ベルク公国 歴史

ベルク公国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/12 01:06 UTC 版)

歴史

ベルク伯領は、11世紀にニーダーライン地方で最大の勢威を誇り、ロタリンギア宮中伯の地位にあったエッツォ家の傍系が創始した。1160年、ベルク伯領が分割されてマルク伯領が創設されたが、この2つの領邦は16世紀になると再び統合されることになる。

初期のベルク伯の中で最も勢力の強かったのは、ケルン大司教を務めたエンゲルベルト2世である。エンゲルベルト2世は1225年11月7日に暗殺され[1][2]ローマ・カトリック教会によって聖人に列せられた。1288年、アドルフ5世(8世)は敵対関係にあるゲルデルン公国と戦うためにヴォーリンゲンの戦い英語版に参加し、味方と共に勝利を収めている。

ベルク伯領の勢力は14世紀に大きく伸長した。ベルクは1348年ユーリヒ伯領を獲得し[3]1380年には公爵領への昇格を認められた。公爵となったヴィルヘルム2世は、宮廷をゾーリンゲンのヴッパー川 (en河畔にあるブルク城 (enから、ライン川に面したデュッセルドルフに移した。1423年、ベルク公アドルフユーリヒ公国を相続すると、君主を同じくする2公爵領はユーリヒ=ベルク公国と呼ばれるようになった。

1509年クレーフェ公国及びマルク伯領の支配者ヨハン3世はユーリヒ=ベルク公国及び付属のラーヴェンスベルク伯領を入手するため、ユーリヒ=ベルク公ヴィルヘルム4世の娘マリアと政略結婚した。神聖ローマ帝国諸邦の相続に適用されるサリカ法典では、女子相続人の夫がその財産の所有者となれるためである。1521年にヴィルヘルム4世の死によってユーリヒ=ベルク公爵家の男系が絶えると、ヨハン3世がその領国を獲得した。この結果、ヨハン3世を共通の君主とするユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国が成立した。連合公国は現在のノルトライン=ヴェストファーレン州の大部分を占めるものだった(残りの領域としてはケルン大司教領、ミュンスター司教領 (enが存在した)。

しかし新たな公爵家も、最後の当主ヨハン・ヴィルヘルムが精神異常のまま死んだことで1609年には断絶した。広大な連合公国の相続をめぐってプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントとの間でユーリヒ=クレーフェ継承戦争が起きたが、1614年に妥協が成立し、ユーリヒとベルクの2公国はプファルツ=ノイブルク公ヴォルフガング・ヴィルヘルムが、クレーフェ公国とマルク伯領はブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントが相続した。プファルツ=ノイブルク家は1685年に本家からプファルツ選帝侯の座を継承し、1777年バイエルン選帝侯位を継承するまではベルク公国の首都デュッセルドルフを主要な居所としていた。







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