パプアニューギニア 国名

パプアニューギニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 10:01 UTC 版)

国名

トク・ピシンにおける正式名称はIndependen Stet bilong Papua Niugini。通称 Papua Niugini。略称は PNG。

日本語の表記はパプアニューギニア独立国。通称はパプアニューギニア。他に、パプニューギニア、パプアニューギニ、パプニューギニ、という表記もされる。「パプア」と「ニューギニア」の間に、中黒(・)を入れることも多い。

パプアニューギニアは、元々あったパプアニューギニアが合併してできた国である[4]。パプアニューギニアの南側は、旧イギリス領(のちにオーストラリア領)で、メラネシア人の縮れ毛を指すマレー語の言葉から、パプア(オーストラリア領パプア準州)と呼ばれた[4]。一方、北側は、旧ドイツ領(のちにオーストラリア委任統治領)で、メラネシア人がアフリカギニア人に似ているところから、スペイン人の探検家がニューギニアと名付けた[4]

なお、ニューギニア島の西半分はかつてはオランダ領ニューギニアであり、現在はインドネシアに併合され「パプア州」、「西パプア州」という名称である。

歴史

紀元前

ニューギニア島はオーストラリア大陸と共にゴンドワナ超大陸を構成していたが、白亜紀に始まった大陸分裂で、オーストラリア大陸と南極大陸は4500万年前に分離し、ヒマラヤ山脈と同じころにニューギニア中央山脈も形成された。氷河期にはニューギニアとオーストラリアは地続きで、サフル英語: Sahul、あるいはMeganesia - メガネシア)と呼ばれる一つの陸地であった。

この地域において、約6万年前の東南アジア方面から来たと思われる人類の痕跡が見つかっている。約5000年前、ニューブリテン島中央部のタラセアにおいて、貝の貨幣「シェルマネー」が作られた。これが最古の貝貨とされている。

島の発見

1526〜27年ごろにポルトガル人のドン・ジョルジェ・デ・メネセスが、パプアニューギニアの主となるを発見するに至り「パプア」と命名した。1546年には、ニューギニア島北岸を航海したスペイン人のオルティス・デ・レテスが「ニューギニア」と命名した。

植民地時代

イギリス統治時代の農村 (1885年)
1884から1919年までのニューギニア島。ドイツ及びイギリスがニューギニア島の東半分を分割している。
1884年、イギリスへの東南ニューギニア併合

19世紀の植民地主義の時代、1828年ニューギニア島を東西に分割し、1848年に西半分をオランダが併合、1884年には東半分をオーエン・スタンレー山脈ビスマルク山脈で南北に分け、ニューブリテン島などを含んだ北半分をドイツ、南半分をイギリスが獲得した。南部は1901年にイギリスから独立したオーストラリアに継承され、1902年にオーストラリア管理下での「パプア (準州)」となった。

委任統治領期

1943年1月7日、ブナ・ゴナの戦いで日本軍を攻撃するオーストラリア軍。

1914年からの第一次世界大戦にドイツが敗北すると、ドイツ領ニューギニアであった島の東北部は、国際連盟によりオーストラリアの委任統治領ニューギニア (信託統治領))となった。

1941年からの太平洋戦争では、日本軍が1942年1月22日、ニューブリテン島ラバウルに上陸、ニューブリテン、ニューアイルランドブーゲンビルなどの島嶼部やニューギニア本島の北岸を占領し、ポートモレスビー攻略を狙った。しかし、1942年5月に行われた珊瑚海海戦の結果、海からのポートモレスビー攻略を諦め、1942年8月にはソロモン海岸からオーエン・スタンレー山脈越えでポートモレスビーを陸路攻略する作戦が実行された。ここでも飢えとマラリアの為に多くの死者を出して撤退し、その後、制海権制空権を失い補給を絶たれたニューギニアの日本軍は、「ジャワの極楽ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア[5]と評される凄惨な状況となった。

自治政府期

1949年、オーストラリアは南東部パプアと北東部ニューギニアを行政連合として統合して「パプア及びニューギニア準州英語版」とし、西部はオランダ領ニューギニア1949年 - 1962年)となった。

1961年にオランダは島の西部を西パプア共和国として独立を認めたが、インドネシアが侵攻したため(パプア紛争1963年–現在)、国連による暫定統治を経て、インドネシアへ併合されてイリアンジャヤ州となった。

1964年、自治政府初の選挙が行われ、54名が当選、1968年、自治政府2回目の選挙で、84名が当選。同年、禁酒法が廃止となる。1971年に南東部パプアと北東部ニューギニアの行政連合として統合していた「パプア及びニューギニア準州」が「パプアニューギニア」とさらに改名し、自治政府が、国旗、国歌、国章などを採択。1972年、第3回自治政府選挙で100名が当選。この選挙で、マイケル・ソマレが連立政権を樹立。

独立

1975年9月16日、独立の丘でオーストラリアの国旗を降ろし、パプアニューギニア国旗を掲揚する儀式を経て、「パプアニューギニア独立国」として独立した。それまでの自治政府議会が国会となり、初代首相マイケル・ソマレは紛争を行うことなく平和的に独立を成し遂げた独立の父として「チーフ」と呼ばれて崇められ、通貨(50キナ札)にもその肖像画が描かれている。

1976年、地続きで国境を接しているインドネシアが加盟しているASEAN閣僚会議オブザーバーとして初参加し、1981年には特別オブザーバーの地位を得ている。

1983年に各州における自治の失敗を受けて、中央政府の権力が強化。1985年、民族的緊迫により、ポートモレスビーで非常事態宣言発令。

1986年のASEAN閣僚会議で東南アジア諸国連合に正式に加盟を申請して以降、現在まで加盟を希望しているが、パプアニューギニアが東南アジアではないことからASEAN諸国は正式加盟には否定的である。

ブーゲンビル危機

1988年ブーゲンビル島ブーゲンビル自治州)でフランシス・オナ英語版を中心とするグループが、パングナ英語版の銅山(リオ・ティント傘下のBougainville Copper Ltdが所有)の閉鎖、ブーゲンビルの分離・独立(en:Republic of the North Solomons)を求めてブーゲンビル革命軍(BRA)を構成し、鎮圧を試みた政府軍との間に内戦が始まった。1992年に政府軍は国境を越え、BRAへの支援を理由に ソロモン諸島ショートランド諸島を攻撃した。当初、容易に鎮圧可能と見られていたブーゲンビル危機英語版は休戦と戦闘再開を繰り返し長期化した。

1997年には紛争鎮圧を狙ってイギリスの民間軍事会社サンドライン・インターナショナル傭兵派遣契約を結んだことが国外のメディアリークされ、現役の国防軍英語版司令官ジェリー・シンギロック英語版ジュリアス・チャン英語版(陳仲民)首相の退陣を求めてクーデター騒ぎを起こし、全国で戒厳令が発令されるなど泥沼化した(サンドライン・クライシス, en:Sandline affair)。

2001年8月30日に武器の放棄、紛争中の戦争犯罪に対する恩赦、ブーゲンビル自治政府英語版の容認、将来のパプアニューギニアからの独立に関しては住民投票で決定する、などの条項を盛り込んだ「ブーゲンビル平和協定」がアラワで調印され、平和への歩みが再開された。

ブーゲンビル自治領

2005年にはブーゲンビル自治領で初の大統領選挙が行われ、元ブーゲンビル革命軍のジョセフ・カブイ英語版が初代大統領英語版に就任した。2019年11月23日から12月7日には、和平協定に盛り込まれていた将来的な政治的立場を問う住民投票が実施され、独立賛成が98%(17万6928票)と、パプアニューギニア残留(3043票)を圧倒した[6]。2021年7月、自治州大統領のイシュマイル・トロアマ英語版がパプアニューギニア首相のジェームズ・マラペと会談し、2027年までの完全独立で合意した[7]

政治

国家元首は、イギリスの国王(または女王)(2022年9月8日よりチャールズ3世)が兼任するパプアニューギニア国王。象徴的地位であり、任命などの権限は、議会内閣の決定に従い行使される。その職務は、総督が代行する。

行政府の長である首相は、議会総選挙後、第1党党首が総督により指名される。閣僚は、首相の推薦に従い総督が任命する。

議会は、一院制。全109議席で、全国を89の小選挙区に分けられ、20議席は州の代表として、選挙によって選出される。州代表の議席を獲得した国会議員は、国務大臣にならない限り、自動的に当該州の知事となる。任期5年。

政党は全て小規模で、単独で組閣が出来ないため、常に連立内閣となっている。2007年の総選挙[注釈 1]で最多の国会議員を当選させ、連立の中心となって組閣した国民同盟党(NAP) でさえ、27議席であった。

政治は男性中心で、女性議員はこれまで数えるほどしか当選していない。2007年総選挙でも多くの女性候補が男性中心の政治に挑戦したが、現職のキャロル・キドゥのみが再選され、現在女性国会議員は1名のみである。2008年には、選挙とは別に女性の代表を国会に参加させる法案が審議されている。

外交においては、旧宗主国であり、現在でも最大の援助国であるオーストラリアとの関係が最重要であるが、近年、オーストラリアから派遣の警察官のパプアニューギニアにおける治外法権が違憲と判決されて即時撤退を余儀なくされたり(ECPの撤退)、オーストラリアの依頼によってポートモレスビーで逮捕された隣国ソロモン諸島の検事総長を夜間、軍用機でソロモンまで逃がした事件(モティ事件)などの問題で関係がこじれていた。2007年12月にオーストラリアで誕生したラッド政権は関係改善に取り組み、就任早々の2008年3月、ラッド首相のパプアニューギニアへの公式訪問が実現した(なお、前任のハワード前首相は11年の任期の内で一度もパプアニューギニアへの公式訪問が無かった)。

一方、中華人民共和国からは国際会議場や幹線道路などの整備支援を受けるほか、2010年代半ばに原油天然ガスの価格が下落した際の穴埋めなどとして多額の借款を受ける関係となった。2019年ごろの政府債務の総額は、国内総生産の3割相当にまで拡大。中国に対し約8500億円相当の借り換えを要請するに至った[8]


注釈

  1. ^ 109の定数に約3000名が立候補、国民2000人に一人の割合で国会議員に立候補だから乱立といってよい。熾烈な選挙になり、時には暴動を起こし、死者まで出る。警備に1万人を超える体制が必要だった。(川崎一平「熾烈な国会議員選挙」/吉岡政徳・石森昭男編著『南太平洋を知るための58票 メラネシア ポリネシア』明石書店 2010年 80-82ページ)

出典

  1. ^ a b UNdata”. 国連. 2021年10月11日閲覧。
  2. ^ a b c d e World Economic Outlook Database” (英語). IMF. 2021年10月16日閲覧。
  3. ^ a b c d e f パプアニューギニア基礎データ”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2022年3月1日閲覧。
  4. ^ a b c フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 3』講談社、2003年。 
  5. ^ 春秋2014/7/12付 -日本経済新聞
  6. ^ “パプア・ブーゲンビル自治州、住民投票で独立支持98% 新国家誕生へ前進”. AFPBB News. (2019年12月11日). https://www.afpbb.com/articles/-/3259073 2020年1月5日閲覧。 
  7. ^ 『世界年鑑2024』(共同通信社)172頁。
  8. ^ 中国に「8500億円貸して」借金頼みの南国、負の連鎖”. 朝日新聞DIGITAL (2019年8月8日). 2022年4月18日閲覧。
  9. ^ パプアの警官と兵士ら、APEC手当の支払い求め議事堂に乱入”. AFP (2018年11月20日). 2018年11月20日閲覧。
  10. ^ PNG/LNG天然ガス開発プロジェクトから生産された初のLNG(液化天然ガス)の日本向け船積みが行われる
  11. ^ Sign language becomes fourth official language of Papua New Guinea”. Radio Australia (2015年5月25日). 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月4日閲覧。
  12. ^ Sign Language, Next Official Language for PNG”. EMTV Online (2015年5月16日). 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月4日閲覧。
  13. ^ 言語多様性の謎:パプアニューギニア |”. GNV. 2019年1月15日閲覧。
  14. ^ Papua New Guinea 2011 National Report-National Statistical Office”. sdd.spc.int. 2017年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月2日閲覧。
  15. ^ 20歳女性「火あぶり処刑」で男女2人を逮捕、パプアニューギニア
  16. ^ Papua New Guinea – culture”. Datec Pty Ltd. 1999年2月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2005年12月16日閲覧。
  17. ^ Hadfield, Dave (1995年10月8日). “Island gods high in a dream world”. The Independent. http://www.independent.co.uk/sport/island-gods-high-in-a-dream-world-1576603.html 2009年10月6日閲覧。 
  18. ^ Three dead in PNG after State of Origin violence”. BrisbaneTimes.com.au (2009年6月26日). 2010年6月27日閲覧。
  19. ^ a b c Cricket PNG 国際クリケット評議会 2023年10月1日閲覧。






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