ティワナク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/14 03:35 UTC 版)
ティワナク遺跡
構造など
現在の遺跡の多くが1970年代に強引に復元されたものであり、本来の姿ではないことが確認されている。
遺跡の中心部の面積は4.2km2、遺跡中心部におけるかつての人口は10,500-50,000人[7]と想定されている。また、近年の研究では面積は6km2[8]と見積もられている。また、周囲には巨大な堀が巡り、建造物の集中する区域とその外部とを隔てていたといわれている。ティワナク遺跡は主に以下の構造物から成り立っている。
遺跡中心部分は、
- アカパナ
- ピラミッド状建造物
- カラササヤ
- 長方形をした遺跡の中心部分。中に「太陽の門」やいくつかの石像がある。無理な復元が施されている。
- 半地下式方形広場
- 顔が壁から突き出して並んでいる装飾がなされており、真ん中に石像が立つ
- プトゥニ
- カラササヤの前にある半地下式広場を持つ住居址
- カンタタリータ
- アカパナのピラミッドの裏にある半地下式の広場を持つ建造物
- ケリ・カラ
- 月の門
- プマ・プンク
- ピラミッド状建造物。遺跡中心部から外れたところにある
などからなる。
遺跡は、真北(しんぽく)を利用した東西南北にほぼそっているが、わずかにずれている。また、アカパナのピラミッドとカラササヤは平行して建っていない。遺跡の石材は、近くのティワナク山脈から切り出された砂岩を多用しており、その他コパカバーナ方面からもたらされたとされる安山岩なども利用しているところがある。 また、チャチャプーマと呼ばれるプーマの彫像など重要な石像には、オルロ方面からもたらされた黒色玄武岩が利用されている。
主な建造物
アカパナ
ピラミッド状の遺跡。崩壊がひどく、昔日の面影はない。一見するとただの丘になっており、一部に石壁が露出したり復元されたりしている。ピラミッドの推定サイズは、幅(南北方向)が、最大部分203 mほど、中間部164.5 m、最小部114 m、高さ(東西方向)は、192 mほど、高さは16.5 mほど、体積は53546 m3と推定されている。本来は7段の基壇からなる。ピラミッドの頂上はへこんでおり、もともとから凹みを持つ構造だったが、スペイン人が黄金探しのためさらに広げてしまった。また、その周囲には部屋状の構造物の遺構が露出している。また、ピラミッド内部に複雑な水路が走っていたことが近年の調査で明らかにされている。ピラミッドのふもとからは頭のない人の遺体が出土しており、人身供犠が行われていたことが示唆されている。実際、19世紀末のティワナクに関する文献には、片手に大型の斧をもち、反対の手に首級を持った、動物の顔をした人の図像が描かれたコップ型土器(ケーロと呼ぶ)がある。
カラササヤ
約130x120mの長方形をした構造物。現在のカラササヤは、復元されたものである。しかし、かなり間違って復元されている。カラササヤの中に、有名な「太陽の門」があるが、これは原位置ではなく、本来の場所は不明である。石像の多くは1960-70年代の発掘で出土したものである。遺跡の東側には、漆喰のあとと思われるものも残っており、このあたりに小さな部屋状の建造物があったことが指摘されているが、報告書がないため詳細はわかっていない。
カラササヤの壁は、巨大で長く平たい割り石を、やや小型の豆腐状の切石で囲む形で作られている。両者とも砂岩でできている。切石は安山岩もある。ただし、これらの壁の大部分が、1970年代の復元によるものであり、本来の壁はほとんど残っていなかった。長く平たい割り石は、19世紀の絵や今世紀初頭の写真にも見られるため、本来の位置である可能性が高いが、復元に関する詳細な報告書や書類がないためはっきりとわからない。
カラササヤの復元は、かなりの部分で間違っていることが指摘されており、最近の報告では、カラササヤ正面には数メートルの幅を置いて、さらにもうひとつの壁が平行して走っていた可能性が指摘されている。現在、このあたりを発掘しており、実際に壁らしき跡が見られるが、まだ確実なことはわかっていない。ただし、このあたりには板状の大型の切石を並べて床面を作っていることが確認されている。
カンタタリータ
アカパナのピラミッドの裏側に、カンタタリータと呼ばれる場所がある。真ん中部分が一段低くなっており、半地下式構造になっている。ここには、本来、石の門がたっており、見事なリンテル(まぐさ)があったことが、征服者スペイン人の記録から確認される。だが、現在ではこの門は崩壊しており、地上にリンテルが転がっている。リンテルに描かれているモチーフは、プマ・プンクのものに似る。このほか、ティワナク遺跡の建造物を模したと思われる石を彫った模型がころがっている。
プマ・プンク
低いピラミッド状の遺跡。カラササヤなどの遺跡中心部から外れたところにあり、村から幹線道路(ラパス-デサグワデーロ間)へ連なる道沿いにある。破壊がすさまじいが、一部、基壇がのこっている。
プマ・プンクには数トンもある一枚岩でできた建築の一部が今も残っており、見事なものであるが(写真)、破壊がすさまじいため当時の面影はほとんど残っていない。
ここには、水路の跡が残っており、ピラミッド状の基壇の中へと続いている。この水路には、砒素青銅製のローマ字の I 字型をしたかすがいが石材をとめるため使われている。実際には、装飾的要素が強いと見られている。このような砒素青銅の装飾品は、恐らくティワナク遺跡の他の建造物でも用いられているが、プマ・プンクは特に多く用いられているようである。また、各所の建築石材には表面に一部加工が施され文様が入ったものがあるが、風化が激しいため見えづらい。
石材加工技術
全体的に、ティワナクでは、遺跡の石材は豆腐状に長方形に切り出されたものが多く、その面は見事に平らである。
これら石材の切り出しや加工方法、それに利用された道具については、諸説あるが、確実なことはわかっていない。 一部では、亜円礫等のハンマーを用いて石材の表面を細かく叩いて平らにする技術(=敲製,敲打 ペッキング)が用いられている。この技術は、インカ期にも利用されており、オリャンタイタンボ遺跡などインカ期の石材加工に用いられたことが確認されている。この石材とまったく似た加工痕(石材の表面の敲打痕)を、ティワナク遺跡のいくつかの建造物で確認することができる。これ以外に、石材表面を、何かの媒介物で研磨したと思われる技術が用いられており、敲打痕とはまったく異なった綺麗に研磨された表面を持つ。
こういった加工技術の使い分けが、石材ごとに行われていたり、遺跡ごとに区別されていた形跡は、今のところ確認はされていない。ただし、ティワナク遺跡の破壊や風化が進んでいるため、放棄後から900年近く経た今日、詳細な調査・分析は困難になっている。特に砂岩は風化が激しく、石の表面が層状に剥がれ落ちるため、本来の石材の表面がどのような状態だったか確認するのは困難になってきている。さらに、カラササヤの間違った復元は、建造物ごと或いは場所ごとの石材加工技術の違いについて、その分析をいっそう難しくしており、当時遺跡がどのような状態にあったのか、どのように機能していたのかについては確実なことはわかっていない。遺跡からはがされた石は、村の教会建設に利用されており、村の広場中央にある石製ベンチも遺跡から運ばれた石材で作られている。また、村の一般の住居でも遺跡から持ち運ばれた石材が良く見られる。遠く、ラハやラ・パスの教会にまで、遺跡からはがされた石材が利用されているという。
博物館
村には付属の博物館が近年整備され、ここで遺跡から出土した土器や石像などを見ることができる。また、ラパスにも国立考古学博物館があり、ここにもティワナクをはじめとしたボリビア内から出土した遺物を見ることができる。
ティワナク村の博物館では、土器と石器、石彫、人骨、青銅製品などが展示されている。
土器
ティワナク文化を特徴づける土器は、ケーロと呼ばれる口縁(飲み口)が外側へ広がったコップ状の土器やインセンサリオ、サウマドールなどと呼ばれる香炉がある。村の博物館には、このケーロや香炉が数多く展示されており、見応えがある。
ケーロは一般的に酸化焼成で(還元焼成と区別が付きにくいものもある)、オレンジ色のスリップに、茶色や、赤色、黒色をつかってラクダ科動物や猛禽類、階段状の幾何学文様などが描かれているものが多い。また、黒色磨研の還元焼成と思われるケーロも存在し、人の顔をかたどったり刻線で図像が描かれたりする。ただし、黒色スリップのケーロもある。ケーロの形態は、コップ状という共通点以外は、細かな変異があり、帯状の装飾を持つものや底部が極めて小さくなったもの、高さが極端に長いものなどがある。最近の分析では、ケーロは大きく分けて、5分類できるという。
香炉は、一般的には酸化焼成で、動物をかたどったものが多く、コンドルと見られる猛禽類やピューマあるいはジャガーと見られるネコ科動物、リャマなどのラクダ科動物をかたどったものが多く、多彩色である。赤色やオレンジ色のスリップに、茶色や黒色、オレンジなどで彩色されている。
このほか、日常生活に利用された壺や甕など(無紋)、ミニチュアの土器なども多く展示されている。
人骨
出土人骨には意図的に頭の形を変形させた跡がみられる(頭蓋変形)。これはティワナクの飛び地のモケグアでも見られ、他の考古学遺物とともに、ティワナクからの直接的な移民の証拠の一つになっている。頭蓋変形にはいくつかのパターンがあり、展示の中では、頭が縦方向へ長く変形した頭蓋骨が並べられている。
青銅製品
青銅製品は、ピンや装飾品などが出土している。また、遺跡の水路の石をつなぐかすがいなどもある。これらは、砒素を混入した砒素青銅で作られている。この砒素青銅は、紀元前にまでさかのぼるといわれ、現在のチリ共和国北部地域からチチカカ湖沿岸地帯に広がる文化の特徴のひとつでもある。
石彫・石器
新しい石彫・石器博物館(Museo Litico)が開館し、ラパスの野外博物館にあった巨大な石像(ベネットの石像)が、この博物館へ返却され、屋内に展示されている。このほか、ティワナク期の石彫や、当時の日常生活で使っていた石器類などを展示した博物館となっている。
遺跡に立っていた石彫は砂岩や安山岩、(黒色)玄武岩などからなる。しかし、風化が激しく石彫の模様が見えにくくなってきている。日常生活で利用された石器は、ティワナク遺跡近くでとれる珪岩や砂岩、チャートが多い。このほか、外来の石材である黒曜石なども利用されているが、数は少ない。これらの中には、石でできたやじり(石鏃)や石を剥いで刃物やその原材料として使ったもの(剥片)や球形をした用途不明の石器類、石製の碗などが展示されている。
- ^ 例えば、Albarracin-JordanやClaudia Riveraなど
- ^ かつてはPonce Sanginesなどのボリビア人研究者が唱えていた。
- ^ Benett, Ponce, Kolataなどがこの立場をとった。
- ^ Kolata; Janusekなど
- ^ 複数のボリヴィア人考古学者からの主執筆者への私信による
- ^ "Tiwanaku and its :Hinterland" Vol.2. Smithsonian Institution Press, Washington and London.A.Kolata ed.2003
- ^ Ponce Sanginés 1976(1972):62
- ^ Kolata&Mathews 1988 cited in Janusek 1994:64
- ^ アメリカ人考古学者Alan Kolata 1991:1996 などの立場
- ^ アメリカ人考古学者C.Ericksonやカナダ人考古学者D.Grafamなどの立場
- ^ ボリビア人考古学者 Albarracin-Jordan1996
- ^ 英語でレイズドフィールド、スペイン語でカメリョーネス
- ^ Kolata 1986
- ^ Kolata 1991
- ^ Kolata 1993; 1996
- ^ a b c ibids.
- ^ Erickson 1988
- ^ a b Erickson 1993
- ^ Albarracin-Jordan1996
- ^ a b Kolata 1991; 1996
- ^ Erickson 1999
- ^ Magiligan and Goldstein 2001
- ^ Swartley 2000;Bandy 2004
- ^ 園田 他 1999:17(科学研究費補助金研究成果報告書 所収)
- ^ 宝来 他1999:29,前掲書 所収
- ^ Rothammer et al. 2003
- ^ a b c d e Nakajima 2004
- ^ a b c Bandy 2004;Nakajima 2004
- ^ PIWA 1992:55
- ^ ただし、あくまで計算上の数値(Swartley 2000,Nakajima 2004)
- ^ Swartley 2000; Bandy 2004; Nakajima 2004
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