マーシャル・プラン 源流

マーシャル・プラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/05 14:09 UTC 版)

源流

戦後のヨーロッパの枠組みやヨーロッパ復興の道筋に関しては、先に述べたバーンズのシュトゥットガルト演説を始めとする、多くの青写真が提示されてきた。そして、対ギリシャ・トルコ援助打ち切りの通告からマーシャルによるハーヴァード演説までの15週間に、アメリカ政府では対外援助のあり方について様々な検討がなされた[注釈 9]。その結果マーシャル・プランの基本理念の形成に貢献する、いくつかの案が示されたのである。

3省調整特別委員会の報告

3月5日、国務次官アチソンはパターソンとフォレスタルに対し、国・陸・海3省調整委員会(State-War-Navy Coordinating Committee, SWNCC:国家安全保障会議の前身で、1944年に設置された。3省の次官補級官僚を構成員とする)を通じて、緊急の援助を必要とする国の選定を行うよう提案した。これを受けてトルーマン・ドクトリン発表の前日に当たる同月11日に第55回3省調整委員会が開催された。同委員会は対ギリシャ・トルコ援助の実施計画の検討を開始すると共に、委員会内に特別委員会を設置することを決定した。国務省内にはウィリアム・エディ(William Alfred Eddy)国務長官特別補佐官を委員長として、外国政府援助拡充委員会(Committee on Extension of United States Aid to Foreign Governments)が設置された。

4月21日、3省調整特別委員会は「合衆国による対外援助の政策・手続き・費用」と題する中間報告を提出した[16]

報告書は援助対象候補国の選定を世界的規模で行い、以下のリストを作成した。

  • 今後数か月以内(in the next few months)にアメリカからの援助が必要であり、かつ望ましい地域
1. ギリシャ、2. トルコ、3. イラン - イタリア、4. 朝鮮、5. フランス(経済的理由ではなく政治的理由から)、6. オーストリア(講和条約の締結を前提として)、7. ハンガリー
  • 現在は充足していると考えられるが、いずれ援助を要するであろう地域
1. イギリス、2. ベルギーおよびルクセンブルク、3. オランダおよびオランダ領東インド、4. フィリピン、5. ポルトガル、6. チェコスロヴァキア、7. ポーランド
  • 長期的に見た場合の総合的な優先順位
1. 西半球(a. カナダ、b. ラテン・アメリカおよびフィリピン)、2. 中近東 - ヨーロッパ、3. 極東(フィリピンを除く)
  • 既に援助の計画がある地域
1. カナダ、2. フィリピン、3. ラテン・アメリカ諸国、4. イラン、5. イタリア、6. 中国、7. ギリシャおよびトルコ

また1947年のアメリカの輸出超過を75億ドルと推定し、政府の対外支出48億ドルでは諸外国のドル不足を解消出来ないとして「危機的諸国の経済を地域的・世界的な貿易・生産体制に再統合すること」を経済政策の目標にすべしと主張した。

既に援助が計画されていた諸地域を除くと、この報告書が主にヨーロッパへの援助を重視していたことが判る。対象の中には東ヨーロッパ諸国(チェコスロヴァキア・ハンガリー・ポーランド)の名もあった。後述するように、これら3国はマーシャル・プラン発表当初、援助の受け入れに関心を示していた。その一方で、このリストにはドイツが援助対象として挙がっていない。また、緊急性の度合いという観点から援助対象を2種に分類し、政治的・軍事的危機を想定しているところにその特徴があった。

特別委員会の一員であったジョーゼフ・ジョーンズは、この中間報告が「直接的かつ有力な貢献をした」と評価した[17]。ただし、最終報告が提出されたのは10月3日であり、ハーヴァード演説への影響をみる上で考慮すべきは中間報告までである。この中間報告が演説に及ぼした影響は限定的であったとみるのが妥当であろう[18]

なお、3省調整委員会から援助問題について意見を求められた統合参謀本部 (JCS) は、回答として指令文書「JCS 1769/1」を作成した。JCSは安全保障という観点から援助のあり方を考えており、チェコスロヴァキア・ハンガリー・ポーランドを援助対象から外すことを勧告すると共に、戦略的重要地域たる西ヨーロッパの、殊にドイツの経済復興を重視した。こうした点を踏まえてJCSが示した援助の優先順位はイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ギリシャ、トルコなどの順になっており、仏独協調の重要性が謳われていた。JCS 1769/1の見解は3省調整委員会に認められ、ハーヴァード演説の8日後にフィリップ・モズリー(Philip Mosely)委員長からマーシャルに伝えられた[19][20]

政策企画本部の報告

モスクワ外相会談から帰国したマーシャルは、4月28日にラジオ放送による帰国演説で会談結果を報告した。マーシャルは「医師らが熟考している間に患者は衰弱している」[21]と述べ、ヨーロッパ経済の今後について危機感を露にした。

ラジオ演説の翌日の4月29日、マーシャルはケナンを招き、国務省内に政策企画本部Policy Planning Staff、PPS)を新設してケナンを本部長に据えることを伝えると共に、ヨーロッパ再建問題の分析と行動指針の勧告を含む文書を作成するよう指示した。ケナンは5名の部下と共に、連日非公式の検討作業を繰り返した。5月15日に政策企画本部内で行われた討議では、対ギリシャ・トルコ援助が決定した今にあっては、最大かつ決定的な問題は西ヨーロッパにあること、問題は政治的・経済的なものであって、軍事的なものでないことなどを確認した。

これらの基本方針がアチソンに了承されたのを受け、政策企画本部は5月23日に組織として最初の報告書となる政策企画本部文書第1号「アメリカの西ヨーロッパ援助に関する政策―政策企画本部の見解」を提出した[22]。表題からも明らかなように、この報告書はヨーロッパの中でも「西ヨーロッパ」の経済復興を主眼としていた。

報告書は4節8項目からなる。まず総論(第1節)において、報告書はヨーロッパの危機の根源を共産主義の活動ではなく戦争の破壊的結果に求める姿勢を明確にした。即ちアメリカは「ヨーロッパ社会をしてあらゆる全体主義運動の餌食になりやすくしており、かつ、いまそこをロシア共産主義がつけ入りつつある経済的適応性のまずさに対する戦いを目ざさねばならない」[23](第2項)。

このような状況認識に基づき、援助に際して考慮すべき問題を短期(第2節)と長期(第3節)の2種に分けて考察した。

短期的問題とは、工業用燃料の生産・供給に対する不安である。これを解決する手段として報告書が提起したのが、豊富な埋蔵量を持つドイツ炭の生産能力を回復軌道に乗せ、ヨーロッパの消費地に供給するという構想である[注釈 10]。これが実行されればアメリカの問題解決能力をヨーロッパに示すことができるとした。同時にイタリアへの緊急援助(3億5000万ドル)をも提言している(第5項)。

長期的問題とは、アメリカは西ヨーロッパ復興のために援助をいかなる形で供与すべきかという問題である。報告書はこの問題をさらに2分し、ヨーロッパの復興計画とアメリカによる援助計画の2つについて検討した。前者については、計画の策定はヨーロッパの側が主導する、ヨーロッパ諸国の共同計画とする、計画策定作業にはアメリカが関与する、国連機関を最大限に活用するなどの条件を列挙した(第6項)。後者については3省調整特別委が政策企画本部と連携しつつ、アメリカの対外政策の研究を継続すること、アメリカの政策立案に際しては早期にイギリスと非公式かつ秘密裡に協議しておくことが必要であるとした(第7項)。

なお、援助の実務を担当する国際連合機関として、報告書は欧州経済委員会Economic Commission for Europe, ECE)を候補に挙げた。ECEは国際連合経済社会理事会が下部組織として設置したばかりの機関で、アメリカ・ソ連・国際連合加盟のヨーロッパ諸国で構成されていた。ソ連や東ヨーロッパが参加する以上、ECEを実施機関とすれば議事進行に困難が伴うと予想されたため「提示された条件の受諾を望まず自ら脱退するか、あるいは各国経済における排他的志向の放棄に合意するか」[24]のいずれかをソ連の衛星諸国に選択させることをECE活用の条件とする案を示した。

最後の第4節で報告書は、トルーマン・ドクトリンが2つの誤った印象を惹起しているとして、これらを払拭するよう求めた。その印象とは、第1に「世界問題に取り組むアメリカの態度は、共産主義の圧力に対する防衛的反応であり、また他の諸国の健全な経済状態を復興しようとする努力は、この反応の副産物に過ぎず、たとえ共産主義の脅威がなくとも、われわれが関心を持たねばならないような性質のものではない」という印象、第2に「トルーマン・ドクトリンは、共産主義者が成功を収める気配を見せている世界の地域に対して、経済的・軍事的援助を与える白紙委任手形である」という印象である(第8項)[25]

クレイトンの覚書

国務省内では援助の方針を決定するための首脳会議を5月28日に開催することが決定し、政策企画本部文書第1号がその材料として供されることとなった。しかし会議の前日になって新たな文書が提出され、首脳らの注目を集めた。執筆者は、初代経済担当国務次官ウィリアム・クレイトンである。

1947年4月8日から10月30日までクレイトンは、ジュネーヴで開催された第2回国連貿易雇用会議準備委員会(Preparatory Committee of the United Nations Conference on Trade and Employment)のアメリカ代表として出席していた。この委員会は、国際貿易機関International Trade Organization, ITO)憲章の最終案の確定および関税の相互引き下げ問題を議題として開催されていた。また5月にはECEの創設会議が開催され、そこにもクレイトンが参加していた。

クレイトンはアメリカの関税を1945年水準の50パーセントにまで引き下げる権限を手にして委員会に臨んだが、イギリスは経済危機を理由として特恵関税制度の廃止に強硬に反対した。5月に至るとアメリカ議会が国内の毛織物産業保護の為毛織物の輸入関税引き上げ案を可決したが、これがイギリスとオーストリアの反発を招き、会議は暗礁に乗り上げた。

事態収拾のため5月19日に一時帰国[注釈 11]したクレイトンは、約1か月にわたるヨーロッパ視察の結果をまとめ、5月27日に覚書「ヨーロッパの危機」を提出した[26]

覚書は10項目の指摘事項からなる。クレイトンはヨーロッパの危機の根源を大戦による経済の荒廃に求めると共に、それが生産に及ぼす影響(産業の国有化や急激な土地改革・通商関係の断絶・私企業の消滅など)に関してはこれまで充分考慮されてこなかったと指摘した(第1項)。さらにクレイトンは、以下のように主張した。

政治情勢は経済情勢を反映しており、次々と生じる政治危機は重大な経済的困窮を示しているに他ならない。都市と農村との間で成立していた「近代的分業体制は、ヨーロッパではほとんど崩壊してしまった」ため、自国通貨に対する信用回復が不可欠である(第2項)。

ヨーロッパ主要諸国の年間支払不足額はイギリスが22億5000万ドル、フランスが17億5000万ドル、イタリアが5億ドル、ドイツ(英米統合占領区域)が5億ドル、合計で50億ドルに上るとみられる。英仏は「今年の末までのみとドルの準備を取り崩して不足額を埋めることも出来ようが、イタリアはそれまでもたないであろう(第3項。強調は原文)。

アメリカからの援助が無ければ「経済的・社会的・政治的崩壊がヨーロッパを沈めてしまうであろう」。もしそうなれば、アメリカは余剰生産物の為の市場を失うと共に、失業恐慌などといった甚大な影響を蒙るであろう。「このような事態が起こってはならない」(第5項。強調は原文)。故に、「(ロシアからではなく)飢餓と混乱からヨーロッパを救うために」アメリカ国民自身が若干の犠牲を差し出す必要がある(第7項。強調は原文)。その犠牲とは石炭・食糧・綿花など余剰生産物を中心に、「3年間にわたり毎年60億または70億ドル相当の物資を贈与する」ことである(第8項)。こうした援助は、英仏伊を中心としてヨーロッパの共同計画に基づいて供与されるべきであり、これに関連してヨーロッパはベネルクス(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)関税同盟のような経済連合を組織する必要性がある(第9項)。

最後にクレイトンは、「我々は別のタイプのUNRRAに陥るのを避けねばならない。合衆国がこのショーを仕切らねばならない」(第10項。強調は原文)と述べ、国際機関を通じての援助を否定した[注釈 12]

国務省首脳会議

5月28日、国務省の首脳会議が開催され、長官のマーシャル以下、アチソンおよびクレイトンの両次官、国務省顧問コーエン、国務長官特別補佐官ボーレン、経済問題担当国務次官補ソープ(Willard Long Thorp)、政策企画本部長ケナンらが出席した。会議では、政策企画本部の報告書とクレイトンの覚書とについての検討が中心議題として取り上げられた[27]

討議は主に以下の3点を巡って展開された。

  1. ソ連主導下の東ヨーロッパ諸国を援助対象に含めるか否か。
  2. アメリカとヨーロッパのいずれが援助計画作成作業を主導すべきか。
  3. 援助計画の実施時期と実施機関をどうするか。

援助対象地域については、アメリカがヨーロッパ分裂の責めを負うべきではないという点では全員が一致していた[28]。しかし、それが東ヨーロッパ諸国の参加の容認を意味するのか否かに関しては、ケナンとクレイトンはやや見解を異にしていた。ケナンは参加国を特定する表現はとらず、ソ連が好意的な気配を示せば参加を容認する用意があるとして、「我々の手でヨーロッパに分割線を引く気はない」と語った。これに対してクレイトンは「西ヨーロッパは東ヨーロッパにとって不可欠であるが、逆は真ならず」と語り、無理に東欧を含める必要はないとの立場を明らかにした。そして、東ヨーロッパの石炭や食糧は西ヨーロッパの復興にとって重要であるが、ソ連が東ヨーロッパを軍事的に支配しない限り、東ヨーロッパは外貨獲得のためにそれらを西側に輸出せざるを得ないが故に、東ヨーロッパを抜きにしてもその資源を活用できるとした。結局「計画は、東ヨーロッパ諸国が自国経済の排他的に近いソヴィエト志向を放棄すれば参加できるような条件で立案されるべきである」との結論に至った。東ヨーロッパにとって厳しい条件が付せられてはいるが、この時点では未だヨーロッパ分裂は固定的には理解されていなかったことが判る。ただし、実施段階では東ヨーロッパからの参加国は現れず、アメリカも無理に東ヨーロッパ諸国を引き入れようとした形跡もないことから、ソ連と事を構えてまで東ヨーロッパを抱き込む意志は無かったと考えてよいであろう[29]

計画の主導性については、ケナンは先に提出した報告書「PPS1」に則り、ヨーロッパに主導権を付与すべきであると主張したが、コーエンやソープは、ヨーロッパは各国の意見を調整する資質に欠けており、統一的計画を作成出来るとは考え難いとして、アメリカが実質的な責任と主導権を掌握した上で計画を進めるべきであると強調した。クレイトンもアメリカが一定の影響力を保持すべしとの考えであった。この件に関して、首脳会議がいかなる結論に達したのかは明らかではないが、その後の推移を見る限り、ヨーロッパの自主性を尊重しながらも動向を注意深く観察するといった折衷案が採用されたものと推察される[30]

実施機関について、殊にECEを実施機関とすべきか否かについても意見が割れた。クレイトンは、ECEはソ連の妨害が懸念されるため「全く利用出来ない」と断じ、英仏伊およびベネルクスの計6か国による代表との予備的議論の場を持つよう提案した。これに対しては、国際連合機関を迂回すれば世論の反発を招いて計画が頓挫するおそれがあるため、最初だけでもECEに付託すべきであるとの反論が挙がった。これについても結論は詳らかにされていないが、ケナンが「ECEをヨーロッパ復興計画のセンターとして利用したいと希望していたわれわれは、ウィル・クレイトンがヨーロッパから帰国して、ECE第1回会議でのソビエト代表の行動について報告すると、深刻な挫折感を味わった」[31]と回想していること、そしてECEが援助任務を担うことが遂になかったことを考慮すると、クレイトンの主張が通ったものとみられる[32]

こうした紆余曲折の末、マーシャルは援助計画の発表に臨んだのである。


注釈

  1. ^ 欧州経済協力機構1961年に改称して経済協力開発機構(OECD: Organization for Economic Cooperation and Development)となった。
  2. ^ 当時の為替レートは、1ポンド=4.03ドル
  3. ^ ケナンはモスクワのアメリカ大使館で参事官として在勤中の1946年2月22日にソ連の政権が持つ特徴や脆弱性・対外行動原理などを分析した、いわゆる「長文電報」を国務省に打電した。電報は国務省を超えて大反響を呼び、これがきっかけでワシントンに呼び戻されたケナンはこの時、国防大学の外国事情担当副指揮官の任にあった[3]
  4. ^ ヴァンデンバーグは戦時中に民主党が推進する戦争遂行政策や戦後の国際機関設立構想に対し、手放しとはいわないまでも基本的に賛同した。これを契機にヴァンデンバーグは外交問題に関する影響力と民主党に対する交渉力とを獲得し、超党派外交の立役者として躍り出た[4]。マーシャル・プランの発表後も、ヴァンデンバーグは共和党内の意見集約などで存在感を発揮した。
  5. ^ 油井大三郎は、演説で展開された反ソ・反共的言辞は議会や世論を説得するためのレトリックであり、トルーマン・ドクトリンは通常言われるような「対ソ封じ込め政策」の起点ではなく、「革命封じ込め政策」の起点をなすものと評価している[5]
  6. ^ ソ連はこれまで生産設備を移送させる方式での賠償取立てを実施してきたが、移送の不手際が元で設備に不具合が生じる事例が相次いだことから、賠償方式を転換した[8]
  7. ^ この頃フランスは独自の経済再建計画「モネ・プラン (Monnet Plan) 」を実施していたが、それはドイツ炭の供給を前提としており、ドイツの工業水準が引き上げられれば計画に狂いが生じるおそれがあった。結局フランスはマーシャル・プランを受け入れる道を選び、1948年秋にモネ・プランを修正した[9]
  8. ^ 演説の全文は、以下に掲載されている。United States Secretary of State James F. Byrnes Stuttgart speech, September 6, 1946.
  9. ^ この間の動向を追った作品として、ジョーゼフ・ジョーンズが著した『15週間』がある(Jones, Joseph M. The Fifteen Weeks: February 21 - June 5 1947, New York: Harcourt, Brace and Co., 1955.)。日本語文献では、(油井.戦後世界秩序の形成)が詳しい。
  10. ^ 7日前の5月16日に政策企画本部がアチソンに提出した覚書でも、この構想は「欧州のための石炭(Coal for Europe)」計画の名で現れている。Memorandum by the Director of the Policy Planning Staff (Kennan), FRUS 1947, Vol. III, p. 222. また、6月2日付文書「欧州石炭生産の増加について」でこれを敷衍している。
  11. ^ クレイトンは帰国後、関税引き上げの法案が通れば準備委員会は失敗に終わるとトルーマンに警告した。農務長官クリントン・アンダーソン拒否権発動に反対したが、トルーマンはクレイトンに従い拒否権を行使し、さらに毛織物の輸入関税を25%引き下げる権限をクレイトンに付与した。こうして準備委員会の決裂は回避された(佐藤信一 1978, p. 126)。
  12. ^ 戦災被害国の救済を目的として発足した連合国救済復興機関 (UNRRA) は、アメリカが活動資金の7割以上を拠出したにもかかわらず、他の参加諸国との調整を図る必要上、アメリカの発言権は抑制された。この結果、既にソ連の衛星国となりつつあった東ヨーロッパに対しても援助がなされたが、これについて「共産勢力を利するのみである」とするUNRRA不用論がアメリカ国内で相次いだ。クレイトンはこの前例を踏まえ、UNRRAの二の舞を演じるのを避けるためにも、アメリカの負担で行う援助の方向性はアメリカ自身が決めることができて然るべきだと主張しているのである。(牧野裕 1993, p. 299-300)。紀平『パクス・アメリカーナへの道』、232頁。
    なお、クレイトン覚書提出の翌月、UNRRAは欧州内での活動を停止した。
  13. ^ アチソンは、「卒業式の演説というものは身を入れて聞くものではなく、我慢するだけの儀礼的儀式であるから」、記念講演で欧州情勢について言及することは避けた方がよいと進言したが、マーシャルは記念講演の席を援助計画の発表の場に選んだ[34]
  14. ^ ここでいう「この数か月の間 (during recent months) 」とはどの程度の期間なのか、即ち、米国が欧州経済の危機を認識したのがいつの時点なのかに関しては、「英国が対ギリシャ・トルコ援助の打ち切りを通告した1947年2月下旬」とする説(ジョーゼフ・ジョーンズら)と、「モスクワ外相会談が決裂した1947年4月下旬」とする説(ジョン・ギンベル (John Gimbel) ら)とに大別される。本項では前者に従った。
  15. ^ マーシャルは演説の際、プレス・リリースにないくだりを追加している。演説の草稿は トルーマン図書館内資料 や『合衆国の対外関係』 (Press Release Issued by the Department of State, June 4, 1947, FRUS 1947, Vol. III, pp. 237-239.) を始めとする英語文献で、実際の演説内容は OECDホームページ などで見ることができる。日本語文献では、油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)や『中央公論』(第112巻第8号、1997年)がプレス・リリースを、永田『マーシャル・プラン』(249-253頁)が実際の演説を邦訳している。永田の邦訳では、演説とプレス・リリースとの相違点が示されている。
    演説の原文および邦訳に関しては、ウィキソースも参照。
  16. ^ 援助構想に関する国内世論の醸成ができていないのではと懸念したアメリカ政府は、演説当日にトルーマンの記者会見を設定してアメリカの報道機関の目を逸らした。その一方で、援助対象たるヨーロッパの為政者らには構想が広く伝わることを希望したため、アチソンがイギリスの報道機関の記者らと食事をした際に、会話の中で援助構想の存在について示唆していた。昼食を共にした1人であるBBC特派員レナード・マイオール (Leonard Miall) は、自身の担当する番組「米国寸評 (American Commentary) 」内で、演説のプレス・リリースを代読して放送した。「BBC特派員レナード・マイオールへのインタビュー」 Archived 2007年8月3日, at the Wayback Machine.(マーシャル財団ホームページ内。聞き手:バーバラ・ヴァンデグリフト)。Memorandum by Mr. Charles P. Kindleberger, FRUS 1947, Vol. III, pp. 246-247. Acheson, Present at the Creation, p. 234. (邦訳:287頁)
  17. ^ ジェファーソン・キャフェリー駐フランス大使は会談の前日にマーシャルに宛てて電報を送信した。それによると、ビドーはベヴィンの訪仏について、ショーで良い役を取ろうとするベヴィンの欲求の表れと解釈されるため好ましくないとキャフェリーに語った。しかし、そう語るビドー自身が良い役を取ろうとしているようであったという。The Ambassador in France (Caffery) to the Secretary of State, FRUS 1947, Vol. III, pp. 255-256.
  18. ^ 国際連合安全保障理事会での討議の際、ソビエト連邦は度々拒否権を発動して議論を停滞させた。国際連合創設当初のソビエト連邦の拒否権発動回数は飛び抜けて多く、1946年から1955年までの10年間を見ると、全体(83回)の実に96.3パーセントに当たる80回がソ連によるものであった。苅込照彰 「国連安全保障理事会の拒否権―安保理改革問題に関連して」(『調査と情報―ISSUE BRIEF』第463号、国立国会図書館外交防衛課、2005年)。
  19. ^ 非共産党員のマサリクは「計画は東西欧州の統合に寄与する」として、マーシャル・プランの受け入れを積極的に推進した。しかし共産党員であるゴットヴァルトはこの会談に先立ちスターリンと極秘裡に会合し、マーシャル・プラン不参加の意向を表明していた[44]
  20. ^ スターリンは、回答の最終期限を7月10日午後4時に設定していた[45]
  21. ^ フィンランドは冬戦争(1939年 - 1940年)や継続戦争(1941年 - 1944年)でソ連と交戦し、辛くも独立を維持したが、国土を荒廃させた。この経験を経て、同国は対ソ宥和政策に転じた[46]
  22. ^ 例えばポーランドはマーシャル・プラン拒否と引き換えに、ソ連から4億7790万ドルの借款と30の産業施設の供給を受けた。第二次世界大戦前の時点で約7パーセントであったソ連・東ヨーロッパへの貿易依存度は、1953年には約70パーセントにまで上昇した[47][48]
  23. ^ クレイトンは駐英大使ダグラス駐仏大使キャフェリーとの連携のもとでCEECと接触し、情報収集と米国の意向の伝達を図った[49][50]
  24. ^ クレイトンはこの数字を「極めて困惑を招き、かつ問題外」であるとした[51]。また、ケナンは要請額を知って驚愕し、アメリカの単独行動すら勧告した[52]
  25. ^ イギリスは協定発効から1年以内にポンドの交換性回復を実行する義務を負っていた。
  26. ^ これらは、超党派の諮問委員会の設置を主張するヴァンデンバーグの意向を受けて設置された[54]。また、議会に主導権を奪われることを恐れたアチソンは、先手を打って大統領が主導する委員会を設置する必要があるとトルーマンに進言するようマーシャルに求めていた[55]
  27. ^ ハリマン委員会については、河﨑信樹「マーシャルプランとハリマン委員会の設立」(『経済論叢』第178巻第5・6号に所収)を参照。
  28. ^ こののちウォーレスは民主党を離党して第3党「進歩党」を結成し、1948年7月の全国大会で大銀行の国有化や徴兵制の廃止などと共に、マーシャル・プランの廃止を謳った政策綱領を採択した。さらにトルーマンから政権を奪取すべく1948年アメリカ合衆国大統領選挙に出馬したが、大敗を喫した。
  29. ^ これについてウォーレスは、マーシャル・プランが自身の考える本来の姿から乖離した一因は、国際連合の機関を経由しない形での援助を強行したことにあると非難した[66]。またECAが大統領直属機関となったことにより、ECAと緊密な関係を保とうとした国務省側の思惑は外れた[67]
  30. ^ 欧州域内の貿易振興策については、菅原歩「ヨーロッパ域内決済機構の発展過程 (特集 マーシャルプランと戦後世界秩序の形成)」『調査と研究』第22号、京都大学経済学会、2001年10月、60-66頁、doi:10.14989/44523ISSN 09175393NAID 120000899452 を参照。
  31. ^ ロヴェットはハリマンに宛てた書簡の中で、「北大西洋安全保障協定はマーシャル・プランにとって不可欠の補完物である」と述べている。The Acting Secretary of State to the United States Special Representative in Europe (Harriman), Temporarily at Washington, FRUS 1948, Vol. III, p. 303.
  32. ^ 1952年には米国による対外援助の80%が軍事援助となった。(秋元.菅英(2003), p. 186)。
    ただし川口融によると、1952年の米国の経済援助は24億800万ドル(全体の59.3%)、対して軍事援助は16億5600万ドル(同40.7%)となっており、依然経済援助の方が軍事援助を上回っていることになる[73]
  33. ^ 援助の期間と総額について、大来佐武郎は「1948-1951年末で、合計120億ドル」であるとした(永田.マーシャル・プラン, p. 129)。また、『ブリタニカ百科事典 第15版(第7巻)』の「マーシャル・プラン」の項には、「1948年4月から1951年12月までに約130億ドル」 (The New Encyclopædia Britannica (15th edition) Vol. 7, p. 881.)、マーティン・シェイン編『マーシャル・プラン―50年後』には約127億ドルと記述されている (Schain, Martin, ed. The Marshall Plan: Fifty Years After, New York: Palgrave, 2001.)。
  34. ^ 小麦の25%は小麦粉の形をとることとされた[80]
  35. ^ 別の調査(商務省作成)によると、ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、アルバニア、およびソ連に供与された援助の割合は、1945年7月から翌年末までの18か月間には全体の13.7%(約11億2800万ドル)であったが、1948年には0.5%(約2600万ドル)にまで減少した。対して西欧(ギリシャおよびトルコを含む)向け援助は、56.3%(約43億5400万ドル)から77.9%(約42億9800万ドル)に上昇した[83]
  36. ^ ハーヴァード演説を起草した国務長官特別補佐官ボーレンは、「我々は、ソ連を参加させることなく、故に欧州全体を包含できるような、故に我々の威信が得られるような賭けをした」と回想した[84]
  37. ^ トルーマンは、クリーヴランド演説を「マーシャル・プランへの序幕 (the prologue to the Marshall Plan) 」と呼んだ[88]
  38. ^ 演説の内容については、Department of State Bulletin 1947, pp. 991-994.
  39. ^ 1904年にクレイトンらが創業した「アンダーソン=クレイトン商会 (Anderson, Clayton and Co.) 」は、第一次世界大戦後には世界最大の綿花商会に成長した。世界恐慌や農業不況に対処するため採られた関税引き上げや生産制限などの諸政策は同社の利害に合致せず、クレイトンはこれらを推進するフーヴァー、ローズヴェルト両政権に強く反対した[89]
  40. ^ 西欧諸国は対米州貿易で生じた赤字を解消するため、かえって植民地への経済支配を強化した[90]。このことは植民地戦争が頻発する一因となったが、多くの犠牲と引き換えにアジアアフリカの諸地域が独立を達成した。
  41. ^ コーポラティズム論をめぐる議論については、河崎信樹「マーシャルプラン再考:「コーポラティズム論」との関連を中心として」『経済論叢』第169巻5・6、京都大學經濟學會、2002年5月、488-503頁、doi:10.14989/45479ISSN 00130273NAID 120000899090 を参照。
  42. ^ 演説の全文は、以下に掲載されている。Congressional Record, Vol. 93, 80th Congress, 1st Session. A 420-422.

出典

  1. ^ Acheson, Dean, Present at the Creation, p. 217. (邦訳:265頁)
  2. ^ The British Embassy to the Department of State, Foreign Relations of the United States(以下「FRUS」)1947, Vol. V , pp. 32-37.
    国務省が刊行した外交文書集『合衆国の対外関係』には、極秘指定を解除された多数の1次史料が収録されている。マーシャル・プランの立案過程については、1950年代から関係者自身による回顧録が上梓され、詳細が次第に明らかになってきてはいたが、1次史料の公開によってマーシャル・プラン研究は大きく進展した。
  3. ^ Kennan, George F., Memoirs 1925-1950, pp. 294-295, 298.(邦訳:279-280、285頁)
  4. ^ 福田茂夫「戦後世界政治の原点―ヴァンデンバーグと超党派冷戦外交の助走」(川端正久編『1940年代の世界政治』に所収)、6-9頁。
  5. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 220.
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  8. ^ 古内博行「ドル条項問題と西ドイツ経済の復興」(廣田功、森健資編『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、107頁。
  9. ^ 菊池孝美「フランスの近代化計画と植民地」(『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、238頁。
  10. ^ Bohlen, Charles E., Witness to History, 1929-1969, p. 263.
  11. ^ 河崎信樹「H. フーバー(Herbert Hoover)のドイツ報告(1947年3月18日)とその歴史的位置」『経済論叢』第167巻第2号、京都大學經濟學會、2001年2月、127-143頁、doi:10.14989/45397ISSN 00130273NAID 110000421924 。報告書の全文は、ハリー・S・トルーマン大統領図書館・博物館(以下「トルーマン図書館」)内資料 を参照。
    フーヴァー使節団 (Hoover Mission) は、共和党の重鎮である元大統領ハーバート・フーヴァーを団長とする、対独墺経済政策調査団である。1946年11月に実施された中間選挙の結果、共和党が16年振りに上下両院を制した(下院共和党245名、民主党188名、その他1名。上院:共和党51名、民主党45名)ため、トルーマン政権は政策遂行に際して同党との宥和を図る必要に迫られた。使節団はこうした情勢を背景に結成され、主にドイツの食糧事情について調査した。3月18日の報告書は、同使節団が提出した3種の報告のうち最後のものである。
  12. ^ 坂出健、「マーシャルプラン期におけるアメリカの欧州統合政策」(『経済論叢別冊 調査と研究』第22号、2001年)、12頁, doi:10.14989/44520
    なお、国務省はドイツ復興が必要との認識こそフーヴァーやOMGUSと共有していたものの、ドイツ1国の優先的復興という両者の主張には反発した。
  13. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 221-222.
  14. ^ 油井「マーシャル・プラン」(『原典アメリカ史(第6巻)』に所収)、238頁。
  15. ^ Hogan, Michael J., The Marshall Plan: America, Britain and the Reconstruction of Western Europe, 1947-1952, New York, Cambridge University Press, 1987, p. 30.
  16. ^ "Policies, Procedures and Costs of Assistance by the United States to Foreign Countries", Report of the Special "Ad Hoc" Committee of the State-War-Navy Coordinating Committee, April 21, 1947, FRUS 1947, Vol. III , pp. 204-207.
  17. ^ Jones, The Fifteen Weeks, p. 206.
  18. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 272-273.
  19. ^ 紀平英作『パクス・アメリカーナへの道』、252-254頁。
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  21. ^ Department of State Bulletin 1947, p. 919.
  22. ^ "Policy with Respect to American Aid to Western Europe — Views of the Policy Planning Staff", The Director of the Policy Planning Staff (Kennan) to the Under Secretary of State (Acheson), FRUS 1947, Vol. III, pp. 223-230. なお、ハーヴァード演説後の7月23日、政策企画本部は最終報告「米国の立場からみた西欧復興問題の諸様相」を提出している。
  23. ^ FRUS 1947, Vol. III, pp. 225. 訳文はジョージ・ケナン、清水俊雄訳『ジョージ・ケナン回顧録(上)』、317頁より引用。
  24. ^ a b FRUS 1947, Vol. III, p. 228.
  25. ^ FRUS 1947, Vol. III, p. 229. 訳文はケナン『回顧録(上)』、321-322頁より引用。
  26. ^ "The European Crisis", Memorandum by the Under Secretary of State for Economic Affairs (Clayton), FRUS 1947, Vol. III, pp. 230-232.
  27. ^ Summary of Discussion on Problems of Relief, Rehabilitation and Reconstruction of Europe, FRUS 1947, Vol. III, pp. 234-236. 国務省執行事務局のウォード・P・アレン (Ward P. Allen) が残した覚書が、会議の内容を示す公的文書である。これ以外では、ケナン『回顧録(上)』第14章、アチソン『アチソン回顧録』第26章などが会議の様子を断片的ながら伝えている。
  28. ^ Acheson, Present at the Creation, p. 232. (邦訳:284頁)
  29. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 290-291.
  30. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 291-292.
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  63. ^ 川口『アメリカの対外援助政策』、15頁。
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  69. ^ 奥村茂次「マーシャル・プラン」、213頁。
  70. ^ 佐々木卓也「ポ-ル・H.ニッツィと封じ込め政策の転換,1950-53年」『一橋論叢』第100巻第1号、日本評論社、1988年7月、97頁、doi:10.15057/12657ISSN 00182818NAID 110000315370 
    ケナンのドイツ再統一構想、通称「プログラムA」に関しては、佐々木卓也「ジョージ・F・ケナンとドイツ分割・再統一問題 一九四五-四九年」『一橋論叢』第93巻第2号、日本評論社、1985年2月、254-273頁、doi:10.15057/12923ISSN 00182818NAID 110007639907 
  71. ^ 板垣.佐藤(1960), p. 109.
  72. ^ 川崎晴朗 「欧州共同体が接受した初期の代表部」(『外務省調査月報』2006年第3号)、79頁。
  73. ^ 川口『アメリカの対外援助政策』、19頁。
  74. ^ 奥村「マーシャル・プラン」、212頁より引用。
  75. ^ 奥村「マーシャル・プラン」、212頁。
  76. ^ United States Department of Commerce "A Supplement to the Survey of Current Business", Foreign Aid 1940-1951. 経済企画庁 『平成3年 年次世界経済報告』
    この表ではその名が現れていないが、『米国の対外援助 1953年 (W. A. Brown & R. Opie, American Foreign Assistance, 1953) 』によると、ユーゴスラヴィアも約0.5億ドルの援助を受けていた(奥村「マーシャル・プラン」、213頁)。ソ連と対立してコミンフォルムから除名された同国は、他の東欧諸国とは異なりワルシャワ条約機構に加盟せず、またOEECにはオブザーヴァーを派遣していた。
  77. ^ 秋元、菅『アメリカ20世紀史』、184頁。
  78. ^ (板垣.佐藤(1960), p. 103)。なお、この一覧で示されている割合は、「1948年から1952年6月までに131億5000万ドルが支出された」とする積算に基づく値であり、上記の国別援助額の表とは援助総額の算定方法が異なる。
  79. ^ 宮崎礼二 1998.
  80. ^ 板垣.佐藤(1960), p. 97.
  81. ^ ECA長官は、米国内で不足している物資の調達を抑制し、余剰物資の調達を奨励することとされた。(板垣.佐藤(1960), p. 97)。
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    ITO憲章(通称「ハバナ憲章」)の一部は「関税および貿易に関する一般協定 (GATT) 」として暫定的に発効し、約半世紀に及ぶ曲折を経て世界貿易機関 (WTO) 設立へと繋がった。
  93. ^ 陸井三郎「マーシャル・プラン」(『世界大百科事典 第20巻』(平凡社、1967年)に所収)、805頁。
  94. ^ 山極潔「現代のフランス」(『フランス史』(山川出版社)に所収)、522-523頁。対して廣田功は、マーシャル・プランは「危機的状態にあったモネ・プランを救い、近代化政策を軌道に乗せ」たと肯定的に評価している。廣田功「フランスの近代化政策とヨーロッパ統合」(廣田、森編『戦後再建期のヨーロッパ経済』に所収)、142頁。
  95. ^ Milward, Alan S., The Reconstruction of Western Europe 1945-1951, London, 1983. ミルウォードとホーガンの主張の相違点については、河崎信樹, 坂出健「マーシャルプランと戦後世界秩序の形成 (特集 マーシャルプランと戦後世界秩序の形成)」『調査と研究』第22号、京都大学経済学会、2001年10月、1-9頁、doi:10.14989/44518ISSN 09175393NAID 120000899357 を参照。
  96. ^ 油井.戦後世界秩序の形成, p. 287.
  97. ^ 『索引政治経済大年表 年表編(下巻)』(108頁)には、「4月10日 - 8月23日」とある。
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  99. ^ (油井.戦後世界秩序の形成, p. 305)。(板垣.佐藤(1960))には、「7月29日」とある。
  100. ^ The Acting Secretary of State to the Embassy in France, FRUS 1947, Vol. III, pp. 356-360.
  101. ^ Minutes of Meeting on Marshall "Plan" 3:00 P. M., August 22, 1947, FRUS 1947, Vol. III, pp. 369-372.
  102. ^ "Resume of the World Situation", Report by the Policy Planning Staff, FRUS 1947, Vol. I, pp. 770-777.
  103. ^ 法政大学大原社会問題研究所『社会・労働運動大年表』、481頁。
  104. ^ 法政大学大原社会問題研究所 『社会・労働運動大年表』、491頁。






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