ビルマの戦い 地名の表記について

ビルマの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 06:50 UTC 版)

地名の表記について

英語でも日本語でも、ビルマ語を原音通りに表記することは不可能である。イギリス人はビルマ語を英語で表記する際に一定の音写原則を採用していた。日本軍は、この原則を知らずに、ビルマの地名を基本的にその英語表記を元に発音し、かつ、日本語で表記していたため、一部の地名に関してはビルマ語の原音と日本語での表記とが大きくずれたものとなった。この表記は戦後出版された戦記等でも継承され、現在でも大部分の文献において使用されている。さらに1989年、ミャンマー政府は一部の地名の英語表記を、古いビルマ語の発音に由来する表記から、現代ミャンマー語の発音に近い表記に改称した。本項目では、地名の表記については特に断りのない限り、戦時中の日本風の表記を採用している。原音との対応関係は以下の通りである[46]

戦時中の日本語表記 戦時中の英語表記 戦時中の原音に近い表記 1989年以後の表記
アキャブ Akyab アチャブ シットウェ
イラワジ川 Irrawaddy イラワディ川 エーヤワディー川
タウンギー Taunggyi タウンジー
タボイ Tavoy タヴォイ ダーウェ
テナセリウム Tenasserim テナセリム タニンダーリ(管区)
トングー Toungoo (Taungoo) トウングー
ビクトリアポイント Victoria Point - コートーン
ペグー Pegu - バゴー
ナンカン Namkham ナムカム
マンダレー Mandalay マンダレイ
ミイトキーナ Myitkyina ミッチーナー
ミイトソン Myitson ミッソン
メイミョー Maymyo メイミヨウ ピンウールィン
メイクテーラ Meiktila メイッティーラ
モールメン Moulmein モウルメイン モウラミャイン
ラシオ Lashio ラーショー
ラングーン Rangoon - ヤンゴン

注釈

  1. ^ 「ハンプ」とは「こぶ」の意味である。
  2. ^ 『大東亜戦争全史』, pp.419-420 に記載されている部隊番号は誤りとみられる。
  3. ^ 兵1名は途中で脱落し、2名が第33軍司令部までたどり着いた。
  4. ^ (戦史叢書32 1969, pp. 501–502)厚生省援護局1952年調べ。陸軍のみであり、航空部隊は含まない。終戦直前にタイ、インドシナ等の他戦域に転進した兵力が少なくないが、それらを含め、ビルマ作戦に従事した部隊の作戦間の兵力、損害を調査したものである。戦没者数にはインドおよび雲南省での戦没者並びに輸送船沈没による戦没者を含んでいる。
  5. ^
  6. ^ 象徴的な存在としてチドウィン川の鉄橋復旧工事など。
  7. ^ 現在、Paluzawa coal mines と呼ばれている。
  8. ^ 質については久留島秀三郎はボイラー炭としては十分使え、常磐炭よりも良質だが、九州や北海道の一等炭よりは劣ると述べている。
  9. ^ 当時、ミャンマーは石炭をインドからの輸入に依存しており、エネルギーの自給は課題であった。
  10. ^ 委員長、甲谷秀太郎

出典

  1. ^ a b c d 日本の戦争指導におけるビルマ戦線-インパール作戦を中心に-”. 荒川憲一. 2023年3月19日閲覧。
  2. ^ a b c d 日本陸軍戦記 南方編1”. 日本帝国陸軍総覧. 2023年3月19日閲覧。
  3. ^ 戦史叢書5 1967, pp. 1–2.
  4. ^ 戦史叢書5 1967, pp. 12–16.
  5. ^ 戦史叢書5 1967, p. 316.
  6. ^ 戦史叢書5 1967, p. 565.
  7. ^ ソーン 1995a, p. 422.
  8. ^ ソーン 1995a, 66, 330.
  9. ^ ソーン 1995a, pp. 422–425.
  10. ^ タックマン 1996, pp. 344–370.
  11. ^ 太田常蔵 1967, pp. 326–329.
  12. ^ アレン 1995c, pp. 198–199.
  13. ^ 太田常蔵 1967, p. 429.
  14. ^ 太田常蔵 1967, pp. 423–424.
  15. ^ アレン 1995c, p. 198.
  16. ^ 『ビルマの夜明け - バー・モウ(元国家元首)独立運動回想録』373頁。
  17. ^ アレン1995b, pp. 177–178.
  18. ^ アレン 1995c, 付録 p.4.
  19. ^ 服部卓四郎 1965, p. 605.
  20. ^ 戦史叢書25 1969, pp. 208–212.
  21. ^ 『戦史叢書 イラワジ会戦』では、各師団固有部隊将兵の40 - 50パーセントが死亡、残りの50 - 60パーセントのうち約半数が後送患者と推定し、軍直轄部隊及び各師団配属部隊の損耗については集計困難としている[20]
  22. ^ 太田常蔵 1967, pp. 443–446.
  23. ^ 戦史叢書92 1976, pp. 424–425.
  24. ^ 太田常蔵 1967, p. 466.
  25. ^ アレン 1995c, p. 221.
  26. ^ アレン 1995c, p. 196.
  27. ^ アレン 1995c, 付録 p.9.
  28. ^ アレン 1995c, pp. 292–293.
  29. ^ The Merrill's Marauders Site
  30. ^ タックマン 1996, pp. 544–572.
  31. ^ タックマン 1996, p. 596.
  32. ^ 春秋2014/7/12付 -日本経済新聞
  33. ^ 高塚年明、参議院常任委員会調査室・特別調査室(編) (2006年6月29日). “国会から見た経済協力・ODA(1)〜賠償協定を中心に〜” (PDF). 2017年1月18日閲覧。
  34. ^ 佐久間平喜 1993, pp. 10–11.
  35. ^ 藤井厳喜 (2014年2月26日). “【世界を感動させた日本】教科書が教えない歴史 ミャンマー、インドネシア独立に尽力した日本人に勲章”. ZAKZAK. https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140226/dms1402260733000-n1.htm 2017年1月18日閲覧。 
  36. ^ 馬場公彦 2004, p. 132.
  37. ^ 馬場公彦 2004, pp. 134–135.
  38. ^ 第24国会海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会(1956年03月30日)における厚生省引揚援護局の美山要藏の説明他
  39. ^ 「片倉衷氏 死去=元陸軍少将」『毎日新聞』1991年7月24日大阪朝刊23面
  40. ^ 「日本兵眠るインパールで、慰霊碑を建立へ インド」『毎日新聞』1993年5月20日大阪夕刊11面
    38 海外戦没者遺骨収集等 平成5年度厚生白書[リンク切れ]
  41. ^ インパールにある慰霊施設英霊にこたえる会』HP内 靖国神社[リンク切れ]
  42. ^ インド平和記念碑 厚生労働省HP内
  43. ^ ミャンマー、ビルマ、インパール慰霊巡拝”. キャラウェイツアーズ. 2007年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月18日閲覧。
  44. ^ ビルマ侵攻作戦 1968, pp. 241–250.
  45. ^ アレン 1995c, 付録 pp.23-24.
  46. ^ アレン 1995c, 付録 62-85を参考に補足した。
  47. ^ 馬場公彦 2004, pp. 9–10.
  48. ^ 馬場公彦 2004, p. 40.






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