マルコ・ポーロ 影響

マルコ・ポーロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 05:44 UTC 版)

影響

1450年にヴェネツィアの僧侶フラ・マウロが作成した地図

黄金の国ジパング

マルコ・ポーロ(Marco Polo)は、自らは渡航しなかったが 日本のことをジパング (Zipangu)の名でヨーロッパに初めて紹介した。バデルが校正したB4写本では、三章に亘って日本の地理・民族・宗教を説明しており、それによると中国大陸から1,500海里(約2,500km)に王を擁いた白い肌の人々が住む巨大な島があり、黄金の宮殿や豊富な宝石・赤い真珠類などを紹介している[3]。1274年、1281年の元寇についても触れているが、史実を反映した部分もあれば、元軍が日本の首都である京都[30]まで攻め込んだという記述や日本兵が武器にしていた奇跡の石など、空想的な箇所もある[2]

「黄金の国」伝説は、奥州平泉中尊寺金色堂についての話[37]遣唐使時代の留学生の持参金および日宋貿易の日本側支払いにが使われていた事[34]によって、広く「日本は金の国」という認識が中国側にあったとも考えられる。また、イスラム社会にはやはり黄金の国を指す「ワクワク伝説」があり、これも倭国「Wa-quo」が元にあると思われ、マルコ・ポーロの黄金の国はこれら中国やイスラムが持っていた日本に対する幻想の影響を受けたと考えられる[2]

日本では、偶像崇拝(仏教)が信仰されていることや、埋葬の風習などに触れているが[30]、これはジパングと周辺の島々について概説的に述べられており、その範囲は中国の南北地域から東南アジアおよびインドまでに及ぶ。また、これらはフリーセックス的な性風俗ともども十字軍遠征以来ヨーロッパ人が持っていた「富」および「グロテスク」という言葉で彩られるアジア観の典型をなぞったものと考えられる[2]

当時の日中貿易は杭州を拠点に行われていた。しかし1500海里という表現は泉州から九州北部までの距離と符合し、ここからマルコは日本の情報を泉州で得たと想像される。「ジパング」の呼称も中国南部の「日本国」の発音「ji-pen-quo」が由来と思われる点がこれを裏付ける。この泉州は一方でインド航路の起点でもあり、マルコの日本情報はイスラム商人らから聞いたものである可能性が高い[2]

ユーラシア情報

マルコ・ポーロは旅の往復路や元の使節として訪れた土地の情報を多く記録し、『東方見聞録』は元代の中国に止まらず東方世界の情報を豊富に含み、近代以前のユーラシア大陸の姿を現在に伝える[38]。 それらは異文化の風習を記した単なる見聞に止まらず、重さや寸法または貨幣などの単位、道路や橋などの交通、さらには言語等にも及び、それは社会科学民俗学的観察に比される[39]。 その中で、マルコはアジアの「富と繁栄」を多く伝えた。世界最大の海港と称賛した泉州[40]や杭州[41]の繁栄ぶりに驚嘆し、大都の都市計画の整然さや庭園なども美しさを記している。また、ヨーロッパには無かった紙幣に驚き、クビライを「錬金術師」と評した[42]。 なお、彼は元の成立をプレスター・ジョンと関連づけた記述を残している[43]

往路ではシルクロードを通り、伝えた中央アジアの情報について探険家のスヴェン・ヘディンは、その正確さに感嘆した[34]。1271年にパミール高原(かつてはImeon山と呼ばれた)を通過した際に見た大柄なヒツジについても詳細な報告を残しており[注 7]、この羊には彼の名を取りマルコポーロヒツジとの名称がついた[44]

復路の船旅についても、南海航路の詳細や東南アジアやインドなどの地方やイスラム文化等の詳細を伝え[32]、さらに中国やアラブの船の構造についても詳細を記した[45]。 1292年にインドを通った時の記録には、聖トマスの墓が当地にあると記している[46]。 また、イスラムの楽器についても記録した[47]

マルコは宝石の産地を初めて具体的にヨーロッパに知らせた。セイロン島では良質なルビーサファイアが採れ、またコロマンデル海岸の川では雨の後でダイヤモンドが拾えるが、渓谷に登って採掘するには毒蛇を避けねばならないと記した[48]

世界観への影響

  • 『東方見聞録』は、中世におけるヨーロッパ人のアジア観に変化を与えた、キリスト教的世界観である普遍史エルサレムを世界の中心とするマッパ・ムンディで図案化されてきたが、マルコ・ポーロの報告はパクス・モンゴリカの成立によるアジアの新情報ともども変更を迫られた。イシドールスの『語源』以来ヨーロッパ人が持っていた怪物や化け物的人類が闊歩する遠方アジア観「化物世界史」[49]の誤りを数多く指摘した[50]
  • マルコ・ポーロ以降も極東の島・日本はまだ見ぬ憧憬の国であり[51]、様々な形で想像され、世界地図に反映されることになった[52][53]
  • マルコの報告が大航海時代を開く端緒のひとつになったという考えもある[54]。1453年に作成されたフラ・マウロの世界図に対して、ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオ英語版は以下のコメントを寄せている[54]
That fine illuminated world map on parchment, which can still be seen in a large cabinet alongside the choir of their monastery (the Camaldolese monastery of San Michele di Murano) was by one of the brothers of the monastery, who took great delight in the study of cosmography, diligently drawn and copied from a most beautiful and very old nautical map and a world map that had been brought from Cathay by the most honourable Messer Marco Polo and his father.
この羊皮紙に描かれたすばらしい世界地図は、宇宙誌を学ぼうとする者に偉大なる光を与えたもう僧院のひとつである(ムラーノのサン・ミッシェル、カマルドレセ)修道院の聖歌隊席の横にある大きな飾り棚に見ることができる。克明に写され描かれた至上の美しさといにしえの知を伝える海図と世界地図は、最も高貴なる伝達者マルコ・ポーロとその父がキャセイ(中国)より伝えしものである。 — ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオ

持ち帰ったもの

  • マルコ・ポーロは中国で、住民が細長い食べ物を茹でている光景を見た。この料理の作り方を教わったマルコはイタリアに伝え、これが発達してパスタになったという説がある。この説によると、「スパゲッティ」(Spaghetti)とはマルコに同行していた船乗りの名が由来だという[55]
    別な俗説では、マルコ一行のある船員と恋仲になった中国娘が、帰国の途に就く男との別れに悲しむ余り倒れ、その時に持っていたパンの生地を平らに潰してしまった。この生地がやがて乾いてミェヌ(麺)状になったというものもある[55]
    ただし、これには否定論もあり、16世紀に『世界の叙述』をラムージオが校訂した際に紛れ込んだ誤りのひとつで、イタリアのパスタと中国の麺類に関連性は無いとも言われる[56]
  • 陶磁器も持ち帰った。中国の陶磁器はセラミック・ロードと呼ばれる南海ルートでイスラム商人が8 - 9世紀頃からヨーロッパへ持ち込んでいたが、マルコは製造工程も見聞している。しかし、これは西欧での陶磁器製造には結びつかなかった[57]
  • 方位磁石もまた、マルコが中国から持ち帰った一品である。これは羅針盤へ発展し、大航海時代を支える道具となった[58][注 8]

中国を目指した他の人々

クリストファー・コロンブスが手書きの注釈を加えた『東方見聞録』写本

マルコ・ポーロ以前にヨーロッパ人が中国を旅した他の例にはプラノ・カルピニがいる。しかし、彼の旅行の詳細は一般に広く知られることは無く、この点からマルコが先陣を切ったと思われている。クリストファー・コロンブスはマルコが描写した極東の情報に強く影響を受け、航海に乗り出す動機となった。コロンブスが所蔵した『東方見聞録』が残っており、ここには彼の手書き注釈が加えられている[5]ベント・デ・ゴイスも「東洋で君臨するキリスト教の王」についてマルコが口述した部分に影響され、中央アジアを3年間かけて4,000kmにわたり旅をした。彼は王国を見つけられなかったが、1605年には万里の長城に至り、マテオ・リッチ(1552年 - 1610年)が呼んだ「China」が、「Cathay」と同一の国家を指していることを立証した[59]


注釈

  1. ^ 正確な根拠は無いが、この肖像画16世紀ローマのモシニョール・バディア画廊で描かれたものである。碑文には、「Marcus Polus venetus totius orbis et Indie peregrator primus」とあり、これは辞書『Nordisk familjebok』(1915年)にも採録されている。
  2. ^ ほとんどの出典がこの年を採用しており、ブリタニカ百科事典(2002年、p571)でも「1254年前後生まれ。(これは、彼の人生における主要な出来事のほとんどと同じく推測の域を出ない)」と書かれている。
  3. ^ 他の説を紹介する文献もあり、例えばBurgan, 2002, p=7では生誕地を現在のクロアチアであるダルマチアの島コルチュラ島だったとしている。Korcula infoでも「完全なる証拠が揃っているわけではないが、(マルコ)ポーロがコルチュラ島で生まれたという評判がある」と述べ、同島には「マルコ・ポーロ生誕の地」が存在する。ウェブサイト
  4. ^ チベットの僧侶にしてクビライに仕えたパクパが残した日記によると、1271年にハーンの異邦の友人が訪れたことが記されている。これがマルコ・ポーロ一行だった可能性はあるが、そこに来訪者の名前は無い。この一件がマルコらを示していないとすれば、彼らが到着した年は1275年(愛宕松男の説によれば1274年)ではないかと考えられる。Britannica, 2002, p=571
  5. ^ 陳舜臣『中国の歴史』(五)p361-362では、マルコ・ポーロはペルシャ語は理解できたが「漢語」には通じていなかったとある。クビライの臣下には「色目人」と呼ばれる西域人(ヨーロッパ人のマルコもこの中に入る)が多数おり、彼らは本俗法という出身地の習俗を維持することが認められていたため、必ずしも中国語に精通する必要性が無かった。
  6. ^ Parker, 2004, pp=648–649の表記に倣うが、ラルース、p377ではアルグン・ハンは妃到着の直前に死去したとある。
  7. ^ Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 18 Then there are sheep here as big as asses; and their tails are so large and fat, that one tail shall weigh some 30 lb. They are fine fat beasts, and afford capital mutton. 訳:次に、ここにはロバと同じ程度の大きさのヒツジがいる。その長く太い尾は1本で30ポンド(約13.6キログラム)はあろう。すばらしく太ったその家畜は、良質なマトンの供給源となる。
  8. ^ ただし、マルコ・ポーロの方位磁石が地中海の羅針盤に直接繋がったとは言いがたい。ヨーロッパの羅針盤は1302年にフラビオ・ジョイアが発明したという伝説があるが、これも実際は他の地域から導入されたものである。応地利明著『「地図世界」の誕生』(日本経済新聞社、ISBN 978-4-532-16583-3、p197)では、この導入ルートを中国から受容したアラブ世界という説と、バルト海域のノルマン人航海者からの伝播という説を紹介している。

脚注

  1. ^ a b c 阪田蓉子. “図書の文化史 (PDF)” (日本語). 明治大学. 2010年7月17日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 片山幹生. “マルコ・ポーロ『世界の記述』における「ジパング」 (PDF)” (日本語). 成城大学フランス語フランス文化研究会. 2010年7月17日閲覧。
  3. ^ a b c 木村榮一. “風の頼りⅡ(第24回)” (日本語). 神戸市外国語大学. 2010年7月17日閲覧。
  4. ^ a b c d ラルース、p377
  5. ^ a b Landström, 1967, p=27
  6. ^ Bergreen, 2007, p=25
  7. ^ a b c d マルコ・ポーロ『東方見聞録』” (日本語). 京都外国語大学付属図書館. 2010年7月17日閲覧。
  8. ^ a b c d Britannica , 2002, p=571
  9. ^ a b c d e f g h i Parker, 2004, pp=648–649
  10. ^ a b c ラルース、p374
  11. ^ Yule & Cordier 1923, ch.1–9
  12. ^ a b c d e f 40.マル・ポーロ『東方見聞録』英訳・1818年” (日本語). 放送大学付属図書館. 2010年7月17日閲覧。
  13. ^ Bram, 1983
  14. ^ Bergreen, 2007, p=532
  15. ^ Power, 2007, p=87
  16. ^ a b c Bergreen, 2007, pp=339–342
  17. ^ Britannica, 2002, p=573
  18. ^ 国立マルチャーナ図書館。マルコの遺書原本を保管している。Venezia.sbn.it
  19. ^ Bergreen, 2007, pp=367–368
  20. ^ Edwards, p=1
  21. ^ Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 2
  22. ^ Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 3
  23. ^ Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 5
  24. ^ Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 6
  25. ^ ラルース、p375
  26. ^ Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 7
  27. ^ Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 9
  28. ^ a b c d ラルース、p376
  29. ^ W. Marsden (2004年). Thomas Wright: “The Travels pf Marco Polo, The Venetian (1298) (PDF)” (英語). 2009年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月14日閲覧。
  30. ^ a b c 佐佐木茂美. “ヨーロッパから見た「最初の日本人像」” (日本語). 明星大学. 2010年7月17日閲覧。
  31. ^ a b c 長澤、p132-134 マルコ・ポーロの大旅行
  32. ^ a b c 長澤、p134-135 十三世紀の南海路
  33. ^ Boyle, J. A. (1971). Marco Polo and his Description of the World. History Today. Vol. 21, No. 11. Historyoftoday.com
  34. ^ a b c d e 森良和. “マルコ・ポーロの謎” (日本語). 玉川大学文学部. 2010年7月17日閲覧。
  35. ^ 『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』(1995年、訳、栗野真紀子 草思社、1997年11月、ISBN 4794207891
  36. ^ Mardomsalari紙、翻訳:斎藤正道. “文化遺産観光庁長官「マルコ・ポーロはスパイ目的でシルクロードを旅した」” (日本語). 東京外国語大学中東イスラーム研究教育プロジェクト. 2010年7月17日閲覧。
  37. ^ 本間久英. “砂金の成長についての一考察 (PDF)” (日本語). 東京学芸大学. 2010年7月17日閲覧。
  38. ^ 新宮学. “マルコ・ポーロの『東方見聞録』を読む” (日本語). 山形大学. 2010年7月17日閲覧。
  39. ^ ラルース、p378-379
  40. ^ 海を越えた陶磁器と茶の文化‐海のシルクロードの出発点 福建” (日本語). 佛教大学. 2010年7月17日閲覧。
  41. ^ 二階堂善弘. “杭州の寺廟について” (日本語). 関西大学文学部. 2010年7月17日閲覧。
  42. ^ 金川欣二. “文字と日本人” (日本語). 富山工業高等専門学校. 2010年7月17日閲覧。
  43. ^ 笈川博一『コロンブスは何を「発見」したか』講談社現代新書、1992年、第一刷、178頁。
  44. ^ Bergreen, 2007年, p=74
  45. ^ 長澤、p135-141 アラブ船の構造、中国船の構造
  46. ^ 杉本良男. “国立民族学博物館研究報告27(4) 儀礼の受難‐楞伽島綺‐ (PDF)” (日本語). 国立民族学博物館学術情報リポジトリ. pp. 622. 2010年7月17日閲覧。
  47. ^ 小柴はるみ/東海大学. “第7回「サライ・アルバム」研究会報告” (日本語). 東京大学東洋文化研究所. 2010年7月17日閲覧。
  48. ^ パトリック・ヴォワイヨ『宝石の歴史』創元社、2006年、第一刷、102-104頁。
  49. ^ 増田義郎 『新世界のユートピア』 研究社、1971年/中公文庫、1989年
  50. ^ 岡崎勝世『聖書vs.世界史』講談社現代新書、1996年、第一刷、87-93頁。ISBN 4-06-149321-3
  51. ^ 日欧関係展目録” (日本語). 東北大学付属図書館. 2010年7月17日閲覧。
  52. ^ 石田千尋. “第95回展示 西洋古版日本地図展「西洋古版日本地図展」開催にあたって” (日本語). 鶴見大学図書館. 2010年7月17日閲覧。
  53. ^ 西洋古版日本・アジア地図” (日本語). 近畿大学中央図書館. 2010年7月17日閲覧。
  54. ^ a b Falchetta 2006, p. 592
  55. ^ a b 国分理都子. “PASTAの歴史” (日本語). 茨城大学. 2010年7月17日閲覧。
  56. ^ ラルース、p379
  57. ^ 横道千枝. “陶磁器の技術移転と国際政治” (日本語). 慶應義塾大学法学部. 2010年7月17日閲覧。
  58. ^ 縄手雅彦. “磁石の歴史” (日本語). 島根大学総合理工学部電子制御システム工学科. 2010年7月17日閲覧。
  59. ^ Winchester, 2008年, p=264
  60. ^ 田村譲. “日中戦争(支那事変・日華事変)” (日本語). 松山大学法学部. 2010年7月17日閲覧。
  61. ^ www.china.org 盧溝橋の解説(英語)







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