ベルリンの壁崩壊 参考文献

ベルリンの壁崩壊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 03:26 UTC 版)

参考文献

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  • エドガー・ヴォルウルム 著、飯田収治・木村明夫・村上亮 訳『ベルリンの壁~ドイツ分断の歴史~』洛北出版、2012年。 

注釈

  1. ^ 東ドイツそのものが、ソ連に政治的にも軍事的にも依存し、その経済的支援とともに軍事的支援(国内にソ連軍が存在すること)がホーネッカー政権を支えていた。
  2. ^ この日ゴルバチョフは駐東独のソ連大使コチュマソフを通じて、東ドイツ市民のデモ隊の制圧に駐独ソ連軍を使わないよう、駐独ソ連軍の司令官スネトコフに指示していた。(ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P485)
  3. ^ この声明は社会主義統一党機関紙ノイエス・ドイチュラント』に12日に掲載された。
  4. ^ シュトレーレッツは「上級大将」と訳されているが国家人民軍の階級では旧ドイツ国防軍で上級大将を意味した"Generaloberst"は「大将」で、国家人民軍上級大将は""Armeegeneral"
  5. ^ ホーネッカーが中央委員会で解任され失脚した日時を、10月18日とする出典も散見される。これは17日の政治局会議で中央委員会に対して解任を求める動議を提出することが可決され、翌日の中央委員会総会で解任動議が可決されたことにより正式に退任したからである。
  6. ^ 失脚後のホーネッカーに対して行ったインタビューをまとめた『転落者の告白―東独議長ホーネッカー』(著:ラインホルト・アンデルト、ヴォルフガンク・ヘルツベルク 翻訳:佐々木 秀 時事通信社 1991年) P20では、ホーネッカーは「10月17日の政治局会議」と明言している。
  7. ^ この措置は、それまでと違い、二国間協定に基づくものであったので、その意味は大きく、西ベルリンの新聞「ターゲスツァイトゥンク」紙の記事でジャーナリストのクラウス・ハルトゥングが「誰も正しくは気付いていない。壁が崩れたということを」として「象徴が崩れたのではない。現実が崩れたのだ」と記している。チェコと東ドイツ国境が開放され、続いてチェコと西ドイツ国境が開放されたことで、もはや後戻りはできず、そのわずか6日後の西ベルリン及び西ドイツとの国境の開放(壁の崩壊)に至る。N・A・ヴィンクラー著 「自由と統一への長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史 1933-1990年~」486P
  8. ^ このモドロウが閣僚評議会議長(首相)に正式に就任したのは5日後の11月13日であった。そのため、壁が崩壊した9日夜の時点では政治局、内閣ともに正規のメンバーが不在であり、この政権交代時の空白の時間が壁の崩壊に多分に影響があったと解される。
  9. ^ そんなことをしたら、支離滅裂な対応になり、一度に大量の東ドイツ国民が国を去り、国が崩壊すると予想された。
  10. ^ 直前のハンガリーやポーランドでの事態では「追放」で再入国を認めないものであった。
  11. ^ クリストファー・ヒルトン著「ベルリンの壁の物語」では12時30分、H・A・ヴィンクラー著「自由と統一への長い道Ⅱ」では午後3時50分と述べている。クリストファー・ヒルトンは昼12時に中央委員会に提出されて、12時30分に中央委員会で承認され、すぐに閣僚会議に付託され、午後3時30分にクレンツの下にゴム印の押された提案書が戻ってきたとしている。
  12. ^ H・A・ヴィンクラーは、これによって「11月10日という報道解禁日」は事実上なくなったと述べている。また閣僚評議会から発表すべきとの内相の発言は政令が「閣僚評議会議長令」だからであることが、その理由であった。そうであればシャボフスキーは政府スポークスマンとして閣僚評議会の発表を行ったことになるが、実は閣僚評議会のスポークスマンは別にいたことになっている。ただしこの記者会見の場での他の発表内容は中央委員会での討議内容であった。
  13. ^ 党中央委員、政治局員、ベルリン地区委員会第一書記(党のベルリン支部長)、人民議会議員。元ジャーナリスト(党機関紙「ノイエス・ドイチュラント」編集長)で弁舌が巧みであったため、マスコミや在野団体に応対する役割をしていた[70]
  14. ^ 中央委員会が行われた党本部から、この各国の記者が集まった会見場(国際記者会館)までは、直線距離でわずか200~300mの近さであったが、道路を走るため公用車を使っていた。シャボフスキーは移動中に文書に目を通そうとしたが、公用車の車内が暗いためよく読めなかった。
  15. ^ 但し資料によっては100人の記者が出席していたとするものもある。
  16. ^ イタリア人記者リッカルド・エールマン(Riccardo Ehrmann)が2009年4月16日に放送されたドイツARDテレビの番組で明らかにしたところによれば、この会見の前にエルマンと面識があった社会主義統一党の大物から電話があり、取材する際に出国規制の緩和について必ず質問するよう念を押したという「ベルリンの壁」崩壊の陰に謎の電話、ドイツ”. 2009年6月10日閲覧。。但しエールマン自身はこの報道を否定しているという情報もある。
  17. ^ それぞれ出典が違うが、前後関係からシャボフスキーの言い方はこのような流れであったと思われる。
  18. ^ もっとも、当時の東ドイツは閣僚会議が全く形ばかりの組織であり、中央委員会が閣僚会議より上位に位置していた。シャボフスキー自身がアンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」への寄稿で明かしたところでは、彼が記者会見に持っていった文書は政府通達の草案で、新しい旅行法が不十分で抗議の動きが強まっていたために政令の発表を急ぐ必要があって、「我々の決定について政府は何も知りませんでした」と述べている(アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」136-140P 参照)。ましてこの時点ではシュトフ閣僚評議会議長(首相)が前日に解任されて事実上内閣が存在しない状態であったことから(後任のモドロウの正式就任は13日)、シャボフスキーは勘違いというより、形だけの閣僚会議のことは全く考えていなかったと解される。
  19. ^ この質問をしたのは、エールマンでなくアメリカNBC放送のトム・ブロコウ記者であるとヴィクター・セベスチェンは書いている。ヴィクター・セベスチェン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』509-510P
  20. ^ この時の映像がARDターゲスシャウのサイト内で公開されており、シャボフスキーの発言を聞くことが出来る。→"Sofort, unverzüglich"(ARD tagesshau)
  21. ^ この言葉は、他に「私の知る限りでは、今からすぐにです」[81]、「私が知っている限りでは、即座に遅延なくです」(グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 260P)、「私が承知している限りでは、直ちに遅滞なく発効します」[82]と訳されている。
  22. ^ ベルリンでは電波が相互にスピルオーバーするため、という言説は正確ではない。余分に電波が飛んでいる状態ではなく、政治的に対立している地域ではお互いに電波が遠くまで届くようにするもので、東西ドイツ間では相互に認めている状態である。それが自由主義の宣伝にもなり、東ドイツの人々は西側の番組を知っていた。
  23. ^ 「ボルンホルマー通り」と表記する資料もある。
  24. ^ 通称チェックポイント・チャーリーとして有名であり、1961年10月に米ソで戦車を動員にして対峙した所であり、また西側3ヵ国の軍関係者はここだけ通過が認められている検問所である。
  25. ^ 国境検問所には直接窓口で対応するパスポート審査官と、外で保安活動を行う国境警備隊とは現実に任務が分かれていた。国境警備隊はあくまで検問所の外側でのいわゆる治安維持を含めた規制などの警備を行い、パスポート審査官は検問を通過する者のチェックや認証などの窓口業務を取り仕切った。そしてこのパスポート審査は国家保安省(シュタージ)の管轄であり、市民が出入りする場所である検問所の全ての責任はこのパスポート審査官が負っていた。従って現場での最高責任者は国境警備隊ではなく、パスポート審査官であった[88]
  26. ^ ただし、異説として、この11月9日夜に限って各検問所のパスポート審査の責任者全員が内務省の会議に呼び出されていたために、この夜は各検問所も副官が留守を守っていたとして、決断を下すべき本来の責任者はどこの検問所にも居なかったとしている。残っていたメンバーで一番経験の長い者がこの困難な状況下で歴史的な決断を下す夜になったことになる[89]。そして1989年11月9日夜のボルンホルマー通りの検問所の最高責任者はパスポート審査官であるハラルト・イエーガー司令官であった[88]
  27. ^ 後に「ベルリンの壁を開放した男」と呼ばれることになったハラルト・イエーガードイツ語版中佐Yannick Pasquet (2014年11月9日). “「ベルリンの壁を開放した」元国境警察官、25年前を回想”. AFPBB News. https://www.afpbb.com/articles/-/3031195 2014年11月11日閲覧。 
  28. ^ ギュンター・メルと表記する資料もある。
  29. ^ チェックポイント・チャーリーで最終的に彼が国境の開放を決断することになるが、彼はパスポート審査官ではなく、警備隊の指揮を取っていたと思われる。またモルはイエーガーと違ってシュタージには在籍しておらず、チェックポイント・チャーリー内ではシュタージでもあったイエーガーとはまた別の立場であった。
  30. ^ 1936年のベルリンオリンピックのメイン会場となったスタジアムである。戦後は連合軍の施設となり、西側の軍関係者が集まる社交場でもあった。
  31. ^ チェックポイント・チャーリーのあるフリードリッヒ通りの地下に地下鉄の駅はあるが、それは西側の駅であり、東側には壁付近に近い駅はない。越境や逃亡を防ぐためである。
  32. ^ 西側3ヵ国の軍関係者は1961年の壁建設以後も東ベルリンに行くことは可能であった。戦後の4ヵ国協定で米英仏ソの4ヵ国はベルリンの東西を往来することは認められていて、相互に軍用車に自国の旗を立てて、他国の占領管理地区をパトロールを行っていた。当初アメリカ軍は1日おきに昼間と夜間に4~5台が東ベルリンをパトロールし、その後毎日実施していた。これはソ連占領地域に出入りする権利を持つことを誇示し、その権利を行使することを示していたが、ソ連側も同じように西ベルリンをパトロールしていた[100]
  33. ^ 同じ1989年6月4日に起こった天安門事件の影響もあり、すでに東ドイツの全ての軍隊はあらゆるデモに対して武力制圧をすることを拒否していたため、武力をちらつかせての威嚇や武力制圧という手段はまず不可能であった。
  34. ^ ベルリンの国境検問所は東側は東ドイツが管理しているが、元はソ連の管理であり、米英仏の西側3ヵ国とソ連とでベルリンを管理するという取り決め自体は戦後からこの時点まで変わっていなかった。東ドイツが何を言おうとベルリンの管理は米英仏ソの4ヵ国が取り決めていることで、アメリカ軍の相手は東ドイツでなく、ソ連軍であった。そしてこの時にソ連軍は50万人の兵士が東ドイツに駐屯していた。
  35. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』ではモル司令官が「独断」でゲートを開かせたと述べているが、正確には「独自の判断」と表現しており、勝手に動かした訳ではない。しかもこの時点はボルンホルム通りのイエーガーの決断から1時間も過ぎており、他の検問所もすでに開き、しかもチェックポイント・チャーリー内のパスポート審査官(シュタージ)の同意を得ており、独断とは言えない。なおマイケル・マイヤー著「1989 世界を変えた年」ではこのチェックポイント・チャーリーの国境開放は11時17分としている。
  36. ^ あくまでスターリン主義的なソ連型社会主義を否定しただけでありマルクス・レーニン主義自体を放棄した訳ではない。
  37. ^ 正式な楽曲リリースは1992年のアルバム『JOURNEY (THE ALFEEのアルバム)|JOURNEY』

出典

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  127. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P512-513
  128. ^ アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」139-140P参照
  129. ^ マイケル・マイヤー 著『1989 世界を変えた年』279P
  130. ^ 『ベルリンの壁崩壊 フォトドキュメント』5P及び 49P参照
  131. ^ グレゴーア・ショルゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』249-250P参照 三元社 2015年
  132. ^ ヴィクター・セベスチャン著「東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊」515-517P
  133. ^ a b エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」210P
  134. ^ H・A・ヴィンクラー著「自由と統一の長い道 Ⅱ ~ドイツ近現代史1933-1990年~」489-490P参照
  135. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」215P
  136. ^ アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン~記憶の場所を辿る旅~」193P
  137. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」214P参照
  138. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P29-33
  139. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P33-34
  140. ^ a b c 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P36
  141. ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P37
  142. ^ 南塚・宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P115-166
  143. ^ a b 南塚・宮島『’89・東欧改革―何がどう変わったか』P122
  144. ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』(岩波書店 ヨーロッパ史入門 2009年)P120
  145. ^ Helen Nugent (2009年9月10日). “United Germany might allow another Hitler, Mitterrand told Thatcher”. Times (UK). オリジナルの2011年5月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110512174119/http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/europe/article6828556.ece 2011年5月12日閲覧。 
  146. ^ 朝日新聞 1989年11月19日付 7頁
  147. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」217-218P参照
  148. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」218P参照
  149. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」219-220P参照
  150. ^ エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」220P参照
  151. ^ ヒルトン, p. 194.
  152. ^ ヴィクター・セベスチェン著 三浦・山崎訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』P515
  153. ^ 『ダライ・ラマ自伝』(ISBN 4167651092)
  154. ^ ベルリンの壁崩壊25周年、3日間の祝賀行事 ドイツ(AFP 2014年11月8日)





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