ドラえもん (1973年のテレビアニメ) 設定

ドラえもん (1973年のテレビアニメ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 14:00 UTC 版)

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  • 制作主任の真佐美は、製作にあたってドラえもんの色を決めるのに『小学二年生』編集長の井川浩や『小学五年生』の坂本副編集長、『小学三年生』の上野編集者らと会い、原作者に修正など無いか見てもらうためのゲラを渡され、原作の3色刷のカラーページを参考にして色指定を行ったという。この時、参考にしたカラーページのドラえもんは青色で印刷されていたため、青いドラえもんを何色か作り、藤子Fの校閲を受け青色に決定した。しかし、実際に青色にすると空の色と一緒になってしまうため、作画スタッフは背景に雲を入れるなどして対処したという[3][6]
  • 第1話「出た!ドラえもんの巻」(1973年4月1日放送)には、相手の頭も体も弱くさせるクルクルパー光線銃という秘密兵器が登場している。後に真佐美は、今では放送不可能な名称だが、当時はまったく問題なかったと述べている[3]。なお、この話は『小学一年生』1970年11月号掲載の「クルパーでんぱのまき」(てんとう虫コミックス未収録)に改定を加えたものであり、原作の「クルパーでんぱ」と同様の効果を及ぼす。またアニメ版ではガチャ子でなくドラえもんが使用した。
  • チーフディレクター上梨満雄によれば放送局から内容への注文は特になく、日本テレビプロデューサーの藤井賢祐から打ち合わせ前に「この番組のへそ(キーポイント)はなんですか」と聞かれた程度のものだった。ただし商標権との兼ね合いで第16回Aパート「おれ署長のだいりの巻」では「プラモデル」を「プラスチックモデル」に言い換えるなど、制作当時の放送コードに合わせた微細な調整は行われていた[2]
  • 一方で真佐美は、中間報告書を提出した頃、日本テレビからの要請で「年上の召使い」然としたドラえもんを「のび太の友達」というイメージに近づけるため、声優を富田耕生から野沢雅子に変更したと証言している[2]。この際、制作側から「今のままの声で良い」と言う意見が出なかったため「そういうことなら仕方ない」と声優交代に応じたが、演出部は富田の降板に反対していたという[2][3]。なお、真佐美は声優交代に対する視聴者の反響について「葉書が回ってくる頃には日本テレビ動画もなくなってしまったから、どのような反響があったかはわからない」[2]と回答しているが、放送当時の読売新聞(1973年7月15日付)には「ドラえもんはユニークな声の魅力に負うところが大だった。どういう事情で変わったのか知らないが、声変わりしたドラえもんは魅力がなくなった」という批判的な投書が掲載されていた。のちに真佐美は「声優さんに途中で変わってもらうと言うことは、大変失礼なことで、声優さんにはなんの落ち度もなく、一方的に交代して貰ったわけで、大変心苦しく思ったことを覚えています。ただ何のトラブルもなく、気持ちよく交代して頂けたと報告を受け安堵いたしました」「新しく『ドラえもん』が始まって声優も大山のぶ代でイメージがぴったりで、これがドラえもんの声だと思いました。作品的にも良く出来上がっていて、文句の付けようもなく、安心してドラえもんをお任せできると、そのとき思ったことを思い出しました」と回想している[3]

原作及び第2作との相違点

初期原作の設定やアニメオリジナル設定を用いているので、第2作以降とは異なる設定が複数存在する。

  • ドラえもん自体がトラブルメーカーで、のび太のために秘密兵器を出すものの、結局失敗してしまうというパターンが多く“保護者”という後年に出来上がったドラえもんの像と正反対なキャラクター像である。これは連載当初のドラえもん像に顕著である。
  • のび太の母、玉子が後年の攻撃的な性格とは異なり、原作初期の温厚な性格で描かれている。
  • 序盤は中年男性だった富田耕生がドラえもん声優を担当したこともあって、非常におっとりとした哀愁漂う親父臭い性格に設定されていた[注 22]。しかし担当声優が野沢雅子に代わって以降、原作の連載初期のような短気で自己主張が強く活発で好戦的な性格に変更され、近所の相撲大会や小学校のラジオ体操などの行事に参加したり、のび太と一緒にのび太の父親に海水浴に連れていくことを強請る描写があり、原作以上に子供らしい性格に描かれている。このように声優の性別が入れ替わるドラえもんの声変わりは、当時の視聴者に大きな衝撃を与えた。
  • シリーズ前半は東京下町を舞台にしたハートフルな人情路線であったのに対し、シリーズ後半では「ドラえもんの声優交代」や「ガチャ子のレギュラー化」など大胆なテコ入れを図ってドタバタ喜劇を中心とした「スラップスティック・コメディ」へと路線変更した。なお放送開始まもない1973年5月末頃までに提出された中間報告書(提出先・配布先ともに不詳)には「のび太を側面から補助する役割としてドラえもんを登場させた」という当初の構成方針について「主人公ドラえもんの性格描写を忘れ、主人公でありながら、ドラえもんを影の薄い存在にしてしまった。しかも、演出テクニックとして、原作の特色であるスラップ・スティックな表現を禁じたために、迫力に欠ける単調なコメディの次元に留まってしまった」と、その性向を「単調なコメディ」と自虐的に捉えた記述も確認できる[43]。これについて藤子不二雄FCネオ・ユートピア編集部のポール舘は「愛読者・視聴者は、のび太にこそ自分の姿を重ねて作品を共感を以て迎え入れることを的確に捉えているのにも関わらず、製作者にとって、マンガ『ドラえもん』の主人公は作品タイトルの『ドラ』本人であってほしい、という不文律を背負ってしまっている『ねじれ』が見受けられる」と指摘している[2]
  • 作風の変化に関してチーフディレクター上梨満雄は「前半は比較的テンポがゆったりして、のび太の良き仲間としてドラえもんを描けたのに対して、後半はテンポアップして時代にはあっていたようですが、せわしかったように思えました。私としては、前半の方が好きでした」「終盤は会社を畳むというので、ドタバタしていましたので、あまりよく憶えていませんが、シリーズ後半がスラップスティックな内容になっていたので、最終回でハートウォーミングな話にできて、うまくまとまったと思いました」と語っている[2]。一方で制作主任の真佐美は「ドタバタナンセンスってのはスタッフの性にあってたのかもね。僕が呼んで来るスタッフは虫プロで一緒にやってた仲間が多いから、だんだん地の虫プロのカラーが濃くなってきた」と語っており、後半になると手塚治虫原作のギャグアニメ悟空の大冒険』のようなテンションの高い作品になっていったという[3]
  • えびはら武司は自著『藤子スタジオアシスタント日記 まいっちんぐマンガ道』(竹書房)で本作を否定する発言を繰り返し行っており[44]、本人へのインタビューで「日テレ版は全然人気が出なくて半年で打ち切りになった。原作にない話やキャラクターが出てきたり、途中でドラえもんの声が変わったり、いじりすぎたんです。アニメ化した人が原作をちゃんと理解してなかったんですね。作り方があまりにメチャクチャで、こんなのもうドラえもんじゃないって作品になっちゃって。見てる側が訳がわからずついていけなくなった」と語っている[30]。一方で藤子不二雄FCネオ・ユートピア主催の藤子アニメ上映会で本編を初視聴した作家の名和広は「作品のノリが同時期の東京ムービー系のギャグアニメの系譜で、非常にテンポが良く、全体的に楽しめました。背景も色彩が濃いシンエイ版なんかよりも全然素晴らしく、下町情緒に溢れていて、まるで小林七郎氏が描かれたみたいでした。観賞後、仲間内で、原作の世界観をいじり過ぎだという意見も聞かれましたが、スネ夫のママが空手の有段者だったり、ジャイアンの父ちゃんが背が低かったり、やたら浪花節を強調したりのアレンジは、大らかな(東京ムービー全盛)時代のギャグアニメならではの微笑ましさがあり、僕的には全然OKだったりもしました。ギャグ的にも異常なパワーを感じさせるのも素晴らしかったですね」と肯定的な評価を下している[45]。またブログ「藤子不二雄ファンはここにいる」を運営している藤子不二雄研究家の稲垣高広も「実際に観てみれば、現在の『ドラえもん』のイメージとは違うものの、原作初期のスラップ・スティックなノリとキャラクターの性格を活かしつつ、独自のアレンジと解釈を施すことで、おもしろい娯楽作品に仕上がっていると感じた。少なくとも、失敗作などというイメージからは程遠いものだった」[45]「ドタバタナンセンスのなかに下町的な人情や活気やユーモアが漂い、しかも秘密兵器で引き起こされる不思議な世界がそこにブレンドされて、屈託なく楽しめる」[46]と高く評価している。なお、えびはらの証言には「人気が出なくて打ち切りになった」「テレ朝版と同じ時間帯の毎週金曜夜7時に放送していた」「(ガチャ子の絵を指して)原作にはないキャラが出た」など事実誤認が散見され[47][48]、一部のネットユーザーからは「非常に一面的で、客観性に欠ける」「当時はテレビアニメ化といえば翻案が行われるのがごく当たり前で、原作に忠実でなかったことを今の価値観で断罪するのは公平ではない」「今になって原作者サイドの一方的かつ感情的な意見を無批判に広めることで、より封印の理由付けに寄与してしまうことも誠実ではない」という批判の声もある[49][50]。こうした本作に対する誤解と偏見のみが伝承流布される状況のなか、真佐美は「私の後期の仕事は一匹狼のところがあってスタッフも少数しか使っておりませんでした。自分から連絡を絶ってしまったので自分を責めるしかないのですが、私が関わった物が闇の中にあるような気がします。正しく伝わっていないのです。『ドラえもん』も短い期間で当時の事を知っているスタッフも居らず仕方がない事だと思います。でも間違って伝えられるのは汗と涙を流した仲間たちに申し訳ありません。出来るだけ思い出して、なるべく正確に伝え残す義務と責任があると考えております」[6]「私としては昔、『日テレ版のドラえもん』があったよと言いたいんです。昔は『とんでもない作品』とか、カラー作品なのに『白黒だ』とか、別のものが『これが日テレ版のセル画だ』とか、間違った情報が出回っていたんです。それが嫌で『一生懸命作ったアニメですよ』と言いたくてサイトを作りました。自分で作った作品だから愛着ありますよね。『こういう作品ですよ』と、見せたいというのが僕の活動の根底にあります」[51]とコメントしている。
  • 脚本を担当した鈴木良武は、本作の方向性に「何につけてもドラえもん頼みである原作のび太の性格に、もう少し自主性を持たせる少年にする方向で始めた番組」と明かしており、文芸担当の徳丸正夫や脚本陣が話し合い「自主性のあるのび太少年」の方向性を決定づけたという[52]。このことに関して鈴木は「藤本先生としては原作の思い通りになっていないと感じていたんでしょうね。ただ、あの先生はそういうことをはっきり拒否しなかったから、僕らがそのまま勢いづいてやってしまった[52]あれはやっぱり失敗でした。のび太が何でもドラえもん、ドラえもんって言うでしょう。それで、僕らはもう少し自立心のあるのび太にしようじゃないか、みたいな話をしたんだけど、子どもたちは別にそれを望んでなかったんですよ[53]と原作とアニメに違いが生まれたことを認めている。なお、最終話のラストシーンでは、ドラえもんに頼らず転げ落ちながらも自転車の練習をする「自立したのび太」が見事に描かれている[20]。本作を取材した安藤健二は最終話「さようならドラえもんの巻」について「ドラえもんのポケットから出てくる未来のハイテクに頼ろうとする、テレビ朝日版の“のび太”とは対照的だった。それは、確かに『ドラえもん』の“のび太”としては失格だろう。しかし、私にはひとりの情熱にあふれる少年の姿として、非常に美しい光景に思えた。庇護者から自立することは、私を含めてドラえもんに夢をかなえてもらう“のび太”に憧れを抱いたすべての人にとって、いつかは向き合わなければいけない現実だったはずだ。夕日に向かって叫ぶ“のび太”の姿を、私は一度でいいから見たいと思った」と語っている[20]
  • 原作に5話だけ登場し、「ライバルキャラがいたほうがいいという軽い思い付きで登場させたが、ちっともよくなかった。焦点が分裂して全く違った性格の漫画になってしまうため、いなかったことになった」という藤子Fの判断により唐突に姿を消したガチャ子だが、アニメ化にあたり当時の原作数の少なさを補うために、レギュラーとして登場させたという。なおガチャ子は、野比家でなく源家に居候している。最終話では未来に帰らず、引き続き20世紀の源家に居残る。
  • 静香の家には、ジャイ子によく似た風貌のボタ子という訛りが特徴的なお手伝いさんがいる(原作ではてんとう虫コミックス第4巻で一度だけ登場)。
  • 富田耕生演じるドラえもんは秘密兵器を出す際、「あ〜らよっ」と江戸弁でかけ声をかけていた。
  • のび太とジャイアンの普段着が赤色。
  • セワシがのび太と同じく眼鏡をかけている。
  • ひみつ道具の総称が「秘密兵器」。
  • タケコプター」の名称が「ヘリトンボ」(原作でも初期作品で使われていた)。
  • どこでもドア」は登場せず「ミラクル扉」という秘密兵器が登場する(1973年5月13日放送の第7回Aパート「決闘! のび太とジャイアンの巻」より)[54]。なお原作では『小学五年生』1973年4月号掲載の「ハイキングに出かけよう」(てんとう虫コミックス第0巻収録)で「どこでもドア」に相当するひみつ道具が初登場しているが、放映当時はまだ名前が命名されていない。
  • ドラえもんの鈴は「ネコあつめすず」というネコを呼び寄せるための鈴だが、原作では故障しており使用描写はない。しかし「ネコあつめすず」の記述以前に、日本テレビ版ではネコを呼び集める「ネコジャラリン」という鈴が登場しており、作品内では故障せず機能していた(1973年8月5日放送の第18回Bパート「くるったハラ時計の巻」より)。
  • 小学校の名称は下町小学校。
  • のび太の担任の姓が我成(がなり)。
  • 本作ではドラえもんは21世紀[55]から来た設定になっている(原作初期設定より)。
  • ジャイアンの母は故人であり、ジャイアンは父子家庭で育つ。
  • ジャイアンの父は体格が小柄で、人柄が良く息子思いの面が強調されていて、息子のためを思って無理をすることがある。腕力はとても弱い設定。名前は「小助」。雑貨屋「正直屋」を営む。真佐美によると普段は乱暴者の剛田武の優しい一面をどうしたら表現できるかということで、このような剛田家の設定になったという[6]
  • 原作第1話から登場している「ジャイ子」は不在の設定。また「小池さん」も登場しない。
  • 放映開始前後に発売された『小学五年生』1973年4月号掲載の「ハイキングに出かけよう」で「ドラミ」が原作に初登場しているが、本作には最後まで登場しなかった[注 23]
  • 明確にドラえもんが未来に帰る最終回が存在する唯一のテレビアニメシリーズである。

注釈

  1. ^ 演出助手」の範囲を超えて作業していたので「担当演出」という名称が使用された[1]。また腰繁男アニメ第2作2期の演出も担当している。
  2. ^ 真佐美ジュン(本名・下崎闊)は企画の経緯について「東京テレビ動画(日本テレビ動画の前身)はずっと任侠路線ばかりやっていたので、次回は少年もので『清水次郎長三国志』をやりたいと、日本テレビ動画社長の新倉がそういう企画を考えて、実際に動いていたのですよ。ところが、その動きの中で『ドラえもん』の存在を知ったのです。これは面白いぞということになりまして、早速『ドラえもん』の企画を立てたら、その企画が先に売れちゃったんです。『新オバQ』のヒットがあったことも大きな要因でしょうが、あの頃『ドラえもん』に目を付けたということは、彼には先見の明があったと言えますね」と証言している[2]
  3. ^ ただし、真佐美はチーフディレクター正延宏三との仕事上のトラブルから放映当初に『モンシェリCoCo』の制作主任を自主降板している[3]
  4. ^ 当時、日本テレビ動画は東京都中野区と元来の本拠だった新潟市にスタジオを構えていた。「東京に本社を移した」とされるが、安藤健二の調査では登記上は最後まで本社は新潟であった[5]
  5. ^ 放送された1973年当時はカラーテレビ白黒テレビの普及率がちょうど半々程度の時期であった。
  6. ^ 第1話の原作は『小学一年生』1970年11月号掲載の「クルパーでんぱのまき」(藤子・F・不二雄大全集3巻に「おかしなでんぱ」として収録)に改定を加えたもの。
  7. ^ 放映当時、キー局の関東地区など民放4局地域では裏番組として『マジンガーZ』(フジテレビ)や『アップダウンクイズ』(毎日放送制作・NETテレビ)などが放映されていた。一方、広島県や福岡県を除く九州各県など日本テレビ系とフジテレビ系をクロスネットとしていた地域では、『マジンガーZ』を遅れネット(または競合他局への放映譲渡)とした上で、本作を同時ネットしていた。なお本作でドラえもんを演じた富田耕生は、『マジンガーZ』でもレギュラーキャラクターであるドクターヘルとヌケ(ボスの子分)の二役を演じていた。
  8. ^ a b MSN産経ニュース(2009年1月12日)の記事には「3クール目への続行も決まりかけた」とある[11]
  9. ^ かつて富田が降板したのは交通事故を起こしたからだという噂があったが、これは事実ではない。この噂は日本テレビ動画の前作『モンシェリCoCo』製作の打ち合わせのため、制作主任の真佐美が日本テレビ動画の新潟スタジオに行く途中に交通事故を起こしたことに起因する。後に下崎は『モンシェリCoCo』放送時にスタッフとのトラブルで番組を自主降板し、そこから「『モンシェリCoCo』のプロデューサーが交通事故を起こしたため辞めた」と言う噂がたち、その噂が一人歩きして、いつのまにか「交通事故で富田耕生が降りた」という噂になっていたという[3]
  10. ^ その後、新倉はフィリピンに移住し、1986年5月に拳銃密輸で逮捕、送検されている。送検・起訴後の報道はなく、以後の消息などは不明[14]
  11. ^ 安藤健二の調査では、登記上の日本テレビ動画の代表取締役は稲庭で[5]吉川惣司は安藤の取材に対して稲庭を「会長だけどお金を出すだけ」と述べている[16]。真佐美も安藤の取材に対して「稲庭会長」と呼んでいる[17]
  12. ^ 制作進行」の仕事だけでなく作品を幅広く担当したので「担当制作」という名称が使用された[1]
  13. ^ 真佐美が昔見た映画で「無事に帰って来て」という願いが黄色いリボンで描写されていたことに由来する[15]
  14. ^ 藤子プロ監修の『Fライフ』(小学館)4号に記載された年表では、1973年の藤子アニメは『ジャングル黒べえ』のみとなっているほか、川崎市藤子・F・不二雄ミュージアムの年表にも本作に関する記述は不掲載となっている。一方で、ドラえもん50周年特設サイト内の年表には、1973年に本作が放送開始された旨の記述があり[25]、その他に2000年刊行の『ドラえ本 ドラえもんグッズ大図鑑3』p.142には「初のアニメ化」として本作が紹介されている。
  15. ^ 当時は制作プロダクション(藤子スタジオ)が同一だったため、トキワ荘時代からの仲間だった永田竹丸や、両者から信頼の厚かったしのだひでお方倉陽二など、藤子の2人と関係の深い漫画家がスタッフおよび社外協力者にいた。また、藤本が執筆した短編『ドラえもん誕生』では、安孫子とも本作についての打ち合わせをする描写もあった。なお、安孫子は放送終了後、富田耕生に「あの時期に『ドラえもん』は早すぎた」と話している[31]
  16. ^ ラッシュ編集は日本テレビ動画で、ネガ編集は西新宿スタジオ・ゼロで行われた[3]
  17. ^ そのため、最終回後に発行された『小学四年生』1973年11月号掲載の『ドラえもん』の扉絵には「テレビ大人気放送ちゅう」とのあおり文句がある(安藤、1982年、p.63に該当ページの写真が掲載されている)。
  18. ^ 富山県では当時、アニメ第2作1期が放送されていなかった。1980年4月5日からようやく北日本放送でネット開始された。
  19. ^ のび太がドラえもんに洗面器を渡している構図のセル画で、真佐美は日本テレビ動画で使用されたセル画ではないと否定した。
  20. ^ 文化庁のメディア芸術データベースや徳間書店の『TVアニメ25年史』(1988年)には本作のスタッフ情報に正延宏三辻真先永樹凡人などの表記も確認出来るが、後に関わっていなかったことが判明している。なお放映前に作成されたとみられるスタッフ表には大貫信夫の名前が記載されていたことが判明しているが、実際の製作に関わっていたかどうかは不明である[3]
  21. ^ 前述の通り、実際にはカラー作品である。
  22. ^ 2018年2月12日ニコニコ動画にて第12回Bパート「男は力で勝負するの巻」の一部音声がアップロードされたことにより、富田版ドラえもんの声が久々にお目見えすることになった。
  23. ^ ただし、日本コロムビアから発売された主題歌のレコード(SCS-515)のジャケットにはドラミも描かれている。
  24. ^ 声優としてのデビュー作。
  25. ^ 全体のスケジュール作成管理、スタッフの手配、外注先の選択、単価交渉などを統括した現場責任者。演出助手では「真佐美ジュン」の名前を使用した。パイロットフィルムの制作時は現場の制作と演出を一人で行っていたが、演出責任者として上梨満雄チーフディレクターに迎え、演出助手に岡迫和之と腰繁男を迎えたことで、演出の「真佐美ジュン」は要らなくなり、制作として専念した[6]
  26. ^ 小学一年生』(小学館)1973年4月号掲載の本作品の漫画「くものねんどのまき」では欄外のネット局一覧には、名古屋放送(現:名古屋テレビ放送=メ〜テレ)が掲載されていたが、放送開始直前の中京圏ネットワーク整理により、中京テレビでの放送となった。なお、名古屋放送では4月1日時点では『仮面ライダーV3』(毎日放送制作)を1日遅れネットで放送していたが、その後『アップダウンクイズ』(毎日放送制作)の同時ネットに移行した。
  27. ^ 後に再アニメ化の構想が出た際、当初は読売テレビで企画書が作成されたが上層部の理解を得られず、その企画書を旭通信社に譲渡することで他局へのセールスが行われ、最終的にテレビ朝日系列での再アニメ化が決定した。
  28. ^ 当時は岡山県との相互乗り入れの実施前であった。
  29. ^ 当時、日本テレビ系列でもあった新潟総合テレビ(日本テレビ動画の代表取締役だった稲庭は同社役員)は本来の時間帯に日曜19:30枠の『マドモアゼル通り』などを30分先行ネットしていた。また、新潟に日本テレビ動画の制作スタジオがあった。
  30. ^ 幼稚園』1972年8月号の告知記事は、ピー・プロダクションの実写企画(後記)と日本テレビ動画のアニメ企画のどちらを意図したものかは判断材料が乏しく明確になっていない。
  31. ^ 野沢雅子の初登場回では「ドラえもん、声変わったね?」「ちょっと風邪ひいちゃって」というメタフィクション的な会話があったと漫画家の滝季山影一が証言している[62]
  32. ^ 結果的には、北日本放送国際放映制作のテレビドラマ『ゲンコツの海』が『新オバケのQ太郎』の後番組となった。なお、『ドラえもん』(1979年)以前の藤子・F・不二雄原作のテレビアニメ作品は本作を除いて東京ムービーAプロダクションが全作品を制作している)。

出典

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  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am 下記外部リンクにある真佐美ジュンのインタビューでそのように証言されている。
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