マリー・アントワネット 人物・言行

マリー・アントワネット

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 05:11 UTC 版)

人物・言行

宮廷生活とプチ・トリアノン宮

小トリアノン宮殿」も参照。

ルイ14世がフランス絶対王政の栄耀栄華と宮廷内の秩序を示すために定めたヴェルサイユの宮廷儀礼は非常に厳格であり[41][42]、またふるさとであったウィーンの雰囲気とも異なったため、アントワネットはそれに適応するのに苦労した[43]。王太子妃時代は母親のマリア・テレジアへヴェルサイユの宮廷儀礼の厳格さを嘆いており[42]、第一子のマリー・テレーズを出産した際は出産の苦痛と見物人のせいで疲労が極限まで達し、それを見たルイ16世自身が第二子以降の出産の際、見物人の人数の制限を行ったほどだった[44]

ルイ16世は1774-1775年頃、アントワネットにもともとルイ15世の所有だった「プチ・トリアノン」を贈る[45][46]。それ以後、彼女はプチ・トリアノンの改造工事を始め、「ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ」(王妃の村里)という場所を作り、自由な姿で活動した。プチ・トリアノンにおいて、ポリニャック伯爵夫人、ランバル公妃、アルトワ伯、フェルセン伯など、お気に入りの人々と交流するようになる[47][48]。また、プチ・トリアノンはヨーゼフ2世グスタフ3世、後のパーヴェル1世などの賓客を迎える場となった[49]

アントワネットにとって「王妃の村里」はプチ・トリアノンの自由さに加えて自然の空間を味わう場所でもあった。そこでは牛、羊、山羊、鶏、豚といった動物が飼われたが、これらは非常に丁寧かつ清潔に飼育されていた[50]。アントワネット自身、麦わら帽子をかぶり、モスリンのドレスを着て礼儀作法に縛られない田舎風暮らしを好んだ[51]。この田園生活への憧れは、アントワネット固有のものではなく、当時の王侯貴族に共通するものだったという説もある[52]

しかし、この閉鎖的に受け取れる姿勢はヴェルサイユのしきたりを無視するものとして受け取られ、「小ウィーン」と呼ばれて、他の貴族たちから反感を抱かれた[47][53]。アントワネットに近侍していた身分が低い女性たちと身分高い貴婦人たちの間で対立が激しくなり、アントワネットの醜聞を記した怪文書が出回った[47][53]

これらに振り回されたアントワネットは次第に王妃としての権威を喪失していくことになる[54]

王妃の村里での農婦姿のアントワネット。(1791年[注 3]

音楽

ハープを奏でる王妃(1777年)

上記の通り、ウィーン時代にグルックらから音楽を教わっていた。また彼女が7歳だった1762年9月、各国での演奏旅行の途上、シェーンブルン宮殿でのマリア・テレジアを前にした御前演奏に招かれたモーツァルト(当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードも持つ。また、彼女が1774年1月30日にオペラ座でフェルセンと出会った時に二人は音楽について話し、グルックが好きという点で一致したというエピソードが残っている[55]

後年、ルイ16世のもとに嫁いでからもハープを愛奏していたという。タンプル塔へ幽閉された際もハープが持ち込まれた。歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている。

なおアントワネットは作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。彼女の作品の多くはフランス革命時に焼き捨てられ、ごく一部がパリ国立図書館に収蔵されているのみである。近年では“C'est mon ami”(それは私の恋人)などの歌曲がCDで知られるようになった。

2005年には漫画『ベルサイユのばら』の作者でソプラノ歌手の池田理代子が、世界初録音9曲を含む12曲を歌ったCD「ヴェルサイユの調べ~マリー・アントワネットが書いた12の歌」をアントワネットの誕生日である11月2日に発売し、この曲が2006年上演の宝塚歌劇ベルサイユのばら』で使用された。

このアントワネットの曲集は日本で世界初の楽譜[56]も出版された。

入浴・香水

アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時から入浴の習慣があった。母マリア・テレジアも幼いころから彼女に入浴好きになるよう教育している。入浴の習慣がないフランスへ嫁いだあとも彼女は入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。

入浴をする習慣は、体臭を消すという目的が主だった香水に大きな影響をもたらした。アントワネットは当時のヨーロッパ貴族が愛用していたムスクや動物系香料を混ぜた非常に濃厚な東洋風の香りよりも、現代の香水に近いバラスミレの花やハーブなどの植物系香料から作られる軽やかな香りの物を愛用し、これがやがて貴族たちの間でも流行するようになった。もちろん、このお気に入りの香水もタンプル塔へ持ち込まれている。

家具

家具に非常に興味を持っており、世界中から沢山の木材を取り寄せた。マホガニー黒檀紫檀、ブラジル産ローズウッドなどを使い家具を作らせた。珊瑚も家具の装飾用として使われた。ドイツ人家具職人を多く抱え、ルイ16世様式(新古典主義)の家具を多く貴族に広めている。また日本製や中国製の家具や蒔絵の小箱に代表される漆工芸品をとても好んでおり、マリア・テレジアからも贈られている。母子二代に渡る蒔絵のコレクションは現在もルーヴル美術館ヴェルサイユ宮殿美術館ギメ東洋美術館に展示されている。

ファッション・リーダー

麦藁帽子にモスリンのシュミーズドレス姿の王妃(1783年)

当時の貴族女性は、相手が驚くようなヘア・スタイルを競っていた[57]。アントワネットも王妃になってまもなく、ローズ・ベルタンという新進ファッション・デザイナーを重用する。ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。

何より女性たちの視線を集めたのがその髪型で、当初は顔の1.5倍の高さだった盛り髪スタイルは徐々にエスカレートし、飾りも草木を着けた「庭ヘアー」や船の模型を載せた「船盛りヘアー」など、とにかく革新的なスタイルで周囲の目を惹きつけた。

即位後最初の数年間を過ぎてからは、ドレスもヘアスタイルも簡素なデザインのものを好むようになった[58]

このころベルタンは、アントワネットのために肌着として着用されていたモスリン生地や綿生地のシュミーズパニエを着用しない気軽な普段着にアレンジしたシュミーズドレスをデザインしている。また、アントワネットはパステル調の色彩を好み、特に青を好んだといい[59]青いドレスをまとった肖像画が多数残されている。

容姿

身長は154cm[60]。 裁縫師のエロフ夫人の日誌によると、ウエストは58〜59cm、バストが109cmで、当時のモードに合った体型であった[61]。一方で、30歳のときにはかなり豊満な体型だったようで、その豊満さを覆い隠すようなギリシャ風の装いを考案している[62]。エロフ婦人が計ったところ、コルセットで58cm(23インチ)までウェストは締め付けるものの、バストは112cm(44インチ)を超えていたという。

顔は瓜実顔で額が広すぎ、鼻は少し鷲鼻気味で、顎がぼってりし、「下顎前突症」と言われる特徴があった。しかし、輝くばかりの真珠のような白い肌と、眩い金髪を持つ魅力的な容姿であった。

教育係であったド・ヴェルモン神父は「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない」、王妃の小姓であったド・ティリー男爵は「美しくはないが、すべての性格の人々をとらえる眼をしている」「肌はすばらしく、肩と頸もすばらしかった。これほど美しい腕や手は、その後二度と見たことがない」、王妃の御用画家であったルブラン夫人は「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりで、すきとおって一点の曇りもなかった。思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった」と述べている[63]

身のこなしの優雅さでも知られ、前述のド・ティリー男爵は「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった」、ルブラン夫人は「フランス中で一番りっぱに歩く婦人だった」と述べている[64]


注釈

  1. ^ 当時のアンジュー通りの角で、寺院の敷地の外であり、パリ8区にある現在のマドレーヌ寺院とはかなり離れている。贖罪礼拝堂はその旧敷地の一部に、ルイ18世が兄夫妻の冥福を祈って建てさせたものである。
  2. ^ 1794年3月25日に墓地は閉鎖されていた。
  3. ^ セザリーヌ・フランク画を基にした、ルイ=シャルル・ルオット作のエングレービング版画

出典

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