ハナ肇とクレージーキャッツ
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メンバー
- 詳細は本人の項目を参照
ハナ肇
- 東京府北豊島郡長崎町(現:東京都豊島区)生まれ。本名、野々山定夫(ののやま さだお)。山手通り沿い要町交差点付近の実家(水道屋)で育った。工学院大学土木科中退。芸名は、姓=興奮すると鼻の穴が大きく開くクセから、名=ハナが敬愛したジャズ・ピアニスト和田肇(俳優和田浩治の実父、歌手淡谷のり子の前夫)に由来する。最初はギタリストを志していたが、途中でドラマーに転向し、1946年に「内藤タンゴ・アンサンブル」、1947年に「伊沢一郎カルテット」、1948年に「南里文雄とホットペッパーズ」、1949年に「萩原哲晶とデューク・オクテット」、1952年に「アフロ・クパーノ・ジュニア」などのバンド遍歴を経る。そして、犬塚弘、萩原哲晶らと、クレージーキャッツの前身となる「キューバン・キャッツ」を1955年に結成。その後、1956年に「ハナ肇とクレージーキャッツ」にバンド名を改め、バンドマスターとなる。『巨泉・前武のゲバゲバ90分!!』でのヒッピー姿で叫ぶ「アッと驚く為五郎」と言うギャグや『新春かくし芸大会』での銅像役はよく知られている。山田洋次の『なつかしい風来坊』、市川準の『会社物語 MEMORIES OF YOU』の2作品でブルーリボン主演男優賞などの賞を獲得している。俳優やナレーターとしての評価も高かったが、音楽への情熱は捨てがたく、1985年に谷啓や「キューバン・キャッツ」時代のメンバーであった稲垣次郎らなどと「ハナ肇とオーバー・ザ・レインボー」を結成し、ジャズクラブでの演奏活動も行っていた。1993年9月10日午前7時3分、肝臓がんのため死去。63歳没
植木等
- 三重県多気郡宮川村大字栗谷(現:多気郡大台町)、浄土真宗・常念寺住職の三男として生まれる。本名同じ。1950年東洋大学文学部卒業。いくつかのバンドを経て、1957年3月に渡辺晋とハナ肇によってシティ・スリッカーズからクレージーキャッツに引き抜かれた。1962年に公開された映画『ニッポン無責任時代』以降は、「無責任男」が植木のキャッチフレーズとなり、以降数多くの映画に主演する。ボーカルとして数々のコミックソングがヒットし、テレビでも「お呼びでない?」など、後世に残るギャグで爆発的な人気を得る。1970年代以降は俳優としての活動の場が多くなったが、演技に対する評価は高く、多くの賞を獲得している。1990年には自身のヒット曲メドレー「スーダラ伝説」で人気が再燃し、23年ぶりに第41回NHK紅白歌合戦にも出場(この年の歌手別最高視聴率を獲得)した。翌年の1991年には、自身初となる全国ソロコンサートツアーも行っている。晩年は前立腺癌、肺気腫と闘病しながら活動を継続していたが、2007年3月27日、肺気腫による呼吸不全で死去。80歳没
谷啓
- 東京府荏原郡東調布町(現:東京都大田区田園調布)生まれ。広島と横浜で育つ。本名、渡部泰雄(わたべ やすお)。芸名の由来は、アメリカの名コメディアン、ダニー・ケイに敬意を表し、その名前をもじったもの。中央大学経済学部中退。中大在学中からトロンボーン奏者として名を馳せ、1952年に原信夫とシャープスアンドフラッツ、1953年にシティ・スリッカーズ、1956年2月からクレージーキャッツへ参加している。「ガチョン」(現在は「ガチョーン」)や「ビローン」、「あんた誰?」、「谷ダァー」といったギャグが流行を博したが、「譜面にギャグを書き込む」スタイルで数多くの音楽ギャグを作り、その才能を活かして『シャボン玉ホリデー』では自身が番組構成を行った回(1966年1月9日放送、「タニー・ケイだよピーナッツ」)もある。トロンボーン奏者としても、「スイングジャーナル」紙の人気投票では、1959年から1965年まで連続してトロンボーン部門のベスト5に入っていたほどの実力者である。ナレーターや俳優としても活躍し、映画『釣りバカ日誌』シリーズの佐々木課長役は当たり役である。クレイジーのメンバーとしてはメディアへの露出が多く、若年層にも知名度が高かった。また、「谷啓とスーパー・マーケット」というバンドを率いており、不定期ながらも音楽活動を行っていた。その後も『美の壺』(NHK教育テレビジョン)の主人などで飄々としたところを見せていたが、晩年は認知症の症状が顕著になっていたと言う。ハナ肇死去から17年後の2010年9月10日、私邸の階段から転落、2010年9月11日に上記による脳挫傷のため急死。78歳没
犬塚弘
- 東京府荏原郡(現:東京都大田区大森)の生まれ。本名、犬塚弘(いぬづか ひろむ)。1949年文化学院社会学部卒業。日本ワットソン統計会計機械(現日本アイ・ビー・エム)に入社したが、1951年に退職。実兄が組んだハワイアン・バンド(グリーン・グラス・キャップ・ボーイズ)に入り、ベースを担当したのが演奏活動を開始するきっかけとなる。その後、1952年に「萩原哲晶とデューク・セプテット」に参加し、1955年に「キューバン・キャッツ」の創立メンバーとして参加。なお、グループ初期にうけた「クレージーののど自慢」というコントは、犬塚と谷啓の作である。クレージーの一員としては「ワンちゃん」の愛称で親しまれ、1964年12月公開のハナ肇主演映画『馬鹿が戦車でやって来る』での演技により、植木等、ハナ肇、谷啓に次ぐクレージー『第4の男』として評価され、1965年7月に公開された『素敵な今晩わ』では初の主演を獲得している。1970年代からは性格俳優として映画・テレビドラマ・舞台などで脇を固めることも多く、80代にさしかかった時期においても『春よこい』、『少年メリケンサック』などの映画に出演し、精力的な活動を続けていたが、2020年の公開予定の映画『海辺の映画館―キネマの玉手箱』を最後に役者業を引退する意向を表明[9]。2023年10月26日に死去。94歳没
安田伸
- 東京府豊多摩郡(現:東京都中野区)生まれ。本名、安田秀峰(やすだ ひでみね)。1953年東京芸術大学別科器楽科修了。同年「フォー・デパーズ」に参加以降、1954年には石橋エータローらと「ザ・ファイブ」を結成し、1955年には「ハッピー・フーリナンス」に参加。その後、1957年9月に石橋エータローの紹介でクレージーに参加する。ブリッジしながらサックスを吹く芸が有名であった。1966年に体操家の竹腰美代子と結婚。愛妻家で知られ、そこから「ミヨコー!」というギャグが生まれた。『シャボン玉ホリデー』後期のコント「キントト映画」では、なべおさみ扮する監督に、安田扮する助監督が「ヤスダーッ!」と怒鳴られ、なべにメガホンで頭を連打されるギャグも有名となった。俳優として映画や舞台などで活躍したが、晩年はガンとの闘病が続いた。1996年11月5日、急性心筋梗塞で死去。64歳没
石橋エータロー
- 東京府東京市芝区新橋(現:東京都港区)の生まれ。本名、石橋英市(いしばし えいいち)。父親は作曲家で尺八奏者の福田蘭童、祖父は洋画家の青木繁。1949年東洋音楽大学声楽科卒業。安田伸らとバンド活動後、1956年に世良譲の紹介でクレージーに参加する。1960年に結核で一時離脱。代わりに、ピアノ奏者として桜井センリが加わる。その後、クレージーに復帰するも、1971年に引退し料理研究家に転身。渋谷で「三漁洞」という小料理屋を経営していた。かつて声楽を専攻していたこともあり、メンバーの中では植木と並ぶ美声である。1994年6月22日、胃癌による心不全のため死去。66歳没
桜井センリ
- 1926年(公称は1930年)ロンドンの生まれ。本名、桜井千里(さくらい せんり)。早稲田大学政治経済学部中退。植木等らとバンドのピアノ奏者として活躍。石橋エータローの結核療養による活動休止を受けてクレージーに参加。早くからピアノの実力と共に編曲者としての才を発揮、様々なバンドで活動した。クレージー加入前、通常のバンドマンが月給4万円のところ、桜井は18万円を支給される高給取りだった。そのため、石橋の代役選びが難航する中、ハナは植木と谷に「元・シティ・スリッカーズのよしみで桜井はどうか」と尋ねたところ、植木らは即座に「桜井千里は絶対無理!」と答えたという。それでも懇願するハナに根負けし、植木はほとんど諦めながらも念のため自宅へ交渉に行ったところ、「実はああいうことを一度やってみたかったんですよ。よろしくお願いします」と快諾を受け、拍子抜けしたという。石橋エータロー復帰後もメンバーとして活躍。ピアノの連弾はクレージーのステージの名物となった。金鳥の殺虫剤「キンチョール」のCMに出演した際、「ルーチョンキ」のギャグを披露。コントでは石橋に替わり「女性役」などを器用にこなし、CMで披露した「センリばあさん」役は当時一世を風靡した。2012年11月10日、死去 86歳没。
旧メンバー
- 上述のメンバー以外に結成時のメンバーを含む以下の8人が存在する。
- 現在の存命者であろう人物は橋本光雄のみだが、橋本の確実な存命情報は2012年2月まで遡る。唯一の確実な存命者であった稲垣次郎は2024年1月18日に死去した。
- 柴田昌彦・河原義和・南晴子の3名は生死を含めて消息不明。
- 稲垣次郎・萩原哲晶・石田正弘・筑波礼子の4名は故人。
- 萩原哲晶(1925年5月26日 - 1984年1月13日、クラリネット)
- 脱退後は、作曲家に転身。クレージーキャッツのヒット曲をてがける。
- 萩原と入れ替わる形で谷啓が加入。1984年1月13日、中咽頭腫瘍のため58歳で死去。
- 柴田昌彦(1935年12月13日 - 、初代テナーサックス)
- 2023年10月現在、消息不明。
- 稲垣次郎(1933年10月3日 - 2024年1月18日、テナーサックス)
- 2023年10月3日にベストセレクションを発売するなど最晩年まで活動していたが、2024年1月18日に90歳で死去[10][11]。
- 石田正弘(1935年 - 1985年4月28日、三代目テナーサックス)
- 1985年4月28日に肝硬変による吐血のため、49-50歳で死去。
- 橋本光雄(1932年2月 - 、 初代ピアノ)
- 2012年2月22日現在、存命[12]。
- 河原義和(1929年1月2日 - 、二代目ピアノ)
- 2023年10月現在、消息不明。
- 南晴子(生年月日不明、ボーカル)
- 2023年10月現在、消息不明。
- 筑波礼子(1930年代11月22日 - 1990年3月15日、ボーカル)
- 宝塚歌劇団卒業生。ミュージカル女優・島田歌穂の実母。
- 1990年3月15日にガンのため50代で死去。
注釈
- ^ 最後の存命者であった犬塚が死去した年。
- ^ 結成時のメンバーでは稲垣次郎と橋本光雄が存命中だが、その他のメンバーは死去もしくは消息不明である。
- ^ これに関しては、弟子のザ・ドリフターズも現在はグループとしての活動は殆どしておらず、いかりや長介・荒井注・志村けん・仲本工事が故人となっており、結果的に加藤茶と高木ブーの2人のみ存命中であるが、グループとしては最後の1人が死去するまで存続するという方針になっている。
- ^ NHKアーカイブスの番組表検索によると、NHKテレビには、1956年2月7日の「ボンゴのひびき」に「ハナ・ハジメとキューバンキャッツ」、翌1957年7月5日の「花の星座」に「ハナ・肇とクレージー・キャッツ」として出演している。
出典
- ^ “ハナ肇とクレイジーキャッツ(ハナハジメトクレイジーキャッツ)の情報まとめ”. OKMusic. ジャパンミュージックネットワーク株式会社. 2021年9月18日閲覧。
- ^ メディア・ビュー『1946-1999売れたものアルバム』東京書籍、2000年、212頁。ISBN 4-4877-9522-2。
- ^ 桑田佳祐『ただの歌詩じゃねえか、こんなもん』新潮社、1984年、12頁。ISBN 4-1013-5301-8。
- ^ “桜井センリさん 孤独死か 「クレージーキャッツ」は1人だけに”. Sponichi Annex. (2012年11月12日). オリジナルの2014年2月25日時点におけるアーカイブ。 2014年2月25日閲覧。
- ^ “クレージーキャッツの犬塚弘さん死去 94歳 メンバー全員が亡くなる 俳優としても活躍 - おくやみ : 日刊スポーツ”. nikkansports.com (2023年10月27日). 2023年10月27日閲覧。
- ^ “犬塚弘さん死去 94歳 クレージーキャッツで活躍 愛称「ワンちゃん」、とぼけたキャラで親しまれ - スポニチ Sponichi Annex 芸能”. スポニチ Sponichi Annex. 2023年10月27日閲覧。
- ^ “クレージーキャッツの犬塚弘が死去”. お笑いナタリー. 2023年10月27日閲覧。
- ^ 「クレージーキャッツ犬塚弘さん死去、94歳」『共同通信』、2023年10月27日。2023年10月27日閲覧。
- ^ “90歳の犬塚弘、俳優卒業宣言「頭も口も大丈夫だけど下半身が駄目」”. サンケイスポーツ. 産業経済新聞社: pp. 1-2. (2019年10月2日) 2020年6月2日閲覧。
- ^ レジェンドジャズミュージシャン 稲垣次郎、本日90歳の誕生日にベストセレクション盤を世界リリース Real Sound、2023年10月3日閲覧
- ^ “サックス奏者の稲垣次郎さん死去 「ソウル・メディア」などで活躍”. 朝日新聞 (2024年3月8日). 2024年3月8日閲覧。
- ^ 橋本光雄先生のお誕生日会
固有名詞の分類
日本のバンド |
B.S.R. ジァイアントステップ ハナ肇とクレージーキャッツ マイドラゴン 愛奴 |
日本の歌手グループ |
PRECOCI XUXU ハナ肇とクレージーキャッツ 少年隊 Mother Ninja |
ジャズバンド |
KK JAM XUXU ハナ肇とクレージーキャッツ ハタノ・オーケストラ モダン・ジャズ・カルテット |
お笑い芸人 |
フォーリンラブ ガンリキ ハナ肇とクレージーキャッツ おきゃんぴー 東京03 |
ミュージシャン一覧 (グループ) |
FUNKY MONKEY BABYS XUXU ハナ肇とクレージーキャッツ ザ・ダークネス 愛奴 |
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