フレデリック・ショパン フレデリック・ショパンを扱った作品

フレデリック・ショパン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/02 09:33 UTC 版)

フレデリック・ショパンを扱った作品

題名及び歌詞に出てくる楽曲

映画

小説・漫画

  • "Życie Chopina(ショパンの生涯)" - ポーランドの詩人カジミェシュ・ヴィエジンスキが1949年にニューヨークで出版。
  • 葬送 - ショパンを主人公とした平野啓一郎の長篇小説。
  • 虹のプレリュード - ポーランド時代のショパンが登場する手塚治虫の漫画。
  • 僕のショパン - ショパンとリストの友情を描いた桃雪琴梨の漫画。
  • 君のために弾くショパン - ショパンの精霊が現代の日本で現れる長江朋美の漫画。

ゲーム

アニメ

舞台

  • ザ・クラシック-I LOVE CHOPIN - 宝塚歌劇団宙組によるショー。ショパンの楽曲や生涯を題材にした華麗なレヴュー作品。
  • 巡礼の年~リスト・フェレンツ、魂の彷徨~ - 宝塚歌劇団花組によるミュージカル。作曲家リストの若き日の苦悩と情熱を描いた。ショパンは、リストの盟友であり好敵手として登場する。演:水美舞斗

注釈

  1. ^ 姓のショパンについては、ショパンと同時代のポーランド語文献では Szopę (Chopin) というポーランド語式発音綴りと仏語式綴りの併記が多く見られ(ę [ɛɰ̃] は鼻母音)[1]、近世以降はポーランド語化が進み格変化をもつ Szopen という綴りが Chopin と共に一般的だった。
  2. ^ 国際音声記号による発音表記は [frɨˈdɛrɨk franˈt͡ɕiʂɛk ʂɔˈpɛn]
  3. ^ モーリッツ・カラソフスキ『ショパンの生涯と手紙』の第2章冒頭で述べられている説である。ドイツ語版(1877年出版)、ポーランド語版(1882年出版)、日本語版柿沼太郎訳、1923年)
  4. ^ フランス語 le poète du piano、ポーランド語 poeta fortepianu、英語 the poet of the piano、ドイツ語 der Poet am Klavierなど。
  5. ^ a b 1802年生まれ。ポーランドの画家。ショパンの肖像画で知られる。(Ambroży Mieroszewski
  6. ^ ポーランド中央東寄り、マゾフシェ県、ソハチェフ群の村。ワルシャワより52kmの位置にある。(Brochów
  7. ^ a b ショパンには3人の姉妹、姉のルドヴィカ、妹のイザベラとエミリアがいた[7]。特に姉のルドヴィカ(1807年4月6日 - 1855年10月29日)とは仲がよく、読み書きやピアノを彼女から教わった[8]。2人は終生仲睦まじく書簡を交わし、ショパンは彼女が『ピアノ協奏曲第2番』を練習するために『夜想曲第20番』を作曲した。ルドヴィカはショパンの臨終に立ち会い[9]、遺言に従い彼の心臓をパリからポーランドに持ち帰った。
  8. ^ a b ブロフフの聖ロフ教会のショパンの洗礼記録(ラテン語表記、4月23日付)では、ショパンの生まれた日は2月22日とされている。[2]
  9. ^ 監獄を改修し、より刑罰に適した環境に造り変える仕事。(Prison Reform
  10. ^ 戦時経済担当大臣(Minister of Economic Warfare)のヒュー・ダルトン(Hugh Dalton)によって組織された部隊。スパイサボタージュ枢軸国の偵察、各地の抵抗運動への協力を行っていた。
  11. ^ ジェラゾヴァ・ヴォラ村にある伯爵ウォンチニスキ家(Łączyński)のマナー・ハウス。ポーランド国立ショパン博物館分館。
  12. ^ ブロフフ村。ここでショパンの両親が結婚し、またショパンが幼児洗礼堅信礼を受けた。
  13. ^ 「この聖域において、ジェラゾヴァ・ヴォラ村で1810年2月22日誕生のフレデリック・ショパンが1810年4月23日に洗礼を受けた」
  14. ^ 写真はショパンが洗礼を受けたときにも使われた聖水盤
  15. ^ ポーランドの言語学者・司書・辞書編集者。ワルシャワ中等学校の校長だった。
  16. ^ 1804年開校のワルシャワのセカンダリー・スクール1830年11月蜂起の後、ロシア帝国に閉鎖された。
  17. ^ 1666年建造。1944年ワルシャワ蜂起の後のドイツ軍による計画破壊(Planned destruction of Warsaw)でアーケードのみ残して消滅した。
  18. ^ 1660年建造。サスキ宮殿同様の経緯で1944年に破壊されたが、2006年EUの基金などによって再建された。
  19. ^ 「言葉は父から子に共通していた別の問題である。自らの出自を隠し、自分がポーランド人であることを示そうとしたニコラは、敵の前線に潜入したスパイの如く慎重であった。彼はポーランドで生まれた子どもたちに、自分のフランスの家族のことを1度も話さなかったようである。フランス語は貴族にとっては『リングワ・フランカ』(共通語)であり、ニコラが他人の子息に教えるものではあったが、自分の子どもには教えなかったのである(中略)結果としてフレデリックのフランス語文法と綴りの把握はおぼつかないものとなった。並外れた『耳』と幼い頃のずば抜けた物真似を褒められていた自分物としては驚くべきことだが、彼の発音もまた貧弱なものであった。より印象的なのは、彼が取り入れた言葉に居心地の悪さを感じていたということだった。フランス人とのハーフで、移民天国であるパリに住みながら、ショパンは常に2重の疎外感を覚えていた。祖国と母語からの疎外感である。外国語という檻の中に閉じ込められたショパンにとって、音楽の持つ表現力が自分を解き放ってくれるものだったのである」Benita Eisler, Chopin's Funeral, Abacus, 2004, p. 29.
  20. ^ フランスのジャーナリスト・小説家。1824年カルヴァドス県、イジニ・シュール・メール(Isigny-sur-Mer)生まれ。(Louis Énault
  21. ^ 「ショパンは半生をパリで過ごしながらもポーランド人の性質を持ち続けており、『孤独な魂』であった。伝記作家のルイ・エノール(Louis Enault)はこう述べている。『スラヴ人は自らを快く貸しはするが、与えはしない。ショパンはポーランドよりもポーランド人的である。』」Bauer, Marion (March 2007). Music Through the Ages – A Narrative for Student and Layman. Google Books. p. 248. ISBN 978-1-4067-3941-1. https://books.google.co.jp/books?id=kjJr5JcbH90C&pg=PA248&lpg=PA248&dq=george+sand+chopin+%22more+polish%22&redir_esc=y&hl=ja 2010年2月14日閲覧。 
  22. ^ 「両親の寮の下宿生のうち4人が、彼の親友となった。ティトゥス・ヴォイチェホフスキ、ヤン・ビャウォブウォツキ、ヤン・マトゥシンスキとユリアン・フォンタナである。彼は(後に)後者2人とはパリでの生活を共にすることになる」Tad Szulc, Chopin in Paris, pp. 41–42.「Tytus Woyciechowskiは最も重要な人物で(中略)1827年にBiałobłockiが結核で死亡してからは、フレデリックは彼を生涯で唯一の最大の信頼を寄せる腹心の友としたのである」Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 42.
  23. ^ 1813年生まれ。音楽活動・音楽評論活動などを行った。
  24. ^ Izydor Józef Cybulski; 彫刻師・作曲家・オルガン学校の校長で、ポーランドで数少ない音楽出版業を営んでいた
  25. ^ ポーランドの作曲家・外交官・政治家。スタニスワフ・ポニャトフスキ王に仕え、為政を支えた。(Michał Kleofas Ogiński
  26. ^ 1660年建造。1818年以降、パヴロヴィチの住居になっていたが、彼は11月蜂起で追放される。(Belweder
  27. ^ ベラルーシ生まれのポーランドの詩人・劇作家・政治家。中級貴族の御曹司であり、アダム・カジミェシュ・チャルトリスキの側近として仕えた。(Julian Ursyn Niemcewicz
  28. ^ ポーランド中央北寄りクヤヴィ=ポモージェ県の村(Szafarnia)。ショパンは級友のドミニク家に招かれここを訪れた。[16]
  29. ^ 現在のポーランド南西部ドルヌィ・シロンスク県チェコとの国境に位置する、19世紀初頭にこの地方で栄えた温泉リゾートの町。当時はプロイセン領。若きショパンも温泉を目指して訪れた。1826年には2度のチャリティーコンサートを開催し、チケット売り上げの全額を孤児支援基金に寄付した。現在では世界最大のショパン祭り[3]が毎年開かれている。(Duszniki-Zdrój
  30. ^ ポーランド中央、マゾフシェ県の村。ワルシャワから西に約79km。(Sanniki
  31. ^ これらは「シャファルニャ通信」と題された、新聞形式の手紙である。少なくとも6通が作成されたことがわかっており、うち4通は自筆原本が残っている[18]
  32. ^ ショパンが想定していたのはクリエル・ヴァウシャフスキ紙であり、その書体・体裁を模して書かれている[18]
  33. ^ 1824年1825年にショパンが滞在した。写真はシャファルニャのマナー・ハウス
  34. ^ 温泉リゾート。ショパンは1826年に訪れた。
  35. ^ ショパンがワルシャワに移って最初に住んだ家。ワルシャワ大学の構内だった。現在はワルシャワ大学東洋学部日本学科が入っている。
  36. ^ a b 宮殿や教会などに囲まれた、ワルシャワでも有名かつ誉れ高い一角。(Krakowskie PrzedmieścieKrakowskie Przedmieście ポーランド語発音: [kraˈkɔfskʲɛ pʂɛdˈmjɛɕt͡ɕɛ]
  37. ^ a b チャプスキ宮殿の別名。ポーランドでも優れたロココ調建築の一つと考えられている。(Czapski Palace IPA: [ˈt͡ʂapskʲix]
  38. ^ この場所は現在、ワルシャワ芸術アカデミー(Academy of Fine Arts in Warsaw)になっている。
  39. ^ 1821年生まれ。ポーランドの詩人・劇作家・画家・彫刻家。ポーランド王ヤン3世の血筋に当たる。(Cyprian Norwid (ポーランド語発音: [ˈt͡sɨprjan ˈnɔrvid]
  40. ^ ショパンがポーランドを離れる直前まで住んだワルシャワの家。チャプスキ家宮殿(チャプスキ家が購入する前のオーナーの名前を取りクラシンスキ家宮殿とも呼ばれる)。
  41. ^ 1808年生まれ。実業家・芸術家のパトロン。(Tytus Woyciechowski
  42. ^ 1809年生まれ。医師。(Jan Matuszyński
  43. ^ 1880年生まれ。ショパン研究家。1911年にはラヴェルらと共にパリにショパン協会(Société Chopin)を設立している。(Édouard Ganche
  44. ^ a b 1882年生まれ。ポーランドの音楽史家・作曲家。ヤギェウォ大学クラクフ音楽アカデミーの教授を務めた。(Zdzisław Jachimecki
  45. ^ ヤヒメツキのようなポーランド人作家の記した伝記には、多分にポーランド人としてのショパン、加えてそのナショナリズムを強調する傾向が見られるという指摘がある[27]。本文にはこの後もヤヒメツキの引用がある。参考にする際は注意。
  46. ^ Jachimecki, p. 421. Hedley, Encyclopædia Britannica, p. 264:「彼は生涯を通じて、叙述的な表題や『筋書き』を下敷きにするのを嫌悪するのと同様に、(美的な感覚に)重きを置いていた」。彼の作品には内容を表すかのような表題が付つけられているものがあるが、それは出版社などの他人が、彼の意に反して付けたものである。
  47. ^ 1810年生まれ。ポーランドのソプラノ歌手。1830年にポーランドを後にするショパンの送別会で歌っている。2年後に結婚し、5人の子をもうける。1845年に失明。1889年スキェルニェヴィツェで死去。(Konstancja Gładkowska
  48. ^ 1803年生まれ。ポーランドの文学・演劇・音楽批評家。また、出版者・記者・ピアニストなどとしても活躍した。(Maurycy Mochnacki
  49. ^ a b 1802年生まれ。ポーランドの詩人。アダム・ミツキェヴィチの友人だった。ウクライナ詩作学校(Ukrainian school)の創設に関わる。(Józef Bohdan Zaleski
  50. ^ 1790年生まれ。ポーランドの動物学者・昆虫学者。40年以上にわたってワルシャワ大学の動物学科を組織した。(Feliks Jarocki
  51. ^ 1758年生まれ。ドイツの作曲家・指揮者・教育者。メンデルスゾーン姉弟やマイアベーアなどを教えた。(Carl Friedrich Zelter
  52. ^ 初演時期などには異説がある。各曲へのリンクなども参照。
  53. ^ ポーランドのワルシャワに位置する。写真は王宮のオランジュリー。ショパンがよく演奏会を行った。
  54. ^ 初夏から初秋にかけて同ショパン像のもとでは、毎週日曜日の午後に無料ピアノリサイタルが開かれ、ショパンの曲目が演奏されている。
  55. ^ ポーランド西部、ヴィエルコポルスカ県アントニン[要曖昧さ回避]にある、狩猟用の宮殿・邸宅。ラジヴィウ家は大貴族(マグナート)であり、その当主のアントニ・ヘンリク・ラジヴィウに招かれてショパンが頻繁に滞在し演奏会を催した。現在はここでショパン祭りが毎年開催される。
  56. ^ このあたりのエピソードに関しては、作り話という指摘もある。
  57. ^ コンラッドはショパンの友人のアダム・ミツキエヴィチの詩に登場するポーランド愛国の英雄。ショパンは後にミツキエヴィチの詩のいくつかに作曲を行う。
  58. ^ 「このショパンの志の形になったもの(文章は1871年Stanisław Tarnowskiが最初に出版したもの)は、今日(1937年現在)ワルシャワのポーランド国立図書館のショパン記念品類の中にある(もともと雑誌は、ショパンの弟子だったMarcelina Czartoryska王女が保管していたもの)」Zdzisław Jachimecki, "Chopin, Fryderyk Franciszek," Polski słownik biograficzny, vol. III, 1937, p. 422.
  59. ^ 1777年生まれ。ポーランドの砲兵隊大将。1831年9月6日にはロシア軍の侵攻からワルシャワを防衛するが、降伏後に銃剣で殺害されたという。(Józef Sowiński
  60. ^ ショパンの言葉に関する解釈はワルシャワ、Ostrogski Palaceのショパン博物館で聞くことができる。
  61. ^ a b 1809年生まれ。ポーランドの画家。11月蜂起の後は抑圧を逃れてフランスへ移住した。ショパンに関する絵画作品を残している。(Teofil Kwiatkowski
  62. ^ パリサン=ルイ島の大邸宅であり、ここに集まったポーランドの政治家たちのあだ名ともなった。(Hôtel Lambert 発音: [otɛl lɑ̃bɛːʁ]
  63. ^ パリ、チャルトリスキ公所有のオテル・ランベール[注釈 62]での舞踏会の様子を描いたもの
  64. ^ 1831年から1870年の間に、ポーランドから国外へ移住した知的階層を指す。これは当時ポーランドがロシア帝国プロイセン王国ハプスブルク君主国の3国に分割されていたことに起因する。(Great Emigration
  65. ^ ショパンのフランスのパスポートTad Szulcはこう記している。「(略)フランスが彼にパリでの無期限の滞在資格を与えたのは『彼の芸術を完成させるため』である。4年後、フレデリックはフランス国民となり、1835年8月1日付けでフランスのパスポートが交付された。彼が国籍を変更することに関して、父を含め誰かに相談したという事実は知られていない。彼が国籍を変更したのは、ロシア大使館に赴いてロシアのパスポートを更新するのを愛国的な理由から避けたいがためだったのか、それとも単に日常の利便性の問題だったのか、定かではない」Tad Szulc Chopin in Paris, p. 69
  66. ^ 1905年生まれ。イギリスの音楽学者。ショパンの伝記を著した。(Arthur Hedley
  67. ^ 彼女は「ショパンがピアノを弾き、喋っている間に彼の頭部をスケッチし、次に彼を肘掛け椅子に座らせて水彩で肖像を描いた。これは現存する中でドラクロワの作品に次いでよく出来た肖像画である。ショパンはリラックスし、哀愁を帯び、平和そうに見える」Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 137. ヴォジンスカの肖像画が正確だったことは、彼女の1830年代の自画像と後年に撮られた写真を比べることで想像がつく。
  68. ^ 1835年から1836年にかけての冬には彼の病状は非常に悪く、ワルシャワではショパンは死んだという噂が囁かれたほどだった
  69. ^ 1841年7月24日、マリア・ヴォジンスカはショパンの名付け親であるFryderyk Florian Skarbekの息子のJózef Skarbek伯爵と結婚した。2人は7年後に離婚し、マリアは1848年に1人目の夫の土地の賃借人だったWładysław Orpiszewskiと再婚している。
  70. ^ 1820年頃からのポーランドの知的・芸術的文化の栄えた時期をいう。1864年1月蜂起に伴う抑圧により終了した。(Romanticism in Poland
  71. ^ 1801年生まれ。ポーランドの詩人。ショパンは彼に『マズルカ Op.41』を献呈し、また10編の詩に曲をつけている。(Stefan Witwicki
  72. ^ 1785年生まれ。フランスのピアニスト・作曲家・音楽教師。作曲に関してはシャルル・グノーセザール・フランクジョルジュ・ビゼーアンブロワーズ・トマらの師だった。グノーは彼の娘と結婚している。(Pierre-Joseph-Guillaume Zimmermann
  73. ^ 1811年生まれ。フランスの小説家。1858年アカデミー・フランセーズの会員に選ばれている。(Jules Sandeau
  74. ^ 1813年生まれ。フランスの小説家・劇作家。リストの未完のオペラ『サルダナパール英語版』の台本を書いた。(Félicien Mallefille
  75. ^ マヨルカ島内の村。彼らが泊まった修道院(Valldemossa Charterhouse)は14世紀1399年)の建築。(Valldemossa
  76. ^ カヌ夫妻 Canutである。カヌ夫妻の子孫は、マヨルカ島のショパンの遺産とショパンが使用したファルデモッサの一人部屋の博物館の管理人をしている。
  77. ^ フランス中央部、アンドル県コミューンシャトールーから南東へ約36キロ。(Nohant
  78. ^ 1802年生まれ。フランスの歌手・台本作家・作曲家。歌手としては特にロッシーニの作品を得意とした。(Adolphe Nourrit
  79. ^ ショパンは39歳で生涯を閉じたが、その友人のケルビーニは1842年にパリで81歳で亡くなっている[50]。両者の墓はペール・ラシェーズ墓地で4メートルの距離に位置している。
  80. ^ 当初はジョルジュ・サンドと二人で一枚に書かれた絵だったが、彼らの交際の破局から二枚に分割され、ショパンの部分はルーヴル美術館に、サンドの部分はオードロップゴー美術館に所蔵されている。
  81. ^ 1800年生まれ。フランスの画家・リトグラフ作家。多くの作家・芸術家の肖像画を描いたアシル・ドゥヴェリア
  82. ^ ショパンが幻滅したことに、これによってサンドの急進的・政治的な友人たちが適宜権力を得ていった。Tad Szulc, Chopin in Paris, pp. 366–73.
  83. ^ ペイズリーより3マイル、グラスゴー中心街からは12マイル西に位置し、スコットランドでも最大のコナベーションの一角をなす。(Johnstone
  84. ^ ショパンはこの医師と過ごした数日間を非常に心地よく思っていた。というのも、彼は常にポーランド語で会話できる人間を探していたが、この時は特に彼は全く英語が出来なかったということも大きかった。Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 382 and passim.
  85. ^ ロンドンで数百年にわたり市民ホールと使用されてきた建物。現在はシティ・オブ・ロンドンとその地方公共団体(City of London Corporation)の行政の中心となっている。(Guildhall, London
  86. ^ スターリングの委嘱で描かれた作品。ショパンがベッドで起き上がっており、左からアレクサンダー・イェオヴィツキ、姉のルドヴィカ、チャルトリスカ公爵夫人、ヴォイチェフ・グジマワ、クヴィアトコフスキ本人の姿が描かれている。
  87. ^ ショパンの病(英文記事)も参照。
  88. ^ 1817年生まれ。ポーランドの貴族・ピアニスト。チェルニーに学んだあとショパン門下となる。フランツ・リストポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドアンリ・ヴュータンなどとともにヨーロッパを演奏旅行するなど、ピアニストとして成功した。(Marcelina Czartoryska
  89. ^ ワルシャワ大学のキャンパス正面にあるカトリック教会で、ワルシャワにおいて名高いバロック様式の建築。(Holy Cross Church
  90. ^ 1835年生まれ。ポーランド及びオーストリア=ハンガリー帝国の彫刻家。(Leonard Marconi
  91. ^ ポーランド、ワルシャワのポヴォンズキ墓地。
  92. ^ エウテルペーが壊れた[[リラ (楽器)|]]の上で涙を流す姿がモチーフ。4つ左隣にはケルビーニが眠る。
  93. ^ 1796年もしくは1798年生まれ。フランスの歌手。オペラ=コミック座パリ国立オペラなどで歌っていた。(Alexis Dupont
  94. ^ 1794年生まれ。フランスとアイルランドの血を引く歌手。『ドン・ジョヴァンニ』のレポレッロは適役だった。(Luigi Lablache
  95. ^ 1807年生まれ。フランスの作曲家。バレエ喜劇・4曲の交響曲などを遺している。(Napoléon Henri Reber
  96. ^ ■ショパン博物館の学芸員「死後に写真撮影された記録がない」 ■パリにあるポーランド図書館の写真専門家「写真とデスマスクとは似ておらず、またビソンが自分の名前や日時を写真に添えたことは一度もなく、むしろ偽作と明らかにされている写真に見られるものである」 ■ショパンの研究家「写真はショパンに似ておらず、またショパンの死後三日間遺体に付き添った人々は、数時間を要する撮影に気づきもしなかった」Chopin experts debate photo's authenticity”. ワシントン・ポスト (2011年3月10日). 2014年1月6日閲覧。
  97. ^ ヤヌシュ・オストログスキ1681年より建築、のちにザモイスキ家が購入してワルシャワでの下屋敷として使用し、その後は学生寮、陸軍病院、音楽大学として使われ、第二次世界大戦後にフレデリック・ショパン協会に渡って本部事務局および博物館となった。撮影は2007年のものだが、その後全面改装し2010年3月に再開館している。
  98. ^ これとは別に、ポロネーズ変イ長調 《英雄》 作品53が単独でも出版されている。

出典

  1. ^ a b c d e DEAGOSTINI刊、The Classic Collection 第3巻
  2. ^ Łopaciński, "Chopin, Mikołaj," p. 427.
  3. ^ 小坂 p7.
  4. ^ Zdzisław Jachimecki, "Chopin, Fryderyk Franciszek," Polski słownik biograficzny, vol. III, 1937, p. 420.
  5. ^ Michael Robert Patterson. “Wladimir B. Krzyzanowski”. Arlingtoncemetery.net. 2010年2月14日閲覧。
  6. ^ Jarosław Krawczyk, "Wielkie odkrycia ludzkości. Nr 17," Rzeczpospolita, 12 June 2008.
  7. ^ 小坂 p10.
  8. ^ Fryderyk Chopin - Information Centre - Ludwika Jędrzejewiczowa - Biography”. The Fryderyk Chopin Institute. 2011年6月8日閲覧。
  9. ^ Zdzisław Jachimecki, "Chopin, Fryderyk Franciszek", Polski słownik biograficzny, vol. III, 1937, p. 424.
  10. ^ a b Smolenska-Zielinska, Barbara. “Life / Biography – general outline”. Fryderyk Chopin Society. 2010年2月26日閲覧。
  11. ^ ショパンの書簡の縮約版「フレデリック・ショパンの書簡選集 Selected Correspondence of Fryderyk Chopin」 収集、注釈Bronislaw Edward Sydow、翻訳 translated by Arthur Hedley、 McGraw-Hill, 1963, p. 116
  12. ^ [4] Fryderyk Chopin Information Centre.
  13. ^ a b c d e f g h i j Jachimecki, p. 420.
  14. ^ a b c d e f Hedley, Encyclopædia Britannica, p. 263.
  15. ^ Ambroży Mieroszewski's portrait of Wojciech Żywny, 1829 Archived 2009年9月3日, at the Wayback Machine..
  16. ^ Fryderyk Chopin - Information Centre - Dominik Dziewanowski - Biography”. En.chopin.nifc.pl. 2011年10月24日閲覧。
  17. ^ Artur Szklener, "Fryckowe lato: czyli wakacyjne muzykowanie Chopina" ("Fritz's Summers: Chopin's Musical Vacations"), Magazyn Chopin: Miesięcznik Narodowego Instytutu Fryderyka Chopina (Chopin Magazine: Monthly of the Fryderyk Chopin National Institute), no. 4, 2010, p. 8.
  18. ^ a b 全書簡 p33.
  19. ^ a b c Jachimecki, p. 421.
  20. ^ Jan Zygmunt Jakubowski, ed., Literatura polska od średniowiecza do pozytywizmu (Polish Literature from the Middle Ages to Positivism), pp. 514–15.
  21. ^ 小坂 p27-28.
  22. ^ Pizà, Antoni (2022-01-13). “OVERTURE Love Love is a Pink Cake or Queering Chopin in Times of Homophobia” (スペイン語). Itamar. Revista de investigación musical: territorios para el arte (0). doi:10.7203/itamar..23608. ISSN 2386-8260. https://ojs.uv.es/index.php/ITAMAR/article/view/23608. 
  23. ^ Weber, Moritz (2022-01-13). “AKT I / ACTO I / ACT I Männer / Hombres / Men Chopins Männer / Los hombres de Chopin / Chopin’s Men” (スペイン語). Itamar. Revista de investigación musical: territorios para el arte (0). doi:10.7203/itamar..23609. ISSN 2386-8260. https://ojs.uv.es/index.php/ITAMAR/article/view/23609. 
  24. ^ a b Late Outing - Chopin was Homosexual – and Nobody should Know - Kultur - SRF”. www.srf.ch. 2022年4月19日閲覧。
  25. ^ Tad Szulc, "Chopin in Paris," pp. 41-42.
  26. ^ Édouard Ganche, Frédéric Chopin: sa vie et ses œuvres (Frédéric Chopin: His Life and Works), Mercure de France, 1913.
  27. ^ ショパンの手紙を検証する”. 2012年11月6日閲覧。
  28. ^ 小坂 p28.
  29. ^ Jachimecki, pp. 421–22.
  30. ^ a b c d e Jachimecki, p. 422.
  31. ^ André Boucourechliev 「Regard sur Chopin」Fayard, collection. « Les Chemins de la musique », 1996. p61 フランス語
  32. ^ Marie-Paule Rambeau 「Chopin : l'enchanteur autoritaire」 L'Harmattan,collection. « Univers musical », 2005. p269, p307 フランス語
  33. ^ Jachimecki, pp. 422–23.
  34. ^ Sheppard, Linda. "Frédéric Chopin's Résumé". Musical overview (1600–2000): from the History à la carte series. Canada: Longbow Publishing Ltd, 2006.
  35. ^ a b c d e f g Jachimecki, p. 423.
  36. ^ Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 12, 404.
  37. ^ David Ewen, p. 164.
  38. ^ Tad Szulc (30 December 1999). Chopin in Paris: The Life and Times of the Romantic Composer. Da Capo Press. p. 69. ISBN 978-0-306-80933-0. https://books.google.com/?id=dyGlBVqYFjwC&pg=PA69&dq=%22chopin+in+paris%22++%22Fryderyk+became+a+French+citizen%22&cd=1#v=onepage&q=%22chopin%20in%20paris%22%20%20%22Fryderyk%20became%20a%20French%20citizen%22&f=false 2010年5月7日閲覧。 
  39. ^ Hedley, en: Encyclopædia Britannica, p. 264.
  40. ^ Jachimecki, p 423.
  41. ^ Tad Szulc, Chopin in Paris, pp. 160, 165, 194–95.
  42. ^ Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 146.
  43. ^ André Maurois, Léila: the Life of George Sand, trans. by Gerard Hopkins, Penguin, 1980 (c 1953), pp. 317–20.
  44. ^ Majorca: sun, sand and Chopin デイリーテレグラフ 2009年12月29日付け記事 英語
  45. ^ André Maurois, Léila, pp. 333, 337–8.
  46. ^ a b c d e f g h i Jachimecki, p. 424.
  47. ^ Krzysztof Rottermund, "Chopin and Hesse: New Facts About Their Artistic Acquaintance," translation in The American Organist, March 2008.
  48. ^ George Sand, Impressions et souvenirs, chapter V, p. 86, quoted in André Maurois, Léila, pp. 338–9.
  49. ^ a b Rachel M. Harris. “The Music Salon of Pauline Viardot” (PDF). 2010年2月14日閲覧。[リンク切れ]
  50. ^ Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 403.
  51. ^ Zaluski, Iwo (2009年6月2日). “Chopin's Scottish autumn – Frederick Chopin”. Contemporary Review. オリジナルの2012年5月29日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20120529020307/http://findarticles.com/p/articles/mi_m2242/is_n1530_v263/ai_14234524/pg_2/ 2010年2月14日閲覧。 
  52. ^ Michael T.R.B. Turnbull, Monuments and Statues of Edinburgh, Chambers, p. 53.
  53. ^ Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 383.
  54. ^ “Long-lost Chopin letters revealed by Polish museum”. (2011年3月24日). https://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5iXk-FI8qDObmo-ABKXwYZyCaz_7w?docId=CNG.f562d238b750a565f6cd658dfd177857.2d1 2011年3月24日閲覧。 
  55. ^ 第9章-1 ヴァンドーム広場 12 番地”. 一般社団法人 全日本ピアノ指導者協会(ピティナ) (2020年11月24日). 2023年10月17日閲覧。
  56. ^ a b c d e Maria Barcz, "Etiuda paryska" ("Paris Étude"), Gwiazda Polarna (The Pole Star), vol. 101, no. 17 (14 August 2010), p. 16.
  57. ^ a b Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 400.
  58. ^ ジョン・オシエー『音楽と病 病歴に見る大作曲家の姿』(法政大学出版局2007年11月、〈改装版〉2017年1月)
  59. ^ Cystic fibrosis – a probable cause of Frédéric Chopin’s suffering and death (PDF)2005年10月25日時点のアーカイブ
  60. ^ a b Home is where the heart'll stay”. en:News24 (2008年7月26日). 2014年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月5日閲覧。
  61. ^ a b ショパンの心臓鑑定だめ ポーランド政府が決定”. 47NEWS (2008年7月26日). 2014年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月5日閲覧。
  62. ^ a b c ショパンの死因は?心臓のDNA鑑定求める研究者ら”. AFP (2008年7月26日). 2014年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月5日閲覧。
  63. ^ D.J. Mantle, A.P. Norman, "Life-table for Cystic Fibrosis," British Medical Journal, issue 5524, pp. 1238–41.
  64. ^ Lagerberg, Steven. Chopin's Heart – The Quest to Identify the Mysterious Illness of the World's Most Beloved Composer. Lagerberg, 2011, ISBN 1-4564-0296-X.
  65. ^ Tad Szulc, Chopin in Paris, p. 399.
  66. ^ a b c d e f Frederick Niecks, Frédéric Chopin
  67. ^ Frederick Niecks, The Life of Chopin, vol. II, London, Novello, Ewers & Co., 1888, p. 325.
  68. ^ Fryderyk Chopin 1810–1849: A Chronological Biography”. Dobrowolski.com. 2009年2月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年2月14日閲覧。
  69. ^ a b Chopin experts debate photo's authenticity”. ワシントン・ポスト (2011年3月10日). 2014年1月6日閲覧。
  70. ^ ショパンの死後の写真発見か、ポーランド”. AFP (2011年3月11日). 2014年1月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月6日閲覧。
  71. ^ Unpublished photograph of Chopin believed to have been discovered” (2017年1月18日). 2017年10月29日閲覧。
  72. ^ ショパンは同性愛者だった? LGBTQに風当たりの強いポーランドで物議”. CNN.co.jp. 2022年4月19日閲覧。
  73. ^ スモテル 1985年
  74. ^ Urszula Kryger (mezzo), Charles Spencer (piano) "Chopin Polish Songs" Hyperion CDH55270 のMieczyslaw Tomaszewskiによるライナーノーツ
  75. ^ Majorek, Czeslaw; Zasztoft, Leszek (1991). "Popularyzacja nauki w Krolestwie Polskim w latach 1864–1905". History of Education Quarterly. 31 (1): 109. doi:10.2307/368794. ISSN 0018-2680. JSTOR 368794.
  76. ^ "Narodowy Instytut Fryderyka Chopina". muzeum.nifc.pl. Retrieved 24 June 2021.
  77. ^ Moran, Michael (31 January 2018). "1st International Chopin Competition on Period Instruments. 2–14 September 2018". Classical Music Festivals and Competitions in Poland and Germany - with occasional unrelated detours. Retrieved 24 June2021.
  78. ^ Audéon, Hervé (2016). "L'œuvre de Frédéric Kalkbrenner (1785–1849) et ses rapports avec Frédéric Chopin (1810–1849)". In Hug, Vanya (ed.). Chopin et son temps / Chopin and his time (in French). ISBN 978-3-0343-2000-9.
  79. ^ Liszt, Franz; Cook, M. Walker (1 April 1877). "Life of Chopin". The Musical Times and Singing Class Circular. 18 (410): 184. doi:10.2307/3351980. ISSN 0958-8434. JSTOR 3351980.
  80. ^ Chopin's letters. By Chopin, Frédéric, 1810-1849; Voynich, E. L. (Ethel Lillian), 1864-1960; Opienski, Henryk, 1870-1942


「フレデリック・ショパン」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フレデリック・ショパン」の関連用語

フレデリック・ショパンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フレデリック・ショパンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフレデリック・ショパン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS