チェチェン共和国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/19 05:44 UTC 版)
国名
ロシア語による正式名称は、Чеченская Республика Российской Федерации(ラテン文字転写 : Chechenskaja Respublika Rossijskoj Federatsii; チェチェンスカヤ・リスプーブリカ・ラッスィースカイ・フェジェラーツィィ)で、ロシア連邦チェチェン共和国と訳される。
チェチェンスカヤはロシア語による民族名チェチェン(チェチェニエツ)の形容詞形で、国名は直訳すれば、「ロシア連邦のチェチェン人の共和国」となる。ただし、チェチェンは他称で、チェチェン語による自称はノフチー(Нохчий)である。
歴史
ソビエト連邦解体後、ロシア連邦政府及びロシア連邦への残留を主張するチェチェン人勢力と、チェチェン・イチケリア共和国やカフカース首長国を自称するチェチェンの独立を求める武装勢力との間で対立が続き、二度のチェチェン紛争と独立派のテロリズムが発生した歴史がある。
チェチェン共和国成立まで
18世紀にロシア帝国がカフカースへの南下を進めると、チェチェン人はロシアの支配に対して激しく抵抗を繰り広げたが、1859年にロシア帝国によって周辺地域とともに併合された(コーカサス戦争)。
ソビエト連邦の成立後、チェチェン・イングーシ自治共和国としてロシア・ソビエト社会主義連邦共和国の一部とされたが、第二次世界大戦中の1944年に、対独協力をおそれたヨシフ・スターリンによって、チェチェン人とイングーシ人約50万人はカザフスタンやシベリアへ強制移住させられ多くが死亡した。彼らは1957年にフルシチョフにより母国への帰還を許され、自治共和国が再建されるが連邦政府に対する不満は残った。
チェチェン共和国成立以降
チェチェン人たちが1990年11月にチェチェン・イングーシ自治共和国のソ連邦からの独立を宣言し、1991年5月にチェチェン・イングーシ共和国に改名し、10月に共和国と連邦政府の間でソ連邦からの独立は認めないまでも共和国をチェチェン共和国とイングーシ共和国に分割することで同意すると、翌11月に当選したばかりのチェチェン共和国初代大統領ジョハル・ドゥダエフがソ連邦からの独立とチェチェン・イチケリア共和国の建国を宣言した。ただしソ連邦はこれを認めなかった。
第一次チェチェン紛争
1991年12月のソビエト連邦の崩壊後のロシア連邦政府もチェチェン・イチケリア共和国の存在を拒絶し、1994年12月にロシア連邦大統領ボリス・エリツィンはチェチェンの連邦からの独立を阻止するため4万のロシア連邦軍を派遣し第一次チェチェン紛争に突入した。独立派はゲリラ戦で激しく戦い紛争は泥沼化したが、1995年2月にロシア軍がチェチェンの首都グロズヌイを制圧し、1996年4月にジョハル・ドゥダエフの殺害に成功すると、8月にエリツィンとチェチェンの武装勢力のリーダーの間で停戦が合意された。そして1997年5月にはハサヴユルト協定が調印され五年間の停戦が定められた。この紛争では10万人以上の一般市民の死者を出した。
第二次チェチェン紛争
停戦中の1999年8月7日に、カフカース圏における「大イスラム教国建設」を掲げるチェチェン独立派の最強硬派のシャミル・バサエフとアミール・ハッターブが、和平協定を破り突如隣国のダゲスタン共和国へ侵攻。また、同月と翌9月にモスクワでアパート連続爆破事件が発生した(ロシア諜報機関による偽旗作戦の疑惑あり)。このため、首相ウラジミール・プーチンはロシア軍をチェチェンへ進撃させ1999年9月に紛争は再開。1997年の和平協定は無効となった。プーチンはエリツィンの健康悪化により1999年12月に大統領代行に就任し、2000年に大統領に正式に就任した。
この第二次チェチェン紛争でロシア軍は2000年に首都グロズヌイを再び制圧した。ロシアはアフマド・カディロフをチェチェン共和国の大統領につけてロシアへの残留を希望する親露派政権をつくらせ、独立派のチェチェン・イチケリア共和国を在野に追った。しかし以降もチェチェンの独立運動は続き、ロシア軍との内戦状態が続いた。ゲリラ化したチェチェン独立派勢力はアルカーイダ等の国外のイスラーム過激派勢力と結びついてテロリズムに走っているといわれており、紛争はさらなる泥沼化に進んだ。

独立派の関与したとされる事件は、犯行声明が出されているものだけでも2002年10月のモスクワにおけるドゥブロフカ劇場占拠事件、12月のグロズヌイの行政府ビル爆破事件、2003年6月のモスクワ野外コンサート会場爆破事件、2004年5月のカディロフ大統領暗殺事件、8月の旅客機同時ハイジャック事件、モスクワ地下鉄駅付近爆破事件、9月の北オセチア共和国ベスランにおけるベスラン学校占拠事件などがある。
これに対してプーチン政権は、2003年から2006年にかけて独立派のチェチェン・イチケリア共和国の第2代大統領ゼリムハン・ヤンダルビエフと第3代アスラン・マスハドフと第4代アブドル・ハリムを殺害し、独立にむけた武装闘争に対しては徹底的に鎮圧する意思をいっそう明確にした。またロシア政府は2005年11月に共和国議会選挙を開催させ、「チェチェン紛争の政治的解決プロセスの総仕上げ」としてこの結果を評価した。これに対して正常化に向けた前進と評価する意見が存在する一方、独立派はロシアによる「翼賛選挙」であると強く反発している。
2006年6月には、イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を拉致し、チェチェン共和国からのロシア部隊撤退などを同国政府に要求。その後、要求が受け入れられなかったため、外交官を殺害するという事件も発生する。
2007年に独立派によるモスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破テロがおきた。
2009年5月、ロシア政府はチェチェンでのテロ活動が沈静化したとして、「反テロ特別治安体制」を終了すると宣言し、ここに第二次チェチェン紛争が終結した。ロシア軍により20万人近くのチェチェン人が犠牲になり、4分の1のチェチェン人が死んだと言われている。長引くチェチェン紛争に対しては、ロシア国内からも様々な意見が出されている。「第一次チェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要であった。今回の戦争は、エリツィン大統領が自ら選んだ後継者として公に支持する、ウラジーミル・プーチン現首相が世論調査で順位を上げるために必要とされている」とアメリカ下院でエレーナ・ボンネル(反体制物理学者アンドレイ・サハロフ博士未亡人)は証言をした。
第二次チェチェン紛争終結後
第二次チェチェン紛争は終結したと言うものの、チェチェン国内ではテロに対する厳重な警戒体制が採られている。また、イスラーム過激派自体もチェチェンから近隣の共和国に拠点を移しただけと言われる。2009年11月に再びモスクワ・サンクトペテルブルク間列車爆破テロが、2010年3月にモスクワ地下鉄爆破テロが、2011年1月のドモジェドヴォ空港爆破事件が独立派武装勢力により引き起こされている。これらの事件では独立派武装勢力のカフカース首長国のアミール、ドク・ウマロフから犯行声明が出されている。ただし、ロシア政府はチェチェンとの関連を否定している[要出典]。
近年ロシア政府は、力でテロを封じ込める方針から、経済振興によって地域を安定させる方針へと政策をシフトさせている。新たに連邦管区を設置し、大統領全権代表には企業出身の人物を就任させ、中央直轄で経済の底上げを計ろうとしている[1]。コーカサス研究の廣瀬陽子は、チェチェンは収束するどころか、深刻化していると指摘している[2]。一方、独立過激派はジョージアのパンキシ渓谷やダゲスタン共和国、イングーシ共和国へ活動の拠点を移していることで近年は大規模なテロは起きてないものの、ISILが警官を襲撃する複数の事件[3]も起きるなど治安は全面的には回復していない。
2013年ボストン爆弾テロ以降
ボストンマラソン爆弾テロ事件で、イスラーム過激主義の2人のチェチェン人が容疑者と認定されると、チェチェンへの関心は高まった。
ウラジーミル・プーチンはチェチェン人独立がイスラーム過激派によりもたらされているとして、ロシア連邦軍のテロ対策の正しさを強調した。
ウクライナ内戦
2014年より始まった2014年ウクライナ内戦にチェチェン人が多数親露派義勇軍として参戦していると報道された。[4] 現チェチェン共和国首長であるラムザン・カディロフはカディロフツィと呼称される私兵をウクライナに派兵するような支援は行っていないと否定している。
ロシアのウクライナ侵攻
2022年2月より開始されたロシアのウクライナ侵攻をカディロフ首長は支持しており、部隊をウクライナに派遣している[5]。一方独立派の義勇兵はウクライナ側として参戦している[6]。
2022年10月18日、ウクライナ最高議会は第二次チェチェン紛争を「武力による一方的な併合」としたうえで、分離独立派のチェチェン・イチケリア共和国を「ロシアの一時占領下」として独立を承認した。また第一次・第二次チェチェン紛争を「チェチェン人に対するジェノサイド」として非難する声明を決議した[7][8][9](ウクライナのチェチェン・イチケリア共和国の承認)。
政治

チェチェン人はロシアに併合された後も抵抗運動を繰り返し、ソ連時代から長きにわたって弾圧を受け続けて来た。そのこともあり、反露感情は極めて高いと言われる。しかし近年では長引く紛争に国民が疲れ果てており、ロシアによる統治を受け入れ、地域の安定化を実現させようという気運の高まりも指摘されている。ロシアは巨額の復興資金をチェチェンに投入し懐柔を図っているが、近代化は必ずしも成功していない。
また現在では、独立派の指導者であった4人のチェチェン・イチケリア共和国大統領や、モスクワ劇場占拠事件やベスラン学校占拠事件等の多くのテロ事件で犯行声明を出していた過激派指導者のシャミル・バサエフ等、独立派の主要人物が軒並みロシア治安当局によって殺害されており、独立派の士気は相当低下しているとの見方も存在する。
第二次チェチェン紛争において、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は元独立派指導者のひとりであったチェチェン人、アフマド・カディロフらを指導者に立て、チェチェンの反独立派運動の抑え込みを目指している。2003年10月の大統領選挙で初当選したカディロフは、独立派を「テロ集団」とする連邦政府の方針を支持していたが、2004年5月9日、その独立派のテロにより暗殺された。2004年8月29日大統領選挙が行われ、アル・アルハノフが当選した。
2007年にはプーチン政権の強力な後押しを受けて、アフマド・カディロフの息子、ラムザン・カディロフが大統領に当選した。カディロフは、連邦政府と緊密な関係の下でチェチェンの経済発展や産業振興を推進する一方、復興資金の横領や自身の側近や一族に権力を独占させ、独裁的な手法によって反対派を弾圧してきたと批判される。
2009年7月には、チェチェンの女性人権活動家ナタリヤ・エステミロワ(Natalya Estemirova)が何者かに拉致され、隣のイングーシ共和国で遺体となって発見される事件が起きている。地元の人権団体によれば、治安当局による拉致や拷問が頻繁に起きており、旧ソ連時代と比べても市民の政治的権利は後退していると主張している[10]。
ロシアがチェチェンの独立を強く拒絶するのは、チェチェンの独立によって多民族国家で多くの民族共和国を抱えるロシア連邦の求心力が低下し、解体に向かうことに対する懸念が大きいからだと考えられる。また、チェチェンがカスピ海のバクー油田から黒海沿岸のノヴォロシースクへと繋がる石油パイプラインの通り道にあることも、ロシアが独立運動に対し強硬な態度を取る一因であると言われている[11]。
さらに、ロシアの独立派に対する強硬姿勢を批判するなど、独立派を間接的に支援してきた反露傾向の強い西側諸国との対立構造もあり、チェチェンの独立阻止はロシアにとっても絶対に譲れない一線となっている。
- ^ NHKBS1 「きょうの世界」 2011年3月23日放送回より
- ^ チェチェン紛争~日常と非日常の共存 pan-dora.co.jp, 2011年9月18日閲覧。
- ^ ロシア南部チェチェンで武装集団が警官襲撃、ISが犯行声明
- ^ Are there Chechen fighters in Ukraine?
- ^ “プーチン氏に尽くす残虐部隊「カディロフツィ」 ウクライナでも活動”. AFP通信社 (2022年4月15日). 2022年10月26日閲覧。
- ^ “The armed forces of the Chechen Republic of Ichkeria are being revived in Ukraine”. Odessa Journal (2022年10月24日). 2022年10月26日閲覧。
- ^ “ウクライナ国会、チェチェン・イチケリア共和国を「ロシア連邦による占領下」と認定”. ウクルインフォルム (2022年10月18日). 2022年10月26日閲覧。
- ^ “ウクライナによるチェチェン独立承認は国際法に従ったもの=宇国会内大統領代表”. ウクルインフォルム (2022年10月25日). 2022年10月26日閲覧。
- ^ “Ukrainian Parliament recognises independence of Chechnya”. OC Media (2022年10月18日). 2022年10月26日閲覧。
- ^ a b 同上
- ^ 廣瀬陽子著『コーカサス 国際関係の十字路』2008, 集英社新書
- ^ Russian Federal State Statistics Service (2011). "Всероссийская перепись населения 2010 года. Том 1" [2010 All-Russian Population Census, vol. 1]. Всероссийская перепись населения 2010 года [2010 All-Russia Population Census] (ロシア語). Federal State Statistics Service.
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