パラマウント映画 パラマウント映画の概要

パラマウント映画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/20 17:08 UTC 版)

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パラマウント・ピクチャーズ・コーポレーション
Paramount Pictures Corporation
本社
略称 パラマウント (Paramount)
本社所在地 アメリカ合衆国
カリフォルニア州 ハリウッド
設立 1912年フェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニー
1916年フェイマス・プレーヤーズ - ラスキー
1924年(パラマウント・フェイマス・ラスキーコーポレーション)
1934年(パラマウント・ピクチャーズ・コーポレーション)
事業内容 映画製作・配給事業
映像事業
テレビ事業
代表者 ジム・ジアノプス(会長・CEO)
従業員数 3000人
主要株主 バイアコムCBS
主要部門 パラマウント・ホーム・エンターテインメント
パラマウント デジタル エンターテイメント
パラマウント・アニメーション
パラマウント・プレーヤーズ
パラマウント・テレビジョン・スタジオ
MTVフィルムズ
ニコロデオン・ムービーズ
コメディ・セントラル映画
ミラマックス(49%)
ユナイテッド・インターナショナル・ピクチャーズ(50%)
関係する人物 ウィリアム・ワズワース・ホジキンソン
アドルフ・ズーカー
ジェシー・L・ラスキー
外部リンク paramount.com
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概要

1912年にアドルフ・ズコールが設立した「フェーマス・プレイヤーズ」を源流とし、その後「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ」と呼称して、1924年に「パラマウント」に社名を変えた。ただしパラマウントはもともと1914年にW・W・ホドキンスンが設立した映画配給会社[1]の社名であり、アドルフ・ズコールのフェーマス・プレーヤーズが製作した映画の多くを配給していた会社であった。そして1916年にズコールがこの配給会社の実権を握り、同じ年に1913年に設立された「ジェシー・L・ラスキー・フィチャー・プレイ・カンパニー」と「フェーマス・プレーヤーズ」と合わせて3社が合併して「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ」となり、その後社名を「パラマウント」にしたものである。

アメリカ映画界で設立当初から大手メジャー会社として君臨し、製作と配給部門を掌握したズーカーがやがて劇場の買収を進め、アメリカの映画史上初めて製作・配給・興行の垂直統合を実現して、徹底したスターシステムと豪華主義でサイレント時代から映画界をリードしていたが、大恐慌時には破産宣告を受ける。しかし1935年頃に再建して後には都会派コメディーに力を入れて復活した。1966年には石油資本のガルフ&ウェスタンの傘下となり、1994年には大手ケーブル会社バイアコム(現・バイアコムCBS)に買収されて今日に至っている。大型画面が盛んとなった1950年代に独自にワイドスクリーンのビスタビジョン(ビスタサイズ)を開発したことでも知られる[2]

沿革

  • 1912年 - アドルフ・ズコールが「フェイマス・プレイヤーズ」を設立する。
  • 1916年 - 映画製作会社「ジェシー・L・ラスキー・フィチャー・プレイ・カンパニー」(1913年に設立)と合併し、「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ」となる。
  • 1927年 - 社名を「パラマウント」に改称する。
  • 1933年 - 財政難で破産宣告。
  • 1935年 - 会社再建。
  • 1948年 - 最高裁から独占禁止法に触れるとする判決を受ける。
  • 1949年 - 前年の最高裁判決を受けて興行部門を分離する。
  • 1957年 - 1948年以前の大部分のトーキー作品の版権(『我輩はカモである』、『誰が為に鐘は鳴る』、『失われた週末』等)をEMKAMCAレコードの子会社)に売却。これらの版権は現在、ユニバーサル映画が保有する。
  • 1966年 - コングロマリットのガルフ&ウェスタン社に買収される。
  • 1994年 - バイアコム(現・バイアコムCBS)に買収される。
  • 2004年 - 福岡市の遊戯施設運営会社・日本トレイドが、福岡県久山町にパラマウント・ムービー・スタジオ・パーク・ジャパンの建設計画を発表。しかし、立ち消えとなる[3]
  • 2005年 - バイアコムは会社分割により、パラマウントやMTVなどを新しいバイアコムとして分離。この際、テレビ番組製作会社のCBSパラマウントテレビジョン(旧パラマウント・テレビジョン)はCBSコーポレーション傘下に残る。
  • 2009年 - 大阪の不動産ファンドがパラマウント・ピクチャーズと共同で、吹田市エキスポランド跡地にリゾート施設「パラマウント・リゾート大阪」を構想する計画を発表(但しこの土地は三井不動産[4]が落札したため計画は白紙となった)[5][6]
  • 2015年 - 第33回ゴールデングロス賞・全興連特別賞(外国映画部門)を受賞。

  1. ^ 「世界映画大事典」680P 日本図書センター 2008年6月発行
  2. ^ MOOK21「20世紀の映画」7P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  3. ^ テーマパーク建設を表明/米パラマウントが福岡に”. 四国新聞 (2004年7月29日). 2020年7月22日閲覧。
  4. ^ 万博記念公園に日本最大級の観覧車計画 三井不動産 - msn産経ニュースwest 2012年6月26日 [1]
  5. ^ エキスポランド跡地にテーマパーク「パラマウント・リゾート大阪」を設立へ”. GIGAZINE (2009年7月16日). 2020年7月22日閲覧。
  6. ^ 【開発】大阪・エキスポランド跡地で三井不動産がテーマパーク建設”. 日経不動産マーケット情報 (2011年12月19日). 2020年7月22日閲覧。
  7. ^ MOOK21「20世紀の映画」8P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  8. ^ 後にメトロ社を買収して、その後にサミュエル・ゴールドウィンのゴールドウィン社とメイヤー社の2社と合併してメトロ・ゴールドウィン・メイヤー即ちMGMを創立する。
  9. ^ 当時は映画専門館はなく、演芸のボードビリアンの興行の合間に映画を上映する形態が普通で、したがって映画は屋外のテントや芝居小屋で上映されていた。そしてこのボードビル興行を請け負った人々がやがて映画興行に移り、ニッケルオデオンと呼ばれる映画小屋の経営に乗り出すことが多かった。
  10. ^ この当時まで映画は娯楽であって庶民や移民労働者に支えられて、芸術とは見なされていなかった。1908年2月にフランスで芸術家による映画製作を目指すフィルム・ダール社が設立されて、その名の通り映画芸術を高めることを目的として同年「ギーズ公の暗殺」を製作して、出演はコメディーフランセーズの俳優たちで、この映画の伴奏音楽を当時の大作曲家サン・サーンスが作曲した。結局1年で会社は解散となったがフィルム・ダールの運動はその後も続いた。「映画史を学ぶクリティカル・ワーズ」54P フィルム・ダールの項 参照 村山匠一郎 編 フィルムアート社 2013年7月発行
  11. ^ 「映画の夢、夢のスター」296P 山田宏一著 幻戯書房 2011年1月発行
  12. ^ MOOK21「20世紀の映画」47P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  13. ^ 後にゴールドウィン社を設立し、やがて合併してMGMとなる。
  14. ^ MOOK21「20世紀の映画」9P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  15. ^ MOOK21「20世紀の映画」8P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  16. ^ 「映画の夢、夢のスター」298P 山田宏一著 幻戯書房 2011年1月発行
  17. ^ 記念映画と思われるが特定の一時期に30個の星を使ったことがある。
  18. ^ 「映画の夢、夢のスター」296P 山田宏一著 幻戯書房 2011年1月発行
  19. ^ あるいは「パラマウント判決」「パラマウント同意判決」とも呼称されている。
  20. ^ こうした同じ製作会社からの作品を一手に引き受けて上映する固定したシステムをブロック・ブッキングという。これとは違って別の会社の作品をも上映するシステムをフリー・ブッキングといい、要は映画館側の興行者が自由に作品を選べる選択権の有無の違いである。日本はずっとブロック・ブッキング制が続いている。
  21. ^ 日本は現在でもこの構造は残っている。
  22. ^ 「ハリウッド100年史講義」81〜83P 北野圭介著 平凡社新書 2001年10月発行
  23. ^ 創業者のウイリアム・フォックスはその後大恐慌で破産して会社を離れ、やがてワーナー・ブラザースから独立したダリル・F・ザナックが作った20世紀映画と1935年に合併して20世紀フォックスとなった。
  24. ^ 「ハリウッド100年史講義」130P 北野圭介著 平凡社新書 2001年10月発行
  25. ^ MOOK21「20世紀の映画」13P 長谷川正ほか著 共同通信社 2001年1月発行
  26. ^ 資料によってはリトル3を含め8社が訴えられているとする資料もある。また第1次訴訟と第2次訴訟があり、1948年に第2次訴訟の決着がついた。
  27. ^ そのため、これを「パラマウント同意判決」とも呼ばれている。なお他社もその後順次に判決に同意に、1952年2月に最後まで粘っていたMGMも同意して裁判は終わった。
  28. ^ 「ハリウッド100年史講義」130P 北野圭介著 平凡社新書 2001年10月発行
  29. ^ パラマウントの代表的コンテンツ製作子会社であるドリームワークス社も当時パラマウントと同時にHD DVD支持の意向を示した。
  30. ^ スティーヴン・スピルバーグ監督作品は対象外となったが、限定的なBlu-ray発売はされなかった。
  31. ^ この直後、「HD DVDのリーダーメーカーであった東芝がパラマウントと18ヶ月間の独占供給契約を結び、同時に1.5億ドルの“ 奨励金 ”が東芝から支払われた」との報道もあった。[2]
    独占契約について、東芝及びパラマウントは、現在に至るまで公式にコメントしていないが、東芝のHD DVD撤退後に、当時のドリームワークス社CEOが「東芝との間で結んだHD-DVD方式のみのDVDを販売する契約に依然拘束されている[3]とコメントしている事や様々な事象から、これらの契約や報奨金の授受はあったとの見方が一般的である。
  32. ^ DreamWorks waiting for cue from Toshiba on Blu-ray2008年2月26日ロイター(元記事・英語)
  33. ^ この時点でHD DVDソフトの去就は未定であったが、最終的にはHD DVDソフトは全て生産終了となった。
  34. ^ a b 東宝(株)『東宝五十年史』(1982.11) | 渋沢社史データベース”. shashi.shibusawa.or.jp. 2018年12月7日閲覧。





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