マリリン・モンロー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 14:29 UTC 版)
経歴
生い立ち
モンローは片親家庭に生まれた。アメリカ合衆国には戸籍がないので、出産直後に医師が書く出生証明書が法的な意味をもつことになっている。彼女の出生証明書には、父:エドワード・モーテンソン、母:グラディス・モンロー、氏名:ノーマ・ジーン・モーテンソンと記載されており、彼女の実の父親については議論があるとされる[6]。両親は1928年に離婚している[7][8]。後年大人になったノーマが実の父親の可能性がある母の同僚だったチャールズ・スタンリー・ギフォードに電話したことがあるが、会うことは拒否されている。なお、母グラディスはノーマが出生後ほどなくして、ノーマの姓をモーテンソンからベイカーへ届出変更をしており[9]、モンローは自己紹介するときは自分の名はノーマ・ジーン・ベイカーだと名乗っている。またモンローは、1956年2月23日ニューヨーク州裁判所から、本名をマリリン・モンローへ変えてよいとの決定を得た[9]。そのため、アーサー・ミラーと結婚したときの本名はマリリン・モンロー・ミラーであった。
ノーマという本名の由来は、映画好きな母グラディスが当時好きだった女優ノーマ・タルマッジからとったとされる。ジーンは1930年代のセックス・シンボル、ジーン・ハーロウに由来すると言われているが、彼女の芸能デビューは1930年で、モンローが4歳の時なのでこれは事実では無い。母グラディス・ベイカー(旧姓モンロー)は「モンロー宣言」で知られるジェームズ・モンロー大統領が先祖であると周囲にもらしていたが、娘のモンロー自身は一笑に付したとされる。
日本語訳されている評伝のなかには、マリリンは孤児だったと記されているが、母親がいたのだから日本語では孤児と呼ぶことは出来ない。これは彼女が孤児院(orphanage)や養子として育てられたために受けた誤解である。またマリリンには父親違いの7つ年上の姉が居る。姉とは女優になってからも気にかけていて、手紙をやりとりし互いに訪ね合うほど親交があった。その姉はマリリンの葬儀に参列している。ジョー・ディマジオと共に葬儀の準備にあたり、マリリンの死装束を選んだのも他ならぬこの姉であった[10]。
マリリンの母親は大手映画製作会社のRKOでフィルムカッターの仕事をしていたが、精神病を患ったため、母親の親友であったグレース・マッキー(後に結婚してGoddard「ゴダード」)がマリリンの保護者になった。マッキーが1935年に結婚した後、モンローはロサンゼルスの孤児院へ、その後伝えられるところでは性的虐待及びネグレクトで支配された養家へ連続して送られ、そのせいか吃音症を患うようになってしまった。当時の大統領の政策で、里親には支給された援助金目当てで子供を引き取る家もあったとされ、モンローもいくつもの家をたらい回しにされるなど大事に扱われたとは言えなかった。
最初の結婚
第二次世界大戦下の1942年、16歳のときに半年で高校を中退しグレース・ゴダードの叔母で母の友人アナ・ロウアーのすすめで、母の家の近所に住むジム・ドハティと最初の結婚をする。ジムはロッキード航空機製造会社に整備工として勤務していたが、その後海軍に徴兵され輸送船団に乗り組むことになった。独りになったノーマは航空機部品工場レイディオ・プレーン社に就職し、自活の道を歩き始めた。
ハリウッドへ
第二次世界大戦の1945年の19歳の誕生日を迎えて間もなくのこと、工場で働いていた時に陸軍から取材に派遣された報道部員デビッド・コノバー一等兵に見出され、写真を撮られる。この写真が陸軍の機関誌『ヤンク』に掲載されたことを機にハリウッドへの道をたどることになる。
コノバーにそのネガを見せられた商業写真家のポッター・ヒューズにカバーガールになることをすすめられ、モンローは工場を辞めてハリウッドのモデルクラブ「ブルーブックス・モデルズ・エージェンシー」の専属モデルに応募した。モデルの基礎教程を終えたノーマの初仕事は、ロサンゼルス博覧会場でのイベントコンパニオンであった。
やがて新進の写真家アンドレ・ド・ディーンズと知り合い、モデルとしての才能を発見される。この年、二人で長い撮影旅行に出かけている。ド・ディーンズはマリリン・モンローになる前のノーマ・ジーンの初々しい姿をカメラに収めた。その後、髪をゴールデン・ブロンドに染めたセクシーなピンナップが売りものの雑誌に写真が掲載されるようになる。
女優になる
1946年、20世紀フォックスのスクリーン・テストに合格し「マリリン・モンロー」という芸名で契約を結んだ。マリリンの名は1920年代のブロードウェイの美貌の舞台女優マリリン・ミラーに由来している。なお夫のジムはモデル業に理解を示さず結婚から4年で離婚。
1947年に20世紀フォックスの『嵐の園』という映画に端役で初出演するが、あまりぱっとせずに契約を切られてしまった。しかし、彼女は女優への夢を諦めきれずコロムビア映画に移籍、『コーラスのレディたち』で準主役となる。コロムビア映画とはその映画一本のみで終わってしまったために、その後は再びヌードモデルなどをしながら演技の勉強をし、エージェント(交渉代理業者)を探し続けた。生活が苦しく家賃や車の月賦が払えなかったためにカレンダーのヌードモデルになった(写真家トム・ケリー撮影の『ゴールデン・ドリーム』と呼ばれる作品で有名)。しかしこのことが後にスキャンダルを巻き起こすことになる。
トップスターに



右奥は歌手のハリー・ベラフォンテ夫妻。話しているのはコメディアンのジャック・ベニー。右最手前は大統領補佐官アーサー・シュレジンジャー
1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出、1952年の『ノックは無用』で準主役。1953年『ナイアガラ』では不倫相手と夫の殺害を計画する悪女を主演し、腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』や『七年目の浮気』が大ヒットして一躍トップスターとなった。
1954年1月14日、かつてメジャーリーグベースボールのニューヨーク・ヤンキースに所属し、最も知名度の高いプロ野球選手だったジョー・ディマジオとサンフランシスコ市庁舎で結婚。
同年2月1日、読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねてパンアメリカン航空のボーイング377で日本を訪れ、東京国際空港で大歓迎を受けた。夫妻は3週間日本に滞在[11][12]。東京、静岡、福岡、広島、大阪とまわり、ディマジオが福岡で松竹と国鉄の選抜選手[11]、広島で広島カープ、大阪で阪神タイガースの野球指導を行った[11][12][13][14][15][16][17][18]。福岡までは二人は仲睦まじかったが、広島県総合球場でディマジオがカープ選手に打撃指導を行った際[13][14]、球場には絶対に来てはいけないと念を押していたモンローが同球場を訪れ[13][15]、ディマジオそっちのけでファンが殺到した[11][17][19]。ディマジオがモンローを叱責したことが離婚の原因ともいわれる[11][17]。
東京の帝国ホテル滞在中、2月5日に米軍高官から兵士慰問の依頼があり、帰国日の2月25日までの間、モンローは日本国内の米軍基地や負傷兵の収容施設・病院などを折に触れて訪問した。また、滞在中の2月16日からの3日間は、朝鮮戦争の休戦協定後も駐留する国連軍兵士の慰問として訪韓している。モンローは米軍関係者とともにヘリコプターやジープなどを乗り継いで、韓国内の国連軍駐屯地の慰問を行った。
脱セックスシンボル
1955年に、関係が悪化していたディマジオと離婚した。結婚生活は9か月しか続かなかった。その後、セックスシンボルを脱したかった彼女は、ニューヨークに移りリー・ストラスバーグが主催するアクターズ・スタジオで演技の指導を受けている。『アンナ・クリスティ』、『欲望という名の電車』を演じ好評を博したことは彼女に自信を取り戻させた。
1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚するが、1957年頃から不安定な状態が続き、睡眠薬を飲み過ぎたりして、精神病院に入ったりもした。カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授のラルフ・グリーンソンによる精神分析を受け続けた。
また、アンナ・フロイト(ジークムント・フロイトの娘)には境界性パーソナリティ障害と診断されたが、正確なところは分からない。この頃流産を経験した。
私生活への注目
モンローは、強い性的魅力で男を翻弄する役柄を数多く演じたため、私生活での男性関係がつねにメディアで注目されづけた。そのためモンローの相手として噂に上った著名人は、喜劇俳優チャールズ・チャップリンや映画監督エリア・カザン、俳優マーロン・ブロンドまできわめて多数に上る[1][5]。
その中でも特に執拗に流された噂のひとつが、ジョン・F・ケネディ大統領との関係である。
モンローは1961年にミラーと離婚したが、この離婚に先立つ1959年頃から、ケネディの妹の夫で俳優のピーター・ローフォードやフランク・シナトラの紹介で、前年に大統領となったケネディの知己を得ている[1]。
その後モンローとケネディが肉体関係にあったとする噂が、ローフォードやモンローの家の家政婦のレナ・ペピートーンなどの証言をもとに長く噂されてきた[20]。また、ジョンの弟で司法長官を務めていたロバート・ケネディとも関係があったとも囁かれたことがある[21]。
しかし、モンローがケネディとたびたび電話で個人的な会話を交わす関係にあったことは、ホワイトハウスの通話記録などから確実視されている[22]ものの、FBIの捜査記録や知人たちへの膨大なインタビューなどをもとにした近年の研究では、二人が肉体関係にあったことを裏づける明確な証拠は存在せず、あくまで噂にすぎないと結論づけられている[1][5]。
ケネディとモンローが近づいた背景には、マフィア幹部のサム・ジアンカーナや、彼と関係の深いシナトラの手引きがあったとも言われる。そのためケネディ政権へマフィアの影響力が強まることが懸念され、当時のFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーらによって2人の関係が強制的に終わらされたとする噂も長く語られてきた[23]。しかし現在では、多忙をきわめるようになったケネディ側が自ら交友関係を大きく縮小させたためとする説が主流である[22][1]。
モンローは、2人の関係が終焉を迎えた直後の1962年5月19日に、ニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンで行われたケネディの45歳の誕生日パーティ(司会はローフォード)に、体の線が露わになったドレス姿で赴き、「ハッピーバースデートゥーユー」を歌った(「ハッピーバースデー・ミスタープレジデント」の項も参照)。
このときジャクリーン夫人は、誕生日パーティーにモンローが来ると知り欠席している[22][24]。
ケネディはモンローが死んだ1年3ヶ月後の翌年11月に凶弾に倒れている。
死と波紋
1961年に公開された映画『荒馬と女』の評判が悪く、また共演したクラーク・ゲーブルが撮影終了後に急死したことも重なり、精神的に不安定になり再び入院。このときは元夫ディマジオが彼女を支えている。翌1962年に、映画『女房は生きていた』の主演になるが、たびたび撮影をすっぽかすため制作はほとんど進まず、結局、主役を降ろされてしまう(『女房は生きていた』は、翌1963年にドリス・デイ主演で公開された)。
1962年8月5日、ロサンゼルス郊外のブレントウッドにある自宅の寝室で全裸で死亡している所をメイドが発見した。36歳だった。死の直後、マスコミでは「死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で、自殺の模様」と大々的に報道され、世界に多大な衝撃・悲嘆が駆け巡った。
これについて警察は司法解剖を行い、「急性バルビツール中毒による体の不調を受けて救急車を自ら呼ぶために受話器を取ったものの、ダイヤルする前にこと切れた」と結論付け、自殺や他殺の可能性を否定している[要出典]。因みにモンローを司法解剖した監察医は、トーマス野口こと野口恒富である。
ドラッグ・オーバードースであるとの声もある[25] 上、「『女房は生きていた』の主役を降ろされたことを悲観して」との根拠に欠ける仮説も唱えられたが、2000年代に入りFOXニュースが20世紀フォックスの倉庫から発見した資料によると、FOX首脳部との会談で、モンローとそりの合わなかった監督を降板させ、モンローを復帰させる契約が交わされていたことが分かった。さらに、「何という行き方!」というミュージカル大作への出演も決まっており、「モンローが配給会社から見捨てられ、失意の中で死んでいった」という仮説は成立しなくなることが分かった[要出典]。
1980年前後以降は、何物かによってモンローが殺されたとする説が主張されるようになった。現場からは自殺に使うはずのコップは発見されておらず、またモンローが遺体で発見されたとき、手には受話器が握られていたものの、FBIが押収したモンローが死亡した前日と死亡した夜の電話の通話記録[26] には電話局からは同時刻の通話記録はなく、部屋からはモンローの日記(赤い手帳)が消えていた。そのため電話の通話記録の改ざん・隠蔽を行うことができる政治力の持ち主がモンローの死に関わっていたとする主張がある[27]。
また上述のとおり、大統領ジョン・F・ケネディと1950年代より不倫関係にあったとか、さらに弟で時の司法長官ロバート・ケネディとも不倫関係にあったとする証言がモンローの死後さかんに現れるようになった[28] 上に、お互いを紹介したのが、ケネディの大統領選挙の際の支援者でマフィアの大ボスのサム・ジアンカーナと関係の深いシナトラであったことや、これらの関係を知ったFBIのジョン・エドガー・フーヴァー長官が、ケネディとモンローのみならず、ケネディとマフィアの関係についても度々忠告していたとする噂も、しばしばこの謀殺説を裏づける根拠として語られる。またこれらの不倫の事実が死後に公にならないように、モンローが常に会話の内容をメモしていた赤い手帳が表に出るのを避けるために謀殺後に密かに処分したという説もある[要出典]。
しかし、上述のとおりモンローとケネディが肉体関係をもっていたという確実な証拠は現在にいたるまで見つかっておらず[1]、近年の研究でも、モンローの死をめぐる謀殺説はあくまで出所の不確かな噂にすぎないとされる[5]。モンローとケネディの関係をめぐるマフィアの介在やFBIの介入も、証拠にとぼしい都市伝説として退けられている[22][5][1]。
葬儀
葬儀はモンローの死の3日後、8月8日にハリウッドにあるウエストウッド教会にて執り行われた。式はディマジオが取り仕切り、参列者は生前にモンローの世話などをしていたごく一部の関係者など約30名の小規模な葬儀であった。マスコミは一切シャットアウトされ、ハリウッドの映画関係者は1名も呼出しはなかった。
その後、モンローの遺体は故郷へ搬送された。墓所は故郷ロサンゼルスのウエストウッド・メモリアルパークにある。
ディマジオは離婚後もモンローを一途に愛し、変わらぬ友情で彼女を支え続けた。モンローの晩年は2人は多くの時間を過ごし、亡くなる数日前には2人が再婚の約束をしていたという双方の関係者からの複数証言が残っている[29][30]。そして、モンローの葬儀時には彼女の遺体を前に「愛している」と声をかけ続け、涙を流したと伝えられている[29][30]。
ディマジオは自身が亡くなるまでモンローについてのコメントは控えた。「ある女性誌が、貴方が話してくれたら5万ドル払うと言っているが」と尋ねられた時も「世の中には金にかえられないものがある。それは愛の思い出だ」と即座に答えた。また、モンローの死後20年にわたって週3回、彼女の墓に赤いバラ(品種:アメリカン・ビューティー)を送り続けた[31]。これはディマジオの亡き後もファンクラブなどのボランティアの手で続けられている。
1978年のMLBオールスターゲームの日本向け衛星中継で一緒にマイクの前に並んだ伊東一雄は「マリリンほど素晴らしい女性はいなかった…」とディマジオがポツリと漏らしていたのを耳にしている[32]。1999年3月8日に肺がんで亡くなる数日前に友人に語った最期の言葉は「死んだら、マリリンのところへいける」だった[33]。
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