バロック バロックの概要

バロック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 15:40 UTC 版)

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ピーテル・パウル・ルーベンス『東方三博士の礼拝』(1642):なにもない空間の周りを螺旋状に人物たちが取り囲むダイナミックな構図。鮮やかな襞、一条の光の矢に照らされた動きの気配、卓越した腕前を思うまま発揮して描かれている。

バロックという概念の誕生と発展

バロックという語は、真珠宝石のいびつな形を指すポルトガル語barrocoから来ているとする説が有力である(ただし名詞barrocoはもともとはいびつな丸い大岩や、穴や、窪地などを指していた[1]。いずれにせよ、この語にはいびつさの概念が含まれていたと思われる)。一方、ベネデット・クローチェによれば、中世の学者が論理体系を構築するうえで複雑で難解な論法を指すのに使ったラテン語のbarocoからきたともされる。そのほか詐欺を意味する中世イタリア語のbarocchioや、バロック初期の画家フェデリコ・バロッチを由来とする説もある[2]

現在の意味での「バロック」という語は、様式の時期や呼称の大半がそうであるように、後世の美術評論家によって作り出されたものであり、17-18世紀の当事者によるものではなかった。当時の芸術家は自身を「バロック」ではなく古典主義であると考えていた。彼らは中世のフォルムや、建築のオーダーや、ペディメントや、古典的なモデナチュールといったギリシア・ローマの題材を利用していた。「バロック」の語は16世紀末のローマで生まれた。フランスでは、この語は1531年には真珠について用いられており、17世紀末には比喩的な意味で用いられるようになった[3]

1694年(バロック期の最中)には、この語はアカデミー・フランセーズの辞書では「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う。『バロック真珠のネックレス』」[4] と定義されていた。1762年、バロック期の終結した頃には、第1義に加え「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則さも指す。」[5] という定義が加わった。19世紀には、アカデミーは定義の順序を入れ替え、比喩的な意味を第1義とした。1855年になって初めて、スイスの美術史家ヤーコプ・ブルクハルトが『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き』[6] においてバロックという語をルネサンスに続く時期と芸術を表すのに用いた。この用法が生まれたのがドイツ文化圏であったのは偶然ではない。フランスやイギリスは様式の変化を表すのに(「ルイ14世様式」のように)その王の名を使用することができたが、ドイツは当時Kleinstaatereiと呼ばれる無数の小国家に分裂していたのである。

さらに1世代後の1878年になってようやく「バロック様式」がアカデミーの辞書の見出しとなり、定義の軽蔑的な意味合いも薄まった[7]皇后ウジェニーは 気取ったものやルイ15世様式を再び流行させ、今日ネオバロック(バロックリバイバル)と呼ばれる様式が生まれた[注釈 1]。バロックの復権が始まり、スイスの美術史家ハインリヒ・ヴェルフリン(1864-1945)はその著作でこのバロックというものが如何に複雑であり、激動し、不規則であり、そして根底においては奇妙である以上に魅惑的であるかを示してみせた。

ヴェルフリンはバロックを「一斉に輸入された運動」、ルネサンス芸術へのアンチテーゼとして定義した[8]。ヴェルフリンは今日の著述家たちのようにはマニエリスムとバロックの間に区別を設けず、また18世紀前半に開花したロココという相も無視していた。フランスとイギリスではその研究はドイツの学界でヴェルフリンが支配的な影響力を獲得するまでまともに受け止められなかった。

始まり

ローマジェズ教会ファサード。バロック様式の教会としては初めてのものであったと考えられている(1580年、ジャコモ・デッラ・ポルタ)。

バロックの萌芽となる着想はミケランジェロの仕事に見出される。バロック様式は1580年頃に始まった。

(大抵はプロテスタントの)美術史家は伝統的に、バロック様式が新しい科学と新しい信仰の形――宗教改革――を生んださまざまな文化的運動にカトリック教会が抵抗していた時代に発展したという事実を強調している。建造物におけるバロックは教皇が、絶対王政がそうしたように、その威信を回復できるような表現手段を命じることでカトリックの対抗宗教改革の端緒の象徴となるほどまでに道具として使った様式であったと言われている[誰?]。いずれにせよ、ローマでは成功を収め、バロック建築は街の中心部を大きく塗り替えた。この時代の都市の更新としては最も重要なものであったろう.

拡散

バロック様式の芸術家たちの劇的な側面が直截的・情動的な効果によって宗教的な主題の奨励に繋がると判断したカトリック教会によってバロックの人気と成功は促進された[9]

1545-1563年のトリエント公会議によって定義されていたように、これはカトリシスムの芸術であり、それを最も良く示す教令は「改革、諸聖人の聖遺物、聖なる図像についての教令」(« Décret sur l’innovation et les reliques des saints, et sur les images saintes ».)である。つまりは対抗宗教改革の芸術であった。しかしながら、宗教改革に加わった国々では強い抵抗を受け、プロテスタント芸術が発達することになる。イギリスやフランスもまた拒絶の重要な中核となった。

世俗の貴族もまたバロック美術や建築の劇的な効果を訪問者や競争相手を感銘させる方法として考えていた。バロックの宮殿は一連の前庭、控えの間、大階段、応接間から構成されており、進むに従って豪華になってゆく。数多の芸術形式――音楽、建築、文学――がこの文化運動の中で互いに影響を及ぼし合った。

バロック様式の魅力は、16世紀のマニエリスム芸術の繊細さや知的な特質から、感覚に向けられた直感的なものへと意識的に移行した。直截的、単純明快、劇的な図像が用いられた。バロック芸術はアンニーバレ・カラッチとその仲間たちの果断な傾向から一定の影響を受けており、またコレッジョカラヴァッジオフェデリコ・バロッチといった、今日では「初期バロック」と分類されることもある芸術家たちの影響も見出される。

カラッチ一族(兄弟と従兄)とカラヴァッジオはしばしば古典主義とバロックという言葉で対比され、 両者は造形の分野(ヴェルフリンが定義した)で対照的な影響を持ち、後世に多大な影響を及ぼした。

ニコラ=セバスチャン・アダム『プロメテウス』(1737年、ルーヴル美術館蔵)。際立った緊張感、複数のアングルと視点、激しい情動に満ちた熱を帯びた力作。

18世紀には古典的バロックから後期バロックもしくはロココへと移行した。これらは17世紀末にドイツ、オーストリア、ボヘミアで出現した。官能的な美の趣味は17世紀バロックの型に嵌った性質により自由な創作をもたらした。

装飾が増殖し、豊饒かつ幻想的になった。トロンプ・ルイユの壁画、階段、アレゴリーニンファエウムや彫刻が教会、城、噴水を過剰なまでに満たした。ウィーン、ロンドン、ドレスデン、トリノ、南ドイツ、ボヘミアがこうした新機軸を取り入れた。ニコラ・サルヴィによるローマのトレヴィの泉(1732-1762)やルイージ・ヴァンヴィテッリによるナポリ近郊のカゼルタ宮殿の階段(1751-1758)に見られるように後期バロックの旺盛なカプリッツィオにあって目の喜びは不可欠なものであった。

パリ(コンコルド広場)、ボルドー(ブルス広場)、ナンシー(スタニスラス広場)などに建築空間が開かれた。オーストリアではフィッシャー・フォン・エルラッハとルーカス・フォン・ヒルデブラントが幻想的な建築で競い合った。バイエルンでは田舎の修道院が小天使に覆われた。ミュンヘンではアダム兄弟が高名である。ボヘミア、モルドバ、南ドイツのロココは巡礼教会を装飾し、ヴィースの巡礼教会では白地を覆う金泥の装飾で壁が崩れんばかりとなっている。

スペインとポルトガルのアメリカ植民地はイベリアのプレテレスコ様式に影響を与えた。フランスでは、ジュール・アルドゥアン=マンサールの門人たちが邸宅とその内部装飾に取り組み、サンジェルマン街やマレー、さらにはランブイエの非凡な鏡板などで見ることができる。

特徴

ハインリヒ・ヴェルフリンはバロックをに代わり楕円が構成の中心に据えられ、全体の均衡が軸を中心とした構成に取って代わり、色彩と絵画的な効果がより重要になり始めた時代と定義した。

このアナロジーを音楽に当て嵌めると、「バロック音楽」という表現は有用なものとなる。対照的なフレーズの長さ、和音、対位法ポリフォニーを時代遅れにし、オーケストラ的な色彩がより強く現れるようになる。同様に、の表現は単純で、力強く、劇的なものとなり、明快でゆったりしたシンコペーションのリズムがジョン・ダンのようなマニエリスム詩人の用いる洗練され入り組んだ形而上学的な直喩に取って代わった。バロックの叙事詩であるジョン・ミルトンの『失楽園』では視覚表現の発達に強く影響された想像力が感じられる。

絵画では、バロックの身振りはマニエリスムのそれに比べゆったりとしている。より両義的、不可解、神秘的でなく、むしろバロックの主要な芸術形態の1つであるオペラでの身振りに近い。バロックのポーズはコントラポスト(傾いだ姿勢)に頼っており、肩と腰の平面を反対方向にずらして置くフォルムの緊張感は今にも動き出しそうな印象を与える。

17世紀初頭にはヨーロッパ全土で激烈を極めた宗教戦争などあらゆる闘争が起こり、国家や社会が分裂した。その不安な時代において、連続的な運動と永続的な秩序との間にしかるべき関係を見出そうとする努力がなされ、そこから独特な心情的表現が生まれた。これが「バロック」である。強い激烈な印象を与える変化と対比など、これらすべては、動的で変化に富む自然と人間の感情から見出された新しい表現であった。

調和・均整を目指すルネサンス様式に対して劇的な流動性、過剰な装飾性を特色とする。「永遠の相のもとに[注釈 2]」がルネサンスの理想であり、「移ろい行く相のもとに」がバロックの理想である。全てが虚無であるとする「ヴァニタス」、その中で常に死を思う「メメント・モリ」、そうであるからこそ現在を生きよとする「カルペ・ディエム」という、破壊と変容の時代がもたらした3つの主題が広く見出される。

ルネサンスからバロック初期はイタリアが文化の中心であったが、バロック後期には文化の中心はフランスへ移ってゆく。


注釈

  1. ^ シャルル・ガルニエが皇后にガルニエ宮は何様式であるかと尋ねられた時の返答「ナポレオン3世様式にございます、妃殿下」が想起されるであろう。ルネサンス新古典主義、ルイ15世様式が混淆した当時流行の様式はそれほどまでに定義困難なものだったのである。
  2. ^ sub specie aeternitatis. スピノザ『エチカ』にある言葉。

出典

  1. ^ Olívio da Costa Carvalho, Dicionário de português-francês, Porto Editora, 1996 ISBN 972-0-05011-X
  2. ^ Helen Hills Rethinking the Baroque
  3. ^ Albert Dauzat & al., Dictionnaire étymologique Larousse, 1989 ISBN 2-03-710006-X
  4. ^ Dictionnaire de L’Académie française, 1re édition. (オンライン版
  5. ^ Dictionnaire de L’Académie française, 4e édition. (オンライン版
  6. ^ Source : Claude Lebédel, Histoire et splendeurs du baroque en France, édition Ouest-France, Rennes, 2003.
  7. ^ Dictionnaire de L’Académie française, 7e édition. F. Didot, Paris, 1878 (オンライン版
  8. ^ Heinrich Wölfflin, Renaissance und Barock: Eine Untersuchung über Wesen und Entstehung der Barockstils in Italien, 1888
  9. ^ Helen Gardner, Fred S. Kleiner, and Christin J. Mamiya, Gardner's Art Through the Ages (Belmont, CA: Thomson/Wadsworth, 2005), p. 516.
  10. ^ The Life of Marie de' Medici Archived 2003年9月14日, at the Wayback Machine.


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