ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ 画家としての評価

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/08 09:25 UTC 版)

画家としての評価

バロック芸術の成立

『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』(1609年頃、マドリード王宮蔵)

カラヴァッジョは「陰 (oscuro) をキアロスクーロ (chiaroscuro) へと昇華した」といわれる[37]。キアロスクーロ自体はカラヴァッジョ以前から長らく使われてきた手法だが、一方向からまばゆく射す光を光源として段階的な陰影をつけて描かれた対象物を浮かび上がらせる表現はカラヴァッジョが絵画技法として確立したものである。カラヴァッジョが持っていた肉体面、精神面両方に対する鋭い写実的な観察眼によって成立したもので、とくに宗教絵画においてカラヴァッジョが直面した数々の課題を通じて形成されていった。カラヴァッジョの絵画制作速度は非常に速く、モデルを前にしたまま基本的な部分を最後まで描き上げることが出来た。カラヴァッジョが描いた下絵(ドローイング)はほとんど現存しておらず、このことはカラヴァッジョが紙などに下絵を描くことなく、キャンバスにいきなり描き始める手法を好んでいたためと考えられている。これは当時の熟練した画家たちからは忌み嫌われていた手法で、旧来の画家からはカラヴァッジョが下絵から描き始めないことと、人物像を理想化して描かないことを声高に非難された。しかしながら、人物を理想化することなく写実的に描くことはカラヴァッジョにとってはごく当然のことだった。

『フィリデの肖像』(1597年頃、第二次世界大戦中に焼失)

写実的に絵画に描かれた人物像のモデルが誰なのかが判別している者もいる。よく知られているのは後にカラヴァッジョの作風を受け継いだ画家となったマリオ・ ミンニーティとフランチェスコ・ボネリで、ミンニーティは初期の世俗的な作品に、ボネリは天使、洗礼者ヨハネ、ダビデとしてカラヴァッジョ後期の作品にそれぞれ描かれている。女性モデルには『フィリデの肖像 (Portrait of Fillide)』(1597年 - 1599年)に描かれているフィリデ・メランドローニ、『聖マタイとマグダラのマリア』に描かれているアンナ・ビアンキーニ、法廷記録の「アーティチョーク事件」にレナという名前で記載されているカラヴァッジョの愛人マッダレーナ・アントネッティらがいるが[38]、全員が当時有名だった娼婦であり、カラヴァッジョは彼女たちを聖母マリアなど様々な聖人のモデルとして多くの宗教絵画に描いた[39]。カラヴァッジョは自身の肖像も数枚の絵画に登場人物として描いている。最後の自画像は『聖ウルスラの殉教 (The Martyrdom of Saint Ursula)』の右端に描かれている男性像である[40]

エマオの晩餐』(1601年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)

カラヴァッジョは決定的な瞬間を誰にも真似できないほどに鮮やかに切り取って描く優れた能力を持っていた。『エマオの晩餐』はキリストの弟子だったクレオパが、夕食をともにしている人物が復活したキリストだと気がつく場面を描いた絵画で、直前までメシアの死を嘆く旅人であり宿屋の主人が目もくれていなかった人物だったものが、突然救世主として再臨したその瞬間を劇的に表現した作品である。『聖マタイの召命』ではマタイが自分を指差して「私ですか?」と問いかけているかのように描かれているが、その両目はキリストに注がれ「私は貴方のしもべです」と応えており、マタイが自分の使命に目覚めた瞬間を描き出した絵画である。『ラザロの蘇生』では死人が復活する瞬間を捉えたさらに進んだ表現がなされている。ラザロの胴体は断末魔の死後硬直の状態にあるが、手はすでに復活しキリストのほうを向いている。

カラヴァジェスティ

『聖マタイの殉教』(1599年 - 1600年頃)
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂(ローマ)

カラヴァッジョの絵画を研究し、その作風を真似た追随者はカラヴァジェスティ (Caravaggisti) と呼ばれることがある(カラヴァッジョ派、カラヴァジェスキとも)。1600年にコンタレッリ礼拝堂に納められた『聖マタイの殉教』と『聖マタイの召命』はローマの若手芸術家の間で大評判になり、カラヴァッジョは野心的な若手画家たちの目標となっていった。カラヴァジェスティと呼ばれる最初期の画家にカラヴァッジョの友人でもあったオラツィオ・ジェンティレスキジョヴァンニ・バリオーネがあげられる。ただし、バリオーネがカラヴァッジョ風の絵画を描いた時期は短く、カラヴァッジョがバリオーネの絵画は自分の作品からの盗作だと糾弾したこともあって二人は長く反目しあっていたが、後にバリオーネはカラヴァッジョに関する伝記を最初に書いた人物となった[41]。次世代のカラヴァジェスティとしてカルロ・サラチェーニ (Carlo Saraceni)、バルトロメオ・マンフレディ (Bartolomeo Manfredi)、オラツィオ・ボルジャンニ (Orazio Borgianni)らがいる。1563年生まれのジェンティレスキはこの3名よりもかなり年長だったが、長命な画家でこの3名よりも長生きし、最後はイングランド王チャールズ1世宮廷画家になり1639年にロンドンで死去している。ジェンティレスキの娘アルテミジアも父の縁でカラヴァッジョとは面識があり、カラヴァジェスティの画家の中ではもっとも才能があった一人だった[42]

ナポリではカラヴァッジョは短期間しか滞在していないにもかかわらず、バッティステッロ・カラッチョロ、カルロ・セッリート (en:Carlo Sellitto)ら、重要なカラヴァジェスティの画家を輩出した。ナポリでのカラヴァジェスティの活動は1656年のペスト流行によって終焉したが、当時のナポリはスペインの支配下だったこともあって、カラヴァッジョの影響はスペイン絵画へも波及していった。

オランダでも17世紀初頭に画学生としてローマを訪れ、カラヴァッジョの作品に多大な影響を受けたユトレヒト・カラヴァッジョ派 (en:Utrecht Caravaggism) と呼ばれる宗教画家たちが存在した[41]。これら画学生たちが自国へ持ち帰ったカラヴァッジョの作風の流行は短かったとはいえ、1620年代にはヘンドリック・テル・ブルッヘンヘラルト・ファン・ホントホルストアンドリエス・ボトディルク・ファン・バビューレン らによって全盛期を迎えている。以降の世代のオランダ人画家たちにはカラヴァッジョの影響は薄れていったが、マントヴァ公ゴンザーガ家の依頼でカラヴァッジョの『聖母の死』を購入し、『キリストの埋葬 (Entombment of Christ)』の模写も行ったルーベンスを初め、フェルメールレンブラント、さらにはイタリア滞在時にカラヴァッジョの作品を目にしているベラスケスの作品にもカラヴァッジョの影響が見られる。

死後の評価と20世紀の再評価

キリストの埋葬』(1602年 - 1603年)
バチカン美術館ローマ

カラヴァッジョの名声はその死後間もなく急速に廃れてしまった。カラヴァッジョの革新性はバロック芸術のきっかけになったとはいえ、バロック絵画はキアロスクーロを用いた劇的な効果のみを取り入れて、カラヴァッジョの特性といえる肉体的な写実主義には目を向けようとはしなかった。上述した画家以外では、イタリアからは距離があるフランスのジョルジュ・ド・ラ・トゥールシモン・ヴーエ、スペインのホセ・デ・リベーラらが直接カラバッジョの影響を受けた画家だが、カラヴァッジョの死後数十年でその作品は単なる醜聞にまみれた画家が描いた絵画とみなされるか、あるいは単に忘れ去られてしまった。カラヴァッジョの死後バロック美術は発展し作風も変化していったが、その成立に多大な貢献をしたカラヴァッジョはバロック美術の発展に多大な貢献をしたアンニーバレ・カラッチとは違って工房も弟子も持たず、自身の絵画技術を広めるための努力はしていない。自身の作品の根幹ともいえる理性的な自然主義絵画製作手法について何も語ってはおらず、その写実的な心理描写の技法は残された作品から推測するしかなかった。それゆえに、後世のカラヴァッジョの評価は、ジョヴァンニ・バリオーネ (Giovanni Baglione) とジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ (Giovanni Pietro Bellori) がそれぞれ書いたカラヴァッジョに極めて否定的な初期の伝記に大きく左右された。バリオーネはカラヴァッジョと長く確執があった画家で、ベッローリは直接カラヴァッジョとは面識がなかったが、その作品を嫌っていた画家であり、かつ17世紀に影響力があった批評家でもあった[43]

しかし、1920年代になってからイタリア人美術史家ロベルト・ロンギ (Roberto Longhi) がカラヴァッジョを再評価し、西洋美術史のなかに確固たる地位を与えた。それは、ロンギとL.Venturiが主導した1951年のミラノでの「カラヴァッジョとカラヴァッジョ派展」で確立された(アンドレ・シャステル)。 ロンギは「ホセ・デ・リベーラ、フェルメール、ラ・トゥール、レンブラントは、もしカラヴァッジョがいなければ存在しえない画家だっただろう。また、ドラクロワクールベマネらの芸術も全く異なったものになっていたに違いない[44]」とし、著名な美術史家バーナード・ベレンソンも、「ミケランジェロを除けば、カラヴァッジョほど絵画界に大きな影響を及ぼしたイタリア人画家はいない[45]」と同様の意見を述べている。

カラヴァッジョはイタリアの10万リラ紙幣に肖像が採用された。このときには「人殺しを紙幣の顔に採用するとはどういうことか」と一部から批判の声があがった。しかし、画家としての業績や時代背景などを考慮して採用されることになった。

絵画作品

『聖ペテロと聖アンデレの召命』(1603年 - 1606年)
ロイヤル・コレクション

現存しているカラヴァッジョの作品で、まず真作であろうと考えられているのは80点程度にすぎず、なかには時代を経てからカラヴァッジョの作品であると同定された、あるいはカラヴァッジョの作品らしいと見なされた作品も多い。『聖ペテロと聖アンデレの召命 (The Calling of Saints Peter and Andrew)』(ロイヤル・コレクション、1603年 - 1606年)は1637年にイギリス国王チャールズ1世が購入し、清教徒革命でフランスに売却されたものをさらに王政復古で戴冠したチャールズ2世が取り戻した絵画である。長くカラヴァッジョのオリジナル絵画の複製画と見なされ、ハンプトン・コート宮殿に所蔵されていたが、6年間にわたる修復と調査の結果、2006年にカラヴァッジョの真作であると認定された。一方でリチャード・フランシス・バートンがカラヴァッジョの作品として書き残した「トスカーナ大公家のギャラリーが所蔵する、30人の男たちが描かれた聖ロザリアの絵画」は現在行方不明となっている。ローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂から受け取りを拒否された『聖マタイと天使』は、第二次世界大戦中のドレスデン爆撃で失われ、現在は白黒の写真が残るのみである。2011年6月にはそれまで知られていなかったカラヴァッジョが1600年頃に描いた『聖アウグスティヌス』がイギリスのプライベート・コレクションから発見されたという発表があった。この「重要な発見」によってもたらされた絵画はローマ時代のパトロンだったヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニが秘密裏に依頼した作品であると考えられている[46]。本来はサン・ドメニコ聖堂のために制作されたが、保存のために現在はナポリの国立カポディモンテ美術館が所蔵する『キリストの鞭打ち 』(Flagellazione)(1607年頃 Oil on canvas, 390 x 260 cm)は、カラヴァッジョがナポリ滞在時に残した代表作のひとつ。本作の主題はユダヤの民を惑わしたとして捕らえられたイエスが、総督ピラトの命によって鞭打ちの刑に処される場面。 


  1. ^ Andrew Graham-Dixon, "Caravaggio"『ブリタニカ百科事典』。2020年8月25日閲覧。
  2. ^ Getty profile, including variant spellings of the artist's name.
  3. ^ Caravaggio's Rap Sheet Reveals Him to have been a Lawless, Sword-Obsessed Wildman, and a Terrible Renter ARTINFO.com
  4. ^ Floris Claes van Dijk, a contemporary of Caravaggio in Rome in 1601, quoted in John Gash, "Caravaggio", p.13. この引用はカレル・ヴァン・マンデルの『画家列伝(画家の書)』(1604年)を底本としている。カラヴァッジョの名前が出てくる最初のローマでの記録は、パートナーで共同制作者でもあった画家プロスペロ・オルシによるもので、1594年10月の聖ルカ祭に参列した人物の一覧のなかに名前が記載されている(H. Waga "Vita nota e ignota dei virtuosi al Pantheon" Rome 1992, Appendix I, pp.219 and 220ff)。カラヴァッジョのローマ時代の暮らしぶりが記載された最初の資料は1597年7月の訴訟裁判記録で、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会近くで起きた事件の参考人としてカラヴァッジョとオルシが召喚されたというものである("The earliest account of Caravaggio in Rome" Sandro Corradini and Maurizio Marini, The Burlington Magazine, pp.25-28)。
  5. ^ Quoted in Gilles Lambert, "Caravaggio", p.8.
  6. ^ Biography of Caravaggio Archived 2009年4月16日, at the Wayback Machine.
  7. ^ Confirmed by the finding of the baptism certificate from the Milanese parish of Santo Stefano in Brolo: Rai International Online Archived 2009年4月16日, at the Wayback Machine.. 以前はその姓から、カラヴァッジョ村で生まれたと考えられていた。
  8. ^ Harris, p. 21.
  9. ^ Rosa Giorgi, "Caravaggio: Master of light and dark – his life in paintings", p.12.
  10. ^ Quoted without attribution in Robb, p.35. おそらく一次資料であるマンチーニ、バリオーネ、ベッローリの各著作からの引用で、どの著作もカラヴァッジョのローマ時代初期がひどい貧困状態だったことを記載している。
  11. ^ Giovanni Pietro Bellori, Le Vite de' pittori, scultori, et architetti moderni, 1672:「ミケーレ(カラヴァッジョ)は金銭的理由からジュゼッペ・ダプリーノ(チェーザリ)のもとで働いた。花と果物を描く助手として雇われ、現在に至るまで愛される美しい写実的な作品を残した」
  12. ^ Caravaggio's Fruit: A Mirror on Baroque Horticulture (Jules Janick, Department of Horticulture and Landscape Architecture, Purdue University, West Lafayette, Indiana)
  13. ^ Catherine Puglisi, "Caravaggio", p.79. Longhi was with Caravaggio on the night of the fatal brawl with Tomassoni; Robb, "M", p.341, believes that Minniti was as well.
  14. ^ Robb, p.79. Robb はその著作でベッローリも引き合いに出している。ベッローリはカラヴァッジョの豊かな色彩感覚は賞賛していたが、その自然主義には批判的だった。「カラヴァッジョは自然をそのままに描くことで満足し、それ以上のことに頭を使おうとはしていない」
  15. ^ Bellori. さらに「これら若い画家たちはいかにうまくカラヴァッジョの作品を模倣できるかを競い合い、衣服を脱がせたモデルに強い光をあてて絵画を描いた。それはカラヴァッジョの作品を研究、解析するというよりも、手軽にカラヴァッジョの作品を模写しているにすぎなかった」と続く。
  16. ^ 対抗宗教改革下における教会の芸術に対する礼儀思想によるものだった (Giorgi, p.80 and Gash, p.8ff)。『聖マタイと天使』『聖母の死』が受け取りを拒否された詳細な経緯については Puglisi, pp.179–188. を参照。
  17. ^ Lambert, p.66.
  18. ^ このことから『馬丁の聖母』とも呼ばれる。
  19. ^ Venerabile Arciconfraternita di Sant'Anna de Parafrenieri
  20. ^ 「近年の画家の絵画は目に余る。ミケランジェロ・ダ・カラヴァッジョがサンタ・マリア・デッラ・スカラの依頼で制作した、娼婦をモデルにして聖母を描いた作品などが最たるものである。神に仕える依頼主が受け取りを拒否したのは当然で、このあわれな男はおそらく今までの生涯で様々な騒動を巻き起こしているに違いない」(マンチーニ Considerazioni sulla pittura:)
  21. ^ Baglione: 「トラステヴェレのサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会の依頼で描かれた『聖母の死』は、聖母の脚が描かれた慎みに欠ける絵画だったため教会から拒まれた。その後マントヴァ公がこの作品を購入し。自分のもっとも大きなギャラリーへ飾った」(Baglione Le vite de' pittori)
  22. ^ ジャンニ・パピはチェッコ・デル・カラヴァッジョはフランチェスコ・ボネリだとしているが、17世紀初頭にカラヴァッジョの身辺の世話をし、モデルも務めたチェッコとボネリとの関連性は状況証拠しか存在しない (Robb, pp193–196)。
  23. ^ このときの乱闘騒ぎとラヌッチオ・トマゾーニの死については未だに謎のままである。当時のいくつかの記録では、乱闘の原因がギャンブルによる金の貸し借りとテニス試合の遺恨によるものだとしており、これが広く受け入れられるようになっている。しかし、近年の研究によるともっと単純な痴情のもつれによるものであると考えられている (Peter Robb's "M" and Helen Langdon's "Caravaggio: A Life")。'Red-blooded Caravaggio killed love rival in bungled castration attempt'
  24. ^ 1606年のトマゾーニの死亡事件のあと、カラヴァッジョは最初にローマ南部のコロンナ家所領に逃げ込んだ。その後、生前のカラヴァッジョの父フェルモが邸宅管理人を任されていたフランチェスコ・スフォルツァの未亡人、コスタンツァ・コロンナ・スフォルツァを頼ってナポリへと落ち延びている。コスタンツァの兄弟アスカニオはナポリ王国の Cardinal-Protector、マルツィオはスペイン副王の顧問官、妹はナポリの重要な一族カラファ家へと嫁いでいた。これら有力者たちからの支援もあって、ナポリでもカラヴァッジョのもとへは次々と絵画の制作注文が舞い込んでいる。コスタンツァの息子ファブリツィオ・スフォルツァ・コロンナはマルタ騎士団の騎士で将官であり、1607年にカラヴァッジョがマルタ島へ移住する際に便宜を図り、さらに翌年マルタ島の監獄から脱獄するのにも手を貸したと考えられている。カラヴァッジョはマルタ島脱出後の1609年に再びコスタンツァを頼ってナポリの宮殿に滞在した。このようなカラヴァッジョとコロンナ家の親密な関係は多くの伝記に書かれており、美術史家からの研究対象となっている (Catherine Puglisi, "Caravaggio", p.258, for a brief outline. Helen Langdon, "Caravaggio: A Life", ch.12 and 15, and Peter Robb, "M", pp.398ff and 459ff)。
  25. ^ Giovanni Pietro Bellori, Le Vite de' pittori, scultori, et architetti moderni, 1672
  26. ^ この乱闘騒ぎに関する証拠がマルタ大学のカイト・シベラス教授によって発見された。 "Frater Michael Angelus in tumultu: the cause of Caravaggio's imprisonment in Malta", The Burlington Magazine, CXLV, April 2002, pp.229–232, and "Riflessioni su Malta al tempo del Caravaggio", Paragone Arte, Anno LII N.629, July 2002, pp.3–20. Sciberras' findings are summarised online at Caravaggio.com Archived 2006年3月10日, at the Wayback Machine..
  27. ^ 「恥ずべき卑劣な男」は、騎士団を除名される際に用いられる決まり文句である。1608年12月1日に騎士団の高位騎士たちが招集されたが、4度に及ぶ喚問にもかかわらずカラヴァッジョの罪状の立証はできなかった。結局騎士たちによる投票が行われ、その結果満場一致でカラヴァッジョの騎士団除名が決定された。
  28. ^ Langdon, p.365.
  29. ^ カラヴァッジョの奇行は画家としてのキャリア初期から評判となっていた。マンチーニはカラヴァッジョを「完全に狂っている」と評し、枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテは書簡のなかでカラヴァッジョの奇矯な言動について書き残している。さらにマリオ・ミンニーティに関する1724年に書かれた伝記には、ミンニーティはカラヴァッジョの素行に耐えられず袂を分かったという記述がある。このような奇行はマルタ島移住以来ますます顕著になっていき、18世紀初頭に書かれた『メッシーナの画家たちの伝記 (Le vite de' pittori Messinesi)』にはシチリアでのカラヴァッジョの常軌を逸した言動の逸話がいくつか記載されており、この本を参考としたカラヴァッジョの一生を描いた伝記が現代のランドン (Langdon) やロブ (Robb) といった美術史家から発表されている。ベッローリはカラヴァッジョの町から町、島から島へと渡り歩く「恐るべき」人生にページを割き、結局はナポリを含め「どこにも安住の地はなかった」としている。バリオーネもカラヴァッジョはつねに「敵に追い回されていた」と書いているが、ベッローリと同様にカラヴァッジョの敵が具体的に誰なのかは明らかにしていない。
  30. ^ Baglione says that Caravaggio in Naples had "given up all hope of revenge" against his unnamed enemy.
  31. ^ 17世紀の記録には、ゴリアテは自画像でダビデは「小さなカラヴァッジョ (il suo Caravaggino)」であると記されている。「小さなカラヴァッジョ」が何を意味するのかははっきりしないが二つの説があり、若いころの自画像、あるいは有力な解釈として『愛の勝利』のモデルだったチェッコだといわれている。ダビデが手にしている剣には簡約された銘があり「謙遜は高慢を凌駕する」と解釈されている。制作年度はジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ (en:Gian Pietro Bellori) が書いた17世紀の芸術家列伝『現代画家・彫刻家・建築家伝』(1672年)にはローマ滞在後期となっているが、近年の研究ではナポリ帰還後だと考えられている (Gash, p.125)。
  32. ^ ナポリのカゼルタ司教から枢機卿シピオーネへと送られた1610年7月29日付の書簡には、カラヴァッジョがシピオーネへと贈るつもりだったのは2点の洗礼者ヨハネを描いた絵画と、マグダラのマリアを描いた絵画であるという情報が記載されている。これらの絵画はおそらくシピオーネの叔父、つまり教皇パウルス5世がカラヴァッジョに恩赦を与える見返りとして要求したものである。
  33. ^ Vatican reveals Caravaggio painting 'found' in Rome BBC website, published: 19 July 2010, accessed: 2011-09-08
  34. ^ Church bones 'belong to Caravaggio', researchers say BBC website, published: 16 June 2010, accessed: 2011-09-08
  35. ^ The mystery of Caravaggio's death solved at last – painting killed him, Tom Kington, The Guardian, Wednesday, 16 June 2010.
  36. ^ Inscriptiones et Elogia (Cod.Vat.7927)
  37. ^ Lambert, p.11.
  38. ^ ローマでのカラヴァッジョの暮らしぶりは法廷記録に多く残っている。「アーティチョーク事件」とは、カラヴァッジョが熱いアーティチョークが盛られた皿を給仕に投げつけたという記録である。
  39. ^ Robb, passim
  40. ^ 最初に作品に描かれた自画像は『病めるバッカス』でその他に『ゴリアテの首を持つダビデ』に描かれているゴリアテもカラヴァッジョの自画像である。カラヴァッジョ以前にも自身の肖像画を作品に登場させた画家はいたが、役割は主題となっているモチーフの傍観者や観衆としてであり、自身を主題の主要人物として描いた画家はいなかった。
  41. ^ a b Giovanni Baglione 『Le vite de' pittori』, 1642年
  42. ^ アルテミジアは1997年にフランスの女性監督アニエス・メルレのデビュー作『アルテミシア(Artemisia)』で映画の主人公に取り上げられている。この作品はフランスとイタリアの合作によって制作され、メルレ自身が監督・脚本・台詞を担当しており、同年ゴールデングローブ賞にて外国映画賞を受賞した。
  43. ^ ほかにもスペインで活動していたイタリア人画家ヴォンチェンツォ・カルドゥッチ ( en:Vincenzo Carducci) がカラヴァッジョを、他人を欺く「恐ろしい」才能を持った「キリストの教えに背く者」であると酷評している。
  44. ^ Gille Lambert 2000のp.15に引用されたロンギの見解
  45. ^ Gille Lambert 2000のp.8に引用されたBernard Berensonの見解
  46. ^ Alberge, Dalya (2011年6月19日). “Unknown Caravaggio painting unearthed in Britain”. The Guardian. 2011年6月20日閲覧。






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