ネパール 国旗

ネパール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/07 14:59 UTC 版)

国旗

国旗は1962年12月16日に採択されたものであるが、2008年から連邦民主共和制に基づく新政府へ移行した現在もこの図案を採用している。

歴史

リッチャヴィ朝以前

  • ネパールの中心、カトマンズ盆地には旧石器時代から人が住んでいたことが明らかになっている。ドゥマカールの遺跡で発見された木具を放射性同位元素で測定した結果、紀元前2万7400年ごろのものと推定された。また、タライなど旧インド文化圏の各地でも旧石器時代の遺物が発見されている[14]
  • 伝説では、カトマンズ盆地は太古の昔湖だった。スワヤンブー寺院を参詣しに来たマンジュシュリ(文殊菩薩)が湖を囲む山を剣で切り開き、湖水を流しだし人が住めるようにしたという[15]
  • また、「ネ(ne)」という名の牟尼(聖者)が、最初にこの地を「統治(pal)」 したので、「ネパール(Nepal)」の名が付けられたという伝説もある[16]。その他、ネパールの起源に関する伝説は数多く存在する。
  • ネパールの古い歴史については「バンシャバリ」といわれる王朝王統譜が5種類伝えられ、「ゴーパーラ王朝」「マヒシャパーラー王朝」「キラータ王朝英語版」があったとされるが、信憑性は低い[17]
仏陀生誕の地と言われるルンビニ

リッチャヴィ朝時代

4世紀インド・アーリヤ語派の王族によるネーパーラ王国リッチャヴィ朝が成立した[18]。リッチャヴィ朝は5世紀後半から6世紀にかけてカトマンズにマーナ宮を造営し、政治・行政機能を設けた[18]。また7世紀初頭にはカイラーサ・クーラ宮、中葉にはバドラ・アディヴァーサ王宮を造営[† 1][18]。またパンチャーヤト制やグティの原型となる住民組織を保護・育成し、また商業を奨励し都市経営の基盤を固めるなどした[18]。チベットと文化的、経済的、政治的の密接な交流があり、宗教・商業上の中心地として繁栄した。

中世

リッチャヴィ朝の衰退に乗じて9世紀にはデーヴァ朝が興り、バクタブルに王都を築いた[19]ネワール文化が栄えた。続いて14世紀末にはマッラ朝が確立されたが、1450年ごろにバクタプル王国(バクタプル・マッラ朝)からカトマンズ王国(カトマンズ・マッラ朝)が独立する[19]。その後1619年までにマッラ朝、パタン王国(パタン・マッラ朝)もカトマンズ王国から独立し、三王国並立時代となる[19]

ゴルカ朝前期

マッラ王朝は内紛・抗争で力を失い、18世紀前半にはカトマンズ西方の山地で[20]ゴルカ王国ゴルカ朝)が勢力を拡大する。そして1768年から1769年にかけて、第10代ゴルカ王プリトビ・ナラヤン・シャハによってマッラ王朝は滅ぼされる。そして350の小王国に分かれていたネパールが統一され、ゴルカ朝はカトマンズを首都にネパール王国を作った[20]

  • 1790年 - 1791年 - 清・ネパール戦争
  • 1814年 - 1816年 - ネパール・イギリス戦争(グルカ戦争
    • イギリス東インド会社との戦争の結果、善戦したが敗北。スガウリ講和条約により、西はマハカリ河以西、東はメチ河以東、および全タライ地方を放棄する代わりに、イギリスから毎年20万ルピーの支払いを受けることになった。(ただし、講和条約締結の9か月後にはイギリスは20万ルピーの支払いをやめて、タライの大部分をネパールに返還し、ほぼ現在の国境ラインに落ち着いた)このほか条約にネパール兵がイギリス軍傭兵に志願できるという条項を加えた。イギリスはネパールのことをグルカ(Gurkha=ゴルカ)と呼んでいたので、ネパール人傭兵はグルカ兵(ゴルカ兵)と呼ばれるようになった。これが現在まで続き、ネパールは英印両国に毎年グルカ兵を提供している。

ラナ家支配時代

丘の上に建つ旧王宮

王政復古

民主化時代

  • 2001年6月1日 - ネパール王族殺害事件によりビレンドラ国王らが殺害され、ギャネンドラ国王が王位につく。
    • ギャネンドラ国王は議会を停止。以後、国王・議会・マオイストによる混乱状態。
      実質的には武力のない議会に力はなく国軍を掌握する国王派とマオイストによる内戦が続き、政府支配地域とマオイスト支配地域に分かれる。
      アメリカが国王を支援。武器を供給するなどしたが、武装した農民がマオイストに合流するなど混乱に拍車をかける結果に。
  • 2002年10月4日、ギャネンドラ国王はクーデターによりネパール会議派のデウバ内閣を停止、国王の親政を行う。11日、王党派のチャンダを首相に任命。
  • 2004年6月 - 国民の声に圧されて国王は再びデウバを首相に任命。
  • 2005年
  • 2006年
  • 2007年
    • 1月15日 - 下院、暫定憲法発布。その後、下院は解散。
    • 1月23日 - 国連安保理国連ネパール支援団(UNMIN)を設立する安保理決議1740を全会一致で採択。国軍と人民解放軍の停戦を監視。
    • 2月 - ネパール南東部では暫定憲法に反対し地位向上を訴えるマデシ(インド系少数民族)の抗議行動が続き、地元警察との衝突により少なくとも21人が死亡。
    • 12月27日 - 暫定議会、ネパールの政体が連邦民主共和制になる旨の暫定憲法改正案を承認。
  • 2008年
    • 4月10日 - 制憲議会選挙の投票が実施され、毛沢東派が第1党となったが過半数は獲得できず。
    • 5月28日 - ネパール制憲議会が招集され、新たな政体を連邦民主共和制と宣言して正式に王制が廃止された[21]。ギャネンドラ国王は退位し、ここにネパール王国(ゴルカ朝)は終焉を迎えた。

王制廃止以降

  • 2008年
  • 2009年
  • 2010年
    • 6月30日 - マーダブ・クマール・ネパールが辞任を表明。しかし、後継首相を選ぶための制憲議会の首班指名選挙で誰一人過半数を獲得出来ず、同年9月まで8回の選挙が繰り返し行われた。
    • 12月11日 - 元国王・ギャネンドラの長男の元皇太子・パラスが泥酔、副首相・スジャータ・コイララ英語版の娘メラニー・コイララ・ジョスト英語版の婿と口論した末に発砲した容疑で逮捕されたが、三日後の裁判前に双方から発砲は無かったという発表があり釈放された。政治の混乱が続き王制復活への期待が出始めた矢先の出来事であった[22]
  • 2011年
    • 1月3日 - マーダブ・ネパールの引退表明から後任が決まっていなかった首相職にジャラ・ナート・カナールが指名されたが、混迷を収拾できず同年8月14日に辞表を提出した。
    • 8月29日 - ネパール共産党統一毛沢東主義派バーブラーム・バッタライが首相職に指名され、プラチャンダ内閣内閣以来2年ぶりに統一毛派政権となった。
    • 11月1日 - ネパールの主要政党が歴史的な和平プロセスに合意したと、統一毛派のスポークスマンDinanath Sharmaが発表した。[23]
    • 12月2日 - 統一毛派内部で主流派のプラチャンダと強硬派のキランの間で、マオイスト軍戦闘員の内何人を国軍であるネパール軍に統合するか合意し、2,500人の更なる上積みを要求したところ、議会がこれを拒否し、Krishna Sitaula事務局長が「人数を増やして合意することは不可能だ。12月15日までの合意を不可能にするものである。」と指摘した。また、この動きで主流派内での権力争いはバッタライからプラチャンダに戻ったと観測されている。[24]
    • 12月16日 - 合意が任期内に出来ず、議会の会期延長が決定し、6ヶ月後の2012年5月13日までに全ての手続きを完了することになった。[25]
  • 2012年5月- 合意が任期内に出来ず、制憲議会の任期満了。バッタライ首相は11月に選挙を行うとしていたが、政党間の調整がつかず失敗[26]
  • 2013年
    • 2月11日 - 主要政党が5月29日までに制憲議会選挙を行うことで合意[26]
    • 3月14日 - 制憲議会再選挙実施のための選挙管理内閣発足。「内閣の議長」は最高裁長官であったキル・ラージ・レグミ[27][28]
    • 7月6日 - 選挙管理内閣、制憲議会選挙を11月19日に行うと閣議決定[29]
    • 11月19日 - 制憲議会選挙。ネパール会議派が第一党になり、毛派は大敗。毛派は不正選挙であると主張している[30]
  • 2014年
  • 2015年
  • 2017年
    • 2017年5,6,9月 - 地方選挙を3回に分けて実施
    • 2017年11,12月 ‐ 州・連邦下院議会選挙実施 
    • 2018年3月 - オリ(UML党首)政権発足

政治

近況

カトマンズ、民主の壁

2006年民主化運動ロクタントラ・アンドラン)の結果、従来の事実上の絶対君主制から暫定的に象徴君主制へ移行。国王は国家元首としての地位を失い、首相がその職務を代行した。国号は「ネパール王国」から「ネパール国」に変更され、在外公館の表記からも「王国」が削除された。王室を讃える国歌を廃止し、王室と結びついたヒンドゥー教は国教としての地位を失った。国王は国軍最高指揮権を失い、政府も「国王陛下の政府」から「ネパール政府」に変更された。

これを受け、当時の与党・ネパール会議派は他の諸派から提案されていた王制廃止に賛成する事を表明した。さらに、暫定憲法にネパールで最大の政治勢力であるネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が暫定政府復帰の条件としていた「王制廃止」と「連邦民主共和制」が盛り込まれることが決まり、ネパールの国家形態が王制から共和制へ移行することが事実上固まった。

2008年4月10日に投票された制憲議会選挙(小選挙区240、比例代表335、内閣指名26)でプラチャンダ議長率いるネパール共産党毛沢東主義派が229議席(小選挙区120、比例代表100、内閣指名9)を獲得して第1党となり、ネパール会議派が115議席(小選挙区37、比例代表73、内閣指名5)、統一共産党が108(小選挙区33、比例代表70、内閣指名5)と王政廃止派の政党が大多数を占め、王政支持派政党は唯一国民民主党ネパール(4議席)に留まった。同年5月28日に招集された制憲議会の初会合では、正式に王制を廃止し連邦民主共和制への移行を宣言した(賛成560票、反対4票)。ここにネパール王国及びゴルカ朝はその歴史に幕を閉じた。

2009年5月4日、プラチャンダは首相を辞任した。毛派は以前より同派の「党兵」組織(「ネパール人民解放軍」)の国軍編入を要求していたが、国軍トップのルークマングド・カタワル陸軍参謀総長は「正規軍とは思想が違う」「軍の中立性を保てない」と拒否。他の政党も元ゲリラ組織の毛派が国軍も掌握すれば、毛派が恐怖政治に乗り出す可能性があると警戒していた。ついに2009年5月3日、プラチャンダはカタワル陸軍参謀総長の解任を決めたが、これに対しヤーダブ大統領は同3日夜、首相の解任決定を取り消し、首相の行為を「憲法違反」と批判。また制憲議会で連立を組むネパール統一共産党など主要政党も一斉に反発、毛派を除く連立政権の各与党は政権からの離脱を示唆した。軍内部も大半がカタワルを慕っているためその解任に反発し、政権の中心にあった毛派は瞬く間に孤立した。ネパール会議派などの野党勢力もカトマンズなどで抗議デモを開始し、治安部隊が鎮圧行動に乗り出すなど国内は一気に緊迫した。ただネパールの暫定憲法では大統領に軍トップの任命権を与えているものの、解任権は明記していないため、プラチャンダは「大統領の越権行為」と激怒。4日朝、毛派に緊急幹部会の招集を求め、対抗策の協議した。しかし同4日、連立与党は相次いで連立政権を離脱。毛派は制憲議会で比較第1党であるものの主要政党の連立離脱で与党は過半数を割り、追い詰められたプラチャンダは自らテレビ演説で「辞任した」と発表。毛派中心の政権はわずか8カ月余りで崩壊した。

5月23日、後任首相にはネパール会議派、統一共産党など22政党の連立によりマーダブ・クマール・ネパールが選ばれた。統一毛派は投票をボイコットして野党に転じた。しかしネパール首相は2010年6月に辞任を表明し、制憲議会は後継首相を選出することができない混乱状態に陥った。2011年1月にカナルが首相となったが辞任し、8月29日に毛派のバッタライが首相となった。しかし毛派の内紛も収まらず、憲法制定のための合意もできない状態が続いたままで制憲議会は任期満了を迎えた。2013年3月に最高裁長官のレグミを「議長」とする選挙管理内閣が発足し、新たな制憲議会選挙を11月29日に行うことが決定した。

2015年9月20日、新憲法が公布された[5]。これにより、7つの州と、753の地方政府が成立した。

大統領・首相

初代大統領となったラーム・バラン・ヤーダブ

大統領は政治的実権を持たない、儀礼的な国家元首と規定されている[31]

大統領・首相連邦議会における主要政党の合意または選挙の過半数で任命される。首相は連邦議会議員であることを要するが、大統領はこの限りではない。半数を超える候補のないときは再選挙を行う。大統領はの最高指揮権は持つが象徴的存在としての国家元首(Head of State)である。一方、首相は政府の長(Head of Government)として実権を持つ。ネパール初代大統領にはラーム・バラン・ヤーダブ(ネパール会議派)が当選している。2015年9月の新憲法制定後、元国防相のビドヤ・デビ・バンダリが選出された[31]

初の大統領選挙

大統領の人事については主要政党の間の調整に決着が付かず、結局議会における選挙で決めることとなった。

毛沢東派は、初めは政治と関係のない人物の起用を主張し、他党に配慮する形で大統領職の要求を取り下げた。

一方、ネパール会議派と統一共産党は政治的な人物を大統領に主張してきた。ネパール会議派は当時の首相、G.P.コイララを大統領に推してきた。統一共産党は前総書記マーダブ・クマール・ネパールを大統領候補として譲らず、統一共産党との連立を望んでいた毛派はこれを認めるべきかどうか2つに割れて論争した[32]結局、毛派(226議席)はネパールを受け入れられないとして、共和制活動家ラム・ラジャ・プラサド・シンを支持、これをマデシ3党も支持したが、マデシ人権フォーラムは独自の副大統領候補を立て、それを毛派が支持することを条件にシンを支持していた。しかし、毛派はフォーラムの副大統領候補を支持しなかったため、フォーラムは統一共産党とともにネパール会議派ラーム・バラン・ヤーダブ代表幹事[† 2](マデシ出身)の支持に回り、一挙に情勢が変わった[33]

7月19日の制憲議会では副大統領マデシ人権フォーラムが推薦したパラマーナンダ・ジャー(305票)が当選したものの大統領選はラーム・バラン・ヤーダブ(283票)、ラム・ラジャ・プラサド・シン(270票)とも過半数を得られず、7月21日、再選挙することになった[34]決選投票の結果、第一回投票で欠席した政党からの支持も受けたラーム・バラン・ヤーダブが、議員総数(594)のうち308票を獲得して初代大統領に選出された。ラム・ラジャ・プラサド・シンは282票にとどまった。(欠席4)[35]

また7月19日閣議で決定された官職の序列は以下の通り。第1位-大統領(元首)、第2位-首相、第3位-最高裁長官、第4位-制憲議会議長、第5位-副大統領[36]

首相選挙

デウバ首相

なお、首相にはネパール共産党毛沢東主義派プラチャンダ議長が当初確実視されたが、大統領選で「裏切られた」として統一共産党とマデシ人権フォーラムの内閣不参加が決まり、ネパール会議派も入閣しないので、一時組閣が困難になった。7月22日毛派の中央委員会で野党の立場をとることを議決[37]。その後、ヤーダブ大統領が、毛派のプラチャンダ議長に全議会的な内閣を組織するように指示したが、ネパール会議派と国防大臣のポストをめぐって対立、選挙により首相を決めることとなった。統一共産党がキャスティング・ボートを握ることとなったが、毛派を支持、これにマデシ人権フォーラムも加わり、毛派のプラチャンダ議長を首相に推すこととなった。

8月15日投票が行われた結果、有効投票数551票の内、プラチャンダプシュパ・カマル・ダハル)が464票を獲得し、当選。ネパール会議派が推したシェール・バハドゥル・デウバ元首相は113票に留まった[38]。プラチャンダ首相は連立与党毛沢東派統一共産党マデシ人権フォーラム他)と組閣交渉に入ったが、最終的に8月31日、全閣僚が就任し、プラチャンダ内閣が成立した[39]制憲議会選挙から4か月でようやく新政権が発足した。

2009年5月3日、プラチャンダが毛派民兵組織(ネパール人民解放軍)の扱いを巡り対立していたルークマングド・カトワル陸軍参謀総長を解任したことに反発し、連立与党が一斉に連立離脱。野党、国軍も抗議し、ヤーダブ大統領も首相を非難。翌5月4日、統一毛派は孤立し、ついにプラチャンダは首相を辞任した。共和政下初の政権崩壊となった。

2009年5月23日、統一毛派など3政党は首相候補を制憲議会に提出せず投票をボイコット、統一共産党総書記マーダブ・クマール・ネパールが統一共産党、ネパール会議派など22政党の推薦を受け、唯一の首相候補として無投票で当選した[40]

その後、1年前後で首相が交代していたが、第2次K.P.シャルマ・オリ政権は3年余り続いた。2021年7月13日、シェール・バハドゥル・デウバが首相に任命された。

制憲議会

本格憲法制定(現在は「暫定憲法」)を目的とする議会で、政府と毛沢東派の「包括的和平協定」で設立が決まった。任期は2年間。2008年4月10日に選挙が行われた。通常の立法機関としての機能も持ち、首相や大統領の任命権も持っている。定数601議席。議長は暫定的にクル・バハドゥール・グルン(ネパール会議派)が務めていたが、7月22日正式の議長としてスバス・ネムワン(統一共産党出身)が満場一致で選出された。

制憲議会は2次にわたり、2015年9月20日に新憲法公布、2017年11月26日連邦議会選挙が実施された。

2019年現在の連邦議会は、両院制であり、上院に当たる代議院が59議席、下院に当たる国民議会275議席、合計334議席となっている。両院とも、2019年時点で殆どを下記の4党が占めている。特に、ネパール共産党は、代議院で59議席中42議席、国民議会で275議席中174議席を占める。

政党 主要政党の詳細は各記事を、小政党の詳細はネパールの政党を参照。

演説を行うプラチャンダ議長(統合前のネパール共産党統一毛沢東主義派の時)

行政機構

ネパールの政府機構は非常に複雑である。官僚機構は内閣の各大臣(Minister)に直結しておらず、首相、そしてその下におかれたChief Secretary(直訳すれば官房長官、実質的には事務次官会議を総括する内閣官房副長官にあたるのかもしれない)が統括し、各省庁にはSecretary(日本で言えば事務次官のようなものか?)がおかれ、各省庁を統括している。こうしてみると、内閣は首相の諮問機関のような役割に見える。非常に首相に権限が集中するシステムに見える。


注釈

  1. ^ これらの王宮は現在のカトマンズにあったと推測されているが、詳しい位置はわかっていない。
  2. ^ 英:General Secretary.ネパール会議派では党首ではなく、また複数いる場合があるので、「総書記」「幹事長」と訳すのは不適と考え、「代表幹事」の訳を充てた。
  3. ^ a b c d ネパールのカーストの一つ
  4. ^ 現代ネパール語でのविक्रमの発音はビクラムだが、学術的にはサンスクリット語読みでヴィクラマ暦と書かれることもある。ネパールに関する項では原音主義に基づきビクラム暦とする。

出典

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