ドイツ帝国 概要

ドイツ帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/19 15:06 UTC 版)

概要

普仏戦争において、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿でプロイセン王ヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式が行われて成立した。しかし第一次世界大戦の敗北とドイツ革命(1918年)の勃発により、皇帝ヴィルヘルム2世オランダ亡命して崩壊した。

1850年以降、ドイツの各領邦国家は急速に工業化され、特に石炭(後に鋼鉄)、化学薬品鉄道が強みとなり、1871年には約4100万人であった人口は1913年には約6800万人までに増加した。

建国からドイツ革命によるヴァイマル共和政以降までの47年の間に、ドイツの産業技術科学は世界でもトップクラスとなり、当時世界で最も多くのノーベル賞を獲得し、ドイツは世界第二位の経済を築き上げた。

ベルリン会議を成功させるとドイツは植民地主義を掲げアフリカへ進出したが、これは同じくアフリカに植民地を所有していたイギリスフランス第三共和国との対立を深めた。

帝政ドイツは列強として認められ、発達した鉄道、世界随一の軍隊及び強大な工業力を所持した。また、アルフレート・フォン・ティルピッツの手により、イギリス海軍の6割の規模を持ち、当時世界第二位の海軍となったドイツ帝国海軍が建設された。

国号

正式な国名は、ドイツ革命などの国家の変遷によるReichライヒ)の訳の変化にかかわらず一貫してドイツ国Deutsches Reich)である。後の「ヴァイマル共和政」(1918年 - 1933年)、「ナチス・ドイツ」(1933年 - 1945年)の時代を通じて国名は変わらなかった。そのため、この時代だけを区別する場合は、皇帝を意味するKaiserカイザー)をつけてDeutsches Kaiserreich(ドイチェス・カイザーライヒ)、ドイツ帝国と表記されることも多い。本項ではヴァイマル共和制およびナチス・ドイツと区別をつけるため「ドイツ帝国」と表記している。

アドルフ・ヒトラーナチス・ドイツは、プロパガンダによって「第三帝国」という呼称を用いた。この流れでドイツ帝国と称されることもある神聖ローマ帝国をドイツ「第一帝国」とする場合、この国を「第二帝国」と呼ぶこともある。

歴史

成立前

フリードリヒ大王が創設した王立銀行は、1847年にプロイセン銀行に改組された。資本金内訳は、プロイセン政府資本が120万ライヒスターラーと、プロイセン/非プロイセンの個人銀行資本が1000万ライヒスターラーであった。これは1876年に中央銀行となりドイツ帝国銀行と称した。(#経済

1862年オットー・フォン・ビスマルクプロイセン王国の首相となった。そして、オーストリア帝国と同盟し、デンマークと戦争(第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)を行った結果、デンマーク統治下にあったシュレスーヴィヒ公国およびホルシュタイン公国をオーストリアとの共同管理とした。

その後1866年普墺戦争ではオーストリアを破って北ドイツ連邦を結成し、オーストリアをドイツ人国家の枠組みから追放した。1870年には普仏戦争ナポレオン3世率いるフランス帝国を破ってパリへ入城し、1871年1月18日に、ヴェルサイユ宮殿でドイツ諸侯に推戴される形でプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となり、ここにドイツ帝国が成立した。この際に、長年フランスとの間で帰属が変遷していたエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)を獲得した。

なお戴冠の「1月18日」は、当時から170年前のプロイセン王国成立(1701年)と同日である。

また、この1871年にはドイツ=オーストリア電信連合が停止した。後継の万国電信連合は同年に企業の無制限参加を認めている。独仏両国とも、戦争を経て企業の意見を無視できなくなっていた。

同盟関係の完成

ビスマルクは、普仏戦争に敗れたフランスの対独復讐を封じるために、列強と複雑な同盟関係を築き上げてフランスを孤立化させる外交政策を取った。これをビスマルク体制と呼ぶ。

当時イギリス帝国とは特に対立も無く、充分に国力があったイギリスは同盟には加わらなかった(栄光ある孤立)。一方、フランスは孤立化してしまう。

海外植民地として南西アフリカ(現ナミビア)、東アフリカ(現タンザニアルワンダブルンジ)、カメルーントーゴ南洋諸島ニューギニア北東部および付近の島嶼(ビスマルク諸島)、サモア中国山東半島などを獲得した(ドイツ植民地帝国)。

世界政策

1888年に即位したヴィルヘルム2世はビスマルクと対立し、1890年にビスマルクを更迭した。ヴィルヘルム2世は親政により帝国主義政策を実行した。まず建艦し太平洋へ進出した。さらに債権国としてオスマン債務管理局をめぐり英仏と対立した。

プロイセン王国のときに増してオランダとの協力関係は実際的であった。1903年7月19日にフェルテン・ギヨーム社は子会社ドイツ=オランダ電信会社を設立した。翌年、同社のケーブル製造子会社北ドイツ海底ケーブル会社が、ヤップ島から三本のケーブルを敷設した。一つはセレベス諸島メナドにいたり、そこでオランダの東インドケーブルへ接続した。二つ目はグアムまで引かれ、太平洋ケーブルと接続した。三つ目は上海まで引かれ、そこで別のケーブルによって膠州まで接続された[1]

この1903年、(アリアンツなどの)ドイツ企業が米国企業の再保険を引受けるようになった[2]。まだ合衆国には代理店を出せず、取引を再保険に限り、ヨーロッパ企業を通して受注していた[2]。必ずしも不便に甘んじたわけではなく、元受と同一条件で引き受けていた[2]。この再保険は保険会社同士の互助ではなく、ドイツの新規開拓事業であった[2]。そのドイツ保険会社は合衆国の再保専門会社等に継承された[2]。同年、AEGゼネラル・エレクトリックからウニオン社を吸収合併する合意をとりつけた。

1905年、ドイツは第一次モロッコ事件でフランスに強硬姿勢をとった。

一方、アメリカ資本の激動が三国協商の完成期としては奇妙な現象を引き起こした。

ドイツの金貨が1907年恐慌イングランド銀行へ輸出され、その額は1907年10月22日から12月31日までに383.8万ポンドに及んだ。イギリスからはドイツの金貨が輸出された形跡はない。英米間ではイングランド銀行からのドル金貨が439.3万ポンド、イングランド銀行へのドル金貨が322.6万ポンド、純輸出が106.7万ポンドである。金塊での純輸出は554.9万ポンドである(698.1-143.2)。[3]ドイツの金貨はイングランド経由でアメリカへ渡ったものとされている。ライヒスバンクの1912年12月末の貸借対照表によれば、外国為替手形保有高は200万ポンド以上であり、その半分近くがイギリスに投資されていた[4]

第一次世界大戦

1914年第一次世界大戦が勃発すると、ヴィルヘルム2世の考えのもと、ドイツはオーストリア=ハンガリー帝国との同盟を履行し、フランスに宣戦布告した。同時にシュリーフェン・プランの構想に基づいてベルギールクセンブルクに侵入した。しかし、これによりイギリスの対独参戦を招いた。その後、ヴィルヘルム2世の指導力は軍部に削られていく。その後は日本とも対立し日独戦争が勃発した。

ドイツのケーブルは大戦で切断、鹵獲された。ボルクム島=アゾレス諸島間のケーブルは、ペンザンス=アゾレス間ケーブルとして流用された。ドイツ=ニューヨーク間はイギリス=ハリファックス間ケーブルとなった。これはイギリス政府の所有する最初の大西洋横断ケーブルとなった。他にもう一つの大西洋ケーブルをドイツはもっていたが、やはり切断され、ブレスト (フランス)コニーアイランド間ケーブルに転用された。ヤップ島=上海間は沖縄=上海間に、青島市=上海間は上海=佐世保間に利用された。これらの損害は帝国通信網の88%に相当した[1]

1918年11月9日、第一次世界大戦の敗北とともにドイツ革命が起きて帝政は倒され、ヴィルヘルム2世オランダへ亡命し、後に「ヴァイマル共和政」と呼ばれる共和制へと移行した。


注釈

  1. ^ 海軍省は除く
  2. ^ 加えディスコント・ゲゼルシャフトが1873年の設立を主導したゲルゼンキルヒェン鉱業キルドルフ系)は、フランス=ベルギー企業のシャルル・デティリューCharles Détillieux よりアルマ炭鉱とラインエルベ炭鉱を事業基盤として購入した。このときルール炭田は権利関係が複雑で合理化を阻害していた。

出典

  1. ^ a b Daniel R. Headric The Invisible Weapon: Telecommunications and International Politics, 1851-1945, Oxford University Press, 1991, Chapter 8.
  2. ^ a b c d e Actuarial Society of America, Transactions, vol.23, Nos.67-68, W.N.Bagley and J.N.Laird, "Life Reinsurance", pp.27-28.
  3. ^ 数値について。The Economist, 1907/10/26, p.1839; 1907/11/2, p.1907, p.1886; 1907/11/9, p.1945; 1907/11/16, p.2001; 1907/11/23, p.2054; 1907/11/30, p.2106; 1907/12/7, p.2149; 1907/12/14, p.2215; 1907/12/21, p.2269; 1907/12/28, p.2318; 1908/1/4, p.35; The times, 1907/10/23-31; 1907/11; 1907/12; 1908/1/1.
  4. ^ Leopold Joseph, The Evolution of German Banking, London, Charles & Edwin Layton, 1913, chapter 3.
  5. ^ H. A. Giebel Die Finanzierung der Kaliindustrie, Volkswirtschaftliche Abhandlungen der badischen Hochschulen, Heft 4. 1912. pp.89-91.
  6. ^ Vgl. Riesser Die deutsche Grossbanken und ihre Konzentration im Zusammenhang mit der Entwicklung der Gesamtwirtschaft in Deutschland, 1912, p.663.
  7. ^ Gerd Hohorst, Jürgen Kocka, Gerhard A. Ritter: Sozialgeschichtliches Arbeitsbuch Bd. 2: Materialien zur Statistik des Kaiserreichs 1870–1914. München 1978, S. 66.






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