タルガ・フローリオ タルガ・フローリオの概要

タルガ・フローリオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/21 01:55 UTC 版)

1965年大会の応援風景(コッレザーノ

歴史

ブガッティ・T35C(1927年)
1973年の優勝車、ポルシェ・911RSR

タルガはイタリア語で「」を意味し、タルガ・フローリオとは大会後援者のフローリオ家から優勝者に贈られた「フローリオ牌」のことを指す。ル・マン24時間レース(1923年 - )、ミッレミリア(1927年 - 1957年)と並ぶスポーツカーレースのクラシックイベントであり、曲がりくねった峠道を走る過酷なレースとして人気を博した。

フローリオ家はマルサラワインの製造をはじめ、海運業、タバコ専売などで財をなしたシチリア島の富豪一族である。子息ヴィンチェンツォ・フローリオは自動車レース愛好家としても知られ、1905年にブレシアで行われたレースにコッパ・フローリオ(フローリオ杯)を寄贈した[1]。さらに地元でのレース開催を思い立ち、運営委員会を設立し、自らが優勝したタルガ・リンニャーノ(1902年)にちなんでタルガ・フローリオと命名した。1906年の第1回大会には10台が参加し5台が完走。賞金総額は5万リラ、優勝者には3万リラと記念楯が贈られた。初期の参加資格は「過去に10台以上生産された乗用車」だったが、やがてスポーツカーの参加も認められるようになった。

第一次世界大戦のため1915年から1918年まで中断し、再開した第10回(1919年)では初めて国外勢のプジョーが優勝した。1920年代にはグランプリマシンが参戦するようになり、ブガッティが第16回(1925年)から第20回(1929年)まで5連覇、アルファロメオが第22回(1930年)から第26回(1935年)まで6連覇、マセラティが第28回(1937年)から第31回(1940年)まで4連覇した。その後、第二次世界大戦のため1941年から1948年まで再び中断した。

1950年代後半からはスポーツカー世界選手権の1戦に組み込まれ、フェラーリポルシェアルファロメオなどのワークスマシンがしのぎを削った。ポルシェは第50回(1966年)から第54回(1970年)まで5連覇し、通算ではメーカー最多の11勝を挙げた。最盛期の1970年前後には60万人の観客が沿道で声援を送った。

しかし、高性能のプロトタイプカーが狭い公道を走るにつれ危険性は高まり、1973年を最後にスポーツカー世界選手権から外れることになる。ワークスチームが去ったあとはイタリア国内選手権として継続されたが、第61回(1977年)にオゼッラのマシンがコースオフし、観客2名が死亡、2名が重症という大事故が起きる。ミッレ・ミリアと同様に、タルガ・フローリオも死傷事故により歴史にピリオドが打たれた[2]。1978年以降はイタリア国内ラリー選手権のラリー・タルガ・フローリオ(Rally Targa Florio)として名を残している。

また、ニューファンドランド島のタルガ・ニューファンドランド(Targa Newfoundland)、ニュージーランドのタルガ・ニュージーランド(Targa New Zealand)、オーストラリアのタルガ・タスマニア(Targa Tasmania)など、タルガ・フローリオの名にちなんだイベントが行われている。日本でも1988年から数回淡路島で「淡路タルガ・フローリオ」が行われた。

コース

かつてピットレーンとして使用されていたフローリオ・ポリのピット部分(2010年)

スタート/ゴール地点はシチリア島北西部、パレルモ近郊のチェルダ駅前にある。ここには「フローリオ・ポリ」と呼ばれたピット・観客スタンドの施設が現在も残っている。時差式でスタートした各車は内陸部のマドニエ山脈へ登り、反時計回りにカルタヴトゥーロコッレザーノなどの山間都市を経由して海岸部へと下り、長い直線を飛ばしてチェルダに戻る。ルートは時代を経て大(グランデ・マドニエ)から中(メディオ・マドニエ)、小(ピッコロ・マドニエ)へと短縮された。

初期の山間ルートはほとんど未舗装のグラベルロードであり、天候の急変や山賊の出没など、ドライバーにもマシンにも耐久力が問われた。走行距離が短縮されてもツイスティーな難コースという特徴は変わらず、ピッコロ・マドニエには1周72kmに832のコーナーがあった。

グランデ・チルクィート・デレ・マドニエ(Grande delle Madonie
1周148.823km。周回数は1 - 3周。第1回(1906年)から第6回(1911年)まで使用された。第22回(1931年)にはメディオが土砂崩れのため、グランデを148kmに短縮して使用。
ファステストラップは第2回(1907年)、ヴィンチェンツォ・ランチア(フィアット28/40HP)が記録した2時間43分8秒4(平均速度55.456km/h)。
メディオ・チルクィート・デレ・マドニエ(Medio Circuito delle Madonie
1周108km。周回数は4 - 5周。第10回(1919年)から第21回(1930年)まで使用された。
ファステストラップは第21回、アキーレ・ヴァルツィアルファロメオ・P2)が記録した1時間21分21秒6(平均速度79.645km/h)。
ピッコロ・チルクィート・デレ・マドニエ(Piccolo Circuito delle Madonie
1周72km。周回数は1 - 14周(おもに10周前後)。第23回(1932年)から第27回(1936年)までと、第35回(1951年)から第61回(1977年)まで使用された。
ファステストラップは第54回(1970年)、レオ・キヌーネン(ポルシェ・908/3)が記録した33分36秒(平均速度128.571km/h)[3]

また、例外的にシチリア島1周コースや、仮設クローズド・サーキットで行われた事もあった。

ジーロ・ディ・シチリア(Giro di Sicilia
1周1050km。1912年から1914年まで使用。パレルモを出発し、シチリア島海岸部を反時計回りに1周する。
チルクイート・デル・パルコ・デッラ・ファボリタ(Circuito del Parco della Favorita
1937年から1940年まで使用。王立公園内の仮設コースで、直線とシケインで構成されていた。レイアウト変更により距離は1周5.26kmから5.72km、5.7kmへと変わった。
チルクィート・ディ・シチリア(Circuito di Sicilia
1周1080km。1948年から1950年まで使用。ジーロよりも長いシチリア島1周コース。

  1. ^ コッパ・フローリオは12回開催され、うち6回はタルガ・フローリオと同時開催された。
  2. ^ 61回の歴史を通じてドライバーの死亡事故は1925年の1件のみだった。
  3. ^ 『タルガ・フローリオの神話-1906~1977年の全レース、全2607台の記録 』、430頁。
  4. ^ 直前のミッレ・ミリアの死傷事故の影響で量産車のみ出走し、平均速度規制が適用された。


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