ビルマの戦い 概要

ビルマの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 06:50 UTC 版)

概要

ビルマは19世紀以来イギリスが植民地支配していた。1941年の太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍援蔣ルートの遮断などを目的としてビルマへ進攻し、勢いに乗じて全土を制圧した。連合国軍は一旦退却したが、1943年末以降、イギリスはアジアにおける植民地の確保を、アメリカと中国は援蔣ルートの回復を主な目的として本格的反攻に転じた。日本軍はインパール作戦を実施してその機先を制しようと試みたが、作戦は惨憺たる失敗に終わった。連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回した。

日本人の戦没者は18万名に達した。勝利したイギリスとアメリカはそれぞれの目的を達成したが、最終的にはイギリスはアジアから撤退し、アメリカも中国における足場を失った。ビルマは1948年に独立を達成した。

地理

第二次世界大戦当時のラングーン(現在のヤンゴン)の風景

ビルマ(現在のミャンマー、漢字表記では「緬甸」)は、インドバングラデシュ中国タイラオスと国境を接している。南北の最長距離は約2,000キロ、東西の最長距離は約1,000キロ、国土面積は68万平方キロである。南側はベンガル湾に面し、東部、北部および西部国境はいずれも峻険な山脈によって囲まれている。中央部は平原地帯であり、大河イラワジ川(現在のエーヤワディー川)が流れている。支流チンドウィン川を含むイラワジ川、シッタウン川(現在のシッタン川)、タンルウィン川(現在のサルウィン川)がビルマの三大河川をなしている。

気候は熱帯モンスーン気候である。5月中旬から10月までは雨季である。雨が一日中降り続くことはあまりないが、断続的な激しい降雨にみまわれる。特にアッサム州からアラカン山脈に至る地方は年間降雨量5,000ミリに達する世界一の多雨地帯である。雨季には河川は増水し、山道は膝まで屈する泥濘となる。10月末から5月までは乾季である。ほとんど降雨はなく、乾燥して草木は枯れる。シャン高原英語版では最低気温が氷点下になることもある。雨季入り直前の4月下旬から5月上旬には酷暑となり、平地では摂氏40度を越す日も少なくない。乾季には地面が固まって車両の通行は容易となり、機械化の進んだ連合軍にとっては有利な戦場となるが、歩兵にとっては塹壕を掘ることもままならなくなる。

1941年当時の人口は1600万人、内訳はビルマ族が1100万人、カレン族が150万人、シャン族が130万人、移住したインド人が200万人だった。首都ラングーン(現在のヤンゴン)は人口50万の近代都市だった。国民の多くは敬虔な仏教徒だった。僧侶は町の指導者を兼ね、多くの町ではパゴダ(仏塔)がランドマークとなっていた。寺院付属の学校は当時は全土で2万と言われ、識字率も高かった。

ビルマの気候は稲作に適している。当時は農業の機械化は遅れていたが、コメの年産は700万トンに達し、当時からコメの輸出国だった。日本軍は、フーコン河谷などの人口希薄な山間部を除けば、食糧調達を円滑に行うことができ、この点では日本兵が飢餓に苦しめられたニューギニアガダルカナルとは異なっていた。ただし戦争末期には、日本兵による食糧調達が半ば略奪の形となったことが、数多くの従軍記・回想録に書かれている。地下資源は、イナンジョン英語版に当時イギリス領最大の油田があり、石油輸出も行われていた。モチ英語版タングステン)、ボードウィン英語版)、バロック(雲母)、タヴォイタングステン)などの鉱山もあった。

ビルマに接する中国雲南省西部地方は、南北に縦走する標高3,000メートル以上の山脈が連なり、その間を深さ1,000メートルもの峡谷を形成する怒江(サルウィン川上流部の別名)、瀾滄江(メコン川上流部の別名)などの急流が流れている。熱帯高原性の穏やかな気候で、稲作も当時から盛んだった。

背景

イギリスのビルマ統治と独立運動

ビルマは1824年に始まった英緬戦争の結果、1886年にイギリス領インド帝国の一州に編入された。1935年ビルマ統治法が制定され、1937年その発効により、ビルマはインドから分離し、進歩穏健派のバー・モウを首班とする内閣と議会が設置された。しかしイギリス人総督の拒否権はほとんど統治全般に及び、自治権は完全には程遠く、ビルマは植民地と自治領との中間的状態に留め置かれた。議会における自治権拡大運動は、イギリスの行った小党分立政策のため勢力を持つには至らなかった。

ビルマ独立運動は1930年代に活発化した。運動の前衛は1930年に結成された「タキン党」だった。タキン党にはラングーン大学の学生が数多く参加しており、学生運動のリーダーとして活躍したのがタキン・オンサン(アウン・サン)やウ・ヌーらである。第二次世界大戦が勃発すると、タキン党はバー・モウの「シンエタ党」(貧民党)などと共に「自由ブロック」を結成した。

ビルマ民族主義者の中には議会を通じた穏健な運動を目指す者もいたものの、タキン党は対英非協力と武装蜂起を掲げ、インド国民会議派中国国民党中国共産党、日本など、いずれの外国勢力からの援助でも受け入れる考えを持っていた。1940年に入ると、イギリスは自由ブロックに対して弾圧を加えた。バー・モウら首脳陣が相次いで投獄される中、オンサンは同志ラミヤンとともに、外国勢力からの援助を求めるために苦力に変装して密出国した。

ビルマルートとアメリカの中国政策

ビルマルートの空撮画像

日本と中国とは1937年に勃発した日中戦争の最中にあった。日本軍は沿岸部の主要都市を占領したが、中国の蔣介石政府は重慶へと後退し頑強に抗戦を続けていた。日中両国とも国際社会に対しては「これは戦争ではない」との立場をとったため、アメリカ政府は交戦国への軍需物資の輸出を禁止する「中立法」を発動しなかった。軍需物資の多くを輸入に頼っていた日本はこれにより恩恵を受けていたが、中国へのアメリカやイギリスからの援助も妨げることはできなかった。

蔣介石政府への軍需物資の輸送ルート(援蔣ルート)には以下があった。日本の参謀本部では1939年頃の各ルートの月間輸送量を次のように推定していた[3]

  1. 香港ほか中国沿岸からのルート(香港ルート):6,000トン
  2. ソ連から新疆を経るルート(西北ルート):500トン
  3. フランス領インドシナハノイからのルート(仏印ルート):15,000トン
  4. ビルマのラングーンからのルート(ビルマルート):10,000トン

ビルマルートとは、ラングーンの港からマンダレー経由でラシオ(現在のラーショー)までの鉄道路「ビルマ鉄道(en)」と、ラシオから山岳地帯を越えて雲南省昆明に至る自動車道路「ビルマ公路」とを接続した、全長2,300キロの軍需物資の輸送ルートの呼称である。蔣介石政府はトラックがどうにか通れるだけの山越えの道路を1938年7月に完成させていた。

1940年6月、ドイツ軍パリ占領を機に、日本政府はイギリス政府に対して申し入れを行い、ビルマおよび香港を経由する蔣介石政府への物資輸送を閉鎖させた。さらに日本は9月の北部仏印進駐により仏印ルートをも遮断した。しかしビルマルートの閉鎖はアメリカの反発により3か月間にとどまった。再開されたビルマルートを遮断するため、日本軍航空部隊は雲南省内の怒江(サルウィン川の中国名)にかかる「恵通橋」と瀾滄江(メコン川上流部の中国名)にかかる「功果橋(現在、中国が建設した Gongguoqiao Dam がある)」を爆撃したが、橋を破壊するまでには至らなかった。

アメリカとしては、ヨーロッパでの戦局を有利に導くためには、蔣介石政府の戦争からの脱落を防ぎ、100万の日本軍支那派遣軍を中国大陸に釘付けにさせ、日本軍が太平洋やインドで大規模な攻勢を行えないような状況を作ることが必要だった。蔣介石政府への軍事援助は、1941年3月以降は「レンドリース法」に基づいて行われるようになった。さらにアメリカは、志願兵という形を取って、クレア・リー・シェンノートが指揮する航空部隊「フライング・タイガース」をビルマへ進出させた。

南機関

1940年3月、日本の大本営陸軍部は、参謀本部付元船舶課長の鈴木敬司大佐に対し、ビルマルート遮断の方策について研究するよう内示を与えた。鈴木はビルマについて調べていくうちにタキン党を中核とする独立運動に着目した。運動が武装蜂起に発展するような事態となれば、ビルマルート遮断もおのずから達成できるであろう。

鈴木は「南益世」の偽名を使ってラングーンに入り、タキン党員と接触した。そこで鈴木はオンサンたちがアモイに潜伏していることを知り、彼らを日本に招くことを決意する。オンサンたちはアモイの日本軍特務機関員によって発見され日本に到着した。これを契機に陸海軍は協力して対ビルマ工作を推進することを決定し、1941年2月1日、鈴木を機関長とする大本営直属の特務機関「南機関」が発足した。

南機関は、ビルマ独立運動家の青年30名を国外へ脱出させ、軍事訓練を施し、ビルマへ再潜入させて1941年の夏頃に武装蜂起させるという計画を立てていた。1941年2月から6月までの間に、脱出したビルマ青年は予定の30名に達し、ビルマ青年たちは海南島で軍事訓練を受けた。しかし1941年の夏には、ドイツ軍のソ連進攻や、日本の南部仏印進駐とこれに対するアメリカの対日石油禁輸など、国際情勢の緊迫の度は深まっていった。このような情勢下、ビルマでの武装蜂起の計画にも軍中央から待ったがかけられた。

日本軍の南方作戦計画

1941年夏以降、アメリカやイギリスとの関係悪化を受け、日本軍は南方作戦を具体化していった。11月6日、大本営南方軍第14軍第15軍第16軍第25軍戦闘序列を発し、各軍および支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。南方軍総司令官には寺内寿一大将、第15軍司令官には飯田祥二郎中将が親補された。以降陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。

それまで大本営はビルマへの進攻は考えておらず、南機関の活動は南方作戦計画とは無関係に進められていた。ビルマ作戦の詳細や兵力は開戦時においてすら固まっていなかった。計画では、連合軍の反攻に備える防衛線として、西はおおむねビルマを確保するとされていたが、占領地域を南部ビルマにとどめるのか、あるいはビルマ全土に手を広げるのかは未定だった。日本軍が使用できる兵力も限られており、第15軍を編成した当初の目的は、マレー作戦を実施する第25軍の背後を確保するためであって、ビルマ作戦を実施するためではなかった。ビルマ作戦に関する大本営の考え方は、緒戦の快進撃に応じて逐次具体化されていったのである[4]


注釈

  1. ^ 「ハンプ」とは「こぶ」の意味である。
  2. ^ 『大東亜戦争全史』, pp.419-420 に記載されている部隊番号は誤りとみられる。
  3. ^ 兵1名は途中で脱落し、2名が第33軍司令部までたどり着いた。
  4. ^ (戦史叢書32 1969, pp. 501–502)厚生省援護局1952年調べ。陸軍のみであり、航空部隊は含まない。終戦直前にタイ、インドシナ等の他戦域に転進した兵力が少なくないが、それらを含め、ビルマ作戦に従事した部隊の作戦間の兵力、損害を調査したものである。戦没者数にはインドおよび雲南省での戦没者並びに輸送船沈没による戦没者を含んでいる。
  5. ^
  6. ^ 象徴的な存在としてチドウィン川の鉄橋復旧工事など。
  7. ^ 現在、Paluzawa coal mines と呼ばれている。
  8. ^ 質については久留島秀三郎はボイラー炭としては十分使え、常磐炭よりも良質だが、九州や北海道の一等炭よりは劣ると述べている。
  9. ^ 当時、ミャンマーは石炭をインドからの輸入に依存しており、エネルギーの自給は課題であった。
  10. ^ 委員長、甲谷秀太郎

出典

  1. ^ a b c d 日本の戦争指導におけるビルマ戦線-インパール作戦を中心に-”. 荒川憲一. 2023年3月19日閲覧。
  2. ^ a b c d 日本陸軍戦記 南方編1”. 日本帝国陸軍総覧. 2023年3月19日閲覧。
  3. ^ 戦史叢書5 1967, pp. 1–2.
  4. ^ 戦史叢書5 1967, pp. 12–16.
  5. ^ 戦史叢書5 1967, p. 316.
  6. ^ 戦史叢書5 1967, p. 565.
  7. ^ ソーン 1995a, p. 422.
  8. ^ ソーン 1995a, 66, 330.
  9. ^ ソーン 1995a, pp. 422–425.
  10. ^ タックマン 1996, pp. 344–370.
  11. ^ 太田常蔵 1967, pp. 326–329.
  12. ^ アレン 1995c, pp. 198–199.
  13. ^ 太田常蔵 1967, p. 429.
  14. ^ 太田常蔵 1967, pp. 423–424.
  15. ^ アレン 1995c, p. 198.
  16. ^ 『ビルマの夜明け - バー・モウ(元国家元首)独立運動回想録』373頁。
  17. ^ アレン1995b, pp. 177–178.
  18. ^ アレン 1995c, 付録 p.4.
  19. ^ 服部卓四郎 1965, p. 605.
  20. ^ 戦史叢書25 1969, pp. 208–212.
  21. ^ 『戦史叢書 イラワジ会戦』では、各師団固有部隊将兵の40 - 50パーセントが死亡、残りの50 - 60パーセントのうち約半数が後送患者と推定し、軍直轄部隊及び各師団配属部隊の損耗については集計困難としている[20]
  22. ^ 太田常蔵 1967, pp. 443–446.
  23. ^ 戦史叢書92 1976, pp. 424–425.
  24. ^ 太田常蔵 1967, p. 466.
  25. ^ アレン 1995c, p. 221.
  26. ^ アレン 1995c, p. 196.
  27. ^ アレン 1995c, 付録 p.9.
  28. ^ アレン 1995c, pp. 292–293.
  29. ^ The Merrill's Marauders Site
  30. ^ タックマン 1996, pp. 544–572.
  31. ^ タックマン 1996, p. 596.
  32. ^ 春秋2014/7/12付 -日本経済新聞
  33. ^ 高塚年明、参議院常任委員会調査室・特別調査室(編) (2006年6月29日). “国会から見た経済協力・ODA(1)〜賠償協定を中心に〜” (PDF). 2017年1月18日閲覧。
  34. ^ 佐久間平喜 1993, pp. 10–11.
  35. ^ 藤井厳喜 (2014年2月26日). “【世界を感動させた日本】教科書が教えない歴史 ミャンマー、インドネシア独立に尽力した日本人に勲章”. ZAKZAK. https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140226/dms1402260733000-n1.htm 2017年1月18日閲覧。 
  36. ^ 馬場公彦 2004, p. 132.
  37. ^ 馬場公彦 2004, pp. 134–135.
  38. ^ 第24国会海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会(1956年03月30日)における厚生省引揚援護局の美山要藏の説明他
  39. ^ 「片倉衷氏 死去=元陸軍少将」『毎日新聞』1991年7月24日大阪朝刊23面
  40. ^ 「日本兵眠るインパールで、慰霊碑を建立へ インド」『毎日新聞』1993年5月20日大阪夕刊11面
    38 海外戦没者遺骨収集等 平成5年度厚生白書[リンク切れ]
  41. ^ インパールにある慰霊施設英霊にこたえる会』HP内 靖国神社[リンク切れ]
  42. ^ インド平和記念碑 厚生労働省HP内
  43. ^ ミャンマー、ビルマ、インパール慰霊巡拝”. キャラウェイツアーズ. 2007年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月18日閲覧。
  44. ^ ビルマ侵攻作戦 1968, pp. 241–250.
  45. ^ アレン 1995c, 付録 pp.23-24.
  46. ^ アレン 1995c, 付録 62-85を参考に補足した。
  47. ^ 馬場公彦 2004, pp. 9–10.
  48. ^ 馬場公彦 2004, p. 40.






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