ビルマの戦い 影響

ビルマの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 13:14 UTC 版)

影響

ビルマ

第17インド師団長クローサー少将へ軍刀を手渡す第49師団長竹原三郎中将。1945年10月
降伏し武装解除を受ける日本軍兵士。1945年9月

戦争はビルマの経済に大きな被害を与えた。鉄道は機関車の85パーセントを欠損し、ラングーンの港湾施設は破壊された。農民の生産手段も多くが奪われ、農地は放置されて荒廃した[22]コンバウン王朝の旧王宮のあったマンダレーや瀟洒な文化都市メイクテーラは激戦地となって破壊しつくされ、貴重な歴史遺産は失われた。

バー・モウチャンドラ・ボースはビルマを脱出した。チャンドラ・ボースはソ連へ向かおうとしたが、台湾で飛行機事故により死亡した。バー・モウは日本の新潟県に潜伏した。協力者はイギリス政府の報復を恐れたが、バー・モウは1946年1月にGHQへ出頭した。結局イギリス政府は罪を問わず、バー・モウは8月にビルマへ帰国した。

反乱を起こしたオンサンは1945年5月16日にマウントバッテンと会談した。イギリス側にはオンサンを殺人者として訴追すべしとする意見もあったが、マウントバッテンはこの若き国民的英雄を是非とも味方につけるべきと考えた[23]。両者は、ビルマ国民軍が「ビルマ愛国軍」と改称した上で連合軍の指揮下に入ることに合意した。

日本軍の占領下で、ビルマの指導者たちの力は強まった。小なりとはいえ軍隊を運営し、統治の方法を学んだのである。彼らの軍隊はイギリス政府との独立交渉において無視しえない力となった[24]。オンサンは軍を去ってAFPFL総裁に就任し独立問題に専念した。だがオンサンは1947年7月に暗殺され、ウ・ヌーがAFPFL総裁を引き継いだ。1948年1月4日、ビルマはウ・ヌーを首班として独立を達成した。

イギリス

ビルマの戦いにおいて、イギリス軍および英連邦諸国軍は戦死者14,326名、負傷者・行方不明・捕虜59,583名の犠牲者を出した[25]。イギリスはビルマの戦いの最大の勝利者となり、英印軍の歴史の最後を栄光で飾った。しかしビルマは独立とともにイギリス連邦から離脱する道を選んだ。 最後のイギリス領インド帝国総督となったマウントバッテンは1947年8月15日、インドの独立式典に立ち会ってネルーへ権限を委譲し、アジアから去っていった[26]

アメリカと中国

ビルマの戦いでの中国軍(国民党軍)は10万名が戦死、編成時3,000名を擁していたアメリカ軍メリルズ・マローダーズ英語版は、ミイトキーナの戦いまでの間に戦死・負傷・戦病を含め8割の損害を被った[27]

アメリカは勝利によって援蒋ルートを回復し、中国を連合国につなぎとめることに成功した。しかし米中連合軍がレド公路打通を達成したとき、最大の功労者スティルウェルの姿はそこにはなかった。スティルウェルは1944年10月19日、蒋介石によって中国軍における役職を剥奪され、ワシントンへ召還されていた。その理由はスティルウェルがルーズベルトを介し、中国軍全体の抜本改革を任せるよう要求したことに対して、蒋介石が反発したことが原因だった[28]

もしスティルウェルの計画が完全に実施されていたら、中国国民党軍が中国共産党軍に敗れることもなかったかもしれない[29]。蒋介石政府へのアメリカの巨額の軍事援助は水泡に帰し、アメリカは中国大陸を制圧した共産主義政権と、朝鮮戦争ベトナム戦争を戦うことになるのである。ただしトルーマン政権のアジア政策も対中政策を最も重要視し、国共内戦の調停を成立させることによって中国の「大国化」を達成しようとしたが、蒋介石は最大の援助国アメリカの内戦回避の意向を無視して内戦を起こしたことでアメリカは中国の経済援助政策を打ち切り(当初は軍事支援は受けていた)、さらにアメリカも中国内戦から撤退したため、蒋介石自身にも非はある。

日本

日本は敗戦によりアジアにおける全ての領土的権益を喪失した。ビルマ方面作戦に参加した303,501名の日本軍将兵のうち、6割以上にあたる185,149名が戦没し、帰還者は118,352名のみであった[注 4]

このような状況から帰還兵達は「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と評したという[30]

賠償と国交の回復

ビルマとの間には1954年11月5日に「日本とビルマ連邦との間の平和条約」と賠償および経済協力協定[注 5]を締結し、翌年4月の発効により正式に国交関係を確立した。この賠償に際し、日本との合弁事業によって国家の振興を図ることが検討され、戦争により破壊された鉄道[注 6]、通信網の建設、内陸水路の復旧や、ラングーン港などの沈船の引き揚げ、インパールの南方100マイル程の地点に発見されたカレワ英語版にある炭田[注 7]の開発[注 8]、戦争で破壊された亜鉛製練所などが第21国会参院通商産業委員会にて検討されている[注 9]。結局日本は2億ドル(720億円)の戦争賠償と5000万ドル(180億円)の経済協力をビルマへ供与した[31]

戦争後、主要国でビルマと最も友好的な関係を維持したのは、ビルマの戦いに敗れた日本だった。ネ・ウィンをはじめとするBIA出身のビルマ要人は日本への親しみを持ち続け、クーデターによって大統領となったネ・ウィンは訪日のたびに南機関の元関係者と旧交を温めた。これは南機関の遺産とも言えよう[32]。1981年4月には、ミャンマー政府が独立に貢献した南機関の鈴木敬司ら旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」を授与している[33]

戦後間もない時期に『ビルマの竪琴』がベストセラーとなった。このことについて、馬場公彦は日本人の加害責任を認めながらも、ビルマ仏教の平和思想を身勝手に解釈することで、責任の痛覚からは免れているもの[34]と主張している。現在のミャンマーの国定教科書では、戦時下の日本をファシスト、イギリスを帝国主義者と記述している[35]

1962年にはこの戦いに従軍し虜囚として生活を送った歴史学者の会田雄次が、『アーロン収容所』を刊行した。同書は基本的には創作物である『ビルマの竪琴』と異なり、著者の体験記である。植民地支配の先駆者である英国人の性悪的な面に焦点を当てた内容で、版を重ねてロングセラーとなった。中公文庫の裏表紙では「西欧ヒューマニズムに対する日本人の常識を根底から揺さぶり、西欧観の再出発を余儀なくさせ」たと説明している。

遺骨収集、慰霊

上記の厚生省による集計の件とは別に、20数万以上の遺骨がビルマの戦跡に放置されたと下記の国会で言われることとなり、遺族から収集のための尽力について運動がなされた。その結果、バンドン会議に出席した黒川信夫がビルマ政府の要路に働きかけたのを契機に大日本遺族会、全日本仏教会などが活動を活発化させ、第22国会(1955年)から第24国会(1956年)において「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」でインパールを中心としたビルマ方面への遺骨収集、慰霊団の派遣が議論され実行に至っている。当時衆議院議員になっていた辻政信もこうした遺骨収集への配慮を求めた。そして1956年1月末より、政府職員6名、宗教代表2名、遺族代表4名からなるビルマ派遣団が派遣されている。なお、最初の派遣団が出発するまでに8万柱余りの遺骨が国内に送還されていた。派遣団は2月18日マンダレーヒルを皮切りに、インパール、続いて3月13日ラングーンで追悼式を実施した。この派遣団が収集した遺骨は1351柱、残りは8万7000余りと考えられた。現地人もまた戦争の記憶が残っている時期だったが、対日感情は良好で歓迎を受けた。しかし、現地の治安が良好ではなく、収集団には軍の護衛がつけられている[36]

また、インパール作戦に反対だった片倉衷も遺骨収集に尽力した一人である[37]。ビルマ戦線で亡くなった兵士の遺族等は「全ビルマ戦友団体連絡会議」を結成[注 10]し、1974年から慰霊碑の建立まで3回に渡り遺骨収集を実施している。

しかし戦場跡がインドとミャンマーの国境地帯であったことから民族対立が絶えず、外国人の出入りは厳しく制限され、遺骨収集にも障害となっていた。一方で、インパール作戦から半世紀余りが経過した1993年、同会議の働きかけが実を結び、当時のインド首相ナラシンハ・ラーオが来日時に「建立を認める」と発言しインパール市ロクパチンのレッドヒルと呼ばれている場所に用地を提供、ビアク島の戦いで戦死した日本兵の慰霊碑建立と同年度の日本政府予算で建立が決定した[38]。慰霊碑は菊竹清訓の設計で1994年3月25日に完成した[39]。慰霊碑には次のような碑文が刻まれている。

さきの大戦においてインド方面で戦没した人々をしのび平和への思いをこめるとともに日本インド両国民の友好の象徴としてこの碑を建立する — インド平和記念碑[40]

2010年現在でも、キャラウェイツアーズのように慰霊ツアーをメニューに用意する旅行代理店がある[41]




注釈

  1. ^ 「ハンプ」とは「こぶ」の意味である。
  2. ^ 『大東亜戦争全史』, pp.419-420 に記載されている部隊番号は誤りとみられる。
  3. ^ 兵1名は途中で脱落し、2名が第33軍司令部までたどり着いた。
  4. ^ (戦史叢書32 1969, pp. 501-502)厚生省援護局1952年調べ。陸軍のみであり、航空部隊は含まない。終戦直前にタイ、インドシナ等の他戦域に転進した兵力が少なくないが、それらを含め、ビルマ作戦に従事した部隊の作戦間の兵力、損害を調査したものである。戦没者数にはインドおよび雲南省での戦没者並びに輸送船沈没による戦没者を含んでいる。
  5. ^
  6. ^ 象徴的な存在としてチドウィン川の鉄橋復旧工事など。
  7. ^ 現在、Paluzawa coal mines と呼ばれている。
  8. ^ 質については久留島秀三郎はボイラー炭としては十分使え、常磐炭よりも良質だが、九州や北海道の一等炭よりは劣ると述べている。
  9. ^ 当時、ミャンマーは石炭をインドからの輸入に依存しており、エネルギーの自給は課題であった。
  10. ^ 委員長、甲谷秀太郎

出典

  1. ^ 戦史叢書5 1967, pp. 1-2.
  2. ^ 戦史叢書5 1967, pp. 12-16.
  3. ^ 戦史叢書5 1967, p. 316.
  4. ^ 戦史叢書5 1967, p. 565.
  5. ^ ソーン 1995a, p. 422.
  6. ^ ソーン 1995a, 66, 330.
  7. ^ ソーン 1995a, pp. 422-425.
  8. ^ タックマン 1996, pp. 344-370.
  9. ^ 太田常蔵 1967, pp. 326-329.
  10. ^ アレン 1995c, pp. 198-199.
  11. ^ 太田常蔵 1967, p. 429.
  12. ^ 太田常蔵 1967, pp. 423-424.
  13. ^ アレン 1995c, p. 198.
  14. ^ 『ビルマの夜明け - バー・モウ(元国家元首)独立運動回想録』373頁。
  15. ^ アレン1995b, pp. 177-178.
  16. ^ アレン 1995c, 付録 p.4.
  17. ^ 服部卓四郎 1965, p. 605.
  18. ^ 戦史叢書25 1969, pp. 208-212.
  19. ^ 『戦史叢書 イラワジ会戦』では、各師団固有部隊将兵の40 - 50パーセントが死亡、残りの50 - 60パーセントのうち約半数が後送患者と推定し、軍直轄部隊及び各師団配属部隊の損耗については集計困難としている[18]
  20. ^ 太田常蔵 1967, pp. 443-446.
  21. ^ 戦史叢書92 1976, pp. 424-425.
  22. ^ 太田常蔵 1967, p. 466.
  23. ^ アレン 1995c, p. 221.
  24. ^ アレン 1995c, p. 196.
  25. ^ アレン 1995c, 付録 p.9.
  26. ^ アレン 1995c, pp. 292-293.
  27. ^ The Merrill's Marauders Site
  28. ^ タックマン 1996, pp. 544-572.
  29. ^ タックマン 1996, p. 596.
  30. ^ 春秋2014/7/12付 -日本経済新聞
  31. ^ 高塚年明、参議院常任委員会調査室・特別調査室(編) (2006年6月29日). “国会から見た経済協力・ODA(1)〜賠償協定を中心に〜 (PDF)”. 2017年1月18日閲覧。
  32. ^ 佐久間平喜 1993, pp. 10-11.
  33. ^ 藤井厳喜 (2014年2月26日). “【世界を感動させた日本】教科書が教えない歴史 ミャンマー、インドネシア独立に尽力した日本人に勲章”. ZAKZAK. http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140226/dms1402260733000-n1.htm 2017年1月18日閲覧。 
  34. ^ 馬場公彦 2004, p. 132.
  35. ^ 馬場公彦 2004, pp. 134-135.
  36. ^ 第24国会海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会(1956年03月30日)における厚生省引揚援護局の美山要藏の説明他
  37. ^ 「片倉衷氏 死去=元陸軍少将」『毎日新聞』1991年7月24日大阪朝刊23面
  38. ^ 「日本兵眠るインパールで、慰霊碑を建立へ インド」『毎日新聞』1993年5月20日大阪夕刊11面
    38 海外戦没者遺骨収集等 平成5年度厚生白書
  39. ^ インパールにある慰霊施設英霊にこたえる会』HP内 靖国神社
  40. ^ インド平和記念碑 厚生労働省HP内
  41. ^ ミャンマー、ビルマ、インパール慰霊巡拝”. キャラウェイツアーズ. 2007年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月18日閲覧。
  42. ^ ビルマ侵攻作戦 1968, pp. 241-250.
  43. ^ アレン 1995c, 付録 pp.23-24.
  44. ^ アレン 1995c, 付録 62-85を参考に補足した。
  45. ^ 馬場公彦 2004, pp. 9-10.
  46. ^ 馬場公彦 2004, p. 40.





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