ドーハの悲劇 その後

ドーハの悲劇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 17:43 UTC 版)

その後

1994年、日本が出場を逃したワールドカップ・アメリカ大会でアジア勢は奮闘した。サウジアラビアはエースオワイランを中心に躍進。アジア勢として7大会振りのベスト16入りを果たす。土壇場で出場を決めた韓国も勝利を収めることはできなかったが、スペイン戦では試合終了5分前から2点差を追いつき、ドイツ戦でも3点ビハインドから1点差に追い上げ、前回大会全敗に終わったアジア勢の復活を印象付けた。

ドーハの悲劇から1年後、アジア予選突破・世界大会出場というフル代表が果たせなかった目標は、アンダー世代によってドーハの地で達成された。1994年10月、カタールで行われたU-16アジアユース選手権に出場したU-16日本代表は、アル・アリ競技場で行われた決勝戦を山崎光太郎の延長ゴールデンゴールで勝利し、初のアジア制覇と翌年のU-17世界選手権エクアドル大会出場を決めた。中心メンバーの小野伸二高原直泰稲本潤一らは1999年のワールドユースで準優勝し、「黄金世代」と呼ばれるようになる[48]

1996年、U-23日本代表アトランタ五輪アジア最終予選でサウジアラビアと対戦した際には、ハーフタイム中に選手の興奮を鎮めたり[49]、リードした後半に効果的に時間を稼ぐなどドーハの悲劇の教訓が活かされ[50]、28年ぶりの五輪出場が成し遂げられた[51]

1998年のワールドカップ・フランス大会以降、アジア最終予選はホーム・アンド・アウェー方式で行われるようになった。日本は1997年のアジア最終予選イランとの3位決定プレーオフに勝利してワールドカップ初出場を決めている(ジョホールバルの歓喜)。1994年大会出場を逃したいわゆる「ドーハ組」の中で、1998年大会の本戦メンバーに選ばれたのは中山雅史と井原正巳の2名のみだった。以後、日本は自国開催枠出場の2002年日韓大会を含め、2018年ロシア大会まで6大会連続でワールドカップ出場を果たしている。

2011年、アジアカップ・カタール大会で日本代表は6試合中5試合をドーハで戦い、史上初となる4度目のアジア制覇を成し遂げ、「もうドーハは『悲劇の地』では無くなった」などと言われた[52]。特に初戦のヨルダン戦では、敗色濃厚の後半ロスタイムにショートコーナーからヘディングで同点に追いつくという、まさに18年前の立場を逆にしたかのような試合展開であった。

2013年、2014年ワールドカップ・ブラジル大会アジア最終予選においては、『日本[注 7] がドーハの地でイラク[注 8] との最終戦[注 9] に臨む』ことが話題となった(試合は1-0で日本が勝利)。

2015年アジアカップ・オーストラリア大会のグループD第2戦では、ドーハの悲劇にDFとして出場したラディ・シュナイシェルが指揮を執るイラクとブリズベンで対戦し、1-0で日本が勝利した。

2016年リオデジャネイロ五輪アジア最終予選を兼ね、ドーハでアジアU-23選手権が行われた。準決勝ではU-23日本代表がU-23イラク代表と対戦し、後半48分に決勝点を奪ってリオデジャネイロ五輪本大会出場を決めた。この世代の選手は「ドーハの悲劇」が起きた1993年かそれ以降に生まれた選手たちだった。手倉森誠監督は勝利後のインタビューで「日本サッカー界のことを思えば、ロスタイムで取るあたり歴史を逆転させた。いい勝ち方だなと思います」と述べた[53]


注釈

  1. ^ カタール時間16時15分開始の日本-イラク戦でロスタイムにイラクの同点ゴールが決まった時刻は18時過ぎであり、6時間の時差の関係で、日本では日付が変わり10月29日の0時過ぎとなっていた。
  2. ^ 三浦泰年は読売サッカークラブにいた頃ラモスや実弟の三浦知良とプレーし、SBをした経験もあった。
  3. ^ 当時のルールではFIFA公式戦の交代選手は2人まで。なお1994年ワールドカップ本大会からフィールドプレーヤー2人+ゴールキーパー1人の最大3人に改正された[18]
  4. ^ サッカー不人気の理由に「引き分けが多い」というイメージがあったため、発足当時のJリーグは90分間で同点の場合はVゴール方式の30分間の延長戦を行い、それでも決まらない場合はPK戦を行ない決着をつけるという、引き分けが一切起こらないルールを採っていた。
  5. ^ 当時は終了間際にサイドラインで第三審判がアディショナルタイムの目安を表示するルールはなかった。
  6. ^ 後半4分にオムラム・サルマンのヘディングシュートが決まったが、オフサイド判定で取り消され、怒ったイラクの観客が空き缶を投げ入れた。
  7. ^ 前節の試合で既に本大会出場を確定。
  8. ^ FIFA安全規則違反により、アジア予選のホームゲーム国内開催権を剥奪。
  9. ^ 組み合わせの都合により、日本は最終節の対戦がない。

出典

  1. ^ Agony amid drama in Doha”. FIFA.com. 国際サッカー連盟 (2017年6月12日). 2017年10月27日閲覧。
  2. ^ a b c 渡辺達也 (2013年10月14日). “「ドーハの悲劇」イラク戦で出場できなかった北澤豪の本音”. Web Sportiva. 集英社. 2013年10月15日閲覧。
  3. ^ 布施鋼治 (2013年10月27日). “平均視聴率48.1%!ドーハの悲劇、テレビ東京の舞台裏”. Web Sportiva. 集英社. 2013年11月2日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 一志治夫 (2013). “'93・10・28の夜〜希望と蹉跌を味わった者たち〜”. Sports Graphic Number (文藝春秋): 56-61. 
  5. ^ 松本秀夫『プロ野球 実況できなかったスゴイ話』ぜんにち出版、2009年、245-246頁。ISBN 978-4-86136-122-7
  6. ^ a b 『1945-2015 サッカー「戦後70年史」』ベースボールマガジン社<分冊百科シリーズ12>、2015年、48頁。
  7. ^ 川淵三郎『私の履歴書』 日本経済新聞 2008年2月17日
  8. ^ 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、61頁。
  9. ^ a b c 潮智史『日本代表監督論』63頁。
  10. ^ a b c 大西秀明 (2013年9月5日). “ドーハの「悲劇」と「奇蹟」”. ことばマガジン (朝日新聞DIGITAL). http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2013080500014.html 2018年7月17日閲覧。 [リンク切れ]
  11. ^ 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、72頁。
  12. ^ ドーハの悲劇、20年後に出てきたエピソード”. web Sportiva. 集英社 (2013年10月20日). 2016年11月20日閲覧。
  13. ^ a b 後藤健生『日本サッカー史 日本代表の90年』双葉社、2007年、286頁。
  14. ^ 一志治夫 (2013年11月15日). “<狂気の左サイドバックが語る代表の20年> 都並敏史 「僕を一回り超える世界基準の男が現れた」”. Number web. 2017年8月16日閲覧。
  15. ^ 賢者は敗北に学ぶが、愚者は敗北に浸る……「ドーハの悲劇」生き証人・清雲栄純が語るオフトJAPAN”. ぐるなび (2017年8月10日). 2018年7月11日閲覧。
  16. ^ 93年のドーハ。DF勝矢寿延を奮い立たせた「ふたり」とは?”. Web Sportiva. 集英社. pp. 3-4 (2013年10月23日). 2018年6月29日閲覧。
  17. ^ 一志治夫『狂気の左サイドバック』、p186。
  18. ^ 大住良之 (1994年4月5日). “No.48 GKはサッカー選手ではない?”. サッカーの話をしよう. 2018年8月27日閲覧。
  19. ^ 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』318頁。
  20. ^ 柱谷哲二が語るドーハの悲劇。イラク戦で投入してほしかった選手の名は”. Web Sportiva. 集英社. p. 6 (2020年2月1日). 2020年9月8日閲覧。
  21. ^ 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』272頁。
  22. ^ a b 二宮清純 (2013年5月9日). “福田正博(サッカー解説者)<前編>「重圧に押し潰された“ドーハの悲劇”」”. sports communications. 2016年11月20日閲覧。
  23. ^ 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、57頁。
  24. ^ 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』271頁。
  25. ^ 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』275頁。
  26. ^ 二宮寿朗 (2015年3月19日). “<再び世界の頂点を目指して> “未来のサッカー日本代表”を強くするために、今やるべきことを考える。”. Number web. 2016年11月21日閲覧。
  27. ^ "ラモス瑠偉". ワンダフルライフ. 20 July 2014. フジテレビ
  28. ^ 一志治夫『狂気の左サイドバック』182頁。
  29. ^ a b “ドーハの悲劇”から25年…ラモス瑠偉が武田修宏に「あり得ない!」と恨みを爆発”. ザテレビジョン. KADOKAWA (2018年5月7日). 2018年6月29日閲覧。
  30. ^ 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、47頁。
  31. ^ 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、25頁。
  32. ^ a b 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、43頁。
  33. ^ フセインの息子の元影武者、「ドーハの悲劇」の背景を暴露”. 映画.com (2011年10月21日). 2013年9月8日閲覧。
  34. ^ a b 杉山 『「ドーハ以後」ふたたび』37頁。
  35. ^ 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、31頁。
  36. ^ 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』316頁。
  37. ^ 一志 『狂気の左サイドバック』188頁。
  38. ^ a b 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』322頁。
  39. ^ 戸塚『青の群像 サッカー日本代表クロニクル 1992-2007』55頁。
  40. ^ 空白の17秒 ~日本がW杯にもっとも近づいた日~ クローズアップ現代+ 1993年12月22日放送
  41. ^ 鈴木洋史『天国と地獄 ラモス瑠偉のサッカー戦記』323頁。
  42. ^ ビートたけしのTVタックル 2017年7月2日
  43. ^ 二宮清純 (2013年11月3日). “ラモス瑠偉「復讐するは我にあり」”. sports communications. 2016年11月21日閲覧。
  44. ^ 二宮清純 (2010年12月10日). “第127回 日本代表監督、こう選んだ<前編>”. Sports Communications. 2016年11月20日閲覧。
  45. ^ 『1945-2015 サッカー「戦後70年史」』ベースボールマガジン社<分冊百科シリーズ12>、2015年、26頁。
  46. ^ 西部謙司 『サッカー日本代表システム進化論』<学研新書070>、学習研究社、2010年、81頁。
  47. ^ ドーハの悲劇から20年、セルジオ越後氏「あれは悲劇じゃない」 サッカーキング 2013年10月28日
  48. ^ 小野、高原、稲本ら後の黄金世代が出場、初のアジア王者に/1994年のAFC U-16選手権”. SOCCER KING (2015年9月19日). 2020年9月9日閲覧。
  49. ^ 浅田真樹 (2013年10月17日). “ドーハの夜。オフトが綴った「二文字」が日本の未来を開いた”. Web Sportiva. 集英社. 2013年11月2日閲覧。
  50. ^ “マイアミの奇跡”よりも熱かった! “ドーハの悲劇”の教訓が活かされたアトランタ五輪予選・サウジアラビア代表戦2/2 フットボールチャンネル 2013年10月11日
  51. ^ 【元川悦子コラム】アトランタ五輪プレイバック:「28年の壁」をこじあけた日本、そして「マイアミの奇跡」 Soccer Journal編集部 2012年6月20日
  52. ^ アジア杯優勝、もうドーハは「悲劇の地」ではなくなった (1/4ページ) 日本経済新聞 2011年1月31日
  53. ^ “手倉森監督感慨「歴史逆転させた」ドーハでイラク相手にロスタイムV弾”. Sponichi Annex. (2016年1月27日). http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2016/01/26/kiji/K20160126011928910.html 2016年1月27日閲覧。 [リンク切れ]


「ドーハの悲劇」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ドーハの悲劇」の関連用語

ドーハの悲劇のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ドーハの悲劇のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのドーハの悲劇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS