ディエゴ・マラドーナ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/09 21:06 UTC 版)
人物
プレースタイル
フィジカルが強靭で[107]ボディバランスと洞察力に優れ[108][109]、非常に足が速く[108][110]、卓越したテクニックとパスセンスを持っていた[111]。また足首が非常に強く、この足首を駆使して切り裂くように相手のマークを外すプレーを得意とした[112]。
ゴムマリのようと評されたバネが生み出す緩急と自在にボールを操る左足を誇ったが[113]、ほとんどすべてのプレーを左足一本で行い、前述の「5人抜き」ドリブルの際も左足しかボールに触れていない[107][114]。マラドーナ自身も右足について自ら「使わない足」と呼んで滅多にフィニッシュに使わなかったが[115]、ゲーリー・リネカーはマラドーナの右足でのプレーについて「大概の選手の『利き足』を上回っていた」と評している[115]。
優れたキャプテンシーの持ち主であり、10代のころから所属したどのチームでもキャプテンを務めた[116]。
風間八宏は当時のマラドーナについて「顔の前に1メートル四方の空間を確保できれば、マラドーナにとってフリーといえる」と語った[117]。サッカージャーナリストの後藤健生はマラドーナのプレーについて、「空間だけでなく、試合時間の90分全体をも俯瞰しているように見えることがある。まるで試合の映像を早送りしたり、巻き戻ししたりしながら最善のプレーを選択しているとしか思えないのだ。だから、マラドーナはたった1回のボールタッチによって、すべてを変えてしまうことができるのだ」と評している[118]。
指導者としての戦術
アルゼンチン代表監督時代にはDFラインにセンターバック4人を並べ、ボランチのハビエル・マスチェラーノと共に守備を任せた。攻撃はリオネル・メッシ、カルロス・テベス、ゴンサロ・イグアインらの個人技による局面打開を目指した[90]。攻守分担型のスタイルは「1930年代のサッカー」とも評された[119]。複数の戦術を使い分けるのではなく、終始一貫して攻撃的な姿勢を貫き、準々決勝・ドイツ戦では劣勢に陥った時に別策がないことを露呈した[90]。常に選手の目線に立って物事を考えるため、選手のモチベーションを上げる人心掌握術は評価されており、選手からの信頼は厚い[120]。ワールドカップ直前にUEFAチャンピオンズリーグを制したインテルの中心選手だったディエゴ・ミリート、ワルテル・サムエルをほとんど起用せず、同じくエステバン・カンビアッソやハビエル・サネッティは招集さえもしなかったため、その起用法には疑問の声もあった[121]。
家族
- 家族
- 母方の祖母サルバドール(1895〜?)はイタリア・ナポリ出身の移民であり[122]、父ドン(1927〜2015)と母ダルマ(1930〜2011)はともにアルゼンチン北東部のコリエンテス州エスキーナの出身である。マラドーナは8人兄弟姉妹の5番目であり、かつ3人の男子のうちの長男である[14]。実弟のウーゴ・マラドーナは日本のPJMフューチャーズ、アビスパ福岡、コンサドーレ札幌などでプレーしたサッカー選手である。1987年には弟2人とともに、日本のアサヒビール飲料の缶コーヒー「NOVA」のCMに出演した。
- 2人の娘たち
- 自身の薬物乱用や育児放棄などもあり、娘たちとの間にはキスを拒まれるほど深刻な確執が存在していた。その後和解し、2006 FIFAワールドカップではユニフォームを頭上で振り回しながら一緒に応援する姿がテレビカメラに写された。次女はセルヒオ・アグエロの婚約者で、2009年2月に初孫が誕生した。
交友関係など
- 女性関係
- 15歳の時に近所に住んでいたクラウディア・ビジャファーネと知り合い、すぐに深い関係になった[123]。FCバルセロナ移籍後しばらくして家族とともにクラウディアも呼び寄せたが、SSCナポリに所属していた1985年1月にはアメリカ人モデルと関係を持ち、クラウディアとの関係が険悪になった。同年12月にはナポリの女性と結婚まで考えた恋愛関係に陥ったが、彼女が妊娠すると中絶することを強要した[124]。その後、クラウディアとよりを戻し、1989年11月7日に盛大な結婚式を挙げた[125]。この時には既に娘をふたりもうけていた[126]。
- 1986年9月20日、ナポリの女性がディエゴ・マラドーナ・ジュニアを出産したが、マラドーナは自分の子どもであると認知せず、裁判で争うことになった。この時にはクラウディアも妊娠しており、それからの2年間に女児を2人授かった。クラウディアとは2004年に離婚し、同年に20歳のキューバ人女性と再婚した。ディエゴ・マラドーナ・ジュニアは2001年にU-17イタリア代表に選ばれたが、2009年からはビーチサッカーに舞台を移して活躍している。
- ペレとの関係
- マラドーナと同じスラム街に生まれて偉大なサッカー選手になったペレには幼少期から憧れを抱いており、1978年にはペレを訪ねて話をするためにリオデジャネイロ巡礼の旅に出た[127]。1979 FIFAワールドユース選手権南米予選で活躍したことでブラジルメディアがマラドーナのことを「ペレ以来の逸材」と称賛した[128]。しかし1982 FIFAワールドカップで失望しか残せなかったことからペレ本人に批判されたことで、マラドーナはペレに対して嫌悪感情を抱くようになった[127]。折に触れて互いを批判し合っているが、『10番の夜』(後述)にペレがゲスト出演し、ペレとマラドーナのどちらが偉大だったか聞かれた際には「私の母は私だと言うし、ペレの母はペレだと言うだろう」と模範解答を答えた[129]。
- ペレとはしばしば比較される[130][131]。2000年にはFIFAによる20世紀最優秀選手が発表されることになったが、FIFA公式サイトによるインターネット投票では、マラドーナが1位(ペレが2位)の得票を得たのにもかかわらずFIFAの役員を始めとしたサッカー関係者による投票では3位(ペレが1位)にとどまり、双方の結果に対しブラジルとアルゼンチンの両国間で激しい論争となった。FIFAは最終的にペレをFIFA選考委員会による最優秀選手とし、マラドーナはインターネット投票による最優秀選手として賞を分け合うことに決めた[132]。
- フィデル・カストロとの関係
- 1987年7月28日にフィデル・カストロキューバ議長と初めて対面して以来[133]友人関係を築いており、1989年の自身の結婚式にはカストロを招待した[134][注 2]。キューバへの敬愛の印として左脚にカストロ、右肩にチェ・ゲバラの刺青を彫り込んでいる。
- 2000年にウルグアイ滞在中に心臓発作を起こした時には、カストロを頼ってキューバの医療施設に入所し[135]、その後数年間はカストロの世話になった。『10番の夜』の12回目放送ではカストロにプレゼントされたジャケットを羽織って登場し、カストロに対する思いや自身の思想観を語った[136]。
- カモッラ一家との関係
- SSCナポリへの移籍金はナポリのマフィア組織カモッラ一家によって捻出されたという説がある[137]。1986年にカモッラ一家の中の一族であるジュリアーノ・ファミリーと初対面し、その後はジュリアーノ家の結婚式やカモッラ一家のパーティに熱心に参加した[138]。1991年初頭、カモッラ一家の手の内にある売春宿から相当量のコカインを入手している事実が発覚し、マフィアの殺し屋とともに麻薬売買に手を出しているというマフィア側の供述とともに法的な追及がなされた[139]。
- ラモン・ディアスとの関係
- ラモン・ディアスとマラドーナは犬猿の仲だとされ、1986 FIFAワールドカップと1990 FIFAワールドカップへのディアスの出場をマラドーナが妨げたと言われることがある。しかし、マラドーナは自伝の中で不仲説を否定し、カルロス・ビラルド監督にディアスの招集メンバー入りを進言したと主張している[140]。
- リオネル・メッシとの関係
- 左利きで小柄であること、ドリブルとスピードにおいてずば抜けていること、FCバルセロナでのプレー経験があること、アルゼンチン人であること、フル代表デビュー戦がハンガリー戦であることなど、リオネル・メッシとマラドーナにはいくつかの共通点がある[141]。2007年4月18日のFCバルセロナ対ヘタフェCF戦において、メッシがマラドーナの「5人抜き」ドリブルそっくりのプレーを見せ[114]、メッシは「ゴールはディエゴ(マラドーナ)に捧げる」と発言したが、マラドーナは「比較は大げさすぎる。僕のゴールとは関係ない」と冷たくあしらった[142]。さらに、同年6月9日のバルセロナ・ダービーにおいてメッシは「神の手」ゴールそっくりのプレーを見せた[143]。
マラドーナはメッシと自分との比較について「僕のほうが上だと思うよ」[144]と一旦は発言したが、後にこれを否定して「メッシの母親ならば、レオが一番と答えるだろうね」とペレの時と同じような発言をし、更に「僕は彼を愛している。自分の夢を語るならば、バルセロナ指揮官としてメッシを指導することだ」[145] と述べている。メッシは2006年に受けたインタビューで、この時点で自身とマラドーナにはあまりにもキャリアの差がありすぎるとのことで自身がマラドーナと比較されることを嫌い、インタビュアーからこの質問をされると何度も「それだけはやめて!」と懇願した[146]。一方で、雑誌やテレビの取材で自身のプレーについて、「マラドーナのプレーを特に意識したわけではない」と語っている[114]。ゲーリー・リネカーはマラドーナとメッシの比較について、「ディエゴを超える選手なんて絶対に現れないだろうと思っていた」としつつ、「今でこそ、トップレベルでのキャリアの長さやピッチ内外での素行の良さを含めて、ごくわずかにメッシが上回っているような気はする」と述べている[147]。 - ホルヘ・ブルチャガとの関係
- 代表チームで共にプレーしたホルヘ・ブルチャガとは、ピッチ上で相性の良いプレーを見せた[148]。このことから、SSCナポリがマラドーナと共にプレーさせるため、ワールドカップ・メキシコ大会後に獲得に動いたこともあった[149]。マラドーナはブルチャガについて「自らの副官とも言える存在であった。」と話した[150]。
メディアとの関係
1994年2月、自身の別荘に押しかけた報道陣200名に対して空気銃を乱射し、数名に軽症を負わせた。記者によって告訴され、アルゼンチンサッカー協会のフリオ・グロンドーナ会長などはマラドーナの罪を重く見たが、アルゼンチン国民やカルロス・メネム大統領はより同情的で法的な処置は未決定となった[151]。
1996年、イギリスのフィナンシャル・タイムズ紙の記者ジミー・バーンズによってマラドーナの評伝が出版されたが[152]、薬物使用問題やFIFAの権力構造について踏み込んだ追及をしているため、アルゼンチン国内では出版を快く思われなかった[153]。2000年には自伝『YO SOL EL DIEGO』が出版され、それ以後もマラドーナに関する多数の著作が世に出ている。
2001年にはイタリアのマルコ・ポンティ(Marco Ponti)監督作の映画『サンタ・マラドーナ』が公開された[154]。2009年にはフランス・スペイン合作、エミール・クストリッツァ監督作のドキュメント映画『マラドーナ (映画)』が公開された[155]。
2005年に放送されたテレビ番組『10番の夜』では司会を務め、スポーツ選手、俳優、タレント、映画監督などマラドーナの顔が利くさまざまな分野の著名人が出演した[156]。サッカー選手ではペレ、ジネディーヌ・ジダン、アリエル・オルテガ、リオネル・メッシなどが出演している[136]。
またマラドーナは反米主義者としても知られ、政治的発言が多いことから2005年に米州機構会議が行われた際には、同市のサッカー場で行われた反ジョージ・W・ブッシュ集会に参加し、ベネズエラのウゴ・チャベス大統領の演説のあとに「ブッシュを倒そう!」と発言した[157]。更に2013年よりチャベス死後の後を継いでいるニコラス・マドゥロ大統領との関係も深く、度々ベネズエラを訪問している[158]。
代表監督として2010 FIFAワールドカップ出場を決めたウルグアイ戦後の記者会見では、これまで数々の批判を浴びせて来たメディアに対して「女性の方々には失礼するが…アレでもしゃぶってろ。お前らは好きなだけしゃぶり続けてればいいんだよ。俺をコケにしやがったからな」と最大級の侮辱語を並べたため、メディアから激しい非難の声が上がった[159]。記者会見での出来事はFIFAからも問題視され、練習参加などを含む2か月間のサッカー活動禁止と、2万5000スイスフラン(約220万円)の罰金処分を受けた[160]。
注釈
出典
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