ビルマの戦い
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終戦(1945年)
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日本軍はイラワジ会戦で決戦を試みたが、イギリス軍に圧倒され全面崩壊の様相を呈した。オンサンが率いるビルマ国民軍も日本軍に対して銃口を向け、イギリス軍はラングーンを奪回した。退路を絶たれた第28軍は敵中突破作戦を計画した。第28軍が大きな犠牲を払いつつ作戦を成功させた頃、終戦が訪れた。
イラワジ会戦
盤作戦
1944年のインパールでの戦いに勝利したイギリス軍はそのまま追撃に移ろうとしたが中国方面における日本軍の大陸打通作戦によるアメリカ軍航空部隊の配置換えにより一時的に満足な航空支援が受けられなくなった。そのため翌年までのろのろとした追撃戦が続いた。 1945年1月、インパール作戦に敗れた第15軍はイギリス第14軍の追撃を受けつつ、ビルマ中部の中心都市マンダレー付近のイラワジ川の線まで後退していた。米中連合軍がレド公路打通を達成した以上、ビルマの戦略的価値は大きく低下しており、日本軍でもタイ国境まで後退すべきとする意見もあった。だがビルマ方面軍参謀長田中新一中将は、第15軍に「盤作戦」を、第28軍に「完作戦」を命じた。「盤作戦」はイラワジ川を防衛線としてイギリス軍を機に応じて撃滅するという強気の作戦、「完作戦」はベンガル湾沿いを防衛する作戦である。
だが、第15軍の4個師団(第15、第31、第33、第53師団)はそれぞれ実力1個連隊の戦力にまで損耗していた。それをイラワジ川沿いの200キロ以上の広正面に配置したところで有効な防御戦闘は困難だった。さらに、ビルマ中部の大平原は、乾季には砂漠のような荒涼たる大地に変貌する。制空権を持ち機動力に富むイギリス軍にとっては格好の舞台であるが、機動力を持たない日本軍にとっては苦しい戦場だった。
メイクテーラ攻防戦
「盤作戦」は出だしからつまづいた。スリムは第33軍団をマンダレーへ向かわせて日本軍を引きつけつつ、2月17日第4軍団をチンドウィン川とイラワジ川の合流点の下流で渡河させ、第17インド師団と第255インド機甲旅団を第15軍背後の要衝メイクテーラ(現在のメイッティーラ)へ向けて突進させた。機械化部隊の進撃速度は日本軍の想像を超えていた。メイクテーラの守備兵力は急遽かけつけた歩兵第168連隊の他は後方部隊ばかりで、3月3日イギリス軍に制圧された。
日本軍はシャン高原から第33軍司令部を抽出し、これに第18師団と第49師団を配属して、メイクテーラの奪回を図った。日本軍はメイクテーラを包囲し、肉弾攻撃と夜襲を反復したものの、イギリス軍の機械化部隊に対して、十分な対戦車装備を持たない日本軍は一方的な打撃を被った。
その頃マンダレーでは第19インド師団が市内へ突入していた。死守を命じられた第15師団は激しく抵抗し市街戦となったが、幹部が相次いで死傷し、これまでと判断した片村四八軍司令官は独断で撤退を命じた。イラワジ河畔では第15軍の将兵が連日炎暑に耐えて苦闘を続けていたが、イギリス軍は至るところから突破し、戦線は次第に全面崩壊の様相を呈した。3月28日、日本軍はメイクテーラ奪回を断念し、盤作戦を中止した。第15軍はシャン高原へ後退した。
完作戦(第三次アラカン作戦)
ビルマ南西部ではイギリス軍第15軍団がアキャブへ向けて前進していた。ビルマ西部の防衛は第28軍の担当で、第54、第55師団の二個師団だけだった。 日本軍はアキャブからイラワジ河周辺までに縦深の防衛線を張り、ラムリー島などの海岸地区を持久地帯、ラングーン周辺を機動反撃地帯とし、エナンジョンからラングーンまでの線の確保を目的とする完作戦を発令していた。 アキャブは1月3日に陥落したが、第28軍主力は既にここを撤退していた。次いでイギリス軍は1月21日、航空基地確保のためラムリー島(ラムレー島)へ上陸し、約1ヶ月の戦闘で日本軍を撤退に追い込んだ。第28軍は第55師団をイラワジ戦線へ抽出し、兵力は宮崎繁三郎中将の率いる第54師団のみとなっていたが、アラカン山脈へ後退しつつ抵抗を続けた(170高地の戦い)。
ビルマ国民軍離反
3月17日、アウンサンが率いるビルマ国民軍の出陣式がラングーンのシュエダゴォン・パゴダ前広場で行われた。バー・モウは「断固として敵を討て」と演説したが、すでにイラワジ戦線の崩壊によって日本軍の敗北は明白だった。アウンサンが日本と結んだのはビルマの独立のためであって、日本と心中する意思など持っていなかった。
3月27日、ビルマ国民軍11,000名はアウンサンの指揮のもと、AFPFLの旗を掲げ、日本軍に対して銃口を向けた。日本軍は背後からも攻撃を受けることになったのである。バー・モウのビルマ政府も崩壊の一途をたどってゆく。
ラングーン奪回
イラワジ会戦で日本軍を粉砕したイギリス軍は雨季の到来前にラングーンを奪回すべく、第33軍団がイラワジ川沿いを、第4軍団がシッタン川沿いを南下した。日本軍は第28軍にイラワジ川沿い、第33軍にシッタン川沿いでの防戦を命じたが、防衛線は相次いで突破され、イギリス第4軍団の先頭は4月25日にラングーン北方のペグー(現在のバゴー)まで到達した。
4月23日、ビルマ方面軍司令官木村兵太郎大将は、ビルマ政府や日本人居留民に対する処置も明らかにしないまま、ラングーンを放棄し東方のモールメンへ脱出した。大混乱の中、イギリス軍は5月2日にラングーンを奪回した。イラワジ川下流部でイギリス第33軍団と戦っていた第28軍は、退路を絶たれ敵中に孤立してしまった。
イギリス軍のマレー進攻計画
イギリス軍は次の目標であるマレーおよびシンガポールの奪回のため、「ジッパー作戦」の準備を開始した。予定では9月9日にクアラルンプール南西岸に上陸作戦を行い、9月末頃シンガポールを奪回することとなっていた。8月には作戦準備がかなり進展していたが、8月15日マウントバッテンは全ての作戦の中止を命じた[23]。
シッタン作戦
第28軍は、イギリス軍のラングーンへの急進撃により、退路を絶たれペグー山系に追い詰められていた。ペグー山系はイラワジ川とシッタン川とに挟まれた標高500メートル内外の丘陵地帯で、竹林に覆われている。雨季が到来し、イギリス軍の作戦行動は不活発となっていたが、第28軍の食糧の手持ちは7月末が限界となっていた。将兵は竹の小屋で雨をしのぎ、筍粥で飢えをしのいだが、食塩の欠乏症に苦しんだ。食塩が欠乏すると、筋力が低下し、しまいには立っていられなくなるのである。
7月、雨季は最盛期に入り、河川は氾濫し、平地は沼地に変わった。ようやく兵力の集結を終えた第28軍は敵中突破作戦を計画した。闇にまぎれてペグー山系を脱出し、広大な冠水地帯を横断し、増水したシッタン川を竹の筏で渡るのである。シッタン川を防御していた第33軍は川を越えて第7インド師団へ牽制攻撃をかけた。戦いは胸の高さまで達する泥水の中で行われた。
7月下旬、第28軍は十数個の突破縦隊に分かれて一斉にシッタン川を目指した。将兵は筏に身を託して濁流へ身を投じた。体力の衰えていた者は濁流を乗り切ることができず、水勢に呑まれて流されていった。第28軍は34,000名をもってペグー山系に入ったが、シッタン川を突破できた者は15,000名に過ぎなかった。こうして第28軍が敵中突破を大きな犠牲を払いつつ成功させた頃、8月15日の終戦が訪れた。
注釈
- ^ 「ハンプ」とは「こぶ」の意味である。
- ^ 『大東亜戦争全史』, pp.419-420 に記載されている部隊番号は誤りとみられる。
- ^ 兵1名は途中で脱落し、2名が第33軍司令部までたどり着いた。
- ^ (戦史叢書32 1969, pp. 501–502)厚生省援護局1952年調べ。陸軍のみであり、航空部隊は含まない。終戦直前にタイ、インドシナ等の他戦域に転進した兵力が少なくないが、それらを含め、ビルマ作戦に従事した部隊の作戦間の兵力、損害を調査したものである。戦没者数にはインドおよび雲南省での戦没者並びに輸送船沈没による戦没者を含んでいる。
- ^ 「日本の戦後補償条約一覧」も参照
- ^ 象徴的な存在としてチドウィン川の鉄橋復旧工事など。
- ^ 現在、Paluzawa coal mines と呼ばれている。
- ^ 質については久留島秀三郎はボイラー炭としては十分使え、常磐炭よりも良質だが、九州や北海道の一等炭よりは劣ると述べている。
- ^ 当時、ミャンマーは石炭をインドからの輸入に依存しており、エネルギーの自給は課題であった。
- ^ 委員長、甲谷秀太郎
出典
- ^ a b c d “日本の戦争指導におけるビルマ戦線-インパール作戦を中心に-”. 荒川憲一. 2023年3月19日閲覧。
- ^ a b c d “日本陸軍戦記 南方編1”. 日本帝国陸軍総覧. 2023年3月19日閲覧。
- ^ 戦史叢書5 1967, pp. 1–2.
- ^ 戦史叢書5 1967, pp. 12–16.
- ^ 戦史叢書5 1967, p. 316.
- ^ 戦史叢書5 1967, p. 565.
- ^ ソーン 1995a, p. 422.
- ^ ソーン 1995a, 66, 330.
- ^ ソーン 1995a, pp. 422–425.
- ^ タックマン 1996, pp. 344–370.
- ^ 太田常蔵 1967, pp. 326–329.
- ^ アレン 1995c, pp. 198–199.
- ^ 太田常蔵 1967, p. 429.
- ^ 太田常蔵 1967, pp. 423–424.
- ^ アレン 1995c, p. 198.
- ^ 『ビルマの夜明け - バー・モウ(元国家元首)独立運動回想録』373頁。
- ^ アレン1995b, pp. 177–178.
- ^ アレン 1995c, 付録 p.4.
- ^ 服部卓四郎 1965, p. 605.
- ^ 戦史叢書25 1969, pp. 208–212.
- ^ 『戦史叢書 イラワジ会戦』では、各師団固有部隊将兵の40 - 50パーセントが死亡、残りの50 - 60パーセントのうち約半数が後送患者と推定し、軍直轄部隊及び各師団配属部隊の損耗については集計困難としている[20]。
- ^ 太田常蔵 1967, pp. 443–446.
- ^ 戦史叢書92 1976, pp. 424–425.
- ^ 太田常蔵 1967, p. 466.
- ^ アレン 1995c, p. 221.
- ^ アレン 1995c, p. 196.
- ^ アレン 1995c, 付録 p.9.
- ^ アレン 1995c, pp. 292–293.
- ^ The Merrill's Marauders Site
- ^ タックマン 1996, pp. 544–572.
- ^ タックマン 1996, p. 596.
- ^ 春秋2014/7/12付 -日本経済新聞
- ^ 高塚年明、参議院常任委員会調査室・特別調査室(編) (2006年6月29日). “国会から見た経済協力・ODA(1)〜賠償協定を中心に〜” (PDF). 2017年1月18日閲覧。
- ^ 佐久間平喜 1993, pp. 10–11.
- ^ 藤井厳喜 (2014年2月26日). “【世界を感動させた日本】教科書が教えない歴史 ミャンマー、インドネシア独立に尽力した日本人に勲章”. ZAKZAK 2017年1月18日閲覧。
- ^ 馬場公彦 2004, p. 132.
- ^ 馬場公彦 2004, pp. 134–135.
- ^ 第24国会海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会(1956年03月30日)における厚生省引揚援護局の美山要藏の説明他
- ^ 「片倉衷氏 死去=元陸軍少将」『毎日新聞』1991年7月24日大阪朝刊23面
- ^ 「日本兵眠るインパールで、慰霊碑を建立へ インド」『毎日新聞』1993年5月20日大阪夕刊11面
38 海外戦没者遺骨収集等 平成5年度厚生白書[リンク切れ] - ^ インパールにある慰霊施設『英霊にこたえる会』HP内 靖国神社[リンク切れ]
- ^ インド平和記念碑 厚生労働省HP内
- ^ “ミャンマー、ビルマ、インパール慰霊巡拝”. キャラウェイツアーズ. 2007年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月18日閲覧。
- ^ ビルマ侵攻作戦 1968, pp. 241–250.
- ^ アレン 1995c, 付録 pp.23-24.
- ^ アレン 1995c, 付録 62-85を参考に補足した。
- ^ 馬場公彦 2004, pp. 9–10.
- ^ 馬場公彦 2004, p. 40.
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