パリ・コミューン 共和制の復活と革命派の攻防

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パリ・コミューン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 07:38 UTC 版)

共和制の復活と革命派の攻防

普仏戦争と敗戦

セダンの戦いの後、ナポレオン3世(左)とビスマルク(右)の会談の様子

第二帝政最大の失敗が始まりつつあった。1870年7月、スペイン継承問題を発端に普仏戦争が勃発する。ナポレオン3世は健康不安を抱えながらも出陣するが、フランス軍は各地で大敗北を重ねた[43][44]。敗報に触れて、オリヴィエ内閣が退陣してパリカオ英語版内閣が成立する中で、パリでは政情不安が深刻化していく。防衛力強化のために40歳以上の全男子に招集がかかり、民衆は国民衛兵に参加することが決定される。国民衛兵は、戦況の悪化と祖国防衛への緊張感と共に次第に急進化してパリの革命派を擁護する革命軍の性格を持つようになる[45]

こうした危機の最中にある8月14日、ブランキ派はこの間隙に「帝政を倒せ!武器を取れ!」と労働者を扇動し、ラヴィレット街にて蜂起を試みた。しかし、労働者はパリ防衛が主たる関心事としたため蜂起に加わらず、首謀者のエミール・ウード英語版とガブリエル・ブリードが捕えられてラヴィレット蜂起は失敗に終わった[46][45][47]。しかし、帝政の崩壊は目の前に迫っていた。

共和国宣言

ガンベタの共和国宣言

セダンの戦いに敗れ、ナポレオン3世は降伏して捕虜となった[46][48]

1870年9月4日、立法院ではパリカオ内閣が国防政府の樹立を提案し、皇帝の退位要求に蓋をしようと試みた。長時間にわたる議論が行われたが、休憩時間中に民衆が押し掛けてくるという噂が広まると議員たちは議場から避難していた。空っぽになった議場に民衆が乱入してきた。ナポレオン帝政に対する不満は敗戦への怒りとなって爆発し、民衆はブランキ派のエミール・ウードやエルネスト・グランジェ英語版に導かれて立法院に殺到してきたのである。人々は「帝政を倒せ!立法院を倒せ!共和政万歳!」と叫び、フランス第二帝政の失権を迫った[49][48]。革命派の跳躍に危機感を抱いたジュール・ファーヴル英語版共和国樹立はパリ市庁舎で宣言させると民衆に呼びかけ、人々を議場から導いていった。その間、議場に残ったブルジョワ議員は仮政府の閣僚名簿を作成していった。民衆はブランキやドレクリューズを閣僚に望んでいたが、このとき作成された閣僚名簿は民衆が期待していたものとは全く異なるもので、ブルジョワ中心の穏健な共和派政府を作るというものであった。レオン・ガンベタは市庁舎のバルコニーに立って共和国宣言を発し、空になった議場で作成された国防仮政府英語版の閣僚名簿を発表した。ルイ・ジュール・トロシュ英語版を首班とし、外相にジュール・ファーヴル英語版、内相にガンベダ、そしてパリ急進派議員ヴィクトル・ロシュフォール英語版を閣僚とする仮政府英語版が樹立された[50][51][52]

しかし、和平の早期実現を望む仮政府と徹底抗戦を要求する民衆との対立は激しいものとなっていた[53]。王政復古の可能性を示唆するブルジョア色の濃い仮政府の成立に裏切りを感じたパリ労働者の代表者たちは今後の対応を協議し始めた。IWAのフランス連合評議会はコンドリーに本拠を構え、当地で会合をもち仮政府に圧政の停止を要求したが、軽くあしらわれる結果となった[54]。そのため、9月5日にはインター派の発議で今後の方針を検討するために「共和会議」が開催されたほか、仮政府と市政の監視のため各区に監視委員会が設置され、その上位に連絡部会を設立しようとする動きが生じていった[55][56]

攻囲戦とパリの革命化

普仏戦争で進軍するプロイセン軍。

11日、各区4名ずつの監視委からなる「パリ二十区共和主義中央委員会(以下、パリ中央委と略称)」が発足している[57][58]。亡命先のベルギーから帰国したヴァルランを加えたパリ中央委は『第一回の赤いポスター』というスローガンを発表した。国家警察の解体、市の行政官の公選、言論・集会の自由、国防必需品の徴発、配給制の確立、全市民の武装が提案された[59][60]。パリ中央委とインター派は挙国一致による徹底抗戦を呼びかけて抵抗を開始したが、1870年9月19日から翌71年にかけての132日間、パリはプロイセン軍によって包囲されることとなる。

ちなみに、この間、南部の諸都市リヨンマルセイユでは国防体制を強化するために「南仏連盟」が結成されたが、臨時政府の影響圏から離脱して地方革命政権として自立し始めていた。一方、リヨンではミハイル・バクーニンが絹布職人の支持を背景に蜂起して市庁舎を占拠したが、バクーニンは軍に包囲されあっさり逮捕されてしまった。バクーニンは釈放された後、すぐにフランスを離れて亡命した。マルセイユでは革命が成功してマルセイユ・コミューンが中心となる革命派政権が一時成立した。マルセイユ・コミューンは市会選挙でのブルジョアの巻き返しで崩壊したが、パリの革命派に強い印象を与えた[61]

このような混乱の最中、パリでは国民衛兵が緊急招集されて9万人の市民が軍の隊列に加わっていった。将校は選挙され総出撃による撃退を主張するオーギュスト・ブランキギュスターブ・フルーランス英語版、インター派のリーダーとなったウジェーヌ・ヴァルラン英語版などの血気溢れる革命家たちが大隊長に選出された[62][63]。しかし、仮政府は表向きは徹底抗戦を主張していたが、実際には国防に対する関心を既に喪失しており、ジュール・ファーブルはプロイセンと停戦していかに武装した革命勢力を解散させるかの道筋を探るようになっていた[53][64][65]

ブランキ派革命家ギュスターブ・フルーランス英語版

こうした中、20日、シュートー、シャトラン、そして彼らの同士からなるパリ中央委は降伏を拒否して徹底抗戦を主張するとともに、「パリ中央委は全20区の民主的社会主義者の力を集中する目的を持つ」とする規約を採択し、臨時政府との対決姿勢を強めた。パリ中央委は早くも市議会を労働者を主体に人民民主主義に基づく准政府(コミューン)とする新決議を採択するなど妥協的な仮政府と敵対するようになった[66][67]。一方、仮政府は憲法制定会議の招集、コミューン選挙の延期を発表するなど朝令暮改を繰り返し、またフルーランスの要求を拒んで辞任もやむなしの状況へと追い込んだ他、ブランキをリコールするなど革新派大隊長を次々と更迭して抗戦派の勢いを削ごうと図り、この動きのゆえに仮政府とパリ民衆との離反を決定的なものとなった[68][69]

10月31日蜂起と挫折

ジャコバン革命派シャルル・ドレクリューズ英語版

10月31日、「三つの衝撃」と呼ばれる事件が起こった。ブルージェとメッス要塞が陥落して兵力17万を擁するフランソワ・バゼーヌ元帥率いる守備軍は降伏、プロイセンが本格的にフランスの軍事的抵抗能力を粉砕し、休戦交渉のためにティエールがパリにやって来たのである[70][71]。この日、コンドリーにパリ中央委のメンバーは参集した。そこで政府の退陣と徹底抗戦を要求するために市庁舎に行進することが決議され、無数の群衆そして指揮権から離脱した3千名もの軍の一部が合流して市庁舎に侵入した。ベルヴィール労働者地区の大隊長ルフランセフランス語版はトロシュと会見して仮政府の停止、市会選挙と選挙管理委員の招集を求めた。腰の重い政府の対応に業を煮やしたフルーランス英語版は兵士を連れて市庁舎に乗り込んでテーブルの上に立ち、フルーランス自身、ブランキ、ドリアン、シャルル・ドレクリューズ英語版からなる「公安委員会」の設置を宣言、「革命的コミューン」の組織について討議を開始した。「10月31日蜂起」の最中、状況は誰が何をしようとしているのか全く把握できない混乱状態に陥っていく[72][73]

しかし、この間ルイ・ジュール・トロシュ英語版はまだ諦めてはいなかった。彼は退陣こそ呑まなかったが市会選挙の実施を約束して事態を切り抜け巻き返しのチャンスを得ようとした。親政府派の軍が市庁舎に奇襲をかけ市庁舎を取り囲んだ。革命派は市会選挙実施と報復しないことを条件に市庁舎を退去した[74][75][76]。施政権や戦争遂行権を手放したくない仮政府により革命派と交わされた約束は裏切られ、革命派指導者に逮捕令状を発し、市会選挙ではなく区長選挙として実施されることとなった[77][78]

11月4日、仮政府の信任投票とパリ20区の区長選挙が実施され仮政府が続投を果たす一方で、政府支持のブルジョア派が過半数で当選したが、労働者地区では逮捕された反乱分子が多数当選する異常事態が発生した。インター派のブノア・マロン英語版ヴィクトル・ジャクラール英語版ギュスターヴ・ルフランセフランス語版、急進派のモテュ、ギュスターヴ・フルーランス英語版レオ・ミリエールフランス語版、ジャコバン革命派の老闘将シャルル・ドレクリューズ英語版、ブランキ派のガブリエ・ランヴィエフランス語版などが区長あるいは助役に選出された[79][78][80]

その年の冬は寒波が発生し、燃料と食糧不足が深刻となった。オルレアン派(王党派)の司令官デュクロによる出撃戦は惨憺たる結果となってプロイセン軍の包囲を突破することに失敗、パリは冬を前に陸の孤島と化した。しかし、この包囲中の仮政府による配給制はお粗末なもので金持ちが隠匿物資で生活を守る一方、市中ではねずみや猫、犬をはじめあらゆる動物が食料として取引される状況に追い込まれた。こうした危急存亡の情勢はパリの革命的な性格を急速に強化した[81][82][83]

ドレクリューズは「共和主義連盟」を組織してコミューンの選挙を要求し、政府批判を強めて首班のトロシュとクレマン=トマ将軍の解任を要求した。急進共和主義者が政府にとって代わるべきだと主張を展開した[84]




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