ヘルメース 概要

ヘルメース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/06 21:06 UTC 版)

概要

ヘルメースはゼウスマイアの子とされる[1]。ゼウスはオリュンポス神族の伝令となる神を作るため、妻ヘーラーに気付かれないように夜中にこっそり抜け出し、マイアに会いに行くことで泥棒の才能を、ヘーラーに隠し通すことで嘘の才能を、ヘルメースが持つように狙った。特にゼウスの忠実な部下で、神話では多くの密命を果たしている[1]。代表的なのは百眼の巨人アルゴスの殺害で、ヘルメースの異名「アルゲイポンテース」(この語釈についてはアルゴス (ギリシャ)#古代を参照)は「アルゴスを退治した者」と解される[17]。古典期以降のヘルメースは、つば広の丸い旅行帽「ペタソス」を頭に被り、神々の伝令の証である杖「ケーリュケイオン」を手に執り、空を飛ぶことができる翼の生えた黄金のサンダル(タラリア)を足に履いた姿で表され、時には武器である鎌「ハルペー」(ショーテルとも)を持つ[1][18]

死者、特に英雄の魂を冥界に導くプシューコポンポス英語版(魂の導者)としての一面も持ち、その反面冥界から死者の魂を地上に戻す役割も担っており、オルペウスが妻エウリュディケーを冥界から連れ出そうとした際に同行した[18]。この点からタキトゥスはゲルマン人の主神であったウォーダン(北欧神話オーディン)とローマのヘルメースたるメルクリウスを同一視している。また、アポローン竪琴の発明者とされる[1]

神話

生い立ち

ヘルメースは早朝に生まれ、昼にゆりかごから抜け出すと、まもなくアポローンの飼っていた50頭を盗んだ[1]。ヘルメースは自身の足跡を偽装し、さらに証拠の品を燃やして牛たちを後ろ向きに歩かせ、牛舎から出た形跡をなくしてしまった[1]。翌日、牛たちがいないことに気付いたアポローンは不思議な足跡に戸惑うが、占いによりヘルメースが犯人だと知る[18]。激怒したアポローンはヘルメースを見つけ、牛を返すように迫るが、ヘルメースは「生まれたばかりの自分にできる訳がない」とうそぶき、ゼウスの前に引き立てられても「嘘のつき方も知らない」と言った[1]。それを見たゼウスはヘルメースに泥棒と嘘の才能があることを見抜き、ヘルメースに対してアポローンに牛を返すように勧めた[1]。ヘルメースは牛を返すがアポローンは納得いかず、ヘルメースは生まれた直後(牛を盗んだ帰りとも)に洞穴で捕らえたの甲羅にを張って作った竪琴を奏でた[1]。それが欲しくなったアポローンは牛と竪琴を交換してヘルメースを許し、さらにヘルメースが葦笛をこしらえると、アポローンは友好の証として自身の持つケーリュケイオンの杖をヘルメースに贈った(牛はヘルメースが全て殺したため、交換したのはケーリュケイオンだけとする説も。なお、殺した牛の腸を竪琴の材料に使ったとも)[1]。このときアポローンとお互いに必要な物を交換したことからヘルメースは商売の神と呼ばれ、生まれた直後に各地を飛び回ったことから旅の神にもなった。

ヘルメースはヘーラーの息子ではなかったが、アレースと入れ替わってその母乳を飲んでいたため、ヘーラーはそれが分かった後もヘルメースに対して情が移り、彼を我が子同然に可愛がった[1]

アルゴス殺し

ゼウスはイーオーという美女と密通していた。これを見抜いたヘーラーはゼウスに詰め寄るが、ゼウスはイーオーを美しい雌牛に変え、雌牛を愛でていただけであるとした。ヘーラーは策を講じ、その雌牛をゼウスから貰うと、百眼の巨人アルゴスを見張りに付けた。この巨人は身体中に百の眼を持ち、眠る時も半分の50の眼は開いたままであったので、空間的にも時間的にも死角が存在しなかった。ゼウスはイーオー救出の任をヘルメースに命じた。ヘルメースは葦笛でアルゴスの全ての眼を眠らせると、剣を用いてその首を刎ねた。もしくは巨岩を投げ当てて撲殺した。このことから、ヘルメースは「アルゲイポンテース」と呼ばれ、これは「アルゴス殺し」という意味であった。

好色

ある時アプロディーテーに惚れたヘルメースは彼女を口説いたが、まったく相手にされなかった[1]。そこでヘルメースはゼウスに頼んでを借りてくると、その鷲と泥棒の才能を使ってアプロディーテーの黄金のサンダルを盗んだ[1]。ヘルメースはこのサンダルを返すことを条件に関係を迫り、彼女を自由にした[1]。2人の間にはヘルマプロディートスプリアーポスが生まれた[1]。この他にもミュルミドーンの娘エウポレメイア、ペルセポネーヘカテー、多数のニュンペーたちと関係を持っており[18]アイタリデースエウドーロスアウトリュコスなどの子供をもうけている[1]。また、パーンもヘルメースの息子とされることがある[1]

ギガントマキアー

ギガントマキアーにおいてヘルメースはハーデースの隠れ兜を被って姿を消し、ギガンテスの一人ヒッポリュトスを倒している[1]

信仰

起源

登場する説話にはヘルメースがもとは薄明の神や風の神であったことを窺知させる部分もあるが、その原始的形態においては牧畜の神にして豊饒神であったとも考えられ、男根をもつヘルメース柱像(後述)はヘルメースの原始的豊饒神としての面を示している。もとはギリシアの先住民族ペラスゴイ人英語版の神であったと言われ[18]、古代ギリシアの歴史家ヘーロドトスは、ギリシア人がヘルメース柱像を造るようになったのはペラスゴイ人の風習を取り入れたものだと述べている[19]。ヘルメース崇拝の中心地は、古代ギリシアの中でも原始的な文化をとどめていたと言われるアルカディアであった[20]。アルカディアは牧畜民が多い丘陵地帯であり、羊飼いたちはヘルメースを家畜の守り神として崇めていた。これが神々の使者といった多様な職能をもつ人格神へと発展した背景として、ドーリア人の侵入後にアポローンがヘルメースに代わって牧羊神の役割を担うようになったことも指摘される[18]

ヘルマ

古代ギリシアにはヘルマもしくは複数形でヘルマイと呼ばれるヘルメース神の石柱像があり、道端などに立てられていた[1]トゥーキュディデースの『戦史』によると、紀元前415年ペロポネーソス戦争を戦っていたアテーナイのヘルマが一夜のうちに全て壊されるという事件が起きた。この事件はアルキビアデースの一派が起こしたものと疑われ、アルキビアデースがラケダイモーン側に寝返る原因となった。アルキビアデースがラケダイモーン側に対して行った進言がきっかけでアテーナイは痛恨の打撃を受け、ついには敗北することとなった。

ヘルマ(ヘルメース柱像)は、アッティカエーゲ海のいくつかの島にみられた、髭面の胸像と起立する陽根を有する角柱である。路傍や畑の境界などに立てられ、境界を示す石であるとともに、農民や牧人が豊饒多産を祈願する神霊の像であったとも推測され[19]、ヘルメースの原始的形態を示すものと考えられている。ヘルマは道の端や角に積まれた累石堆(ヘルマイオン)の名称でもあり、ヘルメース柱像はこれの発展したものとも考えられ、ヘルメースの名や信仰の起源をこれに求める向きもある[21][22]。ヘルマは日本でいう道祖神のように道端や四辻に立てられ、旅人にとっては街道を示す道しるべであったことから、ヘルメースは旅人の庇護者とされ、生者と死者の案内人や伝令、さらには商売や交通を司る神としての性格を備えていったと考えられる。

ローマ神話

ローマ神話におけるメルクリウス(マーキュリー)に相当する[1]水星はギリシアではヘルメースの星といわれ、これはローマ人にも受け継がれた。現代ヨーロッパ諸語でメルクリウスに相当する語を水星に当てるのはこのためである。

錬金術

エジプトの叡智と魔術の神にして書記の守護神であるトートとヘルメース / メルクリウスが習合したヘルメス・トリスメギストスは、紀元1世紀から3世紀に書かれたヘルメス文書の著者に擬せられ、アブラハムまたはモーセの同時代人とされた、伝説上のエジプトの賢者である。ヘルメス(トリスメギストス)の名は12世紀頃から錬金術と結びつけられ[23](このため錬金術はヘルメスの術ともいう)、ヘルメスは錬金術師の守護者にして学問や技芸の始祖であると考えられるようになった[24]


注釈

  1. ^ 例えば『ギリシア詞華集(Anthologia Graeca ad Fidem Codices)』II巻では、以下の記述がある[12]
    男にとってわたしはヘルメスであり、女にたいしてはアフロディテとして姿をみせる。[12]
  2. ^ 医学博士かつ医学史学者であるウォルター・J・フリードランダーの学術書によると、古来のヘルメース自身と医学との繋がりは、さほど強くなかった[14]。その繋がりはヘレニズム時代で強化され、医学と関連深い「(ヘルメース)トート」が「ヘルメース・トリスメギストス」と見なされるようになった[14]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル『ギリシア・ローマ神話事典』大修館書店
  2. ^ a b c d e Grassi 2022, p. 102.
  3. ^ a b Bungard 2009, p. 2.
  4. ^ EDP 2023a, p. 「万物流転」.
  5. ^ 瀬戸 & 投野 2023, p. 「mercury」.
  6. ^ a b Weblio 2022, p. 「Hermes」.
  7. ^ 竹林 2002, p. 1150.
  8. ^ 平凡社 2022, p. 「ヘルメス」.
  9. ^ a b 秋山 2009b, pp. 359–360.
  10. ^ a b 秋山 2009a, p. 470.
  11. ^ キャンベル 2004, pp. 176–177.
  12. ^ a b キャンベル 2004, p. 248.
  13. ^ a b c キャンベル 2004, p. 230.
  14. ^ a b c Friedlander 1992, p. 41.
  15. ^ EDP 2023b, p. 「錬金術」.
  16. ^ 米田 2022, p. 「ヘルメス・トリスメギストス」.
  17. ^ 呉茂一『ギリシア神話(上)』新潮社〈新潮文庫〉、昭和54年、233頁。
  18. ^ a b c d e f フェリックス・ギラン『ギリシア神話』中島健訳、青土社、1991年、107-118頁。
  19. ^ a b 呉茂一『ギリシア神話(上)』新潮社〈新潮文庫〉、昭和54年、232頁。
  20. ^ 沓掛良彦『ホメーロスの諸神讃歌』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2004年、274頁。
  21. ^ ミルチア・エリアーデ『世界宗教史2』松村一男訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2000年、148頁。
  22. ^ 沓掛良彦『ホメーロスの諸神讃歌』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2004年、275頁。
  23. ^ アントワーヌ・フェーブル「ヘルメティズム」『エリアーデ・オカルト事典』法蔵館、2002年、103頁。
  24. ^ セルジュ・ユタン『錬金術』有田忠郎訳、白水社、1972年、44頁。
  25. ^ Lipsitt 2017, p. 413.
  26. ^ a b 柴田 2009, p. 635.






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