マルコ・ポーロ マルコ・ポーロの概要

マルコ・ポーロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 05:44 UTC 版)

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マルコ・ポーロ
マルコ・ポーロの肖像[注 1]
生誕 1254年
ヴェネツィア共和国
死没 1324年1月8日
ヴェネツィア共和国 ヴェネツィア
墓地 サン・ロレンツォ教会(en)
北緯45度26分14.25秒 東経12度20分43.79秒 / 北緯45.4372917度 東経12.3454972度 / 45.4372917; 12.3454972
職業 商人、冒険家
著名な実績東方見聞録
配偶者 ドナータ・バドエル
子供 ファンティーナ、ベレーラ、
父:ニコーロ・ポーロ
母:不詳

概略

商取引を父ニッコロー・ポーロイタリア語版と叔父マッフェーオ・ポーロ英語版に学んだ。1271年、父・叔父と共にアジアに向け出発し、以降24年間にわたりアジア各地を旅する。帰国後、ジェノヴァとの戦争に志願し、捕虜となって投獄されるが[3]、そこで囚人仲間に旅の話をし、これが後に『東方見聞録』となった。1299年に釈放された後は豪商になり、結婚して[4]3人の子供に恵まれた。1324年に没し、サン・ロレンツォ教会イタリア語版に埋葬された。

彼の先駆的な冒険は当時のヨーロッパ地理学にも影響を与え、フラ・マウロの世界図が作成された。またクリストファー・コロンブス[5]など多くの人物に刺激を与えた。マルコ・ポーロの名はマルコ・ポーロ国際空港マルコポーロヒツジ英語版にも使われ、彼の生涯をテーマにした小説映画なども製作された。

生涯

幼少時

マルコ・ポーロがいつ、どこで生まれたか正確には分かっておらず、現代の説明はほとんどが推測である。その中で最も引用される情報は1254年生まれというものである[注 2]。生誕地は一般にヴェネツィア共和国だったと受け取られており、これも正しい場所は不明ながら多くの伝記にて同様に書かれている[6][注 3]

生家は代々続く商家で[7]、彼の父親ニコーロは中東貿易に従事する商人として活躍し、財と地位を成しつつあった[8][9]。 ニコーロとマフェオの兄弟はマルコが生まれる前に貿易の旅に出発し[9]コンスタンティノープルに住み着いた[10]

政変が起こると予測した彼らは、1260年に財産をすべて宝石に換えてその地を離れ[8]、毛皮貿易で栄えるクリミアへ向かった[10]。『東方見聞録』によると、彼らはアジアを東へ向かい、クビライとも謁見しているという[11]。 この間、マルコの母親は亡くなり、彼は叔父と叔母に養育された[9]。マルコはしっかりした教育を受け、外貨や貨物船の評価や取り扱いなど商業についても教わった[9]が、ラテン語を履修する機会は持てなかった[8]

旅の行程

1269年、ニッコローとマッフェーオの兄弟はヴェネツィアに戻り、初めてマルコと会った。そして1271年後半[2]に兄弟は17歳のマルコとともに後に『東方見聞録』に記録されるアジアへの旅に出発した。一行が富と宝を得て戻ってきたのは24年後の1295年、全行程15,000kmの旅であった[9]

彼らが帰還してから3年後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態に入った。マルコは兵士として志願し従軍したが、ジェノヴァに捕らえられた[3][12]

数ヶ月の収監中、彼は旅の詳細を口述し、これを書き留めたのが、彼と同じく投獄されていた職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサであった[2][9]。しかしピサは、ここに彼自身が聞きかじった物事や他の逸話や中国からもたらされた伝聞などを勝手に加えてしまった。この記録は、マルコがアジアを旅したことを記録した『東方見聞録』 (Il Milione) として有名になり、中国、インド日本を含む極東の内実に関する包括的な視点に立った情報を初めてヨーロッパにもたらした[13]

マルコは1299年8月に釈放され[9]、父と叔父がヴェネツィア市内の中心部に購入した広大な屋敷(contrada San Giovanni Crisostomo)に戻ることができた。事業は活動を継続しており、マルコはすぐに豪商の仲間入りを果たした。ただし、その後マルコは遠征への出資こそするも、彼自身はヴェネツィアを離れなかった。1300年、マルコは商人ヴィターレ・バドエルの娘ドナータ・バドエルと結婚し[14]、ファンティーナ、ベレーラ、モレッタと名づけた3人の娘に恵まれた[15]

死去

ベネツィアのカステッロ地区英語版 にあるサン・ロレンツォ・ディ・ヴェネツィア教会。マルコ・ポーロが埋葬されている。写真は再建されたもの。

1323年、病気になったマルコ・ポーロは枕も上がらなくなった。翌年1月8日、医師の努力も空しく死期が迫ったマルコは財産分与を認め、亡くなった。遺言の公認を聖プロコロ教会の司祭ジョバンニ・ジュスティニアーニから得た妻と娘たちは正式に共同遺言執行者 (en) となった。遺言に基づいて教会も一部の地権を受け、さらに多くの遺産分与をサン・ロレンツォ教会に行なって遺体を埋葬された[16]。 また、遺言にはマルコがアジアから連れてきたタタール人奴隷を解放するよう指示されていた[17]

マルコは残りの遺産についても、個人や宗教団体、彼が属したギルドや組織などへの配分を決めていた。さらに、彼は義理の姉妹が負っていた300リラの借金や、サン・ジョバンニ修道院、聖ドミニコ修道会のサン・パウロ教会または托鉢修道士英語版のベンヴェヌートら聖職者が持つ負債の肩代わりもした。ジョバンニ・ジュスティニアーニには公証人役への報酬、また信者からとして200ソリドゥスが贈られた[16]

マルコの署名は無かったが、「signum manus」の規則が適用され有効なものとされた遺言状は、日付が1324年1月9日になっていた。規則により遺言状に触れる者は遺言者だけと決められていたため[18]、マルコの没日は9日ではないかとの疑問も生じたが、当時の1日は日没で日付が変わっていたため、現在で言う8日深夜であった可能性もある[16]

マルコ・ポーロの旅

『イル・ミリオーネ』 (Il Milione) のミニアチュール
マルコ・ポーロ存命中に発刊された『イル・ミリオーネ』の一ページ

マルコ・ポーロの口述を記した原本は早くから失われ[7]、140種類を超える[1][7]写本間にも有意な差が見られる。初期はフランス語で書かれていたと考えられる本は1477年にドイツ語で初めて活字化され、1488年にはラテン語およびイタリア語で出版された[12]。しかし、これらにおいても、単独の筋書きに拠るもの、複数の版を統合したり、ヘンリー・ユールによる英語翻訳版のように一部を加えたりしたものがある。

同じ英語翻訳でもA.C.ムールとポール・ペリオが訳し1938年に出版された本では、1932年にトレド大聖堂で発見されたラテン語本を元にしているが、他の版よりも5割も長い[19]

このように、さまざまな言語にまたがる異本が知られている[1]。印刷機(en)の発明以前に行なわれた筆写と翻訳に起因して多くの誤りが生じ、版ごとの食い違いが非常に多い[20]。これらのうち、14世紀初頭に作られた、「F写本」と呼ばれるイタリア語の影響が残るフランス語写本が最も原本に近いと思われている[2]

内容

本は、ニコーロとマフィオがキプチャク・ハン国ベルケ王子が住むボルガール (en)[10]へ向かう旅の記述から始まる。1年後、彼らはウケク (en) に行き[21]、さらにブハラへ向かった。そこでレバントの使者が兄弟を招き、ヨーロッパに行ったことがないクビライと面会する機会を設けた[22]。 これは1266年大都(現在の北京)で実現した。クビライは兄弟を大いにもてなし、ヨーロッパの法や政治体制について多くの質問を投げ[23]、またローマ教皇や教会についても聞いた[24]。兄弟が質問に答えるとクビライは、リベラル・アーツ(文法、修辞学、論理学、幾何学、算術、音楽、天文学)に通じた100人のキリスト教徒派遣を求めた教皇に宛てた書簡を託した。さらにクリスム(Chrism, エルサレムの、イエス・キリスト墓前に灯るランプ[25])も持ってくるよう求めた[26]

ローマ教会では1268年クレメンス4世が没して以来、使徒座空位にあり、クビライの要請に応える教皇は不在のままだった。ニコーロとマフェオはテオバルド・ヴィスコンティ、次いでエジプト駐留の教皇使節から助言を受け、ヴェネツィアに戻り次期教皇の即位を待つことにした。彼らがヴェネツィアに着いたのは1269年もしくは1270年であり、ここで当時16歳か17歳だったマルコと初めて会うことになった[27]

次期教皇はなかなか決まらず、1271年にニコーロとマフィオそしてマルコの3人はクビライへの説明のために旅に出発した[28]。彼らが小アルメニアのライアスに到着した時、新教皇決定の知らせが届いた[28]。彼らに、2人の宣教師ニコロ・ディ・ヴィツェンツァとグリエルモ・ディ・トリボリが同行することになったが、宣教師らは旅の困難さに直面し早々に逃亡してしまう[28]

タタールの衣装を纏うマルコ・ポーロ

マルコ一行はまずアッコまで船で往き、ペルシャのホルモズガーン州ラクダに乗り換えた。彼らは船で中国まで行きたかったが当地の船は航海に適さず、パミール高原ゴビ砂漠を越える[12]陸路でクビライの夏の都・上都(現在の張家口市近郊)を目指した。ヴェネツィアを出て3年半後、21歳前後まで成長したマルコを含む一行は目的地に到着し、カーンは彼らを歓迎した[9]。マルコらが到着した正確な日付は不明だが、研究者によると1271年から1275年の間だと見なされている[注 4]。 宮廷にて、一行はエルサレムから持参した神聖なる油と、教皇からの手紙をクビライに渡した[8]

一行は元の政治官に任命され、マルコは中国南西部の雲南蘇州楊州徴税実務に就いたり、また使節として[12]帝国の南部や東部、また南の遠方やビルマスリランカチャンパ王国(現在のベトナム[28]など各所を訪れ、それを記録した[29]。 マルコはイタリア語の他に、フランス語トルコ語モンゴル語中国語[注 5]の4言語に通じ[30]、一行はクビライにとって有用な知識や経験を数多く持っていたこともあり、マルコの役人登用は不自然ではない[9]

17年間中国に滞在した[31] マルコら一行は元の政治腐敗を危惧し、中国を去りたいという申し出をしたがクビライは認めなかった[4]。 しかし彼らは、もしクビライが亡くなれば重用された自分たちは政敵に狙われ無事にヨーロッパに戻れなくなるのでは、と危惧していた。1292年イル・ハン国アルグン・ハンの妃に内定したコカチンを迎えに来た使節団が、ハイドゥの乱のために陸路を取れず南海航路で帰国することになった際、航路に詳しいマルコらに同行を求めた[4][31]。この許可を得た一行は同年に泉州市から14隻のジャンク船団を組んで南へ出航した[31]。彼らはシンガポールに寄港し、スマトラ島では5ヶ月風待ちして過ごし[32]セイロン島を経由して[12]インド南岸を通過し、マラバール[7] アラビア海を通って1293年2月頃にオルムス(Ormus, ホルムズとも)に至った[32]。2年間にわたる船旅は決して平穏ではなく、水夫を除くと600人いた乗組員は到着時には18人にまで減ったが、コカチンやマルコら3人は無事に生き残った[12][33]。 オルムスに到着し行われた結婚の祝賀会が終わると、マルコらは出発し、陸路で山を超え黒海の現在ではトラブゾンに当たる港へ向かった[注 6]。 マルコらがヴェネツィアに戻ったのは1295年、通算24年間の旅を終えた[4]

評価

マルコの肖像が描かれた旧1000リレ紙幣
  • マルコには『イル・ミリオーネ(Il Milione、百万男)』というあだ名がついていた[34]。『東方見聞録』でルスティケロは「それらはすべて賢明にして尊敬すべきヴェニスの市民、《ミリオーネ》と称せられたマルコ・ポーロ氏が親しく自ら目睹したところを、彼の語るがままに記述したものである。」と述べている。
    このあだ名の由来には諸説あるがはっきりしたことは分からない。中国の人口や富の規模について百万単位で物語ったことからきたという説、またそれを大風呂敷だとして当時の人がからかい、そのように呼んだという説、またアジアから持ち帰った商品によって「百万長者」になったことを表すという説などがある[34]
  • 大英図書館中国部主任のフランシス・ウッドは『東方見聞録』には実在した中国風俗の多くが紹介されていないことなどを理由に、マルコが元まで行ったことに否定的な見解を示し、彼は黒海近辺で収集した情報を語ったと推測している[34][35]
  • 日本のモンゴル史学者の杉山正明はマルコ・ポーロの実在そのものに疑問を投げかけている。その理由として、『東方見聞録』の写本における内容の異同が激しすぎること、モンゴル・元の記録の中にマルコを表す記録が皆無なことなどを挙げている。但しモンゴル宮廷についての記述が他の資料と一致する、つまり宮廷内に出入りした人物で無いと描けないということから、マルコ・ポーロらしき人がいたことは否定していない。(杉山正明「世界史を変貌させたモンゴル」、「クビライの挑戦」など参照)
  • 2010年1月イランのハミード・バガーイー文化遺産観光庁長官は、国際シルクロード・シンポジウムにてマルコ・ポーロの旅には西洋が東洋の情報を収集して対抗するための諜報活動という側面があったという説を述べた。これは、単に交易の道だけに止まらないシルクロードが持つ機能を端的に表現したもので、この道が古来から文化や社会的な交流を生む場であり、マルコの旅を例に挙げて示したものである[36]
  • 1981年から1990年まで発行された1000イタリア・リレリラの複数形)紙幣に肖像が採用されていた。

注釈

  1. ^ 正確な根拠は無いが、この肖像画16世紀ローマのモシニョール・バディア画廊で描かれたものである。碑文には、「Marcus Polus venetus totius orbis et Indie peregrator primus」とあり、これは辞書『Nordisk familjebok』(1915年)にも採録されている。
  2. ^ ほとんどの出典がこの年を採用しており、ブリタニカ百科事典(2002年、p571)でも「1254年前後生まれ。(これは、彼の人生における主要な出来事のほとんどと同じく推測の域を出ない)」と書かれている。
  3. ^ 他の説を紹介する文献もあり、例えばBurgan, 2002, p=7では生誕地を現在のクロアチアであるダルマチアの島コルチュラ島だったとしている。Korcula infoでも「完全なる証拠が揃っているわけではないが、(マルコ)ポーロがコルチュラ島で生まれたという評判がある」と述べ、同島には「マルコ・ポーロ生誕の地」が存在する。ウェブサイト
  4. ^ チベットの僧侶にしてクビライに仕えたパクパが残した日記によると、1271年にハーンの異邦の友人が訪れたことが記されている。これがマルコ・ポーロ一行だった可能性はあるが、そこに来訪者の名前は無い。この一件がマルコらを示していないとすれば、彼らが到着した年は1275年(愛宕松男の説によれば1274年)ではないかと考えられる。Britannica, 2002, p=571
  5. ^ 陳舜臣『中国の歴史』(五)p361-362では、マルコ・ポーロはペルシャ語は理解できたが「漢語」には通じていなかったとある。クビライの臣下には「色目人」と呼ばれる西域人(ヨーロッパ人のマルコもこの中に入る)が多数おり、彼らは本俗法という出身地の習俗を維持することが認められていたため、必ずしも中国語に精通する必要性が無かった。
  6. ^ Parker, 2004, pp=648–649の表記に倣うが、ラルース、p377ではアルグン・ハンは妃到着の直前に死去したとある。
  7. ^ Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 18 Then there are sheep here as big as asses; and their tails are so large and fat, that one tail shall weigh some 30 lb. They are fine fat beasts, and afford capital mutton. 訳:次に、ここにはロバと同じ程度の大きさのヒツジがいる。その長く太い尾は1本で30ポンド(約13.6キログラム)はあろう。すばらしく太ったその家畜は、良質なマトンの供給源となる。
  8. ^ ただし、マルコ・ポーロの方位磁石が地中海の羅針盤に直接繋がったとは言いがたい。ヨーロッパの羅針盤は1302年にフラビオ・ジョイアが発明したという伝説があるが、これも実際は他の地域から導入されたものである。応地利明著『「地図世界」の誕生』(日本経済新聞社、ISBN 978-4-532-16583-3、p197)では、この導入ルートを中国から受容したアラブ世界という説と、バルト海域のノルマン人航海者からの伝播という説を紹介している。

脚注

  1. ^ a b c 阪田蓉子. “図書の文化史 (PDF)” (日本語). 明治大学. 2010年7月17日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 片山幹生. “マルコ・ポーロ『世界の記述』における「ジパング」 (PDF)” (日本語). 成城大学フランス語フランス文化研究会. 2010年7月17日閲覧。
  3. ^ a b c 木村榮一. “風の頼りⅡ(第24回)” (日本語). 神戸市外国語大学. 2010年7月17日閲覧。
  4. ^ a b c d ラルース、p377
  5. ^ a b Landström, 1967, p=27
  6. ^ Bergreen, 2007, p=25
  7. ^ a b c d マルコ・ポーロ『東方見聞録』” (日本語). 京都外国語大学付属図書館. 2010年7月17日閲覧。
  8. ^ a b c d Britannica , 2002, p=571
  9. ^ a b c d e f g h i Parker, 2004, pp=648–649
  10. ^ a b c ラルース、p374
  11. ^ Yule & Cordier 1923, ch.1–9
  12. ^ a b c d e f 40.マル・ポーロ『東方見聞録』英訳・1818年” (日本語). 放送大学付属図書館. 2010年7月17日閲覧。
  13. ^ Bram, 1983
  14. ^ Bergreen, 2007, p=532
  15. ^ Power, 2007, p=87
  16. ^ a b c Bergreen, 2007, pp=339–342
  17. ^ Britannica, 2002, p=573
  18. ^ 国立マルチャーナ図書館。マルコの遺書原本を保管している。Venezia.sbn.it
  19. ^ Bergreen, 2007, pp=367–368
  20. ^ Edwards, p=1
  21. ^ Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 2
  22. ^ Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 3
  23. ^ Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 5
  24. ^ Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 6
  25. ^ ラルース、p375
  26. ^ Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 7
  27. ^ Yule, Cordier, 1923年, loc=ch. 9
  28. ^ a b c d ラルース、p376
  29. ^ W. Marsden (2004年). Thomas Wright: “The Travels pf Marco Polo, The Venetian (1298) (PDF)” (英語). 2009年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月14日閲覧。
  30. ^ a b c 佐佐木茂美. “ヨーロッパから見た「最初の日本人像」” (日本語). 明星大学. 2010年7月17日閲覧。
  31. ^ a b c 長澤、p132-134 マルコ・ポーロの大旅行
  32. ^ a b c 長澤、p134-135 十三世紀の南海路
  33. ^ Boyle, J. A. (1971). Marco Polo and his Description of the World. History Today. Vol. 21, No. 11. Historyoftoday.com
  34. ^ a b c d e 森良和. “マルコ・ポーロの謎” (日本語). 玉川大学文学部. 2010年7月17日閲覧。
  35. ^ 『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』(1995年、訳、栗野真紀子 草思社、1997年11月、ISBN 4794207891
  36. ^ Mardomsalari紙、翻訳:斎藤正道. “文化遺産観光庁長官「マルコ・ポーロはスパイ目的でシルクロードを旅した」” (日本語). 東京外国語大学中東イスラーム研究教育プロジェクト. 2010年7月17日閲覧。
  37. ^ 本間久英. “砂金の成長についての一考察 (PDF)” (日本語). 東京学芸大学. 2010年7月17日閲覧。
  38. ^ 新宮学. “マルコ・ポーロの『東方見聞録』を読む” (日本語). 山形大学. 2010年7月17日閲覧。
  39. ^ ラルース、p378-379
  40. ^ 海を越えた陶磁器と茶の文化‐海のシルクロードの出発点 福建” (日本語). 佛教大学. 2010年7月17日閲覧。
  41. ^ 二階堂善弘. “杭州の寺廟について” (日本語). 関西大学文学部. 2010年7月17日閲覧。
  42. ^ 金川欣二. “文字と日本人” (日本語). 富山工業高等専門学校. 2010年7月17日閲覧。
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  46. ^ 杉本良男. “国立民族学博物館研究報告27(4) 儀礼の受難‐楞伽島綺‐ (PDF)” (日本語). 国立民族学博物館学術情報リポジトリ. pp. 622. 2010年7月17日閲覧。
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  61. ^ www.china.org 盧溝橋の解説(英語)


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