タンジマート タンジマートの概要

タンジマート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 09:16 UTC 版)

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タンジマート諸改革は、トルコが神権的なイスラーム国家から近代的法治国家西ヨーロッパをモデルとした多民族国家へと変貌する第一歩であった[2]

概要

タンジマート改革を先取りしたスルタン、マフムト2世
マフムト2世の子で改革を始動させたスルタン、アブデュルメジト1世

1808年にオスマン帝国の皇帝スルタン)に即位したマフムト2世イェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務の3省を新設して政府機構の近代化を図り、翻訳局を設置して留学生をヨーロッパ諸国に派遣して人材を育成し、さらに帝国内の「アーヤーン」(「地方名士」「地方名望家」)と称される半独立の勢力を抑えるなどして中央支配の再確立を目指した[4][5]。しかし、シリアをめぐる、エジプトの太守ムハンマド・アリーとの対立は第二次エジプト・トルコ戦争へと発展し、1839年7月、エジプト軍がシリアの戦いでオスマン軍を打ち破ったという知らせが帝都イスタンブルに届こうとする直前、マフムト2世は病に倒れた[2][6]

マフムトが死去し、子のアブデュルメジト1世が新スルタンとして即位した[6]。この国難のなか、エジプトとの関係を好転させるべくヨーロッパを奔走していたのが、外務大臣のムスタファ・レシト・パシャであった[6]。彼はエジプト問題におけるイギリスの外交的支援を得るために、前年(1838年)、同国との間にバリタ・リマヌ条約(オスマン=イギリス通商条約、英土通商条約)を結んだ[6]。この条約は、その後、イギリスがアジア諸国と結ぶことになる一連の通商条約の雛形となった[7]

1839年11月、新皇帝アブデュルメジト1世は、ムスタファ・レシト・パシャの起草によるギュルハネ勅令(タンジマート勅令)を発布して全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事財政文化教育に至るまで西欧的体制への転向を図った[2][8]。タンジマートの始まりである[2]。以降、タンジマート諸改革のもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった[9]。改革政治は、途中、ヨーロッパにおける「1848年革命」の影響を受け、クリミア戦争1853年-1856年)の末期には改革勅令を発布、西欧化の方針はその後も受け継がれ、その集大成というべきオスマン帝国憲法(通称、ミドハト憲法)が制定される1876年までの約37年におよんだ[2]

この間、法令の改革においては、ヨーロッパ諸国の法に依拠した立法作業が進められ、それぞれの法に関する法廷も設置された。しかし、一方でシャリーア(イスラーム法)にもとづく法廷も併存していたため、シャリーアとヨーロッパ起源の法が並行して適用され、こうした二元体制には社会的混乱がともなった[3]。また、「イルティザーム英語版」と称される、オスマン帝国の徴税請負制度は段階的に廃止されていった。1840年代初頭、帝国はイスタンブルのガラタ地区ラリ家英語版など80名に銀行業務を認可したが、1850年代半ばには統合が進んで18名となり、かれらは19世紀後半、さかんに列強の大銀行と提携するようになった[10]1856年にはオスマン帝国銀行英語版が設立された[11][12]。ヨーロッパ式の軍隊学校も整備され、中央集権的な官僚機構が整えられ、また、最高・高等司法審議会議や州議会の設立をとおして、地方総督になりがちであった州長官や地方に根を張っていたアーヤーンの権力基盤は徐々に弱められていった[2]

タンジマートは、欧米地域以外における最初の体系的な近代化の試みでもあり、清国洋務運動タイ王国チャクリー改革日本明治維新などアジアの「欧化」の先駆けとなった[2]

前史

タンジマート期前後のオスマン帝国周辺の状況。エジプト総督ムハンマド・アリーの勢力範囲(橙)、ギリシャ独立による領土喪失(紫)、クリミア戦争時のロシアによる占領地域(緑)

オスマン帝国はヨーロッパ、西アジア、アフリカにまたがって君臨した大国であったが、18世紀以降、数次にわたる露土戦争などでの相次ぐ敗北によって、その軍事力や政治機構が欧州諸国のそれと比較して劣っていることが帝国内において認識されつつあった[13][14]。さらに国内の各地では「アーヤーン」(「地方名士」「地方名望家」)と呼ばれる有力者たちの勢力が増し、中央政府の統制が緩んでいた[13]。そしてバルカン半島ではギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人などが、自立傾向を見せていた[13]

Sekbân-ı Cedîd

このような内憂外患の中で、中央集権支配の再確立を目指す改革が試みられた[13]1792年にロシアとの戦いに敗れクリミア半島を喪失したセリム3世ニザーム・ジェディード(新秩序)と総称される改革を行い、フランスから招聘した軍事顧問団の指導の下で新設軍を組織し、陸海軍の技術学校の設立や情報収集のために欧州諸国への常設駐在大使の設置などを行った[13]。しかしアーヤーン層やイェニチェリ、守旧派官僚などからの広範な抵抗を受けたことに加え、1798年のナポレオンのエジプト侵攻をきっかけにエジプトの支配権を握ったムハンマド・アリーが実質的にオスマン帝国から自立し、1804年にはバルカン半島でスラブ系諸民族の反乱が発生するなど、オスマン帝国をめぐる環境は悪化した[13]。そして、バルカン半島の反乱をきっかけに始まった露土戦争(1806年 — 1812年)の最中、守旧派に扇動された反乱が発生してセリム3世は殺害され、ムスタファ4世が擁立された[13]。改革派を保護したアーヤーンのアレムダル・ムスタファ・パシャ英語版はムスタファ4世を廃してマフムト2世を擁立し、セリム3世の政策を継承することを宣言した[13]。彼はアーヤーン層の支持を取り付ける必要を感じ、1808年に主要なアーヤーンをイスタンブルに召集してマフムト2世との間に「同盟の誓約英語版」(セネディ・イッティファク)の署名をさせた[13]。これはアーヤーンに兵力の提供や治安の維持、スルタンへの服従を要求する代わりに徴税請負権や大土地所有などの既得権益を認めるもので、スルタンによる専制支配を建前としたオスマン帝国の歴史において画期的な内容のものであった[13]。アレムダルはさらにニザーミ・ジェディードに換えてセクバーヌ・ジェディード英語版と呼ばれる西洋式軍隊を創設したが[13]、最終的に1808年11月のイェニチェリによるクーデターによって守旧派が政権を奪回し、アレムダルは殺害された[13]。しかし、その後もマフムト2世はその後も強い決意をもって改革を継続した。

セリム3世の遺志を継いだアレムダル・ムスタファ・パシャ

1821年ギリシャ人が蜂起すると、イェニチェリ軍団の無力が白日の下にさらされ、自力での鎮圧が不可能であることが明らかとなった[15][16]。マフムト2世はエジプト総督ムハンマド・アリーに鎮圧を命じ、ギリシャに派遣されたエジプトの西欧式軍隊であるジハーディヤ(聖戦軍)は赫々たる戦果を挙げた[15][16]。このことはマフムト2世にイェニチェリの解体を決意させた。彼は新たな西欧式軍隊エシキンジトルコ語版を編成するとともに、1826年にはイェニチェリの軍団本部を襲撃してこれの廃止を宣言した[15]。さらに西欧諸国への留学生の派遣、国政の中心となっていた大宰相府からの外務・内務・財務三省分割、国勢調査、最高軍事会議と最高司法審議会議の設置による法治体制の基盤固めなどが次々と実施された[15]。また、これまで翻訳業務を主に担っていたギリシャ人にかわってトルコ人の通訳官を養成するため1833年に翻訳局が設置された。これはその後台頭する若手トルコ人官僚に出世の機会を提供する組織となった[15]

マフムト2世は国内の不満を抑えつつこうした改革を断固として実施したが、エジプトのムハンマド・アリーとの関係が諸外国を巻き込む重大な問題となっていた[15]。ムハンマド・アリーはギリシャの反乱鎮圧(最終的に鎮圧には失敗したが)における貢献の代償としてシリアの統治権を要求した。マフムト2世はこれを拒否したが、ムハンマド・アリーは実力でシリアを切り取りにかかり、西アナトリアにまで侵攻した[15]。進退窮まったマフムト2世はやむなくロシア帝国に支援を求め、イギリスフランスも介入した結果1833年にキュタヒヤの和約英語版が結ばれ、エジプトへのシリアの譲渡を約してエジプト軍は撤退した[15]。しかしシリアをめぐるオスマン帝国とエジプトの紛争は継続し、1839年6月には再びシリアで武力衝突が発生しオスマン帝国軍は敗れた[15]。マフムト2世はこの知らせが届くより前の1839年7月1日に死去した[15]




注釈

  1. ^ 「タンジマート」のもともとの意味は、「再編成」「組織化」である[1]
  2. ^ タンジマート期に、それまで唯一の権威を持っていたシャリーア法廷の外部に設置されたムスリムと非ムスリムとの間の民事・商事訴訟を取り扱う裁判所。
  3. ^ 1848年革命によって、ウィーン体制は終焉を遂げ、ヨーロッパにおける被抑圧民族のナショナリズムが高揚し、その様相や成果は「諸国民の春」と称された。
  4. ^ オスマン帝国の借款は1854年以降、計17回におよんだ[21]
  5. ^ タンジマートは、改革勅令を機に前後に分けるのが一般的である。前期はある程度まで帝国政府の創意のもとに進められたのに対し、後期は列強の強制によるところが大きかったからである[23]
  6. ^ 山内昌之は、レシト・パシャ、フアト・パシャ、アーリ・パシャの3人を「タンズィマートの三傑」と呼んでいる[26]
  7. ^ アーリ・パシャの死後、スルタンのアブデュルアズィズははばかることなく無為と専制に走り、恣意的な人事がまかり通るようになって、大宰相のポストも一時軽くなった[28]
  8. ^ オスマン領内の深刻な民族問題には、19世紀をとおしてのクレタ島でのギリシャ人への圧迫や19世紀末からの20世紀まで間断なくつづいたアルメニア人に対する抑圧や虐殺がある[36]
  9. ^ ミドハト・パシャが追放されたのは、アブデュルハミト2世に対する妥協としてその挿入を容認した、国益を害する人物をスルタンの権限で国外追放にできるとした条項を利用してのことだった。これは、ミドハト・パシャが立憲派の力を過大に見積もった過信のせいだったともいわれている[37]
  10. ^ 改革を主導したひとり、大宰相アーリ・パシャももともとイスタンブルの靴屋の息子である[40]

出典

  1. ^ 山内(1996)p.164
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 山内(1996)pp.163-165
  3. ^ a b c d e f g 小泉「トルコの政教分離に関する憲法学的考察――国家の非宗教性と宗教的中立性の観点から―」(2008)
  4. ^ 新井(2009)pp.42-43
  5. ^ 新井(2009)pp.86-88
  6. ^ a b c d 永田(2002)pp.287-289
  7. ^ 永田(2002)pp.294-296
  8. ^ a b c d e f g h i j 永田(2002)pp.289-292
  9. ^ 新井(2009)p.68
  10. ^ R. Kasaba, The Ottoman Empire and the World Economy, State University of New York Press, 1988, pp.75-76, 78-80.
  11. ^ a b c d e f g h i 山内(1996)pp.176-179
  12. ^ 永田(2002)pp.308-314
  13. ^ a b c d e f g h i j k l 永田(2002)pp.281-284
  14. ^ 新井(2009)pp.31-41
  15. ^ a b c d e f g h i j 永田(2002)pp.284-289
  16. ^ a b 新井(2009)pp.42-49
  17. ^ a b c d e 永田(2002)pp.292-293
  18. ^ a b c 山内(1996)pp.166-168
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 永田(2002)pp.296-299
  20. ^ a b 山内(1996)pp.175-176
  21. ^ 永田(2002)pp.296-299
  22. ^ a b c 新井(2009)pp.77-85
  23. ^ 山内(1996)p.176
  24. ^ 新井(2001)pp.52-56
  25. ^ a b c 新井(2009)pp.86-88
  26. ^ 山内(1996)pp.178-179
  27. ^ a b c d 永田(2002)pp.299-302
  28. ^ 山内(1996)p.201
  29. ^ a b c 永田(2002)付録pp.032-033
  30. ^ 堀井 (2016) pp.432-433
  31. ^ 新井(2009)pp.134-138
  32. ^ a b c 新井(2009)pp.172-175
  33. ^ a b c d e f g h i j k 永田(2002)pp.302-305
  34. ^ 山内(1996)pp.210-212
  35. ^ a b c d 山内(1996)pp.168-170
  36. ^ 山内(1996)p.169
  37. ^ 山内(1996)pp.212-213
  38. ^ a b 山内(1996)p.216
  39. ^ 山内(1996)pp.203-205
  40. ^ 山内(1996)p.204





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