代から残る水路の広がる水郷となっており、観光用のボートが水路を巡り、多くの観光客が訪れる。この地区は世界遺産にも登録されている。
西部は近年都市開発が進み、ビジネス・住宅地区となっている。西部のサンタ・フェ地区はメキシコ大地震[要曖昧さ回避]後に新たに開発が進められたエリアで、高層ビルや超現代的な建築が立ち並び、新たなビジネスの中心となっている。
北部は工業地帯であり、住宅としては低所得者層用が多い。レフォルマ通り沿いにあるトラテロルコ地区はかつてアステカの商業都市であり、現在もその遺跡が残っている。そのそばにスペイン植民地時代の建築が広がり、さらに近年近代的なアパート群が建設されたことから、この地区の中心の広場は三つの文化を眺められる場所として三文化広場と名づけられている。この広場は1968年、学生デモに政府軍が発砲し多数の死者を出したトラテロルコ事件の舞台としても知られる。そのさらに北にあるテペヤックの丘には、グアダルーペ寺院が建っている。ここは1531年12月9日にグアダルーペの聖母 (メキシコ)の起きた場所であり、現在でも多くの参拝者が訪れる。
歴史
テノチティトラン
メキシコシティの原型は、アステカ王国の首都であったテノチティトランである。アステカ人がやって来るまで、現在のメキシコシティはテスココ湖が広がるのみであった。13世紀末にメキシコ盆地にやってきたアステカ人は、ウィツィロポチトリの神託に従い、テスココ湖の湖上で干拓を行い、1325年に島を作り上げるとそこに都を築いた。アステカ帝国の拡大に伴いテノチティトランも巨大になり、最盛期には人口は20万人から30万人を数えた。都市から対岸には何本かの土手道が築かれ、中央部にはピラミッドの築かれた壮麗な都市となった。テスココ湖は塩分を含んでいたが、南東部のコヨアカンには湧水があったため南東部は汽水域となっていた。そこで南北の土手道で湖水を遮断することで東部を淡水域化し、テノチティトラン周辺の農業用水とした。また、飲料水は西部のチャプルテペクの丘より石造りの水道橋で供給された[11]。15世紀以降、テスココ湖やその周辺では沼地の表面の厚い水草層を切り取り、敷物のように積み重ねてつくった浮島の上に湖底の泥を盛り上げて作ったチナンパと呼ばれる農地が多く作られた。この農法は肥沃な泥と豊富な水が得られることから非常に収量が高く、アステカの国力を支える重要な要素となった。
スペイン領時代
1519年にスペイン人のエルナン・コルテス (Hernán Cortés) のメキシコ征服によりテノチティトランは破壊され、その上に現在のヨーロッパ(スペイン)風の都市としてメキシコシティが築かれた。16世紀にはテスココ湖の干拓が行われ、湖はメキシコシティの東部にのみ残ることとなった。1535年にはヌエバ・エスパーニャ副王領が創設されてメキシコシティはその首都となり、北アメリカ大陸南部からカリブ海にかけてを管轄することとなった。この時代にはソカロ広場を中心として現在のメキシコシティの中心部が形成された。1551年9月21日には現在のメキシコ国立自治大学の前身である王立メキシコ大学が新大陸で2番目に古い大学として創設された。スペインの植民地時代を通じてメキシコシティは成長を続け、18世紀には人口は10万人に達した[12]。
独立後
メキシコ独立革命中の1821年、アグスティン・デ・イトゥルビデの軍がメキシコシティに入城し、メキシコは独立した。同時にメキシコシティは新生メキシコ合衆国の首都となった。しかしメキシコは外国の干渉を度々受け、また数々の内戦でもメキシコシティは占領された。1847年には米墨戦争で敗北してアメリカ軍に占領された。1863年6月にはフランスのメキシコ出兵によって再び占領されたものの、フェルディナント・ヨーゼフ・マクシミリアン大公の政府はメキシコを掌握することができず、1867年にはベニート・フアレス率いる共和派が再びメキシコシティを回復した。
1873年にはメキシコ初の鉄道がメキシコシティとベラクルスの間に開通し、1876年にポルフィリオ・ディアスが大統領に就任すると、メキシコシティは彼の進める近代化政策のもと多くの工場が建設され、近代化が進んだ。この頃のメキシコシティはヨーロッパ諸国、特にフランスの芸術や様式、習慣などを真似る風潮が生まれ、オペラハウスなども建設されていった。ベジャス・アルテス宮殿(メキシコ国立芸術院)の建設計画が立てられたのもこの頃である。
しかしディアスの独裁的な政治に対する反発が広がり、1911年にはメキシコ革命が勃発してフランシスコ・マデーロがディアスを追放して新政権を樹立する。しかしマデーロ政権は安定せず、1913年にはビクトリアーノ・ウエルタがメキシコシティでクーデターを起こして政権を奪取した。しかしこの政権には地方の諸勢力が一斉に反発し、ウエルタ大統領を打倒するためそれぞれメキシコシティをめざした。1914年にはまずベヌスティアーノ・カランサとアルバロ・オブレゴンの軍が、次いでエミリアーノ・サパタとパンチョ・ビリャ軍が相次いで進駐したが、最終的にはカランサ・オブレゴン連合が首都を奪回した。
1920年代、政情が落ち着きを見せ始めると、文部大臣だったホセ・バスコンセロスが公共建築の壁面を若い芸術家に開放し、民族の伝統や革命を大壁画に残す運動が盛んになった(メキシコ壁画運動)。この運動の中心となったディエゴ・リベラ、ダビッド・アルファロ・シケイロス、ホセ・クレメンテ・オロスコなどの壁画は現在でもメキシコシティで見ることができる。
その後は政情の安定に伴い経済成長が続き、第二次世界大戦後も続いたメキシコの経済成長を受けてメキシコのみならず中南米を代表する大都市として発展を続け、特に1950年代に入ってからは上下水道や外環状道路の完成、高層ビルの建設などが進められた。1954年には南部にメキシコ国立自治大学のメインキャンパスである大学都市が建設されたが、これは芸術的にも高く評価され、2007年には世界遺産に登録されている。1968年には夏季オリンピックが開催され、これにあわせてメキシコシティ地下鉄の整備などが進められた。さらに1970年にはFIFAワールドカップが開催された。
現在
1985年9月19日にマグニチュードM8.1のメキシコ地震が発生した。震央からメキシコシティは約400km程離れていたが、大地震特有の長周期地震動が襲い、250以上の高層ビル、高層住宅、ホテル、病院などを倒壊させ、地下鉄の一部も崩壊し、政府の発表では7000人以上が死亡した(2万人以上の死者が出たとの統計もある)。メキシコシティの市域の大半が元々は湖畔の盆地であり軟弱な地盤だったため、震央から約400km程離れているのにもかかわらず被害が拡大した。
しかし急速に復興を遂げて翌年の1986年には予定通りに2度目のFIFAワールドカップが開催された。現在は都市圏が世界第2位の人口を持つ、ラテンアメリカを代表する世界都市に成長した。
注釈
出典
- ^ メキシコシティ(学研キッズネット)
- ^ メキシコ(市)(小学館『日本大百科全書』)[リンク切れ]
- ^ 世界の都市圏人口の順位(2016年4月更新) Demographia 2016年10月29日閲覧。
- ^ Cities Rank Among the Top 100 Economic Powers in the World Chicago Council on Global Affairs 2016年10月29日閲覧。
- ^ 世界の都市総合力ランキング(GPCI) 2016 森記念財団都市戦略研究所 2016年11月2日閲覧。
- ^ Global Cities 2016 AT Kearney 2016年11月2日閲覧。
- ^ a b 『メキシコ政治情勢(1月)』在メキシコ日本大使館、2016年1月 。
- ^ Mexico City officially changes its name to – Mexico City, The Guardian, (2016-01-29)
- ^ “World Weather Information Service – Ciudad de Mexico”. Comision Nacional Del Agua (2011年5月). 2010年5月5日閲覧。
- ^ 『ラテンアメリカを知る事典』(平凡社、1999年12月10日新訂増補版第1刷)p428
- ^ 阿部修二『銀街道紀行 メキシコ植民地散歩』(未知谷、2010年6月15日初版発行)p18-19
- ^ 大垣貴志郎『物語メキシコの歴史』(中央公論新社、2008年2月25日発行)p42
- ^ a b 総務省大臣官房企画課『メキシコの行政』2010年、48-49頁 。
- ^ 『現代メキシコを知るための60章』(明石書店、2011年7月10日初版第1刷)pp.194-197
- ^ 『メキシコ首都、初の女性市長を選出 物理学博士のシェインバウム氏』AFPBB、2018年7月2日 。
- ^ The Global Financial Centres Index 9
- ^ 在外公館医務官情報・メキシコ2008年 日本国外務省ホームページ 2012年2月18日閲覧
- ^ 交通事故多発のメキシコ市、事態改善への長い道のり(AFP.BB.NEWS 2012年2月6日)2012年2月18日閲覧
- ^ メキシコ新空港、鉄道が「援軍」『日経産業新聞』2020年11月5日(グローバル面)
- ^ “メキシコ市”. 名古屋姉妹友好都市協会. 2020年6月6日閲覧。
- ^ “Mapa Mundi de las ciudades hermanadas”. Ayuntamiento de Madrid. 2012年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年2月26日閲覧。
- ^ “Ciudades Hermanas (Sister Cities of Cusco)” (Spanish). Municipalidad del Cusco. 2009年8月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年9月23日閲覧。
- ^ “Sister Cities”. 2009年5月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年2月26日閲覧。
- ^ “Sister Cities of Istanbul”. 2010年1月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月1日閲覧。
- ^ Erdem, Selim Efe (2009年7月1日). “İstanbul'a 49 kardeş” (Turkish). Radikal. オリジナルの2010年1月18日時点におけるアーカイブ。 . "49 sister cities in 2003"
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