フットボール 近代フットボールの確立

フットボール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/23 15:11 UTC 版)

近代フットボールの確立

イングランドのパブリックスクール

フットボールは様々な形でブリテンの至るところで行われ続けていたが、パブリックスクール(その他の国での私立学校にあたる)は近代フットボール起こったことで広く認められている。まず初めは、パブリックスクールでそれまでの「群集」によるフットボールが、整理されたチームスポーツへと変化したことである。2つ目は、フットボールに関する初期の説明や言及の多くが、これらのパブリックスクールで学んでいた人物によって記録されたことである。3つ目は、パブリックスクールの教師、生徒、卒業生が、出身校間でフットボールの試合を行うことが出来るように、初めてフットボールの規則を法典化したことである。最後は、これらのパブリックスクールが初めて「キッキング」と「ランニング」(あるいは「キャリング」)を明確に分けたことである。

フットボールに似た競技がイングランドのパブリックスクール(主に上流階級、上位中流階級、知的職業階級の男子が通う)で行われていた最も初期の証拠は、1519年のウィリアム・ハーマンの『Vulgaria』である。ハーマンはイートン・カレッジウィンチェスター・カレッジの校長を務め、彼のラテン語の教科書には翻訳の演習問題として、「"We wyll playe with a ball full of wynde"」という節が出てくる[50]

16世紀初めにイートン・カレッジの生徒であり、後にその他の学校の校長を務めたリチャード・マルカスター英語版は、「16世紀の最も偉大なフットボールの支持者」と評されてきた[51]。彼の貢献には、整理されたチームフットボールの最も初期の証拠がある。マルカスターの文書は、チーム、ポジション、審判、コーチについて言及している。マルカスターの「フットボール」は無秩序で暴力的な伝統的フットボールから進化した。

[s]ome smaller number with such overlooking, sorted into sides and standings, not meeting with their bodies so boisterously to trie their strength: nor shouldring or shuffing one an other so barbarously ... may use footeball for as much good to the body, by the chiefe use of the legges.[52]

1633年、アバディーン出身の教師デイヴィッド ウエッダーバーン英語版は、「Vocabula」と呼ばれる短いラテン語の教科書の中で現代フットボールの要素について言及している。ウェッダーバーンは、「ゴールを守る」と翻訳できることやボールをパスすると解釈できることを記している。また、「ボールを手に入れる」ことに言及していることから、いくらかの手で扱うことは許されていたことが示唆される。また、相手選手へのチャージングやホールディングを含むタックルが許されていたことは明らかである[要出典]

より詳細なフットボールの説明は、1660年頃に書かれたフランシス・ウィラビイの『Book of Games』にある[53]サットン・コールドフィールドビショップ・ヴェシーズ・グラマー・スクール英語版の生徒であったウィラビイは、初めてゴールと明確な競技フィールドについて説明した人物である: 「a close that has a gate at either end. The gates are called Goals." His book includes a diagram illustrating a football field. He also mentions tactics ("leaving some of their best players to guard the goal"); scoring ("they that can strike the ball through their opponents' goal first win") and the way teams were selected ("the players being equally divided according to their strength and nimbleness"). He is the first to describe a "law" of football: "they must not strike [an opponent's leg] higher than the ball".[要出典]」。

イングランドのパブリックスクールでは、初めてフットボールの規則が法典化された。特に、18世紀末に彼らは初めてオフサイドルールを発明した[54]。最も初期のこれらのルールでは、選手はボールと相手側のゴールの間にいる時は単純に「オフサイド off their side」とされた。選手は、足であろうと手であろうと前方にボールをパスすることは許されなかった。前方にボールを進める方法は足でドリブルするか、「スクラム」あるいは同様の「フォーメーション」の中で進めるかしかなかった。しかしながら、オフサイドルールはそれぞれのスクールで別に分化・発展していった。これは。1810年から1850年の間のウィンチェスター、ラグビーハロウチェルトナム英語版のそれぞれのフットボールルール[54]。知られている初めてのコード(一式の規則という意味で)は1815年のイートンのもの[55]と1820年のアルデナム英語版[55]のものである。

19世紀初頭の間、ブリテンのほとんどの労働者階級の人々は週に6日働いており、しばしば1日12時間以上働いた。彼らは当時、楽しみのためにスポーツに参加したいという時間も意欲もなく、多くの子供達は労働力の一部となっていた。路上で行われる宗教上の祝日のフットボールは衰退の道をたどっていた。働く必要がない自由を享受していたパブリックスクールの少年達は、正式なルール一式 (codes of rules) を持つ整理されたフットボール競技の発案者となった。

1840-50年代までに多くのパブリックスクールがフットボールを学校行事として取り入れるようになった[39]。フットボールは、多くのパブリックスクールで競争力を養い健康を保つための一手段として採用された。ラグビー、イートン、ハロー、ウィンチェスター、ウェストミンスター、チャーターハウスなどパブリックスクールはそれぞれ独自のルールにもとづくゲームを行なっていた[39]。このルールは異なるスクール間で大きく異なっており、新しい生徒が入ってくるたびに何度も変化していった。

具体的にはイートン校のフットボールにはウォールとフィールドの二種があった[39]。ハロー校のルールではキックとキャッチは認める一方、ボールを持って走ったりタックルする行為は禁じられていた[39]。また、チャーターハウスやウェストミンスターではボールは足で蹴って進める形式でルール化されていた[39]。一方、ラグビー校ではタックルやボールを保持したまま走る行為を認めるルールであった[39]

以上のルールは大きく2つに大別される。一方はボールを手で持って運ぶ競技を好み(ラグビー、マールバラ英語版、チェルトナム)、もう一方はキックとドリブルによってボールを進めるやり方を好んだ(イートン、ハロウ、ウェストミンスターチャーターハウス)。このようにルールが分かれていったのは当時フットボールが行われた状況に部分的に原因がある。例えば、当時チャーターハウスとウェストミンスターではフットボールを行う場所が学校の回廊の中に制限されており、この場所ではボールを手で持って走る荒っぽい競技を行うことは困難であった[要出典]

ラグビー校の生徒であったウィリアム・ウェッブ・エリスは、1823年、イングランドの有名なパブリックスクールラグビー校でフットボールの試合中、ボールを抱えたまま相手のゴール目指して走り出した」といわれている。大抵、この行為がラグビー・フットボールの始まりであるとされているが、実際の出来事であったかについてはほとんど証拠がなく、ほとんどのスポーツ歴史学者はこの物語を作り話であると考えている。ラグビーの起源であるボールを持って走った行為の第1号がエリス少年なのかは諸説あるが、起源たる発明者の対象として名前が分かっている人物はウィリアム・ウェッブ・エリスただ一人である。そのことから彼の名はラグビーの歴史を語る上で欠かすことのできないものとなっている。ラグビーワールドカップの優勝記念カップは彼の名にちなみ「ウェブ・エリス・カップ (Webb Ellis Cup)」と名づけられている。この「ボールを手で抱えた」行為は「ボールを拾い上げた」として、ウェブ・エリスの「罪」が現代サッカーで禁じられているボールを手で扱ったことであるとしばしば誤解されるが、当時ボールを手で扱うことは許されていることが多く、ある場合は強制的なものであった[56]。ウェブ・エリスが無視したのは、当時ボールを持って後方に戻るか前方に蹴るかしか許されていなかったのに、「ボールを手で持って前方に走った」ことである。

1849年代のイギリスの鉄道狂時代、人々はより遠くに以前よりも便利に移動できるようになった。このため、スクール間のスポーツ大会が可能となった。しかしながら、パブリックスクールはそれぞれ独自のフットボールのルールで競技を行っていたため、対抗戦を行うことは困難だった。この問題の解決策は大抵、試合を前半後半に分け、一方をそれぞれのルールで行うというものであった(現在もラグビーユニオンラグビーリーグのクラブ間の試合で同様の方法が採られている)。

多くのフットボール競技の「近代的」なコードは19世紀中頃から終わりに策定された。これは、ローン・ボウリングやローン・テニス(芝生のコートで行うテニス)といったその他の競技でも同様である。この主要な推進力は1830年の世界初の芝刈り機の特許であった。これにより、近代的なスポーツ用の競技場を用意することが可能になった[57]

ラグビー・フットボールはさておき、パブリックスクールのコードはそれぞれの学校以外で行われることはこれまでほとんどなかった。しかしながら、それらの多くは現在でもそれぞれのパブリックスクールで行われている。

イギリスのスポーツにおけるパブリックスクールの優勢は、労働者階級の子供達の余暇の時間を大幅に増加させた1850年工場法の後に衰え始めた。1850年より前は、多くのイギリスの子供達は1日12時間以上週6日働かなければならなかった。1850年からは、平日は午前6時より前(冬季は午前7時)と午後6時より後(冬季は午後7時)、土曜日は午後2時に仕事を終えなければならなかった。これらの変化は、労働者階級の子供達が様々なフットボールを含む競技に多くの時間を使えるようになったことを意味している。

初めての事柄

クラブ

フットボールをプレーするためのスポーツクラブは18世紀に始まった。例えば18世紀中頃にはロンドンの体育協会が設立された(1796年に試合を停止)[58][59]

スコットランドエディンバラに1824年から1841年の間存在していた「The Foot-Ball Club」が、フットボールクラブの名称で呼ばれた記録に残る最初のクラブである[60][61]。このクラブはトリッピング(足を掛けて転ばす)を禁止していたが、プッシング、ホールディング、ボールを拾い上げる行為は許されていた[61]

学校あるいは大学の一部ではないという意味において世界最古の現存するフットボールクラブであると主張している2つのクラブは、ラグビーフットボールの拠点である。バーンズ・クラブは1839年に、ガイズ病院フットボールクラブは1843年に設立されたと言われている。日付やプレーされていたフットボールの種類についてどちらも十分な証拠書類がないが、こういった主張はそれでもその他の現代コードが生まれるよりも前にラグビーが人気であったことを示唆している。

1845年、ラグビー校の3人の少年がルールを法典化する役目を負った。これは全てのフットボールの中で初めて法典化された規則(コード)である[62]。これによってラグビーの伝播がさらに加速された。例えば、ダブリン大学フットボールクラブ(1854年にダブリン大学トリニティ・カレッジで設立され、後にラグビーの拠点として有名となった)は、世界最古の文書が残るフットボールクラブである。

大会

最も長く続いているフットボール行事の一つが、1858年から毎年メルボルン・グラマー・スクールとスコッチ・カレッジとの間で争われるコードナー=エグルストン・カップである。最初の年は実験的なルールの下で開催されたものの、この行事はオーストラリアン・ルールズ・フットボールの最初の試合でもあると多くの人によって信じられている。最初のフットボールのトーナメントは、メルボルン王立カレドニア協会の提供によってメルボルン・ルールの下で1861年に開催されたカレドニアン・チャレンジ・カップであった[63]。最古のフットボールのリーグはラグビーフットボールの大会であるユナイテッド・ホスピタル・チャレンジ・カップであるが、最古のラグビートロフィーは1878年から争われているヨークシャー・カップである。南オーストラリアフットボール協会(1877年4月30日)は、現存する最古のオーストラリアン・ルールズ・フットボールの大会である。現存する最古のサッカートロフィーはユーダン・カップ(1867年)であり、最古の全国的なサッカー大会はイングランドのFAカップ(1871年)である。フットボールリーグ(1888年)は最も長く続いているサッカーリーグであると認識されている。最初のフットボールの国際試合は、1870年5月5日、FAの権限下でジ・オーバルにおいてイングランドスコットランドの間で行われた。最初のラグビーの国際試合は1871年に開催された。

現代的なボール

リチャード・リンドン(1880年撮影)は、ゴム製の初のフットボールを発明したと考えられている。

ヨーロッパにおいて、初期のフットボールは動物の膀胱、具体的には豚の膀胱を膨らませて作られていた。後に、製カバーが用いられるようになり、ボールの形状を保つことができるようになった[64]。しかし、1851年、リチャード・リンドンとウィリアム・ギルバート(両者ともラグビー出身の靴職人)が、ロンドン万国博覧会において円型と楕円型のボールを展示した。リチャード・リンドンの妻は、豚の膀胱を膨らませる作業が原因の肺の病気で死んだと言われている[65]。リンドンはまた、「ゴム製空気注入式膀胱」と「真鍮製ハンドポンプ」の発明でメダルを受賞した。

1855年、アメリカ合衆国の発明家チャールズ・グッドイヤー加硫ゴムの特許を取得した)がパリ万国博覧会において、加硫ゴムパネルの外装で覆われた球形のフットボールを展示した。このボールはアメリカ合衆国における初期フットボールにおいて人気となった[66]

現代的なパス戦術

ボールを前方にパスし、ゴールキーパーを越えて得点しようと試みる選手を含むフットボールの試合に関する最も初期の資料は、1633年にスコットランドアバディーンの詩人・教師であったDavid Wedderburnによって書かれた[67]

「科学的」なフットボールは1839年にランカシャー[68]、現代ラグビーでは1862年に[69]、シェフィールドFCでは早ければ1865年[70][71]に初めて記録されている。

チームが協調して動くパスサッカーを見せた初めてのチームは、1869/70のロイヤル・エンジニアーズAFCであった[72][73]。1869年までには、彼らは「共によく動き」、「バックアップし」、「協調」によって利益を得ていた[74]。1870年までには、エンジニアーズはボールをパスしていた[75]。1872年初頭には、エンジニアーズは「共に美しくプレーする」と賞賛された初めてのフットボールチームであった[76]。続けざまのダブルパスは、1872年3月のダービー校とノッティンガム・フォレストとの試合で初めて報告された[77]。現代的なフォーメーションを初めて完成させたのはケンブリッジ大学AFCであり[78][79][80]、2-3-5の「ピラミッド」フォーメーションを導入した[81][82]

ケンブリッジ・ルール

1848年、共にシュルーズベリー校の卒業生であったケンブリッジ大学のH. de WindonとJ. C. Thringは、ハーローイートンラグビーウィンチェスター、シュルーズベリーのその他12名の代表者と共にトリニティ・カレッジにおいて会合を開いた。8時間の会合により「ケンブリッジ・ルール」として知られている最初の現代フットボール規則が作られた。これらの規則の写しは現存していないが、1856年頃の改訂版がシュルーズベリー校の図書館に保管されている[83]。この規則では明らかにキッキングゲームが好まれていた。ボールを手で扱うことは「足で蹴ったボールを直接キャッチした時」のみ許されており(フリーキックが与えられる)、相手のゴール前でウロウロすることを禁じる原始的なオフサイドルールも存在した。ケンブリッジ・ルールはイングランドのパブリックスクールや大学以外では広く採用されなかった(しかし、協会式フットボールの規則を制定するフットボール・アソシエーションの委員会にはほぼ間違いなく最も重要な影響を与えた)。

シェフィールド・ルール

1850年代後期までには、様々なフットボールのコードをプレーするための多くのフットボールクラブが英語圏の至るところで作られた。イングランドのシェフィールドでNathaniel CreswickとWilliam Prestによって設立されたシェフィールド・フットボール・クラブは、後にサッカーをプレーした世界最古のクラブと認識された[84]。しかし、シェフィールドFCは当初は独自のフットボールのコード(シェフィールド・ルール)をプレーしていた。このコードはパブリックスクールの規則から大きく離れており、最も重要な差異は「オフサイド」ルールの欠如である。

フリーキックコーナーキック、ハンドボール、スローイン、クロスバーなど多くの要素がこのコードで発明され、後にアソシエーション・フットボール(サッカー)にも広がっていった[85]。1870年代までには、シェフィールド・ルールはイングランド北部およに中部で主要なコードとなった。この時期、ロンドンとシェフィールドのFAによる一連の変更によって、徐々に両者の規則の差が減っていき、1877年に共通のコードが採用された。

オーストラリアン・ルール

1866年にメルボルンのリッチモンド・パドックで行われたオーストラリアンフットボールの試合。ロバート・ブルースによる木版画

ビクトリアゴールドラッシュの間、オーストラリアでは様々なフットボールがプレーされていた。これらの起源はいまだに大きな議論のテーマであるが、今日オーストラリアンフットボールとして知られているコードの普及はトム・ウィルズによるものであると現在されている。

1858年7月10日、ウィルズは冬季にクリケット選手の健康を保つための「競技規則」を持つ「foot-ball club」の設立を呼び掛ける手紙をBell's Life in Victoria & Sporting Chronicleに書いた[86]。これが新しいスポーツが作られた瞬間であると歴史家によって考えられている。広報と個人的な交流により、ウィルズは様々なルールを実験するフットボールの試合をメルボルンで調整することができ[87]、記録が残る最初の試合は1858年7月31日に開催された。1858年8月7日、ウィルズは比較的確かな証拠があるメルボルン・グラマー・スクールとスコッチ・カレッジとの試合の審判を務めた。これらの試合の後、整理されたフットボールの試合は急速に人気を広げていった。

これらの初期の試合に関わったウィルズとその他の人々は、1859年5月14日にメルボルン・フットボール・クラブ(現存する最古のオーストラリアのフットボールクラブ)を結成した。最初のメンバーはウィルズ、ウィリアム・ハマースリー、J・B・トンプソン、トーマス・H・スミスなどであった。

この最初のルールを作った人々の背景は、ルールに与えた影響に関する興味深い推察につながる。囚人を祖先とするウィルズはイングランドで教育を受けた。ウィルズはラグビーフトボールやクリケットの選手であり、オーストラリア先住民と強いつながりを持っていた。ウィルズは最初はラグビー校のルールを導入することを望んだ。ハマースリーは、イングランドから移住したクリケット選手・ジャーナリストであった。トーマス・スミスはアイルランドから移住した教師であった。委員会のメンバーはイングランドのパブリックスクールのフットボールのルールを含むいくつかのルールについて議論した。その他のフットボールと同様の特徴を含むにもかかわらず、いかなる影響を示す決定的な証拠も存在しない。代わりに、委員会はオーストラリアの状況により適したスポーツとすることを決定し、ウィルズが「いや、我々は我々自身のスポーツを持つべきである」と宣言したと文書化されている[88]。このルール体系(コード)は、マークフリーキック、タックルの存在、オフサイドルールの欠如、選手がボールを投げることについて明確に反則とされることが独特である。

このメルボルン・フットボール・ルールは広く普及し、その他のビクトリア植民地のクラブにも徐々に採用されていった。彼らは、その他の影響力のあるビクトリアのフットボールクラブのルールに対応するため、1860年代までに数度ルールを書き直している。ジーロング・フットボール・クラブのルールに対応するためにH. C. A. ハリソンの委員会によって1866年に行われた重要なルールの書き直しによって、「ヴィクトリアン・ルールズ」として知られるようになっていたこのゲームは、その他のルール体系からますます離れたものなっていった。このルールではクリケット競技場、ラグビーボール、特殊化したゴールと背後のポスト、走っている間のボールをバウンドさせること、ハイジャンプによるマークなどがある。このルールはその他のオーストラリアの植民地にすばやく広がった。第一次世界大戦後、中心地の南部オーストラリア以外では、このルール体系は衰退期を迎えたが、アマチュアレベルでは世界中に広がっており、主要なプロ大会としてオーストラリアン・フットボール・リーグが生まれた。

フットボール・アソシエーション

初のフットボールの国際試合であるスコットランドイングランドラグビー・フットボール・ユニオンによってラグビーの初期の例とされている。

1860年代初期、イングランドにおいて様々なパブリックスクールのゲームを統合・調和させる試みが進められていた。1862年、後にアッピンガム校英語版の教師となるJ. C. Thringは、彼が「The Simplest Game」と呼ぶ新たなルールを考案した。これらは「アッピンガム・ルールズ」としても知られている。Thringのルールは通常ケンブリッジ・ルールズとは見做されていない。1863年10月初頭に、ハロー、シュルーズベリー、イートン、ラグビー、マールバラ、ウェストミンスターの卒業生を代表する7名の委員会によってケンブリッジ・ルールズの新たな改訂版が策定された。

1863年10月26日の夜、ロンドン、グレート・クイーン通りのフリーメーソンズ酒場において、ロンドン大都市圏のいくつかのフットボールクラブの代表が、フットボール・アソシエーション (FA) の設立会合に集った。この協会の目的は、単一の統一ルール体系を確立し、会員間での試合のプレーを規制することであった。初会合に続いて、パブリックスクールが協会への加盟を要請された。チャーターハウスとアッピンガム以外のパブリックスクールはこの誘いを辞退した。1863年10月から12月の間に合計6回のFAの会合が行われた。3回目の会合の後、ルールの草稿が発表された。しかしながら、4回目の会合の始めに、直近に発表された1863年版のケンブリッジ・ルールズに注目が集った。ケンブリッジ・ルールズはFAのルールの草稿とは、ボールを持って走ることとハッキング(相手の脛を蹴ること)の2つの点で大きな違いがあった。

議論を引き起こしたFAのルールは以下の2つである。

IX. 選手はフェアキャッチあるいはワンバウンドしたボールをキャッチした場合、対戦相手のゴールに向かって走る権利を得るものとする: しかしフェアキャッチの場合、マークを行った場合は走ってはならないものとする。 X. もし選手が対戦相手のゴールに向かって走れば、相手側の選手は彼にチャージ、ホールド、トリッピング、ハッキング、あるいは彼からボールを奪い取る自由があるものとするが、同時にホールドとハッキングをすることはできない。
[89]

5回目の会合において、これら2つのルールを削除する提案が成された。代表者のほとんどがこれを支持したが、ブラックヒースの代表でFAの初代会計係であったF・M・キャンベルが異議を唱えた。キャンベルは「ハッキングこそが真のフットボールである」と述べた。しかしながら、ボールを手に持って走ることとハッキングの禁止の動議が可決され、ブラックヒースはFAを脱退した。12月8日の最後の会合の後、FAは後にアソシエーション・フットボールとして知られるスポーツの最初の包括的な一連の規則である「フットボールの規則 Laws of Football」を発表した。19世紀末から使われている「サッカー soccer」という用語は「Association」の省略形に由来する[90]

最初のFAのルールはもはや現在のサッカーでは見られない要素をまだ含んでいたが、それらはオーストラリアンフットボールやラグビーフットボールといったその他のゲームにおいて今でも見ることができる。例えば、選手はフェアキャッチを行い「マーク」を主張することができ、フリーキックの権利を得ることができた。また、相手のゴールラインの後ろのボールにタッチした場合、タッチした側がゴールライン手前15ヤード(13メートル)からのゴールに向かってのフリーキックの権利を得た。

ラグビーフットボール

フットボール・アソシエーションの設立の議論の過程で、ボールを持って走る、チャージング、ホールディング、トリッピング、ハッキングを認めるよう主張するグループは、これらが認められないこととなった結果、同協会を脱退して新たにラグビーフットボール協会を設立してルールを作成した[39]

ブリテンでは、1870年までに、ラグビー校のゲームの変種をプレーする約75のクラブがあった。アイルランド、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドにも「ラグビー」クラブがあった。しかしながら、1871年にロンドンの21のクラブが集まりラグビー・フットボール・ユニオン (RFU) を結成するまでは、一般的に受け入れられたラグビーのルールはなかった。これらのルールではボールをパスすることが許されている。また、ラインを越えてボールを地面に触れさせるとゴールへの試みが許されるトライも含まれていたが、マークからのドロップゴールやペナルティーコンバージョンがまだ戦いの主な形であった。

北米のフットボールコード

ブリテンでの事例と同様に、19世紀初頭までに、北米の学校および大学では生徒によるチーム間で独自のゲームがプレーされていた。ニューハンプシャー州にあるダートマス大学では、早くも1820年代にはサッカーの変種であるオールド・ディビジョン・フットボールと呼ばれるゲームがプレーされていた。

オンタリオ州ハミルトンの「タイガース」(1906年頃)。タイガースは1869年にハミルトン・フット・ボール・クラブとして創立され、1950年にハミルトン・フライング・ワイルドキャッツと合併してハミルトン・タイガーキャッツとなった。このチームは現在もカナディアン・フットボール・リーグに参加している[91]

カナダにおけるラグビーの初の試合は1865年にモントリオールで開催されたと一般的に言われている。この試合ではイギリス陸軍将校が地元の住民と対戦した。ラグビーは次第に支持者を増やし、1868年にカナダで記録が残る初のフットボールクラブであるモントリオール・フットボール・クラブが結成された。

1869年、FAの体系を基にしたルールの下、アメリカ合衆国での初の試合がプリンストンラトガースとの間で行われた。これは大学間での試合という意味において、アメリカ合衆国初のカレッジフットボールの試合でもあるとしばしば見なされている(しかし、アメリカンフットボールの最終形はサッカーではなくラグビーから来ている)。

現代アメリカンフットボールは1874年のモントリオールマギル大学ハーバード大学との試合から生まれた。当時、ハーバードの学生はアメリカの大学で好まれていたFAの体系に基づく「キッキング」ゲームではなくボストン・ゲーム(ランニングが許された体系)をプレーしていたと報告されている。そのため、ハーバードはマギルでプレーされていたラグビーの基づくゲームに適応することが容易であり、2つのチームはそれぞれのルールを交互に行っていた。しかしながら、数年の内に、ハーバードはマギルのラグビールールを採用し、その他の米国の大学にも同じく採用するよう説得した。1876年、マサソイト会議において、これらの大学がラグビー・フットボール・ユニオンのルールの大半を採用することが合意された。プリンストンやラトガースなどはサッカーを基にしたルールを数年間採用し続けていたが、その後にハーバードらのラグビーを基にしたルールに転向した。一般的に米国の大学は20世紀初頭までサッカーに戻ることはなった。

ラトガース大学フットボールチーム(1882年)

1880年、エール大学のコーチウォルター・キャンプは、アメリカのゲーム形式への多くの主要な変化を考案した。アメリカンフットボールをラグビーフットボールと異なるスポーツに確立させたキャンプが考案した2つの最も重要なルールの革新は、「スクリメージ」と「ダウン・アンド・ディスタンス」ルールである。

スクリメージは、グラウンドからボールを他の選手の手に渡すための開始動作の慣習を意味する。キャンプの最初のルールでは、この渡す動作は足のみで許されていたが、程なくして手でボールをパスすることも許されるようルールが変更された。ルールでは、2つのチームを互いに隔てる固有のスクリメージラインを定めた。ある選手がタックルされた時、その選手はダウンしたと判定されプレーは止まり、両チームはスクリメージラインの両側で再整列する。次に、ボールがグラウンドからスナップされ、プレーが再開する。チームは、ある距離(ヤードで測定される)を獲得する(進む)ために限られた回数のダウンを与えられる。アメリカンフットボールでは、ボールの保持権が移った後、10ヤード進むために4回のダウン(攻撃権)が与えられる。カナディアンフットボールでは、10ヤード進むために3回のダウンが許される。これらのルールは北米のルール体系とラグビーとの間に根本的な区別を作り出した。ラグビーは今でも根本的に連続動作のゲームであるが、北米のルール体系は「スクリメージ」からのデリバリーによって開始し「ダウン」によって終わる個別の「プレー」によって整理される。

批判と部分調整

初期のアメリカンフットボールは、過剰に暴力的な試合であり、毎年数件死亡事故や人生を左右する大怪我などに悩まされていた。暴力が非常に極端となったため、セオドア・ルーズベルト大統領は1905年に、暴力を最小化するようルールを変更しない限りアメリカンフットボールを禁止すると脅かした。この年にいくつかのルール変更が実施されたが、最も持続したのはフォワードパスの許可の導入であり、これは1880年代のキャンプのルール変更のように、このスポーツの性質を根本的に変化させた。ボールを前方へ投げることが反則でなくなると、ボールを前進させる全く新たな手段が生まれた。その結果、選手はそれぞれの役割により特化するようになり、異なるポジションの選手は異なる技術が必要とされるようになった。したがって、ある選手は主にボールを持って走ること(ランニング)に関与する(ランニングバック)が、その他にスローイング(クォーターバック)、キャッチング(ワイドレシーバー)、ブロッキング(オフェンシブライン)に特化した選手もいる。1940年代および1950年代に選手交代が自由になったことで、攻撃と守備の「小隊(プラトーン)」をそれぞれ配置できるようになり、さらなるポジションの特殊化が進んだ(ツー・プラトーン・システム)。

長年にわたって、カナディアンフットボールはアメリカンフットボールの進展の一部を吸収したが、多くの独自の特徴を保ってもいる。そのうちの一つは、カナディアンフットボールが長年、自身をラグビーと公式に区別していなかったことである。例えば、1884年に設立されたカナダ・ラグビーフットボール・ユニオンは、ラグビーユニオンの団体ではなくカナディアン・フットボール・リーグの前身だった(今日ラグビーカナダとして知られるカナダ・ラグビー・ユニオンは1965年まで結成されなかった)。アメリカンフットボールも1880年代にはしばしば「ラグビー」と言い表された。

ゲーリックフットボール

19世紀半ば、様々な伝統的フットボール(総称してケイド caidと呼ばれる)がアイルランド、特にケリー県で人気を保っていた。司祭のW. Ferrisはこの時期の「ケイド」の主要な2つの形式につして描写している: 「フィールド・ゲーム」における目的は2本の木の大枝によって作られたアーチのようなゴールにボールを入れることであった; 大規模な「クロスカントリーゲーム」は日曜日の日中の時間の大半を使って行われ、ボールを教区の境界を越えることで勝敗がついた。敵の選手への「レスリング」や「ホールディング」、ボールを持って走ることは全て許されていた。

1870年代までには、ラグビーおよびサッカーがアイルランドでも人気を得始めていた。ダブリン大学トリニティ・カレッジはラグビーの初期の拠点であった。イングランドのFAのルールは広く普及していた。伝統的なケイドの形式はトリッピングが許される「しっちゃかめっちゃかな」ゲームに取って代わられ始めていた。

1884年にゲーリック体育協会 (GAA) が設立されるまでは、アイルランドの様々なフットボールを統一し体系化しようという真剣な試みはなされなかった。GAAはハーリングといった伝統的なアイルランドのスポーツを振興し、ラグビーやサッカーのような輸入されたスポーツを拒絶しようとした。最初のゲーリックフットボールのルールはモーリス・デイヴィンによって起草され、『United Ireland』誌上で1887年2月7日に発表された。デイヴィンのルールは、ハーリングといったスポーツの影響やアイルランド固有のフットボールの体系を形式化しようという切望が見られた。この差別化の主な例は、オフサイドルールの欠如であった(長年ハーリングといったアイリッシュゲームやオーストラリアン・ルールズ・フットボールにのみ見られた要素である)。

ラグビーフットボールの分裂

ラグビーリーグの結成につながったラグビーフットボールの分裂を風刺した1890年代のイングランドの風刺画。風刺的に描写されているのは選手への支払の主な反対者であるフランク・マーシャル牧師とマーシャルの長年の対抗者であるジェームズ・ミラーである。

国際ラグビー評議会 (IRFB) は1886年に設立されたが、亀裂が生じ始めていた。プロフェッショナリズムが様々なフットボール競技に忍び寄り始めていた。

イングランドでは、1890年代までに、長年続くラグビー・フットボール・ユニオンの「プロ」選手の禁止がラグビーフットボール内での地域間の対立の原因となった。これはイングランド北部の多くの選手が労働者階級であり、トレーニングや遠征、試合、怪我からの回復のための休みを取ることができなかったためである。これは、この10年前にイングランド北部においてサッカーで起こったこととほとんど変わらなかったが、サッカーの場合、統括団体はイングランド北部の労働者階級の支持を遠ざけようとしたRFUとは大きく異なる対処をした。1895年、ラグビーをプレーすることによる賃金の損失を補うための休業補償が支払われている選手に関する論争の後に、北部のクラブの代表者らはハダースフィールドで集い、ノーザン・ラグビー・フットボール・ユニオン (NRFU) を結成した。この新たな団体は当初は選手への様々な休業補償のみを認めていた。しかし、2年のうちに、NRFUの選手への支払が認められた(しかしスポーツ以外の職に就いている必要はまだあった)。

プロリーグへの要求は、ラグビーがよりよい「観客」のためのスポーツとなることを決定付けた。数年以内に、NRFUのルールはRFUのルールから分化していった。特に「ラインアウト」の廃止は重大な変更であった。その後、「ラック」がタックラーとタックルされた選手との間で争われる2人の選手によるラックが許される「プレー=ザ=ボール・ラック」に置き換えられた。「モール」はボール保持者がつかまると停止され、プレー=ザ=ボール=ラックに置き換えられた。NRFUのランカシャーとヨークシャーの競技会が1901年に合併し、「ノーザン・ラグビー・リーグ」が結成され、イングランドにおいてラグビーリーグの名称が初めて公式に使用された。

そのうちに、クラブによってプレーされるRFU版のラグビーはラグビーユニオンとして知られるようになった。

サッカーのグローバル化

国際試合の人気が高まった20世紀の始めには、サッカーを監督する単一の団体に対する必要性が明らかとなっていた。イングランドのフットボール・アソシエーションは国際団体設置のための多くの話し合いの議長を務めたが、進展は見られなかった。その後、イングランド以外のヨーロッパの七カ国(フランス、ベルギー、デンマーク、オランダ、スペイン、スウェーデン、スイス)によって1904年5月21日にパリにおいて「Fédération Internationale de Football Association」 (FIFA) が設立された。初代会長はロベール・ゲランであった。現在もフランス語の名称および略称がフランス語圏以外の地域でも使用されている。

2つのラグビーの更なる分岐

ラグビーリーグのルールは、1906年に1チームの選手数が15名から13名に減ったことでラグビーユニオンから大きく分かれた。1907年、ニュージーランドのプロラグビーチームがオーストラリアおよびブリテンに遠征を行い熱狂的な反響受け、翌年にはオーストラリアにおいてプロラグビーリーグが開始された。しかし、プロの試合のルールは国ごとに異なっており、国際試合を行う度に厳密なルールの摺り合わせのための交渉が必要であった。この状況は、1948年にボルドーにおける会合でラグビーリーグ国際連盟 (RLIF) が結成されるまで続いた。

20世紀後半の間、ルールはさらに変化した。1966年、ラグビーリーグはアメリカンフットボールから「ダウン」の概念を借用した。これにより、4回以上タックルを受けるまでボールのポゼッションを維持できることとなった。タックルの最大数は後に6回まで増加し(1971年)、ラグビーリーグにおいてこれは「シックス・タックル・ルール」として知られるようになった。

1990年代初頭にフルタイムのプロ選手が誕生し、結果として試合がスピードアップすると、2チーム間の5メートルオフサイド距離が10メートルとなり、交代ルールは様々な入替ルールに取って代わられた。

ラグビーユニオンの規則もまた20世紀の間に大きく変化した。特に、「マーク」からのゴールが廃止され、「22メートル」ラインの外側からのタッチへの直接のキックが不利になり、不確定な「ラック」あるいは「モール」の後のボールの保持権を決定するための新たな規則が導入され、ラインアウトにおける選手のリフティングが合法化された。

1995年、ラグビーユニオンではプロ選手が解禁された。これによって、2種類のラグビー間の元々の対立点は無くなり、双方の団体の役員が再統合の可能性について言及することもあるが、近い将来においてそのような出来事があり得ない程に双方のルールおよび文化は異なっている。

サッカーにおいて相手チームが作る「壁」に向かってフリーキックを蹴る選手。

  1. ^ Reilly, Thomas; Gilbourne, D. (2003). “Science and football: a review of applied research in the football code”. Journal of Sports Sciences 21 (9): 693–705. doi:10.1080/0264041031000102105. 
  2. ^ Editorial: Soccer – or should we say football – must change” (2014年6月12日). 2014年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月17日閲覧。 “New Zealanders on the way to their local rugby grounds should still be talking of "going to the football"”
  3. ^ History of Football - Britain, the home of Football”. FIFA.com. 2013年9月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月15日閲覧。
  4. ^ Post Publishing PCL.. “Bangkok Post article”. bangkokpost.com. 2020年7月26日閲覧。
  5. ^ History of Football - The Origins”. FIFA. 2013年4月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年4月29日閲覧。
  6. ^ History of Rugby in Australia”. Rugby Football History. 2012年1月11日閲覧。
  7. ^ Bailey, Steven (1995). “Living Sports History: Football at Winchester, Eton and Harrow”. The Sports Historian 15 (1): 34–53. 
  8. ^ Perkin, Harold (1989). “Teaching the nations how to play: sport and society in the British empire and commonwealth”. The International Journal of the History of Sport 6 (2): 145–155. 
  9. ^ Reilly, Thomas; Doran, D. (2001). “Science and Gaelic football: A revie”. Journal of Sports Sciences 19 (3): 181–193. 
  10. ^ Bale, J. (2002). Sports Geography. Taylor & Francis. p. 43. ISBN 0-419-25230-4 
  11. ^ a b c d Douge, Brian (2011). “Football: the common threads between the games”. Science and Football (Second ed.). Abingdon: Routledge. pp. 3–19. ISBN 978-0-415-50911-4 
  12. ^ The governing body is the "Fédération de soccer du Québec"”. Federation-soccer.qc.ca. 2012年3月4日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年4月16日閲覧。
  13. ^ Stories Soccer to become football in Australia (SMH.com.au. December 17, 2004) "ASA chairman Frank Lowy said the symbolic move would bring Australia into line with the vast majority of other countries which call the sport football."
  14. ^ NZ Football – The Local Name Of The Global Game Archived 2009年9月22日, at the Wayback Machine. (NZFootball.co.nz. April 27, 2006) "The international game is called football and were part of the international game so the game in New Zealand should be called football"
  15. ^ David As... (2009年11月28日). “"new name & logo for Samoan football"”. Sportingpulse.com. 2012年4月16日閲覧。
  16. ^ "Football progress in Samoa "”. Samoaobserver.ws. 2012年4月16日閲覧。[リンク切れ]
  17. ^ ἐπίσκυρος, Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon, on Perseus Digital Library
  18. ^ The New Encyclopaedia Britannica, 2007 Edition: "In ancient Greece a game with elements of football, episkuros, or harpaston, was played, and it had migrated to Rome as harpastum by the 2nd century BC".
  19. ^ φαινίνδα, Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon, on Perseus Digital Library
  20. ^ Nigel Wilson, Encyclopedia of Ancient Greece, Routledge, 2005, p. 310
  21. ^ Nigel M. Kennell, The Gymnasium of Virtue: Education and Culture in Ancient Sparta (Studies in the History of Greece and Rome), The University of North Carolina Press, 1995, on Google Books
  22. ^ Steve Craig, Sports and Games of the Ancients: (Sports and Games Through History), Greenwood, 2002, on Google Books
  23. ^ Don Nardo, Greek and Roman Sport, Greenhaven Press, 1999, p. 83
  24. ^ Sally E. D. Wilkins, Sports and games of medieval cultures, Greenwood, 2002, on Google books
  25. ^ E. Norman Gardiner: "Athletics in the Ancient World", Courier Dover Publications, 2002, ISBN 0-486-42486-3, p.229
  26. ^ William Smith: "Dictionary of Greek and Roman Antiquities", 1857, p.777
  27. ^ He, Jin (2001). An Analysis of Zhan Guo Ce. Beijing: Peking University Press. ISBN 7-301-05101-8, p. 59-82
  28. ^ Richard Hakluyt, Voyages in Search of The North-West Passage Archived 2008年10月12日, at the Wayback Machine., University of Adelaide, December 29, 2003
  29. ^ From William Blandowski's Australien in 142 Photographischen Abbildungen, 1857, (Haddon Library, Faculty of Archaeology and Anthropology, Cambridge)
  30. ^ Historia Brittonum at the Medieval Sourcebook.
  31. ^ Ruff, Julius (2001). Violence in Early Modern Europe 1500-1800. Cambridge University Press. p. 170. ISBN 978-0521598941 
  32. ^ Jusserand, Jean-Jules. (1901). Le sport et les jeux d'exercice dans l'ancienne France. Retrieved January 11, 2008, from http://agora.qc.ca/reftext.nsf/Documents/Football--Le_sport_et_les_jeux_dexercice_dans_lancienne_France__La_soule_par_Jean-Jules_Jusserand (フランス語)
  33. ^ Baker, William (1988). Sports in the Western World. University of Illinois Press. p. 48. ISBN 978-0252060427 
  34. ^ Dunning, Eric (1999). Sport Matters: Sociological Studies of Sport, Violence and Civilisation. Routledge. p. 89. ISBN 978-0415093781 
  35. ^ a b Dunning, Eric (1999). Sport Matters: Sociological Studies of Sport, Violence and Civilisation. Routledge. p. 88. ISBN 978-0415093781 
  36. ^ Stephen Alsford, FitzStephen's Description of London, Florilegium Urbanum, April 5, 2006
  37. ^ a b c d e Francis Peabody Magoun, 1929, "Football in Medieval England and Middle-English literature" (The American Historical Review, v. 35, No. 1).
  38. ^ Irish inventions: fact and fiction”. Carlow-nationalist.ie. 2012年7月29日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年4月16日閲覧。
  39. ^ a b c d e f g h i j k l m n 小塩和人. “フットボールのアメリカニゼーション(1)アメラグからアメフトへ”. 上智大学. 2019年11月23日閲覧。
  40. ^ Derek Birley (Sport and The Making of Britain). 1993. Manchester University Press. p. 32. 978-0719037597
  41. ^ Derek Baker (England in the Later Middle Ages). 1995. Boydell & Brewer. p. 187. ISBN 978-0851156484
  42. ^ a b Online Etymology Dictionary (no date), "football"”. Etymonline.com. 2010年6月19日閲覧。
  43. ^ Vivek Chaudhary, “Who's the fat bloke in the number eight shirt?” Archived 2008年2月9日, at the Wayback Machine. (The Guardian, February 18, 2004.)
  44. ^ Anniina Jokinen, Sir Philip Sidney. "A Dialogue Between Two Shepherds" (Luminarium.org, July 2006)
  45. ^ Richard Carew. “EBook of The Survey of Cornwall”. Project Gutenberg. 2007年10月3日閲覧。
  46. ^ International Olympic Academy (I.O.A.) (no date), “Minutes 7th International Post Graduate Seminar on Olympic Studies” Archived 2008年4月29日, at the Wayback Machine.
  47. ^ ウィリアム・シェイクスピア著、福田 恆存 訳 『リア王』新潮社、1967年。ISBN 978-4102020050 
  48. ^ John Lord Campbell, ''The Lives of the Lords Chancellors and Keepers of the Great Seal of England'', vol. 2, 1851, p. 412. Books.google.co.uk. (1851). https://books.google.co.jp/books?id=sHrejZJVc80C&pg=RA3-PA412&dq=football&redir_esc=y&hl=ja 2010年6月19日閲覧。 
  49. ^ William Maxwell Hetherington, 1856, ''History of the Westminster Assembly of Divines, Ch.1 (Third Ed.)”. Reformed.org. 2012年4月16日閲覧。
  50. ^ A history of Winchester College. by Arthur F Leach. Duckworth, 1899 ISBN 1-4446-5884-0
  51. ^ 2003, "Richard Mulcaster"”. Footballnetwork.org. 2010年6月19日閲覧。
  52. ^ Francis Peabody Magoun. (1938) History of football from the beginnings to 1871. p.27. Retrieved 2010-02-09.
  53. ^ Francis Willughby, 1660–72, ''Book of Games''. Books.google.co.uk. (2003). ISBN 9781859284605. https://books.google.co.jp/books?id=P-io9DcBllkC&pg=PA168&lpg=PA168&vq=football&dq=willughby+book+of+sports&redir_esc=y&hl=ja 2010年6月19日閲覧。 
  54. ^ a b Julian Carosi (2006年). “The History of Offside”. 2008年2月23日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2012年5月9日閲覧。
  55. ^ a b Richard William Cox; Dave Russell and Wray Vamplew (2002). Encyclopedia of British Football. Routledge. p. 243. ISBN 9780714652498 
  56. ^ example of ball handling in early football from English writer William Hone, writing in 1825 or 1826, quotes the social commentator Sir Frederick Morton Eden, regarding "Foot-Ball", as played at Scone, Scotland:
    The game was this: he who at any time got the ball into his hands, run [sic] with it till overtaken by one of the opposite part; and then, if he could shake himself loose from those on the opposite side who seized him, he run on; if not, he threw the ball from him, unless it was wrested from him by the other party, but no person was allowed to kick it. (William Hone, 1825–26, The Every-Day Book, "February 15." Archived 2008年1月5日, at the Wayback Machine. Access date: March 15, 2007.)
  57. ^ ABC Radio National Ockham's Razor, first broadcast 6 June 2010.
  58. ^ THE SURREY CLUB Bell's Life in London and Sporting Chronicle (London, England), Sunday, October 07, 1849; pg. 6.New Readerships
  59. ^ Football: The First Hundred Years. The Untold Story. Adrian Harvey. 2005. Routledge, London
  60. ^ John Hope, Accounts and papers of the football club kept by John Hope, WS, and some Hope Correspondence 1787–1886 (National Archives of Scotland, GD253/183)
  61. ^ a b The Foot-Ball Club in Edinburgh, 1824–1841 – The National Archives of Scotland”. Nas.gov.uk (2007年11月13日). 2010年6月19日閲覧。
  62. ^ Rugby chronology”. Museum of Rugby. 2008年11月21日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2006年4月24日閲覧。
  63. ^ History of the Royal Caledonian Society of Melbourne”. Electricscotland.com. 2010年6月19日閲覧。
  64. ^ Soccer Ball World – Early History . Retrieved June 9, 2006. アーカイブ 2006年6月16日 - ウェイバックマシン
  65. ^ The exact name of Mr Lindon is in dispute, as well as the exact timing of the creation of the inflatable bladder. It is known that he created this for both association and rugby footballs. However, sites devoted to football indicate he was known as HJ Lindon, who was actually Richards Lindon's son, and created the ball in 1862 (ref: Soccer Ball World), whereas rugby sites refer to him as Richard Lindon creating the ball in 1870 (ref: Guardian article). Both agree that his wife died when inflating pig's bladders. This information originated from web sites which may be unreliable, and the answer may only be found in researching books in central libraries.
  66. ^ soccerballworld.com, (no date) "Charles Goodyear's Soccer Ball" Downloaded 30/11/06.
  67. ^ Scots invented beautiful game The Scotsman, 14 June 2006
  68. ^ Bell's Life in London and Sporting Chronicle (London, England), Sunday, January 13, 1839.New Readerships
  69. ^ Blackwood's Magazine, Published by W. Blackwood, 1862, page 563
  70. ^ Bell's Life in London and Sporting Chronicle (London, England), Saturday, January 07, 1865; Issue 2,229: "The Sheffield party, however, eventually took a lead, and through some scientific movements of Mr J Wild, scored a goal amid great cheering"
  71. ^ Bell's life in london, November 26th 1865, issue 2275: "We cannot help recording the really scientific play with which the Sheffield men backed each other up
  72. ^ Wall, Sir Frederick (2005). 50 Years of Football, 1884–1934. Soccer Books Limited. ISBN 1-8622-3116-8 
  73. ^ [Cox, Richard (2002) The encyclopaedia of British Football, Routledge, United Kingdom]
  74. ^ Bell's Life in London and Sporting Chronicle, 18 December 1869
  75. ^ Bell's Life in London and Sporting Chronicle, 5 November 1870,issue 2
  76. ^ Bell's Life in London and Sporting Chronicle, 17 February 1872,issue 2694
  77. ^ The Derby Mercury (Derby, England), Wednesday, March 20, 1872; Issue 8226
  78. ^ Murphy, Brendan (2007). From Sheffield with Love. Sports Book Limited. p. 59. ISBN 978-1-899807-56-7 
  79. ^ Association Football, chapter by CW Alcock, The English Illustrated Magazine 1891, page 287
  80. ^ Harvey, Adrian (2005). Football, the First Hundred Years. Routledge. pp. 273, ref 34–119. ISBN 0-415-35019-0. https://books.google.co.jp/books?id=TxoZ0S-GC7MC&redir_esc=y&hl=ja 
  81. ^ Csanadi Arpad, Hungerian coaching manual "Soccer", Corvina, Budapest 1965
  82. ^ Wilson Jonathon, Inverting the pyramid: a History of Football Tactics , Orion, 2008
  83. ^ Football Association tribute to the Cambridge Rules”. 2011年4月28日閲覧。[リンク切れ]
  84. ^ Harvey, Adrian (2005). Football, the First Hundred Years. Routledge. pp. 95–99. ISBN 0415350190. https://books.google.co.jp/books?id=TxoZ0S-GC7MC&redir_esc=y&hl=ja 
  85. ^ Murphy, Brendan (2007). From Sheffield with Love. Sports Book Limited. pp. 41–43. ISBN 9781899807567 
  86. ^ Letter from Tom Wills”. MCG website. 2006年6月25日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2006年7月14日閲覧。
  87. ^ The Origins of Australian Rules Football”. MCG website. 2007年6月11日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2007年6月22日閲覧。
  88. ^ Sport: Touchstone of Australian Life Archived 2011年1月17日, at the Wayback Machine. from the Australian Broadcasting Commission. First broadcast on Thursday 17/05/01
  89. ^ Peter Shortell. Hacking – a history Archived 2008年4月3日, at the Wayback Machine., Cornwall Referees Society Archived 2008年3月3日, at the Wayback Machine., 2 October 2006
  90. ^ “soccer, n”. Oxford English Dictionary. (June 2011). http://www.oed.com/view/Entry/183733 2011年7月1日閲覧。. 
  91. ^ Canadian Football Timelines (1860– present)”. Football Canada. 2007年2月28日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2006年12月23日閲覧。
  92. ^ 1903年にアメリカンフットボールによく似た「バーンサイド・ルール」が一部で導入され、それまでのラグビー式のルールから転換していくことになる。
  93. ^ Summers, Mark. “The Disability Football Directory”. 2013年6月3日閲覧。
  94. ^ Sean Fagan, Breaking The Codes, RL1908.com, 2006 (2006年5月11日時点のアーカイブ
  95. ^ サッカーとフットボール、どちらの呼び方が正解?|ライフコラム|NIKKEI STYLE”. 日本経済新聞. 2018年9月28日閲覧。






フットボールと同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フットボール」の関連用語

フットボールのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フットボールのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフットボール (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS