バイバルス 人物像

バイバルス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/13 06:13 UTC 版)

人物像

バイバルスは碧眼[112]、長身で褐色の皮膚を持つ力強い声の持ち主と記録されている[113]。慎重かつ禁欲的な性格で、金銭には執着を示さなかった[1]。活動的で勇敢、暴力的な性格で、配下の将軍からは畏怖されていた[6]。歴史に強い関心を示し、「過去の出来事を聴くことは、どんな体験にも勝るものだ」と述べた[114]ドミニコ会のトリポリのギヨームはバイバルスについて、禁欲的かつ残忍な、秘密主義者と記している[73]。後世に成立した説話文学においては、イスラーム世界に蔓延るズルム(不正)を罰し、アドル(公正)を実現する英雄として描写されている[115]

バイバルスは狩猟ポロを趣味とし[1]、カイロ郊外に競技場を建設した[116]。。バイバルスは馬を乗り継いで1週間でカイロとダマスカスの間を移動した直後、さらに体を動かしてポロを楽しんでいた超人的な体力の持ち主だと伝えられている[117]。バイバルスは遠泳も得意としており、ある時には鎧を付けたままナイル川を泳いでいた[116]

バイバルス、カラーウーンに近侍したイブン・アブドゥルザーヒル(1223年 - 1293年)はバイバルスの伝記を著したが原典は散逸し、甥によって改編されたテキストのみが残っている[118]

政策

伝達網の整備

1261年のカリフの擁立と同じ時期、バイバルスはエジプト・シリア間に駅伝(バリード)制度を整備した[54]。数10kmごとに駅舎が置かれ、街道沿いに住むアラブ遊牧民には駅舎に置かれる馬の提供が義務として課せられた[54]。バリード制度の利用により、700km超の距離がある[12]カイロ・ダマスカス間を4日で移動することが可能になり[8][117][119]、危急の時には伝書鳩で警告が伝えられた[115][120]。この制度によってバイバルスはカイロに留まりながらもモンゴル軍のみならず、各地の総督の動きも察知することができた[6][121]。中央集権制度の確立、アラブ遊牧民への統制を強化した点において、バイバルスが創始したバリード制度は有用であったと言える[121]

建築事業

エルサレムのライオン門

バイバルスはエジプト・シリアの両方で多くの建築事業を実施した。また、港湾施設や溝渠の整備を行っている[2]

代表的な建造物にカイロの大モスク、ザーヒリーヤ学院が挙げられている[122]。後に大モスクはナポレオン・ボナパルトとイギリス占領軍によって、軍事施設として使用される[14]。ほかカイロにおいてはアズハル・モスクの修築、ダマスカスではウマイヤド・モスクの修復などを行った。

バイバルスは自身の紋章であるライオンを、宗教的要素の無い建造物の装飾に用いた[10]。1266年のサファド攻略後にヨルダン川に橋を架け、橋には両脇にライオンの像を配する碑文が置かれた[76]。エルサレムの聖ステファノス門に2頭のライオンの像を飾り、門はライオン門と呼ばれるようになった[123]

バイバルスと信仰

バイバルスは熱心なスンナ派の信仰者であり、篤実な信仰心を持っていた[14]。1266年から1268年にかけてメッカ、メディーナのシャリーフ(預言者ムハンマドの子孫)の争いに介入し、ヒジャーズに遠征を行った。1269年にバイバルスはメッカ巡礼を果たし、配下の将軍をメッカの総督に任じた[124]

バイバルスはスンナ派四大法学派を公認し、それぞれの学派を代表する4人のカーディー(裁判官)を任命した[115]。孤児、宗教財産、国庫に関する裁判は従来通りシャーフィイー派の大カーディーが担当したため、シャーフィイー派の大カーディーが最高位に立ち、ハンバル派マーリク派ハナフィー派の大カーディーがこれに続く地位に置かれた[125]。スンナ派の四学派が名目上は対等の立場を持ったことでスンナ派全体の権威が向上し、カーディーの任命によってウラマー(法学者)への統制力も強化された[115]。さらに国家の主要な収入源となっていた売春を厳しく取り締まった[1]

1261年にバイバルスはマムルーク朝に亡命したアッバース朝最後のカリフの叔父ムスタンスィル2世をカリフとして擁立した。ムスタンスィル2世を伴ってカイロで華やかな行進を行い、行進にはイスラム教徒だけでなくユダヤ教徒キリスト教徒も参加していた[56]。カリフの擁立に伴い、北インド、モロッコのイスラーム政権に使節を派遣してフトバにムスタンスィル2世の名前を入れることを要求し、イスラーム世界の各国からカリフの擁立は好意的に受け止められた[126]。バイバルスはマムルーク朝のスルターンがカリフの庇護者となることで、武力でアイユーブ朝を打倒したマムルーク政権の正統性を示す役割を果たしたと考えられている[54]。カリフを自称するハフス朝アル=ムスタンスィルとの関係は悪化するが、対立は深刻なものにはならず、1270年にルイ9世がチュニスに向かった際にバイバルスはハフス朝に支援を申し出ている[127]。ムスタンスィル2世の死後、カイロに亡命したハーキムを新たにカリフとして擁立し、疑似的なカリフ制度が長く続いた[56]。バイバルスはカリフが必要以上に力を持つことを危険視しており[128]、ハーキムにはカイロ市民との接触を禁じていた[129]

輿(マフミル)を乗せたラクダを先頭とする巡礼団をメッカに派遣し、カアバ神殿にかける絹の覆い(キスワ)を贈答する、年に一度の儀礼がバイバルスの治世から開始された[54]カリフの保護と合わせて、バイバルスは聖地の保護者であることを内外に誇示することで、スルターンの権力を正当化する意図を有していたと考えられている[54]。メッカ・エルサレム2つの聖地、巡礼者の保護に注力したバイバルスは、「両聖地の保護者」を自称した[15]

家族

  • フワーリズミーヤ(中央アジアのホラズム地方出身者から構成される軍)の長ベルケ(バラカ)・ハーンの娘[12]
  • モンゴル系のアミール・ノカーイの娘
  • クルド人のシャフラズーリーヤ族の女

バイバルスは妻、女奴隷との間に5人の男子と7人の女子をもうけた[12]




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