ミンストレル・ショー ミンストレル・ショーの概要

ミンストレル・ショー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/06 07:25 UTC 版)

「The Celebrated Negro Melodies, as Sung by the Virginia Minstrels」のカバーからの詳細、1843年

概要

人種差別の産物

ミンストレル・ショーは、そのステレオタイプ的でしばしば見くびったやり方で黒人を風刺した。ミンストレル・ショーは1830年代に簡単な幕間の茶番劇 (Entr'acteとして始まり、次の10年には完全な形を成した。19世紀の終わりまでには人気に陰りが出て、ヴォードヴィル・ショーに取って替わられた。職業的なエンターテインメントとしては1910年頃まで生き残り、アマチュアのものとしては地方の高校や仲間内や劇場などで1950年代まで存続した。

独立以来、アメリカでは黒人インディアンをはじめとする有色人種に対する人種差別が合法なものとされていたが、人種差別との長い戦いの末に1964年公民権法が施行され、有色人種が法的にも社会的にも人種差別に勝利し、政治的な影響を持つようになった結果、ミンストレルは人種差別を助長するものとして大衆性を失った。

劇構成

典型的なミンストレル・ショーは以下の3つの劇構成で成り立っている。最初に、一座は舞台上で踊り、気の利いた冗談を言い合って、歌を歌った。二番目には駄洒落だらけの街頭演説コメディ(Stump Speech, 後のスタンダップ・コメディの先駆となる)を含むさまざまなエンターテインメントが行われ、そして最後には、音楽付きのどたばたした農園の寸劇(スラップスティック)、または人気のある演劇のパロディで締められた。ミンストレルの歌と寸劇には、いくつかのストックキャラクターが登場した。最もポピュラーなのは、奴隷役と、色男役のダンディ(dandy)であった。

これらはさらにサブキャラクターに分類された。例えばそれは母ちゃん役のマミー(mammy)で、彼女の対になるキャラクターには黒人の老人(old darky)、挑発的なムラート娘(mulatto wench)、あるいは黒人兵士などがいた。ミンストレル(ショーの出演者)たちは、彼らの歌と踊りは黒人のそれに由来していると主張したが、黒人からの影響の程度については議論の余地がある。ジュビリー(jubilee)と呼ばれた霊歌は、1870年代にはレパートリーとして加わり、ミンストレル・ショーで使われたまぎれもない最初の黒人音楽となった。

ミンストレル・ショーは、明白なアメリカ演劇の形式の最初のものである。1830年代と1840年代には、それはアメリカの音楽産業の出現の核であり、数十年の間、白人の黒人に対する見方を提供した。一方では、それは人種差別の側面を強く持ち、また他方では、初めて黒人の民俗文化の側面をはっきりと自覚させたのである。

歴史

初期の発展

「Sich a Getting Up Stairs」の楽譜の表紙のトーマス・D・ライス、1830年代

白人が黒人の役柄を演劇的に描写することは1604年までさかのぼるが[1] 、ミンストレル・ショーはもっと後のものである。黒人に扮したキャラクターは、17世紀後半までにはアメリカの舞台に登場し、通常は召し使いのような小さな役だがコミカルな場面に多少絡んだ[2]。最終的には同様のパフォーマーが、ニューヨークの劇場の幕間や、酒場やサーカス小屋のようなあまり立派ではない会場に登場した。この結果、顔を黒く塗ったサンボ(Sambo)のキャラクターが、大ボラ話(tall tale)の中のヤンキーや開拓者といった役を人気で上回った。チャールズ・マシューズ、ジョージ・ワシントン・ディクソン、そしてエドウィン・フォレストなどが、ブラックフェイス・パフォーマーとして評判になった。歴史家のConstance Rourkeは、フォレストが街の通りで黒人に扮しておどけていた時の印象はとてもよかったとも主張した[3]トーマス・ダートマス・ライス英語版が歌って踊った「ジャンプ・ジム・クロウ」で、黒人に扮したパフォーマンスは1830年代初めに新たな盛り上がりを見せた。ライスの成功の大きさを、ボストン・ポスト紙は、「現在世界で最も人気のあるキャラクターは、ヴィクトリア女王ジム・クロウである」と書いた[4]。1840年代までに、黒人に扮したパフォーマーたちは、「エチオピアの図解者(Ethiopian delineators)」と自称し、単独や小さいグループで公演した。

ブラックフェイスの役者はすぐに、ニューヨークのロウワー・ブロードウェイ、ザ・バウリー、チャタム通りの、あまり綺麗とは言えない地区の酒場を中心に公演するようになった。それは当時の劇場の大衆化とあいまって、より立派なステージにも浸食した。上流階級のコミュニティは当初ブラックフェイスの公演を制限していたが、1841年の初めには、ブラックフェイス・パフォーマーは上流階級のパーク・シアターにさえも頻繁に出演するようになり、一部のパトロンを動揺させた。当時の演劇は広く一般大衆から観客を求めるものであり、下層階級の人々が劇場を支配するようになった。彼らは不人気な素材を演じた俳優や楽団には物を投げつけ[5]、騒々しい観衆は結局、バウリー・シアターからお高くとまった芝居をすべて追いやったほどであった[6]。この時代の典型的なブラックフェイスの芝居は短いバーレスクで、『Hamlet the Dainty』、『Bad Breath, the Crane of Chowder』、『Julius Sneezer』、『Dars-de-Money』など、シェイクスピアのタイトルのパロディがしばしば使われた[7]

それと同時に、少なくとも一部の白人は、実在する黒人のパフォーマーの歌と踊りに興味を持った。19世紀のニューヨークでは、奴隷が彼らの休暇の小遣い稼ぎにシングル・ダンス(shingle dancing, タップダンスの元祖)を踊り、またミュージシャンたちは、バンジョーのようないわゆる黒人の楽器を用いて、彼らが言うところの「黒人(Negro)の音楽」を演奏した。ニューオーリンズ・ピカユーン紙は、オールド・コーン・ミール(Old Corn Meal)と名乗る歌って踊りながら物売りをするニューオーリンズの露天商が、「プロとしての巡業を始めようとしている者すべてに幸運」を与えていたと書いた[8]。1830年代後半に当地で人気を得たオールド・コーン・ミールの歌や踊りをミンストレルたちが借用し、例えばライスは「コーン・ミール」という寸劇を自分の芝居に付け加えた。それと同時に、合法的な黒人によるステージパフォーマンスもいくつか試みられた。恐らく最も意欲的であったのはニューヨークのアフリカン・グローヴ劇場で、この劇場は1821年に自由黒人により創設されて運営され、シェイクスピアの演目が多く演じられた。その観衆の大部分は、当時のニューヨークのすべての芝居好きに共通する、騒々しいマナーに従う黒人たちであったため、その存在を容認したくない当局にとっては悩みの種であった。

労働者階級の北部の白人たちは、当初はブラックフェイスで演じられるキャラクターに共感できた。これは労働者のネイティヴィズム(移民排斥主義)と、南部支持の大義を掲げる集団の発生と合致するものである。黒人を模倣したパフォーマンスは、これまで存在していた人種差別的なコンセプトを強めると共に、新しいコンセプトを打ち立てるようになった。ライスが開発していたパターンに続いて、ミンストレル・ショーは労働者たちと「優れた階級(class superiors)」を、黒人を共通の敵とすることでひとつにした。その敵は、黒人のダンディ(dandy)のキャラクターで特に象徴された[9]。しかし同時に、階級意識的だが人種的には包括した「賃金奴隷制(wage slavely)」というレトリックは、概して人種的な「白人奴隷制(white slavely)」というそれに取って代わられた。また、「生産的人物」と「非生産的人物」、というさらに階級意識の薄いレトリックを用いることもあり、これらは北部の工場労働者に対する虐待が、黒人奴隷の扱いよりも深刻であったことを示唆している[10]。奴隷制にのっとった視点はミンストレル・ショーにかなり、そして一様に見られるものである[11]、しかしその一方でいくつかの歌には、働く黒人と白人が手を組んでこの制度を終わらせることを暗示するものさえあった[12]

初期のブラックフェイスのパフォーマンスの出し物と人種的なステレオタイプの中には、グロテスクな喜びと黒人の幼児扱いがあった。これらその代償として、無自覚に、工業化の進む世界の労働者たちに、子供じみた楽しみや他の低俗な喜びを認めることとなった[13]。同時に、より上品な人々は、下品な観衆自体を見せ物とすることが出来た。

絶頂期

ダン・エメット(中央)と他のバージニア・ミンストレルズによる「キャロライン生まれのダンディ・ジム」の楽譜の表紙。およそ1844年

1837年恐慌の影響で劇場は苦戦するようになり、コンサートはまだ金を稼げる数少ない出し物のひとつであった。1843年、ダン・エメット率いる4名のブラックフェイス・パフォーマーたちは、ニューヨークのバウリー円形劇場などで協力してコンサートなどを演じ、バージニア・ミンストレルズと名乗った。こうして完全な夜のエンターテインメントとしてのミンストレル・ショーが誕生した。ショーの構成は少ししかなかった。4名が半円状に座り、曲を演奏し、気の利いた冗談を交わした。ある者は方言を使って独白し、最後は陽気な農園の歌で終わった。「ミンストレル」という言葉は白人の吟遊詩人を表す意味で以前から使用されていたが、エメットらはそれをブラックフェイスのパフォーマンスと同じ意味にした。この言葉を使うことは、新しい中流階級の観衆を獲得するきっかけとなった[14]。ニューヨーク・ヘラルド紙は、その上演が「これまでの黒人の狂騒劇を特徴づけていた下品さとその他の好ましくない特徴が完全に除かれている」と記事にした[15]。1845年、エチオピアン・セレネーダーズはショーから低俗なユーモアを取り除き、その人気でバージニア・ミンストレルズを上回った。その後間もなく、エドウィン・ピアース・クリスティはクリスティーズ・ミンストレルズを旗揚げし、エチオピアン・セレナーダーズの洗練された歌曲(クリスティの作曲家、スティーブン・フォスターが良い例)と、バージニア・ミンストレルズの卑猥な持ち味とを合体させた。クリスティの会社は、ミンストレル・ショーにおいてそれが衰退するまでの数十年の間用いられ続けた、三幕の劇の形式を生み出した。この外見上の変化は、劇場のオーナーらに、劇場をより穏やかでより静かなものにするような新しい規則を定めることを促した。

ミンストレルはオペラやサーカス、ヨーロッパの旅芸人と同じ場所で巡業しており、その会場は贅沢なオペラハウスから酒場の間に合わせのステージまで多岐にわたった。巡業中の生活は「一回限りの興行の果てしない連続で、事故でも起きそうな鉄道に乗り、火事になりそうな粗末な家に住み、劇場へと改造しなければならない空き室で遊び、捏造された容疑で逮捕され、命にかかわる病気にかかり、そして一座の金全部を持ち逃げするマネージャーや仲介者に我慢する」ことを伴った[16]。人気のある一座は北東部を主な巡業場所としており、中にはヨーロッパにまで行く一座もいて、これは彼らがいない間にライバルの一座が地位を固めることにもなった。1840年代後半までには、バルティモアからニューオーリンズまでの南部の巡業が定着した。カリフォルニアや中西部への巡業は1860年代までには行われるようになった。人気が増すにしたがって、劇場はしばしば「エチオピアン・オペラハウス」などのようなミンストレル・ショーと同様の名前が流行した。多くのアマチュアの一座は、解散するまでにいくつかの地方でショーを演じた。同時に、エメットのような有名人は単独での公演を続けた。

ミンストレル・ショーの発生は奴隷制度廃止運動と同時に起こった。多くの北部人は南部で虐げられた黒人に関心を持っていたが、しかしほとんどは日々奴隷がどのように生きているか知らなかった。ブラックフェイスのパフォーマンスはこの点で一貫しておらず、一部の奴隷は幸せであり、他の者は残忍で非人間的な制度の犠牲者であるとしていた[17]。しかし1850年代、その主な焦点が階級から人種に代わった時、ミンストレル・ショーは明らかに悪意のある、奴隷制を支持する内容となった[18]。大部分のミンストレルたちは、いつも歌って踊れて、彼らの主人を楽しませる朗らかで単純な奴隷を演じ、非常に美化して誇張した黒人の生活のイメージを与えた(それほど頻繁ではないが、主人が黒人の恋人や強姦された黒人女性を捨てるという描写もあった)[19]。歌詞と台詞は、一般的に人種差別的で風刺的で、多くは白人に由来するものであった。奴隷が、彼らの主人の下に戻りたがっているという内容の歌は豊富にあった。そのメッセージは明確に、「奴隷のことは気にするな、彼らは生活のほとんどにおいて幸せである」という内容であった[20]。北部に移り住んだダンディの姿や、ホームシックになった元奴隷といったキャラクターは、黒人は北部の社会に属していないし、また属したいとも思っていないという考えを補強するものであった[21]

アンクル・トムの小屋』に対するミンストレル・ショーの反応は、当時のプランテーションの内容を暗示している。トムの演目は、他の大農園の物語に取って代わって、特に第三幕の演目として扱われるようになった。これらの寸劇はしばしばストウの原作を支持したが、しかしごくたまにその主旨を変えて、著者を攻撃した。その意図されたメッセージが何であったとしても、それは通常、一編の楽しげなどたばた喜劇の雰囲気の中で失われた。サイモン・レグリー(トムを冷酷に扱った奴隷商人)のようなキャラクターはしばしば姿を消し、タイトルは「Happy Uncle Tom」や「Uncle Dad's Cabin」のようにより愉快な感じに変えられた。アンクル・トム自身は、嘲笑されるべき無害なおべっか使いとしてよく描かれた。これらの茶番劇を際立たせた一座はトマー(Tommer)として知られ、またトムに特化した一連の演劇のトム・ショー(Tom Shows)は、ミンストレル・ショーの差別的な要素を取り入れて一時期競い合った[22]

ミンストレル・ショーの人種差別(と女性蔑視)はかなり悪質だったかもしれない。黒人が「あぶられた、釣られた、タバコみたいに燻された、ジャガイモみたいに皮をむかれた、地面に植えられた、すっかり乾いて宣伝用に吊るされた」という内容のコミックソングや、黒人男性が誤って黒人女性の目を出してしまったという内容の複数の歌が存在した[23]。その一方で、ミンストレル・ショーがともあれ奴隷制度と人種の問題を取り上げたという事実は、恐らくその中の人種差別的な態度よりも重大であろう[24]。これらのプランテーション支持の態度にもかかわらず、ミンストレル・ショーは南部の多くの町で禁止された[25]。連邦からの脱退論者の姿勢が強硬になった時、北部との関連性があったので、南部を巡業するミンストレルは反北部の感情のターゲットになりやすかった[26]

人種に関係しないユーモアは、政治家や医者、法律家といった貴族的な白人を含む、他の対象の風刺から生まれた。女性の権利は、南北戦争以前のミンストレル・ショーで大体いつも、その意見をあざける形で定期的に現れた、唯一の真面目な話題であった。女性の権利の講演は、演説コメディでおなじみとなった。あるキャラクターが「ジム、ご婦人方は投票するべきだと思うよ」と言った時、他のキャラクターは「いや、ジョンソンさん、ご婦人方は政治には興味がないと思われます、でもそのほとんどはパーティには強く惹かれるんだけど」と答えた[27]。ミンストレルのユーモアは単純で、どたばた喜劇(Slapstick)と駄洒落を強くあてにしていた。役者たちは「学校の先生と鉄道技師の違い、それは、一人は心を訓練(trains the mind)してもう一人は列車を気にかける(minds the train)こと」などナンセンスな謎かけをした[28]

南北戦争の開戦で、ミンストレルたちはほとんどが中立のままで残り、両方の風刺をした。しかし戦火が北部の土地にまで至った時、一座は北軍支持に変わった。近親者を亡くした国のムードを反映して、悲しい歌や寸劇が優位を占めるようになった。一座は死にゆく兵士とそれに涙する未亡人、哀悼する白人の母親を寸劇で演じた。「Weeping, Sad, and Lonely」はこの時代のヒット曲となり、100万部の楽譜が売れた[29]。憂鬱なムードとのバランスを取るべく、一座はジョージ・ワシントンアンドリュー・ジャクソンのような人物をもてはやしたアメリカの歴史上のシーンを描写し、その後ろで「The Star Spangled Banner(星条旗)」のような愛国的な歌曲を伴奏した。社会の論評はさらにショーの主力になっていった。パフォーマーは、北部の社会や、彼らが戦争に責任があると思うもの、すなわち国の再統一に反対したものや戦争によって儲けたものなどを批判した。奴隷解放については、幸せな大農園を題材として反対されたか、奴隷制を否定的に描いた題材で穏やかに支持されるかした。最終的には、南部に対する直接的な批判はより痛烈なものとなった[30]

衰退

ハーヴリーズ・ユナイテッド・マストドン・ミンストレルズのポスター

ミンストレル・ショーは南北戦争中に人気を失った。バラエティ・ショー、ミュージカル・コメディヴォードヴィル・ショーのような新しいエンターテインメントが北部に登場し、P・T・バーナムなどの興行主が後援した。ブラックフェイスの一座は遠く離れた場所での巡業することとなり、この時期には、本拠地は南部と中西部となっていた。

ニューヨークや同様の都市にとどまったミンストレルたちは、しつこく宣伝してミンストレル・ショーの壮観さを強調し、バーナムの背中を追っかけた。一座の規模は膨張し、19人のパフォーマーが一度に舞台に上ることができる程になり、J・H・ハーヴリーズ・ユナイテッド・マストドン・ミンストレルズには100人以上の団員がいるようになった[31]。舞台装置は贅沢で高価になっていき、日本の曲芸師や見世物小屋のような特別興行もしばしば登場した。これらの変化により、より小さなミンストレル・ショーの一座は利益を得られなくなった。

他のミンストレルの一座は、違った趣を出そうとした。バラエティ・ショーでは女性の演技が評判になり、マダム・レンツィズ・フィメイル・ミンストレルズはこのような考えの下、露出度が高いコスチュームとタイツで1870年に最初に公演をした。彼女らの成功は少なくとも11の女性だけの一座を1871年までにもたらし、その中のひとつはすっかりブラックフェイスを取りやめてしまった。最終的には、女の子のショーはひとつの形式としてその地位を確立した。主流のミンストレル・ショーはその上品さを強調し続けたが、伝統的な一座も女装の身なりの中でこれらの要素をいくらか取り入れた。よく演じられていた小娘のキャラクターは、戦後の時代には不可欠なものとなったのである[32]

1910年頃のミンストレルの一座。エンドマンのみが顔を黒く塗っている。

この新しいミンストレル・ショーは洗練された音楽を強調し続けた。ほとんどの一座は1870年代に霊歌を彼らのレパートリーに加えており、これらは黒人の巡業コーラスグループから借用した、かなり本物の奴隷の歌に近いものであった。他の一座はさらにミンストレル・ショーのルーツから離れていった。ジョージ・プリムローズとビリー・ウェストが1877年にハーヴリーズ・マストドンと分かれた時、彼らはエンドマン(endman, 舞台端で冗談を言う役割)以外はブラックフェイスを一掃し、贅沢な衣装と髪粉をつけたかつらで着飾った。彼らは舞台を凝った垂れ幕で装飾し、まったくどたばた喜劇を実行しなかった。彼らのミンストレル・ショーのブランドは、他のほんの名ばかりのエンターテインメントとは一線を画していた[33]

大農園という劇の題材はレパートリーのほんの一部に過ぎなかったが、社会への論評はパフォーマンスの大部分を占め続けた。黒人のパフォーマーを客演させたミンストレル・ショーがそれ自体で好評を博し、古いプランテーションとのつながりを強調したことで、この効果は増幅された。批判の主なターゲットは、都会化した北部の道徳の退廃であった。都市は腐敗して、不公平な貧困の家庭がひしめき、新参者を餌食にするのを待っている悪ずれした都会人たちの隠れ家として描かれた。ミンストレルたちは伝統的な家庭生活を強調した。物語は戦争で死んだと思われた息子たちと母親たちの再会を語った。女性の権利、罰当たりな子供たち、教会への低い参加率、そして性の乱れは、家族の価値の減退と道徳の退廃のしるしとなった。もちろん、北部の黒人のキャラクターはこれらの悪徳をそれ以上に持つものであった[34]アフリカ系アメリカ人の議員はひとつの例で、共和党急進派の手駒として描かれた[35]

1890年代までには、ミンストレル・ショーはアメリカのエンターテインメントの小さな一部でしかなくなり、1919年までにはほんの3つの一座が劇場を独占した。小さな会社とアマチュア集団は伝統的なミンストレル・ショーを20世紀まで保持したが、今やその観衆の大部分は田舎の南部であり、黒人が所有する一座は西部のようなもっと中心から離れたエリアでの巡業を続けた。これらの黒人の一座はミンストレル・ショーの最後のよりどころのひとつであり、白人俳優の多くはヴォードヴィルへと移った[36]

黒人によるミンストレル・ショー

「日本人トミー」の芸名で人気を博したトーマス・ディルワード(1840–1887) 。白人のミンストレル劇団に所属し、しばしば女装して女役を演じた[37]。東洋人訛りの英語や身振りで観客を沸かせ、日本語由来の造語"hunky dory"を流行らせた[38]。芸名は、1860年に訪米した万延元年遣米使節の通訳見習いだった立石斧次郎がその剽軽な振る舞いから大人気となりトミーの愛称で呼ばれていたことに由来し、また、黒人が黒人を演じていることを隠すためだったと言われる[39]。当時長い航海による日焼けで顔の黒くなった遣米使節が話題となり、黒人と見間違うとした風刺画が描かれていた[40]。トーマスは歌も踊りもバイオリンもうまく、その後「アフリカ人親指トム」の芸名も使用し、黒人エンターテイナーの草分けとなった[39]

1840年代と1850年代に、ウィリアム・ヘンリー・レーンとトーマス・ディルワードは、ミンストレルの舞台で演じた最初のアフリカ系アメリカ人となった[41] 。全員が黒人の一座は1855年の初めまで続いた。これらの会社は、彼らの民族性により黒人だけが黒人の歌と踊りを唯一本当に表現できることを強調しており、一座を描写したある広告には、「アラバマから来た7人の奴隷、彼らは北部の友人の指導の下でコンサートを行い、自由を手に入れている」とある[42]。白人の好奇心は強い動機付けとなり、ショーはあたかも陳列されたモノのように「自然のまま」演じる黒人を見たい人々にひいきにされた[43]。興行主らはこれに飛びつき、彼の一座のある広告には「あたかも家にいるような黒人、そしてトウモロコシ畑の、トウの茂みの、納屋周りの庭の、そして土手と平底船の上の、黒人の生活」と銘打たれた[44]。しきたりを守って、黒人のミンストレルたちは少なくともエンドマンはまだ顔に炭を塗っていた。ある解説者は、大部分が顔に炭を塗らない黒人の一座を「軽い色の二人を除いて中くらいのムラートたちである…エンドマンはそれぞれ焼きコルクですっかり黒く塗られていた」と記述した[45]。ミンストレルたちは自分たちの演技力を宣伝し、人気のある白人の一座と好意的に比較した批評を引用した。これらの黒人の会社は、しばしば女性のミンストレルを特色とした。

プランテーションのシナリオは黒人のミンストレル・ショーで一般的であった。ここで見られるのはカレンダーズ・カラード・ミンストレルズの1875年の後のポスターである。

一つないしは二つのアフリカ系アメリカ人の一座は、1860年代後半と1870年代に劇場で優位を占めた。これらの最初のものは、ブルッカー・アンド・クレイトンズ・ジョージア・ミンストレルズであり、1865年ごろに北東部で公演した。サム・ヘーグズ・スレイヴ・トゥループ・オブ・ジョージア・ミンストレルズはその後間もなく結成され、1866年初めの英国ツアーで大成功を収めた。1870年代には、白人の興行主が成功した黒人の会社の大部分を買収した。チャールズ・カレンダーは1872年にサム・ヘーグズ一座を取得して、カレンダーズ・ジョージア・ミンストレルズに改名した。彼らはアメリカで最もポピュラーな黒人の一座となり、カレンダーとジョージアという言葉は、黒人のミンストレル・ショーと同義語となった。J・H・ハーヴリーは1878年に入れ替わりでカレンダーの一座を買取り、一座の規模を拡大してセットを装飾する彼の戦略を適用した。この会社が欧州に行った時、グスターヴとチャールズのフローマン兄弟は、彼らのカレンダーズ・コンソリデイテッド・カラード・ミンストレルズを宣伝する機会を手にした。彼らの成功は、フローマン兄弟がハーヴリーの集団を買って彼らの一座と合併させ、市場を事実上独占したというような点にあった。会社は全国を覆うために三つに分けられ、1880年代を通して黒人のミンストレル・ショーを独占した[46]。ビリー・カーサンズ、ジェームズ・A・ブランド、サム・ルカス、ウォーレス・キングなどの個人の黒人のパフォーマーたちは、注目を浴びた白人のパフォーマー並みに有名になった[47]

人種的な偏見は、黒人のミンストレル・ショーを困難な職業にした。南部の町で演じる時は、パフォーマーたちはステージの外でさえも、ぼろぼろの「奴隷衣装」と絶えない微笑を身にまとったキャラクターを演じなければならなかった。一座はそれぞれのパフォーマンスの後は素早く町を去り、ある者は宿屋を確保するにも苦労したので、彼らは列車全部を借り切るか、寝泊まりできる、外部から完全に見えないように改造した車を持った。万が一事態がひどくなった時に隠れるためであった[48]。白人はしばしば車を射撃訓練用に使用したので、これさえ避難所ではなかった。彼らの給料は、当時の黒人の大部分よりは高かったが、白人のパフォーマーが稼いだレベルには達しなかった。カーサンズのようなスーパースターですら、客演した白人のミンストレルよりも若干少なかった[49]。当然、ほとんどの黒人の一座は長くは続かなかった[50]

内容においては、初期の黒人のミンストレル・ショーは白人のそれとほとんど変わらなかった。しかし、白人の一座が1870年代半ばに大農園の主題から離れると、黒人の一座はそれに新しい重点を置いた。霊歌の歌唱の追加は、黒人の一座がそういう素材のもっとも本物のパフォーマーであると正しく信じられていたために、黒人のミンストレル・ショーの人気を後押しした[51]。その他の重大な差異は、黒人のミンストレルは彼らのショーに白人が避けていた宗教的なテーマを加えていたという点と、黒人の会社は一般にショーの第一幕を足を高く上げる軍隊のステップ、ブラスバンドの茶番劇で締めていたという点である。これらの慣習は、1875年または1876年にカレンダーのミンストレルが使用した後に採用された。黒人のミンストレル・ショーは典型的な黒人差別を実際のものとして見せたが、多くのアフリカ系アメリカ人のミンストレルたちは、これらのステレオタイプをわずかに変更し、白人社会をからかうように演じた。ある霊歌は、天国を「白い村人が黒人にいてもらわなければならない」場所であり、彼らは「買ったり売ったり」されない場所と描写した[52]。大農園のネタでは、年老いた黒人のキャラクターは、白人のミンストレル・ショーで見られるように、長く離れた主人と再び一緒になることはめったになかった[53]

黒人のミンストレル、特に小さな一座の観客は大部分がアフリカ系アメリカ人であった。事実、彼らの数は非常に大きかったため、多くの劇場の所有者は黒人の観客を別の場所に追いやる人種分離の規則を緩めなければならなかった[54]。黒人はなぜ自分たちの否定的なイメージを好意的に見ていたのかという理由に関する説はさまざまである。恐らくは彼らはばかばかしさを感じていたのであって、仲間内の感覚からやりすぎているキャラクターを笑ったのであろう[55]。多分彼らは暗黙のうちに人種差別的な、こっけいな仕草を容認してさえいたか、もしくは彼らはミンストレルのキャラクターにアフリカ文化の要素との多少のつながりを感じていたのである。それは抑えられてはいたが目に見えるものであり、また差別的で、誇張されたものではあったが[56]。彼らは確かに白人客の頭を超えて来る多くのジョークを受けたか、または風変わりな気晴らしとしてだけ印象に残した[57]。黒人の観衆を惹き付けた別の要素は、単にステージの上の仲間のアフリカ系アメリカ人を見ていたという点であり[56]、確かに黒人のミンストレルたちは主に有名人として見なされていた[58]。その一方では、正式な教育を受けたアフリカ系アメリカ人は黒人のミンストレル・ショー を無視するか公然と軽侮するかした[59]。それでも、黒人のミンストレル・ショーはアフリカ系アメリカ人がアメリカのショービジネスに入る最初の大規模な機会であった[60]


  1. ^ Watkins, p. 82, シェークスピアの時代以降、オセロのキャラクターが黒くメイクした俳優によって伝統的に演じられたと断言している。
  2. ^ ルイス・ハラム(Lewis Hallam)が、1769年の『The Padlock』のステージで酔った黒人男性を演じた劇評に基づいて、ブラックフェイスで演じた最初の俳優として頻繁に引用される。コックレルと他の者のその後の研究はこの主張に異議を立てている。
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