ミクロネシア 政治

ミクロネシア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 05:12 UTC 版)

政治

政治行政単位は以下の通りである。

主権国家

以下の3つは主権国家であるが、アメリカによって自由連合盟約援助金(コンパクト・グラント)を供与されている[11]

アメリカ合衆国

歴史

先史時代のミクロネシア

ミクロネシアの航海術に使われた「海図」の例
ナンマトル遺跡
ラッテ・ストーン

この地域の考古学的研究はまだ発展途上であり、はっきりしたことはわかっていないが、今から4200年前頃までは無人島であった。ミクロネシア西部のマリアナ諸島には、今から3500年前頃から人が移住してきており、土器や石器、貝製装飾貝類をつくり、サンゴ島内での漁労などを行い暮らしはじめた[17]。文化的に見て、最初にフィリピン周辺から直接パラオ、ヤップなどに植民したオーストロネシア系グループと、後に西ポリネシア方面からカロリン諸島に植民したオーストロネシア系グループがいたのではないかと推測されている。

この地域の先住民の文化を最も強く特色づけているのは、シングル・アウトリガー・タイプの航海カヌーであり、彼らはこれを用いて広範な交流を行っていた。特にヤップ島はこれらの島々の中でも最も強力な権力を持ち、カロリン諸島の島々から定期的にヤップ島まで貢ぎ物を届ける航海(サウェイ交易)が行われていた。ヤップ島の酋長の権力は現在も強く、カロリン諸島の島々に対して一定の権威を保持している。

また、巨石文明が築かれた島もあり、マリアナ諸島のラッテ・ストーン、ポンペイ島のナンマトル遺跡、コスラエ島のレラ遺跡などが現存している。

年表

  • 先史時代に人類がこの海域に到達するが、彼らは文字を持たなかったので、この時期の詳しい歴史はわかっていない。
  • 紀元前15世紀(3500年前)頃 - ミクロネシア地域に人の移住が開始される。
  • 1世紀頃 - 火山列島北硫黄島にマリアナ諸島方面から人が移住する(石野遺跡)。
  • 9世紀頃 - マリアナ諸島でラッテストーンの建造が開始される。
  • 10世紀頃 - ポンペイ島でシャウテレウル朝英語版(Mwehin Sau Deleur)が成立する。
  • 13世紀頃 - ポンペイ島でナン・マトール遺跡が建設される。
  • 14世紀頃 - コスラエ島でレラ遺跡が建設される。
  • 西洋人がこの海域に到達した時点で、現在のミクロネシア連邦ではヤップ島が強い権力を保持し、カロリン諸島の島々からヤップ島に向けてサウェイ交易と呼ばれる貢ぎ物交易が行われていた。
  • 1521年 - フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)率いるスペイン艦隊が世界一周の途上でグアム島に寄港する[18]
  • 1529年 - スペインのアロンソ・デ・サラザール英語版(Alonso de Salazar)がヨーロッパ人で初めてマーシャル諸島に到達する。
  • 1565年 - スペイン領東インド(Indias Orientales Españolas)が成立する。ミクロネシアにおける中心地はグアム島で、他にマリアナ諸島、パラオ諸島、カロリン諸島が含まれた。
  • 1606年 - スペインのペドロ・フェルナンデス・デ・キロス(Pedro Fernández de Quirós)がヨーロッパ人で初めてギルバート諸島に到達する。
  • 1628年頃 - コスラエ島のイショケレケル英語版によって、シャウテレウル朝が崩壊する。
  • 1668年 - グアムがスペインに正式に領有される。
  • 1710年 - チャモロの人口が50,000人から4,000人に減り、伝統社会が崩壊する。
  • 1788年 - イギリス東インド会社所属のシャーロット号英語版(Charlotte)とスカボロー号英語版(Scarborough)が、オーストラリアボタニー湾から中国広州へ向かう途中でいくつかの島に立ち寄る。これらの島々は、それぞれの船の船長であるトマス・ギルバート(Thomas Gilbert)とジョン・マーシャル(John Marshall)から、それぞれギルバート諸島、マーシャル諸島と命名される。
  • 19世紀になって、海外植民地を維持する力を失ったスペインが、グアムを除いた大部分をドイツ帝国に売却する。以後、ドイツがミクロネシアの広範な海域を統治。この時期、ドイツはサウェイ交易を含む先住民の遠洋航海を禁止した。遠洋航海の禁止は大日本帝国による統治時代も継続される。
  • 1820年文政3年) - 陸奥国閉伊郡船越浦(現:岩手県山田町船越)の神社丸が江戸に向かう途中、九十九里浜沖で遭難し、38日後パラオ諸島に漂着する。生き残った長吉ら6名はパラオ諸島に3年半あまり滞在した後、フィリピンマニラマカオ浙江省乍浦を経て日本に帰国する[19][20]
  • 1868年明治元年) - グアム島に40名の日本人移民が入植するが、3年後に帰国する[21]
  • 1872年 - イギリス領西太平洋領土英語版(British Western Pacific Territories)が成立し、ギルバート諸島がその一部となる。
1883年のヤップ島
日本統治時代のコロール(4丁目)
サイパンの戦い末期、民間人投降を呼び掛けるアメリカ海兵隊員
ハゴイ飛行場に残るリトルボーイを保管していた保管庫。保管庫右にあるのが原爆搭載記念碑である。
太平洋諸島信託統治領政府高等弁務官と職員
サイパンを行幸する明仁天皇および美智子皇后

人種・民族

ミクロネシア人の女性

ミクロネシアの民族はモンゴロイドオーストラロイドが混じった人種に属す。ポリネシア人メラネシア人との混血が複雑に進んでいて、それぞれの人々の身体的特徴の差異が大きい[35]。短身痩躯で褐色の肌に黒髪を有する。

ミクロネシアの民族はオーストロネシア人の一派だがその起源は2系統ある。1つはスラウェシ島から直接東に進路をとったグループで、パラオ人チャモロ人が含まれる。2つ目はスラウェシ島からニューギニア島沿岸部を経てメラネシアより北上したグループで、ミクロネシア諸語を話すキリバス人、カロリン人などが含まれる。このほかに、ツバルから西進したポリネシア人の住む域外ポリネシアに属する島もある。

Y染色体ハプログループはオセアニアのオーストロネシア人に広く見られるハプログループO1a (Y染色体)ハプログループO2 (Y染色体)ハプログループK (Y染色体)が優勢だが、日本人に高頻度のハプログループO1b2 (Y染色体)およびハプログループD1a2a (Y染色体)が5.9%ずつみられる[36]。弥生時代以降(おそらく日本による統治が行われていた時代)に日本からミクロネシアへもたらされたことが考えられる。


注釈

  1. ^ 東経130度~175度の間、2300を超す島々が散在する。陸地面積は、2851km2。(印東道子「太平洋戦争(ミクロネシアの島じま」/ 印東道子編著『ミクロネシアを知るための58章』明石書店 2005年 16ページ)

出典

  1. ^ 片山一道『身体が語る人間の歴史 人類学の冒険』筑摩書房、2016年、175頁。ISBN 978-4-480-68971-9 
  2. ^ 1991年国際連合に加盟
  3. ^ 印東道子「火山島とサンゴ島」/ 印東道子編著『ミクロネシアを知るための58章』明石書店 2005年 20-21ページ
  4. ^ 世界遺産条約暫定リスト 環境省、林野庁
  5. ^ 棚橋訓「解説 オセアニア意島嶼部」/ 綾部恒雄監修 前川啓治・訓棚橋編集『講座 世界の先住民族 -ファースト・ピープルズの現在- 09 オセアニア』 明石書店 2005年 184ページ
  6. ^ 高橋康昌「太平洋戦争(第二次世界大戦)」/ 印東道子編著『ミクロネシアを知るための58章』明石書店 2005年 82ページ
  7. ^ 高橋康昌「太平洋戦争(第二次世界大戦)」/ 印東道子編著『ミクロネシアを知るための58章』明石書店 2005年 84-85ページ
  8. ^ 印東道子「ミクロネシアの島じま」/ 印東道子編著『ミクロネシアを知るための58章』明石書店 2005年 19ページ
  9. ^ City Population閲覧日:2017年1月30日
  10. ^ City Population閲覧日:2017年1月30日
  11. ^ 高橋康唱「自立と経済」/印東道子編著『ミクロネシアを知るための58章』明石書店 2005年 189ページ
  12. ^ City Population閲覧日:2017年1月30日
  13. ^ City Population閲覧日:2017年1月30日
  14. ^ City Population閲覧日:2017年1月30日
  15. ^ City Population閲覧日:2017年1月30日
  16. ^ City Population閲覧日:2017年1月30日
  17. ^ 印東道子「ミクロネシアの人々」/ 印東道子編著『ミクロネシアを知るための58章』明石書店 2005年 44-45ページ)
  18. ^ 増田2004、p.54
  19. ^ パラオ - 国際機関 太平洋諸島センター
  20. ^ 石川榮吉「接触と変容の諸相 : 江戸時代漂流民によるオセアニア関係史料」『国立民族学博物館研究報告別冊』第6号、国立民族学博物館、1989年2月、429-456頁、doi:10.15021/00003744ISSN 0288-190XNAID 110004413389 
  21. ^ 増田2004、p.181
  22. ^ 増田2004、p.144
  23. ^ 増田2004、pp.193-194
  24. ^ 沿革 南洋貿易株式会社
  25. ^ 野村2005、p.57
  26. ^ 野村2005、p.118
  27. ^ 野村2005、p.52
  28. ^ a b 野村2005、pp.71-72
  29. ^ The Stamford Historical Society: Peleliu(英語)
  30. ^ アンガウル州憲法」パラオ共和国アンガウル州、1982年10月8日制定
  31. ^ 【両陛下ご訪比】サイパン、パラオ、そして日本人戦没者数が海外で最も多いフィリピン ご慰霊の旅に欠かせぬ地”. 産経新聞 (2016年1月8日). 2016年6月11日閲覧。
  32. ^ ビキニ環礁、世界遺産に”. 朝日新聞 (2010年8月2日). 2016年6月11日閲覧。
  33. ^ 在パラオ日本国大使館
  34. ^ “両陛下あすパラオへ 訪問の日が「祝日」に”. 日テレNEWS24. (2015年4月7日). https://news.ntv.co.jp/category/society/272531 2015年6月11日閲覧。 
  35. ^ a b c d e f g 矢野1990
  36. ^ Michael F Hammer; Tatiana M Karafet; Hwayong Park; Keiichi Omoto; Shinji Harihara; Mark Stoneking; Satoshi Horai (2006). “Dual origins of the Japanese: common ground for hunter-gatherer and farmer Y chromosomes”. Journal of Human Genetics 51 (1): 47 - 58. doi:10.1007/s10038-005-0322-0. PMID 16328082.
  37. ^ 印東2005、p.48
  38. ^ 印東2005、p.51
  39. ^ a b 印東2005、p.49
  40. ^ a b c 印東2005、p.52
  41. ^ ミクロネシア連邦 - 愛知県国際交流協会
  42. ^ 田辺1983
  43. ^ 一谷2003
  44. ^ 印東2005、p.174
  45. ^ 印東2005、p.155
  46. ^ 印東2005、p.156
  47. ^ ワールドカルチャーガイド、p.100
  48. ^ 印東2005、p.182
  49. ^ ワールドカルチャーガイド、p.78


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