ムアンマル・アル=カッザーフィー 国際関係

ムアンマル・アル=カッザーフィー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 01:21 UTC 版)

国際関係

アラブおよびその周辺

エジプト

エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領に心酔しており、クーデターで政権を握った翌年に初めてエジプトを訪問、ナーセルと会談している。が、直後にナーセルは急死、その後、エジプトとリビアは20年にわたって友好、敵対の関係を繰り返すことになった。

当時、汎アラブ主義を唱えていたカッザーフィーは、1973年エジプトを訪問しサーダート大統領に対し、エジプトとリビアの合併を執拗に迫り、「サーダートが合併に合意するまで帰国しない」と主張しエジプト側を大いに困らせたことがある。1977年にエジプトとイスラエルが和解するやカッザーフィーはPLOイラク、シリアとともに反エジプトの急先鋒に立ち、国交を断絶し、エジプトをアラブ連盟から追放した。そしてエジプトと同じだった国旗を一夜にして緑一色に変更した。その後もカッザーフィーはサーダート政権の打倒を繰り返し呼びかけ、1981年、実際にサーダートが暗殺されるとトリポリ放送を通じ「いかなる暴君にも必ず終りがある。自由の戦士たちよ、おめでとう」と祝福の声明を出した。後継のホスニー・ムバーラク政権に対しても敵意をむき出しにし、1985年にはスーダンでクーデターが起きた際に「エジプト国民もムバーラク政権も打倒せよ」と呼びかけ猛反発を買った。1989年5月に開催されたアラブ首脳会議ではエジプトの20年ぶりの連盟復帰が議題にされることになっていた。これにカッザーフィーは強く抗議し国営ジャマヒリア通信を通じ「エジプトが復帰するなら絶対に会議に参加しない。いかなる理由があろうと絶対に認めない」と強硬姿勢を示していた。が、突然方針を変更、会議に参加しエジプトの復帰が決まるとムバーラクに急接近し、翌年には17年ぶりにエジプトを訪問し国交を回復、後年まで友好関係は続いていた。1998年にカッザーフィーが骨折して入院した際にはムバーラクが病院へ見舞った。

他の中東・北アフリカ諸国

1974年、イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーの支配体制打倒を呼びかけ、皇帝と激しい対立関係に陥った。1979年イラン革命が起きると関係を修復し、翌年勃発したイラン・イラク戦争ではアラブ諸国の中でも珍しくシリアとともにイランを支持・支援した。

その後モロッコハッサン国王(1984年にカッザーフィーが14年ぶりにモロッコを訪問して和解)やチュニジアハビーブ・ブルギーバに対しても敵対発言をしたかと思えば和解を繰り返すなどしている。サウジアラビア国王のアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズともアラブ首脳会議で罵りあって退席したりと対立が続いていたがのちにカタール国王のハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニーの仲介で和解している。

1982年イスラエル軍のレバノン侵攻でPLO議長のヤーセル・アラファートの動向に世界中の注目が集まる中、「アラファートがいまだ独身なのは彼がホモだからだ」と突然発言。この発言はアラファートからは相手にされなかったものの、1992年4月にアラファートの乗った飛行機がリビアの砂漠不時着した際は議長を救助し真っ先に病院に見舞った。この当時、リビアはパンナム機爆破事件の容疑者引き渡し問題で国連制裁を受ける瀬戸際にあった。アラファートは「私はわが友人、カッザーフィーの側に立たねばならない」とリビアを擁護。カッザーフィーとアラファートの関係は決して悪いものではなかった。

1990年湾岸危機が起きた際にはイラクとクウェートの和解を目指して提案を行ったが失敗している。

1991年10月にパレスチナ問題の解決を目指しマドリードで開かれた中東和平会議の際には「我々がヒトラーの尻ぬぐいをする必要はない」とイスラエルとの和平交渉を厳しく批判した。翌年オスロ合意にも反発し1995年からはリビアから一切のパレスチナ人を追放した。そしてイスラエルとパレスチナがひとつの国家「イスラティナ」を樹立すべきだと提案したが相手にされず、その後もアラブ首脳会議でイスラティナ構想を提唱しているがパレスチナのマフムード・アッバース議長からは苦笑いされるだけで終わっている。1995年、イスラエル首相のイツハク・ラビンが暗殺された際には国営ジャマヒリア通信を通じ「彼の手は虐殺されたパレスチナ人の血で染まっている」と歓迎声明を出した。

1999年ヨルダン国王のフセイン1世が死去した際、ヨルダン王制の打倒を呼びかけた。しかしその後、後継のアブドゥッラー2世とは関係は悪くなかったようで、リビア革命40年記念式典にもアブドゥッラーは招待されて出席している。

2006年12月、イラクのサッダーム・フセイン処刑されると「彼は殉教者になった」としてリビアは3日間喪に服した。1979年に副大統領だったサッダームとカッザーフィーはバグダードで会談している。ただ、カッザーフィーは1992年に国連制裁を受けた際に同じく制裁を受けていたイラクのサッダーム政権に友好協力を呼び掛ける書簡を送ったことがあるものの、同じアラブの反米指導者とはいえそれほど親しい間柄にあったわけでも無かった(イラン・イラク戦争でリビアがイランを支持したこと、イラクのクウェート侵攻をリビアが批判したことも原因)。

2009年11月、FIFAワールドカップアフリカ予選試合でエジプトとアルジェリアが険悪な関係となる中で、アラブ連盟のムーサ事務局長がカッザーフィーに仲介を要請、カッザーフィーはこれを受諾した。

欧米

旧ソ連

1974年ソビエト連邦を初めて友好親善訪問。軍事的な同盟関係にあるにもかかわらずレオニード・ブレジネフとの会談でソ連の対外政策を厳しく批判、ソ連指導部の表情を曇らせた。1980年代には反米姿勢を強めてワルシャワ条約機構に参加すると表明してソ連指導部を驚かせた[41][42][43]

フランス

1984年地中海クレタ島フランス大統領フランソワ・ミッテランと会談。フランス大統領との会談は1973年に訪仏して以来11年ぶりだった。その後2007年ニコラ・サルコジがリビアを訪問するまでフランス大統領とは会談をする機会がなかった。同年カッザーフィーがフランスを34年ぶりに訪問した際にはルーヴル美術館訪問のために交通をすべてストップし、サルコジとの会談ではサルコジが会談後の記者会見で「大佐に人権改善を要請した」と話したものの、カッザーフィーは「そのような話はなかった」と発言するなど大いに話題をまいた。

フランスの司法当局は、サルコジが2007年の大統領選挙で勝利した際にカッザーフィー側から5,000万ユーロに及ぶ違法な資金援助を受けた疑いがあるとして、退任後の2018年に汚職などの容疑で訴追した[44]

アメリカ

1976年ニューズウィーク誌が「CIAがアラブ各国とともにいかなる手段を使ってでもカッザーフィー議長を打倒することで合意した」と報道。この頃からアメリカは強硬派カッザーフィーを警戒していた。

1986年4月にアメリカ軍の空爆を受けた際は「ベトナム戦争のビデオを見ていた」と当時語っている。なおこの空爆では間一髪で爆撃を逃れたとされる。のち1989年になって当時のマルタ政府が空爆情報を事前にリビア側に伝えていたとされたが、のちにイタリア政府も事前に伝えていたことが明らかになった。この空爆ではしばらく公の場に姿をみせず、死亡説も流れたが、数日後、国営テレビでアメリカを厳しく非難する演説を行い健在を誇示した。この演説はアフリカの地図をバックに、海軍の軍服姿で行った。カッザーフィーは陸軍軍人だがこのときなぜ海軍の軍服姿だったかは不明。翌1987年、シリア大統領のハーフィズ・アル=アサドと会談した際にアメリカを激しく非難、再び米・リビア関係が緊迫した。2004年6月、アメリカ合衆国第40代大統領のロナルド・レーガンが死去した際には国営通信を通じ「レーガンが、86年に行ったリビアの子供らに対する醜悪な犯罪について、裁判で釈明せずに死去したことを非常に憂慮する」との声明を出した。

1992年8月31日、クーデターでの政権掌握23周年を記念してテレビ演説し、「アメリカの民主党ユダヤ人の支持する大きな組織だ」として共和党への支持を表明。これまでのリビアの外交政策を転換して欧米諸国との関係改善に意欲を示し注目された。

スイス

2008年12月、カッザーフィーの五男がスイス婦女暴行容疑で一時拘束される事件が発生。のちに息子は釈放されたもののカッザーフィーは激怒し、スイスへの石油供給を停止する報復措置をとったうえ、リビア滞在中のスイス人ビジネスマン2人を拘束した。

スイス政府はリビアとの交渉の末、ハンス=ルドルフ・メルツ連邦大統領がリビアを訪問してカッザーフィーに事実上謝罪した。しかし当初これでビジネスマン2人は解放され大統領とともに帰国するとみられていたが結局解放されず、スイス国内では大統領批判が起きた。リビアは拘束されたスイス人を裁判にかける動きに出た。またカッザーフィーは「スイスを分割してしまうよう」国連に提案するなどした。スイス大統領は9月の国連総会の際にカッザーフィーと会談して早期釈放を働きかけたが、カッザーフィーは「私の息子は侮辱を受けた」と述べ、解放を確約しなかった。スイス人2人は紆余曲折の末、2009年11月9日にようやく解放され、スイス大使館に保護された。

しかしその後、リビアは2人を裁判にかけた(結果は1人は無罪、1人は有罪で禁固4か月の判決)。これで問題は収束するかと思いきや、今度はスイスが一部のリビア人の入国を禁止する措置をとり、これに反発したリビアがスイス人を含む欧州人(英国人は除く)の入国を禁止すると発表するなど外交報復合戦に発展している。その後、EU各国の仲介努力がなされ、リビアはスイス大使館が保護している無罪だった1人の国外退去は認めチュニジアに出国させたが、有罪だったもう1人の身柄引き渡しを求めてスイス大使館を武装警察隊が包囲する事態に発展。スイスは国際外交法に違反する行為だと非難した。しかしこのスイス人は自ら禁固刑に服すると表明し、スイス大使館を出たところ、リビア警察に手錠を掛けられ、刑務所に連行されていった。カッザーフィーは演説でイスラム教のモスクを破壊する異教徒の国だ、としてスイスに対する「聖戦」を呼びかけた。さらにリビアはスイス製品の輸入を全面禁止するなど報復がエスカレートしている。

このカッザーフィーの聖戦の呼びかけについて2010年2月にアメリカ合衆国のクローリー国務次官補が記者会見で、2009年でのカッザーフィーの国連演説での振る舞いをひきあいに「私の記憶では沢山の言葉と沢山の紙が飛び交ったが余り筋が通っていなかった」などと発言した。リビア側がこの発言に反発し、公式謝罪がなければトリポリのアメリカ企業に対して何らかの措置に出る可能性があると警告した。米・リビア間の外交問題に発展しかねない情勢となったため、同次官補は急きょ駐米リビア大使と会談するなど事態の鎮静化に動きだし、「大佐を中傷する意図はなかった。発言は米国の政策を反映したものではなく、私の発言が二国間関係のさらなる発展を妨げる障害になったことを遺憾に思う」と釈明し事実上謝罪した。またこれを受けてリビアと米国の関係を話し合うためにフェルトマン国務次官補(中東担当)が2010年3月にリビアを訪問した。

イタリア

2009年6月、イタリアを初訪問。黒い陸軍軍服姿で空港に降り立ったカッザーフィーは「イタリアが(昨年)我々に謝罪したため、私はここに来た」と語り、胸にはかつてイタリア軍に絞首刑にされた反植民地闘争の英雄オマル・ムフタールの写真をつけていた。友好訪問でこのようなことを行う首脳は異例であり国際常識では考えられないことである。訪問中、ローマ大学での講演には2時間近く遅れ、関係者らを激怒させたあげく、下院議長のジャンフランコ・フィーニとも会談予定だったが、予定の時間から2時間たっても現れず、議長は「遅刻の理由の説明もないままだ」と会談をキャンセル、その後に予定されていた国会議員らとの会合も取り止めになるなどわがままぶりを発揮した。このような遅刻や突然の会談キャンセルはリビア国内でも日常茶飯事である。 女性団体での会合では「アラブでは女性がこれまで家具のように扱われてきた」と述べ、アラブ諸国での女性の地位・権利向上に理解を示した。

トルコ

1996年、リビアを友好訪問したトルコの首相に対しトルコがイスラエルやアメリカと友好関係にあることなどを厳しく非難した。

アジア

日本

1973年7月のドバイ日航機ハイジャック事件では、自国のベンガジにあるベニナ空港にハイジャック機が降り、現地で犯人グループ(日本赤軍パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の混成)は投降、人質を解放した。このときカッザーフィーは投降した犯人グループが第三国に出国することを黙認していた。

カッザーフィーは、日本ラブホテルで使用しているのと同じ回転ベッドを日本より輸入し使用していた。この事実は1986年、トリポリの住居をレーガン政権下のアメリカ軍機に爆撃され、アメリカ政府の非人道性を訴えるため各国の報道陣に爆撃現場を公開した時に発覚した。公式サイトで使用されている、カッザーフィーの背後に世界地図が描かれている画像には日本列島がない(そのほかイギリスをはじめ、いくつかの島が省略されてしまっている)。

1995年1月に阪神・淡路大震災が発生した際には、「経済力で悪魔(アメリカ)に奉仕してきた日本人に天罰がくだった」と国営ジャマーヒリーヤ通信を通じて声明を出した。日本の外務省から「国際常識にもとる発言」だとしてただちに抗議に遭う。

2009年11月には、当時、日本リビア友好協会会長だった小池百合子と会談した[45]。この時、小池からは、土産としてWiiが送られた[46]。また「アフリカ支援の見返りとして石油利権の優先権を与える用意がある」とし、更に日本と深い関係にある欧米に対する態度が軟化した事で、今後リビアと日本の関係は進展していくと思われていた。

2009年12月15日、明治大学軍縮平和研究所が主催する衛星回線を使った対話集会に参加、講演を行ったあと、大学生らの質問に答えた。日本について「私はこれまで日本人を困らせたくないので、話すことを避けてきた」「欧米諸国と違い、日本はアフリカ大陸で植民地政策や侵略行為をしなかった」「国連で日本はアメリカに追随してばかり。もっと自由な意思を持たないといけない」「広島長崎原爆を落としたアメリカの(軍の)駐留を認めているのは悲しいことだ。あなたたちの祖父などを殺した国となぜ仲良くなれるのか」「日本はアジアの近隣諸国との友好、信頼関係を重視すべきだ」などと語った。またオバマ大統領について、イラク戦争の幕引きに乗り出したことなどを念頭に「(ブッシュ)前大統領の政策を継承する大統領ではない」と指摘しアフガニスタンへのアメリカ軍増派についても「総撤退する前に兵力を増強して威力を示すのは軍事戦略上の常識だ」と発言した。一方、中華人民共和国やインドについては「移民してアフリカの人々を追い出そうとしている」と語ったが「(アフリカの)石油を守ると言って軍隊を送り込む欧米と比べれば(中華人民共和国は)悪くない」と述べるなど、弁舌は健在だった。

韓国

2003年11月、韓国の仏教人権委員会はカッザーフィーを反独裁、民族解放運動を支援し、民主主義と自由、平等のために戦う闘争家と称え、外部勢力に対抗して、自由と平等、正義という大義を守るために行った先駆者としての役割を高く評価し「仏教人権賞」を授与した。

その他の国

1997年、国連制裁で飛行が禁止されているにもかかわらずクーデター後のニジェールを訪問し熱狂的歓迎を受けた。

2009年2月、アフリカ・ウガンダの地元大衆紙が同国の部族王国の皇太后とカッザーフィーが「不倫関係にある」と報道。怒った駐ウガンダ・リビア大使が裁判所とウガンダ・メディア委員会に起訴した。委員会は10月、同紙に対し、5万ドル(約450万円)の損害賠償と謝罪文の掲載を命じた。

2010年3月中旬、宗教対立が続くナイジェリア情勢に関連してカッザーフィーはナイジェリアが北部のイスラム、南部のキリスト両教徒を中心とした2国家に分かれればよい、と発言した。これにナイジェリアが猛反発し、駐リビア大使を召還した。それにも関らずその後もカッザーフィーは「ナイジェリアは旧ユーゴスラビアのようになるのがふさわしい」と声明を発表した。


  1. ^ 6月19日生まれ説もある。かつては9月生まれ説もあった。
  2. ^ a b カダフィ大佐が死亡=リビア国民評議会発表 時事通信
  3. ^ 公式サイト(#外部リンク参照)より。
  4. ^ 井上ひさしの『ニホン語日記』によれば1969年の革命でにわかに政権指導者になったとき、欧米メディアの「カダフィ」のローマ字表記は7つから8つあったという。冠詞の "al" をつけるか否かやイニシャルだけで G, Q, K などが使用される(リビア方言en)では正則アラビア語の q の文字は g, k, kh と3通りに発音される可能性がある)ためで、実際に日本以外の主要メディアにおける表記は40種前後もあり、さらに個人名ムアンマルの表記のヴァリエーションも含めれば更に総数は増える。詳しくは本項目英語版該当記事(en)参照。
  5. ^ 参考リンク:Gaddafi? Qaddafi? Kaddafi? Let's call the whole things off! - newsling
  6. ^ 2011年(平成23年)3月8日外務省告示第75号「国際連合安全保障理事会決議に基づく資産凍結等の措置の対象となるリビアのカダフィ革命指導者及びその関係者を指定する件」
  7. ^ もっとも、小国や軍の規模の小さい国(欧州の公国、アフリカ諸国など)では、軍の常設の最高位が大佐である場合もある。これは近代以前の軍隊では連隊が平時の編成上の最大単位であり、連隊長を務める大佐が実質的に軍の最高位であったことも関係している。英語版 Colonel の該当項目も参照のこと。
  8. ^ 大佐昇進以前のカッザーフィーの階級を大尉: captain)と解説する例もあるが、これは誤りである。またアブー=バクル・ユーニス・ジャーベルも少将: major general)と誤記されることがある。
    参考リンク:Libyan Army - UNIFORM INSIGNIA
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