マツダ 歴史

マツダ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 04:33 UTC 版)

歴史

創業・コルクから機械事業へ

マツダの実質的な創業者である松田重次郎(1921年頃)

1920年大正9年)1月30日広島市中島新町10番地にマツダの源流となる東洋コルク工業株式会社が設立された[20]。清谷商会という1890年明治23年)創業のコルクの製造・販売を手がける企業の経営が悪化したため、主な融資元であった広島貯蓄銀行が中心となり、融資の回収と事業の存続を図る方策として、それまでの個人経営から会社組織に改める形で設立された会社だった[21]。設立にあたっては当時の広島の主要な財界人が参画し、初代社長には互選によって広島貯蓄銀行頭取の海塚新八が就任した[22]。しかし海塚が体調不良により辞任を申し出たため、翌1921年(大正10年)3月、取締役の中で唯一経営に専念できる松田重次郎が社長に就任[20]。松田重次郎はコルク栓を製造する際に出る屑コルクに目をつけ、広島高等工業学校との研究で加熱製法による圧搾コルク板を商品化し、廃材から付加価値の高いコルク製品の製造に成功する[23]海軍から大量の受注を得て[注釈 1]業績は回復し、東京大阪にも出張所を設けて経営を積極的に展開した[23]

しかし東京に出張所を設けていたことが仇となり、1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって多くの売掛金が回収不能となって経営は大きな打撃を受けた[24]。かねてから松田重次郎と親交のあった日窒コンツェルン総帥の野口遵からの融資で倒産を回避したが、不況の深刻化を受けて従業員の半分を解雇する事態にまで追い込まれ、さらに1925年(大正14年)12月の深夜の火災によりコルク工場が全焼してしまう[25]

東洋コルク工業の圧搾コルク板

こうした事態を受け、松田重次郎は過当競争となっていたコルク事業から自身が得意とする機械事業への進出を決意[26]。知遇を得ていた呉海軍工廠長の伍堂卓雄に支援を依頼し、日本製鋼所を通す形で注文を取り付け、資金面では野口が保証人となり[27]芸備銀行から資金を調達した[28][29]1927年昭和2年)には社名を東洋工業株式会社に改称した[30]

1928年(昭和3年)初頭から、日本製鋼所や宇品造船所などの下請工場として海軍関係の兵器や機械、部品の製造を始めた東洋工業は、同年10月に広海軍工廠の指定工場に[31]、翌1929年(昭和4年)1月に呉海軍工廠および佐世保海軍工廠の指定工場となり、航空機エンジンプロペラ軍艦精密機械などを受注[32]。同年8月には海軍省購買名簿に登録され、従来の第2次下請けの立場から各海軍工廠の第1次下請け工場の地位を確立した[33]

前述の債務保証を発端に、日本窒素肥料(現・チッソ)の経営参加が開始され、1931年(昭和6年)には野口自身も取締役に就任したことで、東洋工業の4人の取締役の内、松田重次郎を除く3人が日本窒素肥料系で占められた[34]第二次世界大戦の頃まで東洋工業の経営はおおむねこの陣容で進められていくことになる[35]

三輪トラック生産の開始

マツダ初の三輪トラック、マツダ号DA型(1931年)

東洋工業は軍工廠の下請けという形で機械事業へと進出した[36]が、軍からの注文は少量多品種な上に繁閑差が大きいため、量産によるコスト低減を図ることが難しいという悩みがあった[32]。独自の製品を持ちたいと考えた松田重次郎は、最終的な目標を自動車製造に置きながらもまずはオートバイから手をつけることにし[37]、1929年(昭和4年)から試作を始め、1930年(昭和5年)に30台と少数ながら市販した[38][39]

1930年(昭和5年)には三輪トラックの開発に着手[38]。オートバイから一足飛びに四輪自動車製造に向かうのではなく、まずは当時人気を呼んでいた三輪トラックで実績を積もうという狙いがあった[40]。また、広島市吉島町の工場が手狭になっていたため、現在の本社所在地である広島県安芸郡府中村(現・府中町)の土地を取得[41]。松田重次郎の長男の松田恒次(後に3代目社長)がレイアウトを担当し、三輪トラックを中心に設計された新工場が完成した[42]。コルク製品と機械工業が事業の中心だった東洋工業にとって三輪トラック市場への進出は未知数だったため、野口の斡旋により、東洋工業が生産する三輪トラックを三菱商事の一手販売とする契約を結んだ[43]

1931年(昭和6年)10月、府中の新工場で三輪トラックのマツダ号DA型の生産を開始[44]軍需景気で需要が増加していたところに、それまでの三輪トラックにはない後退ギアや、カーブをスムーズに曲がれるよう後輪にディファレンシャルギアを装備したDA型は、三菱商事の全国的な販売網も相まって好評を博した[44]。改良型のDB型を発売した翌1932年(昭和7年)には国内シェア25%を獲得[45]売上は急拡大を遂げ、マツダ号は海外へも輸出された[46]

1940年に完成した試作四輪車

1935年(昭和10年)10月、朝鮮半島で大規模な水力発電所をいくつも建設していた野口からの依頼を受けて開発した削岩機を初納入し[47]、またこの年には1929年(昭和4年)から社内向けに製造していた工作機械の外販も始めた[48]1936年(昭和11年)には三菱商事との販売契約を解消し、オート三輪は東洋工業の直売制に移行した[49]

この頃には三輪トラックの次なる商品として、四輪自動車の検討を始めた[50]。1936年(昭和11年)の重役会で小型四輪自動車の製造が決議され、イギリスオースチン・7を購入して研究を開始[50]。さらにドイツ車オペル37年式やイギリスのMG37年式を購入し[51]、最新のプレス機をはじめとする各種設備もアメリカから買い入れた[50]1940年(昭和15年)には小型四輪自動車の試作車を完成させ、生産体制も整備されつつあった[52]が、この頃すでに東洋工業は軍事体制に組み込まれていたため、自動車の生産は実現不可能になっていた[53]

戦時体制下

1941年に竣工した小銃工場

1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発し、国内の組織が総力戦体制へと再編成されていく中、東洋工業は陸軍小倉工廠から三八式歩兵銃と九二式騎兵銃の生産を申し渡された[54]。自動車こそ戦時に必須であると主張して断ったものの、認められることはなく、年末には部品の生産が開始された[54]1938年(昭和13年)1月には軍需工業動員法により陸海軍共同管理工場に指定され、軍部の直接管理を受けることになった[55]陸軍大臣による歩兵銃生産の命令を受けた東洋工業は、1940年(昭和15年)に九九式短小銃の組み立てを始め、工場が完成した翌1941年(昭和16年)からは本格生産を開始した[56]。呉海軍工廠からは爆弾水雷信管などの製造の命令を受けた[57]

軍国主義の流れが軍需一本槍となる中、民生用品生産は圧迫を受け、商工省により三輪トラックの生産は東洋工業、発動機製造(現・ダイハツ工業)、日本内燃機の3社にのみ許可された[58]。しかしその後、三輪トラックの生産は一時中止に追い込まれるなどして生産台数は極度に落ち込んだ[53]1943年(昭和18年)10月には三輪トラックの生産台数はゼロとなり、終戦まで三輪トラック部門は実質的に機能を停止した[59]

1943年(昭和18年)の上期には戦時金融金庫が東洋工業を取得して日本窒素肥料に次ぐ第2位の大株主となり、さらに同年下期に日本窒素肥料が保有する株式を戦時金融金庫に譲渡したことで、資本面でもより強い戦時統制の下に置かれた[60]。翌1944年(昭和19年)1月、兵器増産を目的に前年に施工された軍需会社法に基づき、東洋工業は軍から軍需会社に指定され、軍需省中国軍需管理部の管理下に入った[61]。同月には日窒コンツェルン総帥で取締役の野口遵が死亡し、これを受けて同年5月までに日本窒素肥料系の役員が経営陣から去ったことから、東洋工業と日本窒素肥料の提携は終了した[62]。同年7月には内山コルク工業との共同出資で東洋コルクを設立し、祖業であるコルク製造事業を分離した[63]。この年の10月には東洋工業は8556人の従業員を抱える国内トップクラスの軍需会社となっており[64]戦時中に製造した小銃は累計で58万5646挺に上った[56]

原爆による広島市の火災及び爆風被害状況を示す地図。赤色は全焼区域。東洋工業は地図上の最も東を流れる猿猴川下流域の東側に位置する。

1945年(昭和20年)8月6日アメリカ軍により広島市に原子爆弾が投下され、細工町(現・中区大手町)上空で炸裂した(広島市への原子爆弾投下[65]爆心地から5.3km離れた東洋工業は爆風によって若干の建物が倒壊し、一部工場の屋根が吹き上げられたりほとんどの窓ガラスが割れる被害に遭ったものの、全体としての損害は軽微で、機械設備はほぼ無傷で残存した[66]。しかし県当局の命令により鶴見町(現・中区鶴見町)で建物疎開の作業に動員されていた73名を含め、計119名の社員が命を落とし、負傷者は335名に上った[67]。松田重次郎の次男でマツダモータース (現・広島マツダ)社長の松田宗弥も全従業員7名と共に亡くなった[68][69]

東洋工業附属医院(現・マツダ病院)は広島市の負傷者が一番広い道をに向かって避難する際に真っ先に目に入る医療機関だったため、多くの人々が詰めかけてくる事態となり、そのため東洋工業の食堂寄宿舎も解放・提供し、医療品を含めたあらゆる物資の扉を開いて総出で救護にあたった[70][71]。しかしながら負傷者は次々と亡くなっていき、会社のグラウンドでは連日犠牲者の遺体をかけて火葬が行われた[72]。1945年(昭和20年)8月15日、東洋工業は生産を完全に停止したまま終戦を迎えた[73]

戦後の復興期

マツダ号GA型

東洋工業本社は広島市周辺で唯一残存した大規模な建物だったため、多くの企業や団体が東洋工業に施設の提供を求めた[74]広島県庁1946年(昭和21年)7月まで全機関が東洋工業の施設内で業務にあたり、他にも広島県警察部、広島控訴院、広島区裁判所[注釈 2]、広島県食料統制組合なども東洋工業に間借りした[76]日本放送協会広島中央放送局(現・NHK広島放送局)は東洋工業で放送を再開し、中国新聞は東洋工業から借り受けた三輪トラックで壁張り新聞を掲示して、救護所の場所といった情報を市民に届けた[77]

占領にあたった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本の平和経済に必要な設備・施設のみの存置を認め、その他は賠償として全て取り立てるという方針を示しため、軍需会社に指定されていた東洋工業は存亡の危機に立たされる事態となった[78]。1946年(昭和21年)に東洋工業は賠償工場に指定され、全社の46%に上る機械や設備が封印され使えなくなったが、当時の内務省警保局長である谷川昇の取り計らいにより、資本金1億円以上の企業のみがパージの対象となったため、資本金3000万円の東洋工業は幹部の公職追放などは免れることができた[79]

企業の存続が許されるかも分からず、社内に不安が漂う中、東洋工業は三輪トラックの生産再開を決定し、1945年(昭和20年)9月には久留米市ブリヂストンの工場を訪ねるなど準備活動を始めていた[80]。GHQからも軍需工場の民需生産転換の許可が降りたことから、終戦から4ヶ月後には生産を再開し、マツダ号GA型10台を完成させた[73]。三輪トラックは戦前に軍用に向かないとして生産台数が大幅に減らされていたため、現役で走るその多くが老朽化していた上、戦後に手軽な輸送手段として急速に需要が高まったことから、1946年(昭和21年)には大手メーカーが相次いで参入し、三輪トラック業界は活況を呈した[81]復興が本格化してきた1950年(昭和25年)頃になると市場からはより大きい積載能力を持つ三輪トラックが要望されるようになり、同年9月、東洋工業は業界初の1トンの積載能力を持つマツダ号CT型を発売[82]1951年(昭和26年)に三輪トラックに対する車体サイズや排気量の制限が撤廃されたのを受け、同年に4.8メートルのロングボディを持つCTL型を発売し、翌1952年(昭和27年)には2トン積みのCTL型も登場させた[83]。東洋工業の三輪トラックの売上は1949年(昭和24年)から1954年(昭和29年)までの間に12倍以上に増加した[84]

四輪車市場への参入

マツダ初の四輪自動車、CA型の試作車

三輪トラックの大型化と多様化を進める一方、東洋工業は小型四輪トラックの開発も並行して行なっていた[85]。1949年(昭和24年)にかけて試作を完了させ、工場生産の準備を開始[86][87]。翌1950年(昭和25年)には東洋工業初の四輪車となる小型四輪トラック、CA型を発売した[86]。新開発の空冷エンジンを搭載し、28万円の低価格で販売されたCA型だったが、1952年(昭和27年)までの間に35台だけで生産は中止となり、またほぼ同じ時期に発売した消防車のCF型の生産台数も74台に留まったため、四輪車市場への進出は一旦中断されることになった[88][89]

1951年(昭和26年)、松田重次郎の長男で専務松田恒次が社長に就任[90]1956年(昭和31年)には再び四輪車の開発に着手し、1958年(昭和33年)、小型四輪トラックのロンパーを発売[91]。翌1959年(昭和34年)には水冷エンジンを搭載したトラックのD1100型、D1500型を登場させた[92]

1960年(昭和35年)以降になると、日本のモータリゼーションはそれまでの事業用から個人用へと需要が移行しつつあった[93]1955年(昭和30年)に報道された通商産業省(現・経済産業省)の「国民車構想」の影響もあり、富士重工業(現・SUBARU)のスバル・360三菱重工業三菱・500など、他社からは次々と大衆乗用車が発売されていた[93]

マツダ初の四輪乗用車、R360クーペ(1960年)

このような一連の動きを背景に、東洋工業は乗用車市場に進出するにあたり、「ピラミッドビジョン」という新車開発構想を立案した[94]。これは国民所得階層分布とそれに対応する乗用車の保有構造をピラミッド型に見立て、まずは下層部を占める大衆向けの乗用車から開拓し、国民所得水準の向上とともに一段ずつ上の車格の車種を展開していくことで、最終的には頂点部である高級車までをも担う総合自動車メーカーを目指すというものだった[95]。この構想に基づき[95]、1959年(昭和34年)4月に乗用車の開発に着手し[93]、翌1960年(昭和35年)4月、東洋工業初となる四輪乗用車、R360クーペを発売した[96]1962年(昭和37年)には大人4人が乗れるファミリーカーとして開発したキャロル360を発売[97]。両車は大ヒットを記録し、1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)までの3年間、東洋工業はトヨタ自動車日産自動車を抑えて国内販売台数首位に躍進した[98]

次なる市場として小型乗用車を見据え、1963年(昭和38年)にファミリアバンを発売し、翌1964年(昭和39年)年には本格的なファミリーカーとして開発したファミリア4ドアセダンを投入[99]。その後も2ドア、2ドアスペシャル、ファミリアトラックなど、ファミリアシリーズを中心に小型車を充実させていった[100]

ロータリーエンジンの量産化

マツダ初のロータリーエンジン搭載車、コスモスポーツ(1967年)

1960年(昭和35年)から3年間にわたり、東洋工業は自動車生産台数で国内首位となっていたが、その多くは三輪トラックと軽乗用車だったため経営基盤は弱く、企業規模や収益性といった点でトヨタや日産に大きな差をつけられていた[101]。また、当時の通商産業省は、近い将来の貿易自由化に備えて国際競争力を強化するために、国内自動車メーカーを「量産車(普通乗用車)」、「特殊乗用車(高級車)」、「ミニカー(軽自動車)」の3グループに統合させるとする「3グループ構想」を抱いており、東洋工業はミニカーグループの代表的なメーカーと見られていた[102]。社長の松田恒次は、総合自動車メーカーを目指しているにもかかわらず東洋工業がミニカー専業会社とされ、その上合併を強いられて経営権を失うなど論外だと考えていた[103]

こうした状況の中、社の独立を保ちたいと思案していた松田恒次は[104]、1960年(昭和35年)の元旦ドイツ人の友人から、西ドイツNSU社とフェリクス・ヴァンケル博士が率いるヴァンケル社が共同開発したロータリーエンジン(RE)についてのレポートと雑誌記事が同封された手紙を受け取り、1日も早く技術提携を結ぶよう勧められた[105]。REが自動車業界再編を乗り切るための切り札になると確信した松田恒次は、社内の反対の声を無視して技術提携を進めることを決断[106]。松田恒次には、REの技術力によって企業イメージの向上が図れることや、RE開発の名目で銀行からの融資が受けやすくなり、その資金で通商産業省主導の再編を乗り切るための研究開発設備投資を強化できるといった考えがあった[107][108]

NSUには世界各国の約100社から技術提携の申し込みが殺到していたが、駐日西ドイツ大使らの仲介によって、1960年(昭和35年)7月に交渉の約束を取り付けることに成功した[109]。同年9月末、松田恒次一行はメインバンクである住友銀行頭取堀田庄三の斡旋により手に入れた、吉田茂元首相から西ドイツのアデナウアー首相に宛てた紹介状を携えてNSUへと向かい[110]、当時としては破格の2億8000万円の特許料を払って技術導入を決めた[111]

技術提携に関する政府認可[注釈 3]がおりた1961年(昭和36年)7月、技術研修団がNSUに派遣され、そこで一定時間の稼動後にエンジン内壁面に発生する「チャターマーク」と呼ばれる摩耗が量産化を妨げる大きな原因であることを知らされた[113]。帰国後に「ロータリーエンジン開発委員会」が設置され、NSUから届いた設計図を元に試作エンジンを完成させたが、契約前には明かされなかった様々な問題が発生し、実用には程遠いものだった[114]。1963年(昭和38年)4月、開発強化のため、「ロータリーエンジン開発委員会」を昇格させた「ロータリーエンジン研究部」を設置[115]山本健一(後に6代目社長)を部長に総勢47名で発足し、翌年には3億円の総工費をかけた専用の研究室が用意された[116]。山本をはじめとする開発陣は日本カーボンと共同でカーボンを浸潤させたアペックスシールを開発するなどして耐久性の確保に成功[117]1967年(昭和42年)5月、特許購入から6年の歳月と40億円以上とも言われる巨額をかけたプロジェクトは、RE搭載車のコスモスポーツの発売という形で結実した[118]

REの圧倒的な動力性能と流麗かつ未来的なデザインを兼ね備えたコスモスポーツはイメージリーダーとして絶大な役割を果たし[119]、それまでの「バタンコ屋」[注釈 4]と呼ばれた垢抜けないイメージが「ロータリーのマツダ」という最先端のイメージに取って代わった[121]。企業イメージ向上は販売増にも結びつき、1966年(昭和41年)からの2年間で四輪車の生産台数は19%も増加[121]。コスモスポーツに続いて、ファミリアロータリークーペルーチェロータリークーペなどREを搭載したモデルを発売し[122]1970年(昭和45年)にはファミリアロータリークーペなどの対米輸出を開始して念願だったアメリカ市場へと進出した[123]

オイルショック下の経営危機

サバンナGT(1972年)

1970年(昭和45年)、東洋工業はフォード、日産と共同で日本自動変速機(現・ジヤトコ)を設立し[124]、同年にはフォードからの強い申し入れを受けて資本提携交渉に入った[125]。マツダの小型トラックをフォードに供給する業務提携がまとまり、本題の資本提携交渉に入ろうとした矢先、社長の松田恒次が死去[126]。後任には長男で副社長の松田耕平が就任し交渉は継続されたが、NSUが東洋工業とフォードの資本提携は認められないと反対した上にニクソン・ショックも重なり交渉は難航[127]。互いの溝は埋まらず、1972年(昭和47年)3月に交渉は決裂に至った[128]

1970年(昭和45年)、アメリカでは排出ガス規制を大幅に強化するマスキー法が発効され、自動車業界はかつてない技術的困難に直面していた[129]。東洋工業のREはホンダが開発したCVCCエンジンとともにこの規制を達成し、ゼネラルモーターズ(GM)、トヨタ、日産もREの開発に本格的に乗り出す展開となっていた[129]。このような中、松田耕平はいずれREの時代が到来すると予想して大規模な設備増強を決定[130]。増産工事に続いてREの新工場[注釈 5]建設に取り掛かり、研究開発費を含めた総投資額は600億円にも及んだ[132]。この間もRE車の販売は国内外で好調で、特に主要な輸出先であるアメリカでは、1973年(昭和48年)に輸出した台数の内の7割から8割をRE車が占めるほどだった[132]

1973年(昭和48年)10月、第四次中東戦争の勃発を契機に第1次オイルショックが発生した[133]。10月から11月にかけて石油化学製品の価格は40%から50%上昇し、自動車各社は値上げを実施[134]。同年12月に日本の自動車市場は前年同月比75.6%と大幅な落ち込みを記録した[135]。需要の冷え込みを受けて他社がいち早く減産体制を敷く中、松田耕平はオイルショックによる物資不足は一過性のものであり、購買活動が自動車へと戻る際に備えて作り溜めをしなければならないと判断したため、東洋工業は増産体制を取り続けた[136]。ところが翌1974年(昭和49年)1月、アメリカ合衆国環境保護庁(EPA)がREは通常のエンジンと比較して約50%程度多くのガソリンを消費するとの報告を発表[137]。オイルショックとこの指摘の影響が重なったことで極度の販売不振に陥り、国内外で抱える在庫台数は20万台にまで積み上がった[137]。研究開発費の増加や競争の激化、多品種少量生産による低収益性などが重なっていたところにオイルショックが発生し、東洋工業の財務体質は急速に悪化した[138]

コスモAP(1975年)

通商産業省からの要請を受けて東洋工業の経営実態の調査を進めていたメインバンクの住友銀行は、こうした事態を看過できなくなり、1974年(昭和49年)10月、同行事務管理部長の花岡信平と住友信託銀行法人信託部長の中村和生ら4人を東洋工業に派遣[139]。花岡と中村の両人は翌1975年(昭和50年)1月の株主総会で取締役に選任され、これ以降東洋工業の再建は住友銀行の主導で進められることとなった[140]。同月、住友銀行は東洋工業の管理を専門に担当する「融資第二部」を新設[141]。責任者には専務の磯田一郎(後の頭取・会長)が、部長には本店営業部長で常務の巽外夫(後の頭取・会長)が就任した[142]

東京及び大阪両支社等の土地建物や有価証券の売却[143]、住友銀行を中心とした協調融資[144]、減産及び在庫一掃を目的とした余剰人員のディーラーへの出向[145]、米国販売会社の分割[146]、コストコントロール部の新設による全社的な原価低減活動の開始[147]といった対策が次々と打たれた。しかし、1975年(昭和50年)10月決算では経常赤字が173億円に上り[148]、同業他社の首脳から「東洋工業は倒産する」との談話が出るなど、東洋工業を取り巻く環境は厳しさを増していった[149]

フォードとの資本提携

サバンナRX-7(1978年)

1976年(昭和51年)1月、住友銀行は本格的再建のために村井勉常務(後の副頭取)を副社長として派遣[150]。東洋工業を「経営形態を成しておらず、町工場に等しい状況」と判断した村井は、有名無実化していた最高意思決定機関である常務会の強化や、社全体の計画立案・調整を担う社長室の新設を実施[151]。住友銀行式の合議制経営を導入し、それまでの松田ワンマン体制にメスを入れた[152]

住友銀行は、東洋工業の合理化に成功したとしても単独での生き残りは困難であると考え、開発したREの特許を交渉材料に提携先を探すことにした[153]。しかしトヨタや三菱自動車との提携を模索するも成就せず[154][155]、通商産業省も日産に提携を持ち掛けたが、こちらも実現しなかった[156]。松田耕平も独自にゼネラルモーターズ(GM)との交渉に動いていたが、GMはすでにREへの関心を失っていた上にアメリカの独占禁止法上の問題もあったため、この可能性も消えた[157]

国内自動車会社との提携は困難であると認識した住友銀行は外資との提携に動き、過去に資本提携交渉は決裂したものの、1971年(昭和46年)6月に業務提携を結び、小型トラックを輸出していたフォードを新たな提携先として選択[158]1977年(昭和52年)7月、前月に頭取に昇格した磯田は「東洋工業はフォードとの提携強化を望んでおり、その際、住友銀行は主力銀行として支援を惜しまない」との内容のヘンリー・フォード2世会長宛ての親書をしたため、巽外夫に託し交渉を開始した[159]

こうした中、経営改革に消極的な松田耕平にしびれを切らした住友銀行は、当初より念頭に置いていた社長解任に向けた動きを始め、1977年(昭和52年)12月に出処進退を迫った[160]。同月22日、松田耕平は代表権のない会長に退き、後継には住友銀行の後押しで、コストコントロール部を担当していた専務の山崎芳樹が昇格[161]。これにより3代にわたって57年間続いた松田家による同族経営は終わりを迎えた[162]。山崎は車種ごとに開発や生産、販売を統括する主査室を新設し、経営トップの意向を反映する従来の車づくりから部署を越えて意見を出し合う体制を構築した[163][164]

1978年(昭和53年)に入りフォードと東洋工業の接触は頻繁となり、同年12月には東洋工業がフォードにトランスアクスルを供給する交渉がまとまった[165]。翌1979年(昭和54年)11月、アジア太平洋戦略の足がかりとして日本車メーカーとの提携を模索していたフォードと東洋工業・住友銀行の思惑が一致したことで、フォードが東洋工業に25%出資する資本提携が実現した[138]

5代目ファミリア(1980年)

住友銀行から派遣された常務の花岡信平の「アメリカでのスポーツカー需要に応えるためにはRE車が必要」との報告を契機にRE搭載の本格スポーツカーの開発が開始され、1978年(昭和53年)3月にサバンナRX-7として発売[166]。日米で大ヒットを記録した[167]。オイルショック以降発売した新型車と社員のディーラー出向制度が効果を発揮したことで販売は回復[168]。1979年(昭和54年)にはトヨタ、日産に次いで生産台数100万台の大台に乗せた[169]1980年(昭和55年)には主査室制度になってからの最初の商品である5代目ファミリアを発売し、当時の若者らに支持され大ヒットを記録した[164]

1981年(昭和56年)、東洋工業は新たな卸売会社、オートラマを設立し、マツダが製造するフォードブランド車の国内販売を始めた[170]。オイルショック後に延期が続いていた山口県防府市の完成車工場の建設も再開し、1982年(昭和57年)に操業を開始した[171][172]

国内販売拡大策の失敗

1984年(昭和59年)5月、東洋工業は社名をブランド名に合わせマツダ株式会社に改称[173]。同年11月にはロータリーエンジンの生みの親である山本健一が社長に就任し、同時にアメリカへの工場進出を発表した[174]

1985年(昭和60年)9月、先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)でプラザ合意が発表されると、1ドル250円だった為替レートは1年後に150円台にまで急騰[175]。自動車を始めとした輸出比率が高い産業を直撃し、とりわけ輸出比率が68%にも達していたマツダは大きな打撃を受けた[176]円高は自動車各社の目を一斉に国内市場に向けさせ、特に1987年(昭和62年)に創立50周年を迎えていたトヨタは国内シェア50%を目指した「T-50作戦」を展開[177]。他社はその影響をまともに受ける格好となり、円高と国内販売競争の激化でマツダの収益は悪化した[177]

1987年(昭和62年)12月、円高による業績悪化と自身の腰痛を理由に山本は任期途中で会長に退き、後任には2年前に通商産業省からマツダに転じた古田徳昌が就任[178]。会長の山本、社長の古田、住友銀行出身で副社長の和田淑弘の3人が代表権をもつ3頭体制の下[179]1988年(昭和63年)5月、マツダは1992年度を最終年度とする中期経営計画「MI(マツダイノベーション)計画」を開始した[180]。「B-10計画」とよばれる国内販売拡大策[注釈 6]をその柱とし、国内販売台数をそれまでの約40万台からシェア10%にあたる80万台にまで増やすことで[184]、輸出に依存した経営体質を改め、1ドル100円下でも2兆円の売上と1000億円の経常利益を確保する目標を掲げた[185]

「B-10計画」に基づき、マツダは従来の「マツダ」、「マツダオート」、「オートラマ」の3つの販売チャンネルに、新たに「ユーノス」と「オートザム」の2つを加え、トヨタや日産と同等の国内5チャンネル体制を敷いた[184]。3チャンネル体制時に1500店余りだった店舗数を3000店近くにまで増やし[183]、600億円を投じて防府第二工場の建設にも取り掛かった[186]。この拡大策はバブル経済期には一定の成果を上げ、1990年平成2年)には生産台数が140万台にまで達して過去最高を記録[187]。国内販売台数も60万台と最高記録を更新した[188]1991年(平成3年)には「B-10計画」の後を見据え、「マツダオート」を「アンフィニ」に変更した[189]

しかしその後、バブル経済が崩壊。それとともに販売台数は急速に減少した[187]。5チャンネル体制はバブル崩壊後すぐにその効果が疑問視されるようになり、長期的にこの体制を維持することが困難であると感じ取った住友銀行は、1991年(平成3年)に同行で取締役を務めた和田淑弘を社長に据えた[188]。マツダは1993年(平成5年)度から3年連続して大幅な赤字を計上[190]1995年(平成7年)度の生産台数は77万台とピーク時の1990年(平成2年)からほぼ半減し、国内販売台数もわずか35万台にとどまるという惨憺たる状況に陥った[191]。販売チャンネルと車種を増やしたことで営業や生産にかかる費用が増大し、高コスト体質がマツダを蝕んだ[187]。マツダの名ではなく、チャンネルの名称やシンボルマークを冠した商品の投入を続けたことでブランドも毀損した[183]。拡大策は完全な失敗だった[187]

フォード傘下での再建

アテンザ(2002年)

住友銀行の巽外夫は、マツダを再び再建させるには銀行主導では限界があり、フォードの世界戦略への編入以外に生き残る術はないと判断した[192]。巽の要請に応じたフォードは、1994年(平成6年)に将来を有望視されている40歳代の4人の社員を顧問としてマツダに派遣[192]。同年6月の株主総会後に4人は役員に就任し、これをもってフォードは実質的にマツダの経営を掌握した[192]1996年(平成8年)4月、マツダはフォードに対する第三者割当増資を決定[193]。これによりフォードの出資比率は24.5%から33.4%に高まり、マツダは正式にフォード傘下に入ることとなった[193]。合わせてフォードから派遣されていた副社長のヘンリー・ウォレスが社長に昇格し、日本の自動車会社初の外国人社長が誕生した[194]

ウォレスが社長に就任した1996年(平成8年)頃、マツダの有利子負債は7000億円を越えていた上、生産台数はピーク時の約半分に落ち込んでいた[195]。財務の専門家であるウォレス[196]ら経営陣は、保有株式や不要不急の施設などの資産を売却し、伝統的に資金の面で寛容に扱われてきた開発部門に対しても厳しいコストダウンを要求[197]。増えすぎた車種の整理と販売チャネルの簡素化や[198]、フォード車とのプラットフォームの共通化を発表し、開発や生産、購買までの全業務のデジタル化により経営効率化を図る「マツダデジタルイノベーション」も導入した[194]。1996年(平成8年)には短期間で開発したコンパクトカーのデミオが予想を超えるヒットを記録[199]。翌1997年(平成9年)9月の中間決算では5年ぶりに営業利益が黒字に転じた[194]

1997年(平成9年)11月、副社長で販売が専門のジェームズ・ミラーが社長に昇格[200]。社長のミラーと技術担当役員のマーティン・リーチの下、ブランドの再興に乗り出し、役員や技術者、海外現地法人との議論を重ねる中で、スポーティさ、走りの良さを全面に打ち出す考えをまとめた[201]。この新たなブランド戦略を遂行するため、すでに進行していた主要車種の開発を白紙に戻し、車種名から内容まで一新したモデルを改めて開発することを決断[202]。このため2000年(平成12年)11月から2002年(平成14年)春までの一年半にわたり、新型車が投入されない異例の時期が生じることになった[203]

1999年(平成11年)12月、専務で新ブランド戦略策定の中心人物であるマーク・フィールズ英語版(後にフォード社長)が社長に昇格[204]。さらなるコストの見直しを図るため、2000年(平成12年)11月、スペインのフォードの工場でのマツダ車の生産、宇品第2工場の閉鎖、早期退職者募集を柱とする「ミレニアムプラン」を発表[205]。1800人を募集した早期退職優遇プランには受付開始と同時に申し込みが殺到したため即時に募集が打ち切られる事態となり、最終的に2210人が会社を去ることとなった[206]。積立不足だった退職給付債務を一括償却した影響もあり、この年には1552億円の損失を計上した[204]

RX-8(2003年)

2001年(平成13年)10月、第35回東京モーターショーにて新ブランドメッセージの「Zoom-Zoom」を打ち出すとともに、新生マツダブランドを体現する商品の第一弾である中型セダンアテンザと、ロータリーエンジンを搭載したスポーツカーのRX-8を公開[205]。プラットフォームからエンジンまでを一新し、翌2002年(平成14年)5月に発売されたアテンザは国内外で高い支持を受け、生産能力を引き上げるほどのヒット作となった[207]。新生マツダを象徴する主力車種であるアテンザ、デミオ、アクセラといったモデルの投入によって業績は回復[208]。全く新しいマツダブランドの商品を開発する作戦は成功を収めた[209]

2003年(平成15年)8月、前年6月に社長に就任したルイス・ブース英語版に代わり、井巻久一が社長に就任[210]。日本人社長としては7年ぶり、生え抜き社長としては山本健一以来16年振りのことだった[211]2007年(平成19年)3月期には営業利益が1621億円と過去最高を記録した[212]

「モノ造り革新」への挑戦

CX-5(2012年)

マツダの業績はフォードの下で回復基調へと転じたが、開発や生産部門の中では、フォードグループの軛から離れ、商品の多様性とコスト低減を両立させる戦略を実行したいとの思いが強まっていた[193]2005年(平成17年)7月、マツダは好調な業績を背景に長期戦略の策定を始め、10年後の2015年(平成27年)までに全てのマツダ車が世界のベンチマークになるとする目標を設定した[213]。その実現手段として「モノ造り革新[注釈 7]を立案し、開発から生産にいたるまでの全ての業務プロセスを一新する構想をまとめた[215]

2006年(平成18年)末に親会社のフォードに計画の説明に訪れ、否定的な意見に遭いながらも、最終的に黙認に近い形で了承を得るに至った[216]。同時にこれはマツダが失敗してもフォードは手を差し伸べないということを意味し[217]、この時にエンジンの開発方針を分けたことが後の提携解消の契機となった[218]2007年(平成19年)には技術開発ビジョン「サステイナブル“Zoom-Zoom”宣言」を発表[219]。走る楽しさと環境安全性能の両立を打ち出し、翌2008年(平成20年)6月には2015年(平成27年)までにマツダ車の平均燃費を30%向上させる目標を公表した[220]

しかしその直後の2008年(平成20年)9月、リーマン・ショックが発生[212]。世界の経済界・産業界は混乱に陥り、自動車産業も深刻な打撃を受けた[212]。経営が悪化したフォードは同年11月に資金調達のため保有するマツダ株の一部を売却したため、出資比率は13%に低下した[221]。これと同時にマツダは副社長の山内孝が社長に昇格する人事を発表し、経営陣をマツダ出身者主体に刷新した[222]。リーマン・ショック後に円相場が急激な円高に振れたことで輸出比率の高いマツダは大きなダメージを受け、2009年(平成21年)3月期には赤字に転落[223]。さらに2011年(平成23年)にかけて東日本大震災タイの洪水といった事態が続き[223]、最終的にマツダの業績は2012年(平成24年)3月期まで4年連続の赤字に陥った[218]。こうした中、2009年(平成21年)に増資と自社株の売却で933億円[224]、2012年(平成24年)には公募増資と劣後ローンで2142億円を調達し、研究開発やメキシコ新工場をはじめとする設備投資に必要な資金を捻出した[225]

4代目ロードスター(2015年)

2010年(平成22年)10月、マツダは新世代のエンジントランスミッション、ボディ、シャシーといった一連の新技術を総称した「スカイアクティブ・テクノロジー」を発表[226]。2011年(平成23年)には新開発したガソリンエンジンSKYACTIV-Gをデミオに搭載して発売し、他社のハイブリッドカーと同等の燃費性能を実現した[227]。2012年(平成24年)にはスカイアクティブ技術を全面的に採用した車種の第一弾であるCX-5を発売し、ディーゼルエンジンSKYACTIV-Dを中心に大ヒットを記録[228]。この年にはスカイアクティブ技術を搭載した車種の好調な売れ行きを背景にマツダは黒字に転換した[229]2013年(平成25年)には専務の小飼雅道が社長に昇格した[230]

この後もスカイアクティブ技術とデザインテーマ「魂動」を採用した一連の車種は人気を集め[231]、2015年(平成27年)に発売した4代目ロードスターは「世界・カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞[232]。合わせて日本車としては初の「ワールド・カー・デザイン・オブ・ザ・イヤー」も獲得し、同賞設立以来初めての2部門同時受賞を果たした[232]2016年(平成28年)3月期決算では過去最高の営業利益2267億円を記録し[233]2018年(平成30年)3月期には販売台数が163万台と5年連続で過去最高を更新した[231]

現在

2015年(平成27年)5月、マツダとトヨタは提携拡大に向けた検討を開始すると発表した[234]。その一方で、2008年(平成20年)以来段階的にマツダへの出資比率を下げていたフォードは、同年9月末までに保有していたすべてのマツダ株を売却し、これによりフォードとマツダの36年間にわたる資本提携は終了した[235]2017年(平成29年)8月、トヨタとマツダは互いに500億円ずつ株式を持ち合う業務資本提携で合意し、アメリカでの生産合弁会社の設立、電気自動車に関する共同技術開発といった提携内容を発表した[236]。2018年(平成30年)、副社長の丸本明が社長に昇格した[237]


注釈

  1. ^ 当時、コルク板は軍事用としては砲弾などを保管する際の緩衝材として、業務用及び家庭用としては冷蔵庫などの断熱材などとして使用されていた[23]
  2. ^ 現在の広島簡易裁判所に相当[75]
  3. ^ 当時、外貨が流出する事業には政府の認可が必要だった[112]
  4. ^ 三輪トラックは走行時に出すエンジン音から「バタンコ」、「バタバタ」などと呼ばれており、東洋工業は他の四輪車メーカーから「バタンコ屋」と揶揄されていた[120]
  5. ^ 300億円が投じられたこの新工場は、オイルショックによるRE車の販売不振を受け完成目前にして工事が中断され、最終的に1979年(昭和54年)に廃棄処分された[131]
  6. ^ この販売拡大策はオートラマ社長の安森寿朗が立案し[181]住友銀行出身の大原通正が後ろ盾となって推進した[138]。社内には危険視する声もあったが、国内営業部門の強い要望を受け、最終的に当時社長だった山本健一がゴーサインを出した[182][183]
  7. ^ 10年先までの全ての車種をまとめて企画・開発する「一括企画」、一括企画で決めた車種の主要な技術的要素を統一し、コンピューターシミュレーション技術を用いて開発の効率化とコスト低減を目指す「コモンアーキテクチャー」、同一生産ラインで複数の車種を変種変量で造る「フレキシブル生産」の3つから構成される[214]
  8. ^ MINEサーキット。マツダにより買収され試験場として開設された[392]
  9. ^ 連結財務諸表に重大な影響を及ぼしていないことを理由に持分法の適用範囲から除外されている[241]

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