ディエゴ・マラドーナ
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引退後
現役引退後は薬物依存や不摂生による体重増加などが原因で入院・手術などを繰り返し、必ずしも健康体とは言えない状態であった。2004年4月にはボカの試合観戦中に突然倒れ、集中治療室で生死の境をさまよった。このときのマラドーナの体重は122kgにも達していたが、回復後に食を細くするための胃切除術を受け、70kg台半ばまで減量した[75]。
2008年、伝記映画「マラドーナ」が自身主演で上映される(製作・スペイン・フランス)。これはマラドーナのこれまでのサッカー人生について取り上げると共に、マラドーナ自身のプライベートに密着取材した記録映画である。
監督経歴
1994 FIFAワールドカップ後の出場停止期間中にプリメーラ・ディビシオンの下位2チームの監督に就任。コーチングライセンスを獲得していないため、カルリートス・フレンとのコンビで指揮を採った。最初のデポルティーボ・マンディージュ・デ・コリエンテスでは1勝5敗6分けで、2か月で解任された。古豪ラシン・クルブでは2勝3敗6分けで、クラブの会長交代に伴い辞任した。
2008年10月16日にアルゼンチン代表のアルフィオ・バシーレ監督が辞任すると、マラドーナは後任の座に自薦し10月28日に代表監督就任が発表された[76]。11月4日に就任記者会見が行われ、ハビエル・マスチェラーノのキャプテン任命とカルロス・ビラルドのテクニカル・セクレタリー(サッカー協会とチームの架け橋役)就任が発表されたが、ヘッドコーチに人事は明かされなかった[77]。マラドーナの監督就任に関してアルゼンチン国内の反応は冷ややかだったが、代表選手からは期待と賛同の声が上がり、初采配となったスコットランドとの親善試合に1-0で勝利したことからメディアからもまずまずの評価を得た。2009年1月にはスペイン、イングランド、イタリアなどを訪問し、欧州各国に散らばるアルゼンチン代表選手を視察した[78][注 1]。2009年3月、テレビの深夜番組でチームの中心選手であるフアン・ロマン・リケルメのプレーに苦言を呈し、その発言に敏感に反応したリケルメが代表からの引退を表明する問題が起こった[79]。
就任後初となる2010 FIFAワールドカップ・南米予選のベネズエラ戦には4-0で快勝したが、4日後のボリビア戦は高地の利を得た相手に手も足も出ず、1-6で大敗してメディアからの批判を浴びた。5月の親善試合には国内組のみから選手を招集して臨み、それ以後は海外組と国内組の融合を重要視するようになった[80]。2009年9月の南米予選ではブラジルに敗れ、アルゼンチンが長年継続してきたホームでの連続無敗記録(34戦)が途切れたため[81]、元代表選手やファンから厳しい批判を受けた。パラグアイに敗れてついに予選の自力突破圏内(4位以内)から落ちたが、10月のペルー戦ではマルティン・パレルモのロスタイム弾で辛くも勝利し、最終節のウルグアイ戦では虎の子の1点を守り抜いて、予選4位でのFIFAワールドカップ本大会出場を決めた[82]。
2010 FIFAワールドカップでは、ピッチ内外での一挙手一投足がメディアの注目を集めた。グループリーグ初戦のナイジェリア戦では、90分間ベンチに座ることなく選手たちに指示を与え続け[83]、勝利後の記者会見ではリンゴをかじりながら質問に答えた[84]。2戦目の韓国戦では、1986 FIFAワールドカップでマンマークを受けた許丁茂監督と対戦することになり、試合前には相手チームを「テコンサッカー」と挑発した[85]。韓国戦に続きギリシャ戦でも快勝し、グループリーグを3戦全勝の首位で通過した。決勝トーナメント1回戦のメキシコ戦ではカルロス・テベスの疑惑の残る先制点で試合の主導権を握り、3-1で勝利した[86]。準々決勝のドイツ戦では試合開始早々に失点し、以後は焦りから攻撃に逸るマラドーナの心が見透かされているかのようにカウンターから立て続けに失点した[87]。結局、ハーフタイムの指示や後半の選手交代でも流れを変えることができず0-4で惨敗して大会からの敗退が決定した[87]。
当初はアルゼンチンサッカー協会、マラドーナとも留任の意向だったがコーチ陣の処遇を巡って対立し、2010年7月27日に解任された[88][89]。初采配から24戦を指揮して18勝6敗の成績を残し、引き分けは1試合もなかった[90]。ドイツの勝利を予言したタコのパウルが死亡した際には、Twitterに「この予言タコ野郎、おれはお前が死んでうれしいよ。W杯で負けたのはお前のせいだ!」と書き込んだ[91]。
2011年5月16日、マラドーナはUAEリーグに所属するアル・ワスルFCの監督に就任することが発表された。契約期間は2年で[92]、年間990万ポンド(約13億5324万円)。これはgoal.comが2012年1月18日に発表した世界の監督の給料トップ10の2位に入る高額であった[93]。
2012年7月10日、アル・ワスルはマラドーナの解任を発表した[94]。
2017年、UAE2部のアル・フジャイラSCの監督に就任した。就任後チームは無敗だったが、1部昇格を逃し辞任した。
2018年9月、メキシコ2部のドラドス・デ・シナロアの監督に就任。就任時は下位だったチームを2季連続でプレーオフ決勝に導くが、いずれも決勝戦で敗れた。翌年6月、健康上の理由により退任。
2019年9月、母国アルゼンチンのヒムナシア・ラ・プラタの監督に就任した。ヒムナシア・ラ・プラタは2020年6月3日、ディエゴ・マラドーナと2021年まで契約を延長したことを発表した[95]。
死去
2020年11月3日に硬膜下血腫の緊急手術を受け、無事成功した[96]。しかし退院後の11月25日、心不全のためブエノスアイレス郊外の自宅で死去した[97][98]。60歳没。晩年は助けを得なければ歩くことも満足にできなかったという[99]。
かねてより舌戦を繰り広げてきたブラジルのペレは自身のツイッターで"Que notícia triste. Eu perdi um grande amigo e o mundo perdeu uma lenda. Ainda há muito a ser dito, mas por agora, que Deus dê força para os familiares. Um dia, eu espero que possamos jogar bola juntos no céu."(「何て悲しいニュースだろう。私は偉大な友人を世界はレジェンドを失った。言いたいことはまだたくさんあるが、今は神が(マラドーナの)家族に力を与えてくれますように。いつか天国で一緒にサッカーが出来たらいいね。」)と述べた(2020年11月26日のツイート)[100]。
マラドーナ2世として台頭し、常に比較されてきたリオネル・メッシはラ・リーガ11節CAオサスナ戦でゴールを決めた後のパフォーマンスで、かつてマラドーナと自身が所属していたアルゼンチンのニューウェルズ・オールドボーイズのユニフォームを披露して哀悼の意を示した[101](ただこのことでメッシはイエローカードを受けて、更にリーガから罰金処分も受けた[102]。)。
SSCナポリの本拠地ナポリのルイジ・デ・マジストリス市長は、SSCナポリのホームスタジアムである「スタディオ・サン・パオロ」の名称を「スタディオ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナ」へ改名するとSNSで発表した[103]。
母国・アルゼンチンの悲しみは一層深く、アルベルト・フェルナンデス大統領は全土で3日間の喪に服すことを宣言した[104]。マラドーナの遺体は大統領府に安置され、国民との別れの場が設けられることになった。初日から数十万の弔問客が集まり、別れの時間が短いと不満を抱いた一部の群衆が暴徒化して警官隊と衝突する事態となった。結局、混乱を避けたいという遺族の意思で当初は3日間の予定であったお別れ会は打ち切りとなった[105]。
2021年、マラドーナの誕生日の10月30日にはアルゼンチンにて国内リーグをはじめ、子供などアマチュアも含めた週末の全ての試合においてマラドーナが現役時代に着用した背番号10にちなんで前半10分に試合を止め、拍手を贈るなど追悼セレモニーが行われた[106]。
注釈
出典
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