ナショナル・ギャラリー (ロンドン) 歴史

ナショナル・ギャラリー (ロンドン)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/02 00:23 UTC 版)

歴史

設立までの経緯

ラザロの復活』(1517年 - 1519年)
セバスティアーノ・デル・ピオンボ
1824年にアンガースタインのコレクションから購入された最初の絵画の一つで、ナショナル・ギャラリーの最初のコレクションとして収蔵番号「NG1」が与えられている

18世紀後半のヨーロッパでは美術品の王室、貴族コレクションの国有化が進んでいた。現在のアルテ・ピナコテークの基礎となったバイエルン王室コレクションは1779年に、ウフィツィ美術館の基礎となったフィレンツェメディチ家の歴代コレクションは1789年ごろに一般公開されている。フランス王室コレクションも1793年に一般公開されルーブル美術館として現在に至っている[6]。しかしながら当時のグレートブリテン王国ではヨーロッパ大陸におけるこのような潮流とは無関係であり、現在でもイギリスの王室コレクションは王室の私的所有物となっている。1777年にイギリス政府は、世界的な評価が高かったコレクションを購入する機会を得た。イギリス初代首相を務めたロバート・ウォルポールの子孫がウォルポールの美術コレクションを売りに出したのである。当時のイギリス市長で庶民院議員ジョン・ウィルクスはイギリス政府に、この「貴重な宝物」を購入するよう強く求め「大英博物館の広大な庭園に気品あふれるギャラリーを建てて」収蔵することを提案した[7]。しかしウィルクスの主張は通ることなく、ウォルポールのコレクションは20年後にロシア女帝エカチェリーナ2世が全て購入し、現在はエルミタージュ美術館に収蔵されている。

パリスの審判』(1636年頃)
ルーベンス
オルレアン・コレクション由来の絵画

1798年に、オルレアン公フィリップ2世の美術コレクションだったオルレアン・コレクションがロンドンに持ち込まれ、国王ジョージ3世も首相小ピットも購入に興味を示したが、結局このときも美術品の購入は実現しなかった[8]。ただし、現在のナショナル・ギャラリーには所蔵品番号「NG1」の『 ラザロの復活』など、様々な方法で集められたオルレアン・コレクション由来の作品が25点収蔵されている。1799年には画商のノエル・デザンファンからイギリス政府に既存の絵画コレクション売却の打診があった。もともとはデザンファンと共同経営者だったスイス系イギリス人画家フランシス・ブルジョワ (en:Francis Bourgeois) がポーランド国王スタニスワフ2世アウグストのためにそろえたものだったが、1795年に第3次ポーランド分割が行われ、国家自体が消滅してしまったために引き取り手がいなかったコレクションである[6]。しかしながらこの打診は拒否され、結局このコレクションはブルジョワが死去する際に自身の母校ダリッジ・カレッジに遺贈した。このコレクションはイギリスで最初の公立美術館として1814年に開設されたダリッジ・ピクチャー・ギャラリーの前身となっている。1803年にスコットランド人画商ウィリアム・ブキャナンと美術収集家ヨーゼフ・カウント・トゥルホゼスが、それぞれ美術コレクションの購入を打診し、どちらも拒否されているが、後にこれらのコレクションはナショナル・ギャラリーの主要なコレクションとして所蔵されている[6]

準男爵ジョージ・ボーモント。トーマス・ローレンスが描いた肖像画。英国美術振興協会の一員でナショナル・ギャラリーの創設に尽力した

ウォルポールの美術コレクション売却話の後、ジェームズ・バリー (James Barry)やジョン・フラクスマンなど多くの芸術家たちが、イギリス絵画が発展するためには他のヨーロッパ諸国の優れた絵画と接する機会が不可欠であるとして、イギリスでの国立美術館の創設を求めた。1805年に貴族階級の美術愛好家たちによって英国美術振興協会 (British Institution for Promoting the Fine Arts in the United Kingdom) が設立されている。この協会のメンバーは所持していた絵画を、美術学校の夏季休暇時に展示会を開催するために年一回貸与し、芸術家たちが絵画に接する場を提供した。しかしながら貸与された絵画には二流以下の作品も多く[9]、英国美術振興協会を不快に感じ、協会のメンバーたちが所有するオールド・マスターの絵画の売却価格を吊り上げる、詐欺まがいの展示会ではないかと考える芸術家もいた[10]。しかし、英国美術振興協会の創設メンバーの一人準男爵ジョージ・ボーモント (en:Sir George Beaumont, 7th Baronet) のように、自身が所有する16点の絵画の寄贈を申し出て、ナショナル・ギャラリーの創設に大きな役割を果たした人物もいる。

1823年には死去したばかりのロシアからロンドンに亡命してきた銀行家ジョン・ジュリアス・アンガースタインが生前収集していた著名なコレクションが市場に出た。このコレクションは38点の絵画で、ラファエロの作品やホガースの『当世風結婚』シリーズなどが含まれていた。1823年7月1日にホイッグ党の政治家で後に初代ドーヴァー男爵を受爵するジョージ・エイガー=エリス (en:George Agar-Ellis, 1st Baron Dover) が庶民院でこのコレクションを購入する提案を出した。この提案はボーモントの絵画寄贈の申し出によって弾みがつき、政府によるアンガースタインのコレクション購入と、このコレクションを収蔵するのに相応しい建物の建設が議論された。最終的にはオーストリアからの予期せぬ戦時公債の返済があったことによって、イギリス政府はアンガースタインのコレクションを57,000ポンドで購入することを決定した。

設立と初期

ペルメル街100番を描いたドローイング。1824年から1834年にかけてナショナル・ギャラリーがあった場所

1824年5月10日に、アンガースタインが以前所有していたロンドンのペルメル街100番のタウンハウスにナショナル・ギャラリーが開館した。1826年にボーモントがナショナル・ギャラリーに寄贈を申し出ていた絵画コレクションが、続いて1831年には著名な画商で美術品収集家でもあったウィリアム・ホルウェル・カー (en:William Holwell Carr) が遺贈した35点の絵画が収蔵された[11]。開館当初の絵画管理は画商で画家でもあったウィリアム・セギエ (en:William Seguier) 一人が担い、同時にギャラリー全体にも責任を負わされていたが、1824年7月に新しく評議員会が結成され、役割と責任が分担されることとなった。

ペルメル街のナショナル・ギャラリーは常に入場客であふれており、人いきれで蒸し暑く、パリのルーブル美術館などに比べて建物の規模が小さかったこともあって、国を代表する美術館としては相応しくないのではないかという世論が高まった。しかしナショナル・ギャラリーの評議員に就任していたエイガー=エリスは、ロンドン中心部のペルメル街という場所が美術館の存在意義に正しく合致していると評価していた[12]。後にペルメル街100番が地盤沈下を起こし、ギャラリーは一時的に105番に移設されたが、作家アントニー・トロロープは105番の建物を「薄汚く重苦しいちっぽけな建物で、素晴らしい絵画を展示する場所としてはまったく不適格だ」と酷評している[12]。その後、100番、105番ともに、カールトン・ハウス・テラス へと続く道路を敷設するために取り壊されることが決定した[13]

1832年にウィリアム・ウィルキンスの設計による新しい美術館の建築が始まった。チャリング・クロスの以前王室厩舎があったところで、1820年代にトラファルガー広場として改装された場所である。この場所は、富裕層が住むウェスト・エンドと、貧困層が住む東地域との中間に位置するという点に意味があった[14]。その一方で1850年代には、階級階層とは関係なく優れた芸術には誰もが接することができるべきであり、薄汚れたロンドン中心部や欠点だらけのアンガースタイン邸などではなく、サウス・ケンジントン (en:South Kensington) に移転すべきではないかという現実的ではない議論もあった。1857年の議会で「絵画のコレクションそれ自体が目的ではなく、人々に高尚な楽しみを提供する目的にのみ絵画を収集する」という声明が出された[15]

歴代館長による発展

ナショナル・ギャラリー歴代館長
チャールズ・ロック・イーストレイク 1855年 - 1865年
ウィリアム・ボクソール 1866年 - 1874年
フレデリック・ウィリアム・バートン 1874年 - 1894年
エドワード・ポインター 1894年 - 1904年
チャールズ・ホルロイド 1906年 - 1916年
チャールズ・ホームズ 1916年 - 1928年
オーガスタス・ダニエル 1929年 - 1933年
ケネス・クラーク 1934年 - 1945年
フィリップ・ヘンディ 1946年 - 1967年
マーティン・ディヴィス 1968年 - 1973年
マイケル・レヴィ 1973年 - 1986年
ニール・マグレガー 1987年 - 2002年
チャールズ・ソマレス・スミス 2002年 - 2007年
ニコラス・ペニー 2008年 -

15世紀から16世紀にかけては、イタリア絵画がコレクションの中心だった。開設以来最初の30年間にわたり、絵画収集の権限を持っていた評議委員会が購入したのは盛期ルネサンスの画家たちの作品がほとんどだったためである。この評議員会の保守的な嗜好が貴重な絵画の購入機会を逃すことにもつながり、後にナショナル・ギャラリーが1847年から1850年は1点の絵画も購入できなくなるという混乱の原因にもなっている[16]。これらの事態を憂慮した1851年の庶民院のレポートでは、評議員会を上回る権能を持った館長職の設置が求められた。識者の多くは、以前ナショナル・ギャラリーの照明やコレクションの展示方法について顧問の役割を果たした、ドイツ人美術史家のグスタフ・フリードリヒ・ワーゲン (en:Gustav Friedrich Waagen) が館長として着任するのではないかと考えていた。しかしながらヴィクトリア女王、その王配アルバート、首相ジョン・ラッセルらに、ギャラリーでの絵画管理の仕事ぶりを認められていた画家チャールズ・ロック・イーストレイク (Charles Lock Eastlake) が館長に任命された。イーストレイクはヨーロッパ絵画の研究会アランデル・ソサエティ (EN:Arundel Society) 創設に大きな役割を果たした人物で、当時のロンドンでも一流の美術専門家として知られていた。


キリストの洗礼』(1450年頃)
ピエロ・デッラ・フランチェスカ,
イーストレイクの購入絵画

愛の寓意』(1545年)
アーニョロ・ブロンズィーノ
イーストレイクの購入絵画

新館長イーストレイクが好んでいたのは初期ルネサンス絵画初期フランドル絵画だった。どちらもそれまでのギャラリーの評議員会から無視され続けていた作品群だが、美術研究者からは徐々に注目されつつあった分野だった。イーストレイクは毎年1回ヨーロッパ大陸に渡り、特にイタリアを訪れてナショナル・ギャラリーに相応しい絵画を捜し求めた。そしてイーストレイクはパオロ・ウッチェロの『サン・ロマーノの戦い』のような重要な148点の絵画を諸外国で、46点の絵画をイギリスで購入した[17]。イーストレイクは、評議員会からは興味をもたれなかった類の絵画を集めた自身のプライベート・コレクションも持っていた。ただし、このプライベートコレクションの最終的な目的はナショナル・ギャラリーの所蔵に加えることであり、イーストレイクの死後に、友人で後任の館長となったウィリアム・ボクソール (William Boxall) とイーストレイクの未亡人エリザベス・イーストレイク (en:Elizabeth Eastlake) によって正式にナショナル・ギャラリーのコレクションとなっている。

ギャラリーが狭く、収蔵、展示スペースが少ないことは依然として深刻な問題だった。1845年にロバート・バーノンから大量のイギリス絵画の遺贈があったが、ウィルキンスが設計した建物には収容しきれず、当初はペルメル街50番のバーノン邸に展示され、後にマールバラ・ハウス (en:Marlborough House) に移動された[18]。1851年に国民的イギリス人画家J. M. W. ターナーが死去し、1000点以上の絵画を残したときにも十分な対応が出来ず[19]。ナショナル・ギャラリー本体ではなく、バーノンの遺贈絵画とともに離れたサウス・ケンジントンで展示される始末だった。このことはイギリス絵画をナショナル・ギャラリーではなく別の場所で展示するという先例となり、1897年の分館ナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート(現在のテート・ブリテン)開設につながった。1790年以降に誕生した画家たちの作品をミルバンク (en:Millbank) に建設されたナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アートへと移されることになったため、ホガース(1697年 - 1764年)、J. M. W. ターナー(1775年 - 1851年)、コンスタブル(1776年 - 1837年)らの作品はイギリス絵画ではあるが、現在でもトラファルガー広場のナショナル・ギャラリーに展示されている。ターナーの遺言には、フランス人画家クロード・ロランの作品に自身の絵画を2点並べて展示することとした条項があるが[20]、現在これらの絵画はナショナル・ギャラリーと、1985年にテート・ブリテンに増設されたクロア・ギャラリーに分散して収蔵されている。

第3代館長フレデリック・ウィリアム・バートン は18世紀絵画コレクションの基礎を作り、イギリスのプライベートコレクションから傑出した絵画の購入に成功した。1885年にブレナム宮殿のコレクションから、ルネサンス盛期イタリア人画家ラファエロの『玉座の聖母子と洗礼者聖ヨハネ、バーリの聖ニコラウス(アンシデイの祭壇画)』とバロック期フランドル人画家ヴァン・ダイクの『チャールズ1世騎馬像』の2作品を過去最高額の87,500ポンドで購入している。この高額な買い物はナショナル・ギャラリーの「絵画収集黄金時代」に終止符を打つことになり、これ以降数年間ナショナル・ギャラリーは絵画を購入することができなくなった[21]。1890年にランドール伯ウィリアム・ プレイデル=ブーヴェリエ (en:William Pleydell-Bouverie, 5th Earl of Radnor) から、ルネサンス期ドイツ人画家ハンス・ホルバインの『大使たち』を入手しているが、これは私人からの寄付によって購入された最初の絵画だった[22]

20世紀前半

鏡のヴィーナス』(1647年 - 1651年)
ディエゴ・ベラスケス

20世紀初頭の農業恐慌で、多くの貴族階級が個人所有の絵画を手放したが、アメリカ人富豪、財閥の持つ潤沢な資金力にイギリスの美術館は対抗できず、多くの作品がアメリカへと流出した[23]。これを教訓として設立された、イギリスへの絵画購入を目的とする基金がアート・ファンド (en:The Art Fund) である。ナショナル・ギャラリーがアート・ファンドを利用して、1906年にディエゴ・ベラスケスの『鏡のヴィーナス』、1909年にはホルバインの『デンマークのクリスティーナ、ミラノ公妃』をそれぞれ購入している。また、貴族階級の多くが財政的危機にあったが、その後10年間に渡ってプライベートコレクションから重要な絵画の寄贈が相次いだ。1909年には実業家ルードウィッヒ・モンドから、ラファエロの『モンドの磔刑』を含む42点のイタリアルネサンス絵画がナショナル・ギャラリーに寄贈された[24]。その他重要な絵画を寄贈した人物として、1910年のジョージ・ソルティング (en:George Salting)、1916年のオースティン・ヘンリー・レヤード、1917年のヒュー・レーン (en:Hugh Lane) があげられる。ヒュー・レーンにはコレクションをナショナル・ギャラリーへ寄贈するという遺書と、コレクションをダブリンのヒュー・レーンギャラリーに寄贈するという証人の署名のない遺書があり、どちらが正しい遺書なのか大きな議論を巻き起こした[25]

『傘』(1883年)
ルノワール

政治的な抗議行動でナショナル・ギャラリーの絵画が損傷を受けるという珍しい事件が1914年5月10日に起こった。過激婦人参政権論者のカナダ人女性メアリー・リチャードソン (en:Mary Richardson) が、数日前に仲間の婦人参政権論者であったエメリン・パンクハーストが逮捕されたことに対する抗議として、ディエゴ・ベラスケスの『鏡のヴィーナス』を肉切り包丁で切り裂いたのである[c]。また、同じ月に別の過激婦人参政権論者がジョヴァンニ・ベリーニの5点の絵画を傷つけた。第一次世界大戦の開始までナショナル・ギャラリーは閉鎖されるべきだという理由からで、パンクハーストが結成した婦人社会政治連合 (en:Women's Social and Political Union, WSPU) が絵画に対する攻撃を止めるよう呼びかけた声明は無視されていた[26]

ナショナル・ギャラリーへの印象派絵画の収蔵は、異例ともいえる波乱含みで開始された。1906年にヒュー・レーンが、印象派フランス人画家ルノワールの『』など、39点の作品をナショナル・ギャラリーに自身の死後に寄贈すると発表した。ただし、レインが住んでいたアイルランドダブリンに、これらの絵画を展示するのに相応しい美術館が建てられなかった場合には、という条件がついていた。この発表は当時の館長チャールズ・ホルロイド (en:Charles Holroyd) から大歓迎されたが、ギャラリーの評議員会からは激しい反対を受けた。評議員の一人アルジャーノン・ミットフォードは「芸術の聖域たるナショナル・ギャラリーに醜悪な現代フランス絵画が展示されているのを見るくらいなら、セント・ポール大聖堂に行ってモルモン教の伝道演説を聴くほうを選ぶ」としている[27]。おそらくはこのような評議員会の言動に嫌気が差したレーンは、絵画は全てアイルランドにのみ寄贈すると遺言書を修正したが、この遺言書には立会人も、証人の署名もなかったということは重要な点である[28]。1915年にレーンが乗船していた客船ルシタニアが、ドイツ海軍からの攻撃を受けて沈没、レーンもこのときに死亡し、その後遺言書を巡る議論が1959年まで続いた。現在ではレーンが残したコレクションの多くがヒュー・レーン・ダブリン市立美術館 (en:Dublin City Gallery The Hugh Lane) に常設展示されており、一部の絵画は数年置きにロンドンとダブリンで交互に展示されている。

実業家サミュエル・コートールド (en:Samuel Courtauld (art collector)) が1923年に創設した現代絵画を購入する基金が、イギリスに新印象派フランス人画家ジョルジュ・スーラの『アニエールの水浴』など重要な絵画をもたらした[29]。これらの絵画は1934年にナショナル・ギャラリーからテート・ギャラリーへと移管されている。

第二次世界大戦下

チャールズ1世騎馬像』(17世紀前半)
アンソニー・ヴァン・ダイク
ナショナル・ギャラリー所蔵の絵画で、もっとも大きな作品の一つ(365cm × 289 cm)

ナショナル・ギャラリー所蔵の絵画は第二次世界大戦勃発の直前に、戦禍を避けるためにウェールズ各地へ分散移動させられた。移動先に選ばれたのはペンリン城 (en:Penrhyn Castle)、バンガー大学、アベリストウィス大学 (en:Aberystwyth University)などだった[30]。1940年にナチス・ドイツがフランスに侵攻したため、より安全な保管先が必要とされ、絵画をカナダへと移す案が検討された。しかしこの案は首相ウィンストン・チャーチルによって即時却下され、チャーチルは当時のナショナル・ギャラリー館長ケネス・クラークに「洞窟や地下壕にでも隠せ。一枚の絵画もイギリス諸島から出て行くことはありえない」という電報を出している[31]。チャーチルからの命令を受け、北ウェールズのブラナイ・フェスティニオグ (en:Blaenau Ffestiniog) 近郊の採石場が絵画の隠匿場所に選ばれた。この新たに提供された場所で当時絵画管理の職に就いており、後にギャラリー館長に就任するマーチン・ディヴィス (en:Martin Davies (museum director)) が、同時に保管されたギャラリーの蔵書を参照しながらコレクションの学術的目録の編纂を始めている。保管場所に選ばれた採石場が、絵画を保存する上で重要な要素となる気温と湿度が一定であったかどうかを長く疑問視する修復技術者もいたが、現在ではそれらの要素を再確認することは不可能である[32]。ナショナル・ギャラリーに最初に空調管理設備が設置されたのは1949年になってからであり、絵画がそれ以前にギャラリー内で何らかの悪影響を受けた可能性もあったためである[18]

絵画が全て避難した空っぽのナショナル・ギャラリーでは、一般国民の戦意高揚のためにイギリス人ピアニストマイラ・ヘスが毎日演奏会を開いた。この当時ロンドン市内のあらゆるコンサート・ホールが閉鎖されていたためでもあった[33]ポール・ナッシュヘンリー・ムーア、スタンリー・スペンサー (en:Stanley Spencer) ら、当時を代表するイギリス人画家たちが戦争画家 (en:War artist) に任じられ、彼らの描いた戦争絵画の展示が1940年から開始された。戦争芸術家諮問委員会 (War Artists' Advisory Committee) はギャラリー館長のクラークに、「どんな名目でも構わないから画家たちに戦争絵画を描き続けさせる」ように求めている[34]。1941年に一人の画家から、近年ギャラリーの所蔵となったレンブラントの『マルガレータ・デ・ヘールの肖像』を見たいという要望が出た。この要望から「今月の一枚 (Picture of the Month)」の構想が生まれ、毎月採石場から1点の絵画が運び出され、ナショナル・ギャラリーで大衆に展示されることになった。美術評論家ハーバート・リードはこの年にナショナル・ギャラリーのことを「爆撃され荒廃した大都市の中心部にある、芸術の最前線基地」と評している[35]。絵画が無事にトラファルガー広場のナショナル・ギャラリーに戻ってきたのは、終戦した1945年のことだった。

第二次世界大戦後

ディアナとアクタイオン』(1556年 - 1559年)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
2008年にスコットランド国立美術館と共同で購入した

終戦後、ナショナル・ギャラリーでは徐々に新規の絵画購入が困難になっていった。オールド・マスターや印象派、ポスト印象派の画家たちの作品の相場が、ギャラリーの資金力を上回って高騰したためである。終戦後にナショナル・ギャラリーが購入した重要な絵画には、1962年に購入したルネサンス期イタリア人画家レオナルド・ダ・ヴィンチの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(1499年 - 1500年)や、1972年に購入したヴェネツィア派イタリア人画家ティツィアーノの『アクタイオンの死』など、一般大衆への訴えかけと助力が無ければ入手不可能だったものもある。ナショナル・ギャラリーに政府から交付される絵画購入補助金は1985年に凍結されたが、同じ年に大富豪の篤志家ジョン・ポール・ゲティから5,000万ポンドの寄付を受け、有名な絵画の購入準備が整った[18]。しかしながら皮肉なことに、ナショナル・ギャラリーの絵画購入に極めて大きな脅威となったのは、ジョン・ポール・ゲティの疎遠になった父親のジャン・ポール・ゲティカリフォルニアに設立した、潤沢な資金力を持つJ・ポール・ゲティ美術館で、両美術館のこの関係は現在でも変化していない。1985年には実業家で貴族院にも議席を持つ大富豪ジョン・セインズベリ (en:John Sainsbury, Baron Sainsbury of Preston Candover) と弟のサイモン・セインズベリ (en:Simon Sainsbury) からの寄付で、セインズベリ棟がギャラリーに増設された。

1987年にギャラリー館長に就任したニール・マグレガーのもとでコレクションが再分類され、イーストレイク以来続けられてきた絵画の展示方法が変更され、絵画は年代順に配置された。これは国別の特徴よりも、19世紀以降主流となった美術史観である、様々な文化がそれぞれに影響を及ぼし、交じり合っていく過程の重要性を強調する意図だった。

カーネーションの聖母』(1507年頃)
ラファエロ

1999年にイタリア美術の専門家デニス・マホン (en:Denis Mahon) からイタリアバロック絵画26点が遺贈された。20世紀初めごろにはバロック絵画は不当に低く見られており、1945年にはギャラリー評議員会は、バロック期イタリア人画家グエルチーノの絵画を、わずか200ポンドで売却したいというマホンからの申し出を断っている。しかし2003年にその絵画には400万ポンドの価値があるとされた[36]。マホンのコレクションは、ギャラリーがそれらの絵画を売却することも、観覧者から入場料をとることもないという条件の下で遺贈されている[37]

アソシエイト・アーティスト
ポーラ・レゴ 1989年 - 1990年
ケン・キフ 1991年 - 1993年
ピーター・ブレーク 1994年 - 1996年
アナ・マリア・パチェコ 1997年 - 1999年
ロン・ミュエク 2000年 - 2002年
ジョン・ヴァーチェ 2003年 - 2005年
アリソン・ワット 2006年 - 2008年
マイケル・ランディ 2009年 -

1989年以来、ナショナル・ギャラリーは現代芸術家たちにアトリエを提供し、ギャラリーでの常設展示を前提とした作品制作を促進している。選ばれた芸術家は通常2年間「アソシエイト・アーティスト」と呼ばれる立場に任ぜられ、在任期間の最後にナショナル・ギャラリーで個展を開くことができる。

ナショナル・ギャラリーと、もともとナショナル・ギャラリーの分館として設立され、1955年に独立組織となったテート・ギャラリーとの権限、役割分担は長期間あいまいになっていたが、1996年に明確に定義された。1900年以前の絵画をナショナル・ギャラリーの所蔵とすることが決定し、それまでナショナル・ギャラリーが所蔵していた60点以上の1900以降の絵画がテート・ギャラリーへと移管され、テート・ギャラリーからは返礼としてポール・ゴーギャンらの絵画がナショナル・ギャラリーに移されている。しかしながら、今後ナショナル・ギャラリーが増築されてスペースに余裕ができれば、これらの絵画が再度ナショナル・ギャラリーに戻ってくる可能性もある[38]

21世紀になってから、ナショナル・ギャラリーは絵画購入のために大規模な資金集めのキャンペーンを2度行った。2004年のラファエロの『カーネーションの聖母』と2008年のティツィアーノの『ディアナとアクタイオン』で、『ディアナとアクタイオン』は、第7代サザーランド公フランシス・ロナルド・エジャートン (en:Francis Egerton, 7th Duke of Sutherland) から、5,000万ポンドでスコットランド国立美術館と共同購入した[39]。さらに両美術館は、エジャートンのコレクションから『ディアナとアクタイオン』と一対となっているティツィアーノの『ディアナとカリスト』についても2012年に購入する予定であった[40][41]。しかしナショナル・ギャラリーには価格が暴騰しているオールド・マスターの絵画を単独で購入できるだけの資金力がなく、広く公衆に呼びかけて資金協力を求めないとそのような絵画を購入することができなかった。2007年に当時の館長だったチャールズ・ソマレス・スミス (en:Charles Saumarez Smith) は、この状況に対する失意を表明した[42]。その後、両美術館は資金調達に長い時間をかけ、2012年3月に提示価格から500万ポンド引き下げられた4500万ポンドで『ディアナとカリスト』を購入した。このうち2000万ポンドは様々な寄付によるものであり[43]、2,500万ポンドはナショナル・ギャラリーの積立金によるものであった[44]


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