ズデニェク・フィビフ ズデニェク・フィビフの概要

ズデニェク・フィビフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 05:40 UTC 版)

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ズデニェク・フィビフ
Zdeněk Fibich
基本情報
出生名 Zdeněk Fibich
生誕 1850年12月21日
オーストリア帝国フシェボジツェ村
死没 (1900-10-15) 1900年10月15日(49歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国
プラハ
ジャンル 国民楽派
職業 作曲家
オルガニスト
音楽教師
音楽監督
担当楽器 オルガン
活動期間 1864年 - 1900年

はじめに

日本では「フィビヒ」ないし「フィービヒ」の発音及び表記が一般的になりつつあるが、"Fibich" の "ch" の発音は、チェコ語では無声音でしかも ach-Laut([x]) であり、「フ」又は「ク」に近い(但し、それでも耳慣れない日本人には「ヒ」に近い音として聞こえるかも知れないが)。本稿では、チェコ語での発音を尊重し、更には他の記事との表記統一を図る為、日本語表記は、「フィビヒ」ではなく「フィビフ」で統一する。 尚、「フィービヒ」の様に長音を加えた表記は誤りである(長音とした場合、綴りは "Fibich" ではなく "Fíbich"になってしまう)。

但し、この当時Fibichが生きたボヘミア地方はオーストリア帝国の支配下にあり、公用語がチェコ語ではなくドイツ語であったこと、Fibcih自身が貴族に仕える家に生まれ、更に母親もウィーン出身であったことなどを考え合わせると、自身がドイツ語風に「フィビヒ」と発音していた可能性は有り得る。このことについては調査が必要であろう。

ズデニェク・フィビフは、スメタナドヴォルザークと共に、チェコ国民楽派の草創期を築いた作曲家。 チェコ民族独立の気運が胎動する時代にあって、スメタナやドヴォジャーク同様、チェコ民謡や民族舞曲のリズムを自作に取り入れた他、チェコ民族の伝説によるオペラを作曲するなど、その作品は民族的な素材によるものが少なくない。作曲技法の面では明らかにドイツ・ロマン派の系統にありながら、チェコ国民楽派として扱われるのは、このような彼の志向によるものである。 当時、ドヴォジャークやヤナーチェクのように、音楽修業時代に満足にピアノに触れることもできなかった作曲家も居たが、フィビフはその点、幼少時代から非常に恵まれた環境で音楽を学び育った。

音楽修業を終えてからも楽壇の要職に就くことはなく、生涯にわたり、主に作曲と教師、音楽監督などの職で生計を立てた。

当時のチェコ楽壇は、同じ国民楽派とはいえ、スメタナの進歩派と、ドヴォジャークを擁するプヴォタの保守派に二分されていた。フィビフは、音楽上の立場としてはスメタナの側に立っていたこともあり、当時はスメタナの正統な後継者として目されていた。

生涯

誕生~音楽修業時代

  • 1850年12月21日 当時オーストリア帝国の支配下にあったボヘミア地方のフシェボジツェ村(Všebořice)に生まれる。洗礼名はZdenko。父親Janはチェコの貴族アウエルスペルク伯Auerspergに仕える森林管理官、母親Marieはドイツ語を話すウィーン出身の女性だった。
  • 1859年-1862年 ヘルマンのハウプトシューレに在籍。フィビフにとって初めての音楽教育となる、母親からのピアノの手ほどきは1859年から始まっている。
  • 1862年-1863年 ギムナジウムに通った。
  • 1863年-1865年 プラハのチェコ・ギムナジウムに通う。フランティシェク・チェルニーチェコ語版(フランティシェク・チェルニー)(ピアノの練習曲を書いた、ベートーヴェンの著名な弟子とは別人))の勧めにより、最初の作曲に取り組んでいる。
    • 1864年 スメタナの強い後押しにより、聖イグナツ教会のオルガニストに就任。
    • 1864年-1865年 ジークムント・コレショフスキーチェコ語版(ジークムント・コレショフスキー) の私設音楽学校に通う。
  • 1865年4月12日 自作の最初のホ短調交響曲を、自身の指揮で初演(Slavoj協会コンサート)。但しこの交響曲には、交響曲としての番号も、作品番号も与えられていない。

独立・結婚

  • 1867年 パリでピアノ教師をしながら、かねて関心を抱いていた彫刻や絵画を学んだ。
  • 1870年 マンハイムで最後の音楽修業を終えるとチェコに戻り、両親と共にジャーキー村に移り住んでいる。
  • 1873年 製粉所の娘、ルージェナ・ハヌショヴァーと結婚し、その秋にはリトアニアのヴィリニュスで合唱指導の職に就いた。
この最初の妻との間には1874年に双子の男女が生まれたが、男児(リハルト)は数時間後に亡くなった(もう一人のエルサも2年後には亡くなってしまう)。さらに妻を看病しに来ていたフィビフの姉が、そして追い討ちを掛けるように、10月には妻も亡くなってしまった。

再婚

  • 1875年 自分の姉と一緒になってくれるようにとの亡妻の願いを容れ、フィビフはルージェナの姉・ベッティと再婚した。ベッティは、当時スメタナやフィビフの等のオペラに出演して人気を博していた仮劇場~国民劇場のコントラルト歌手であった。この年、フィビフは仮劇場(後のチェコ国民劇場)の音楽副監督と合唱監督の職に就いている。
翌年、男児が生まれ、この子もリハルトと名づけられたが、前妻との間に生まれたエルサは世を去った。
  • 1878年 敬愛するスメタナが仮劇場を去ることになり、これを機にフィビフも仮劇場での職を辞している。これは反スメタナ派が事実上劇場を支配することになり、仕事がし難くなった為と見られる。

この後1891年までは、創作活動を行ってはいるが、フィビフ自身に関する特に目立った記事はない。平穏な年月を送っていたのではないかと推測される。

晩年

  • 1891年 母を亡くす。
  • 1893年 姉を亡くす。
    • 作曲の教え子だった、アネシュカ・シュルゾヴァー(Anežka Schulzová)との親密な関係が始まったのは、この頃からだったといわれている。彼女との関係は、フィビフが亡くなるまで続く。
  • 1897年 国民劇場から程近いプシュトロス通りに移り住み、妻子とは別居状態となる。
  • 1900年 風邪をこじらせ、10月15日に49年の生涯の幕を閉じた。翌年、彼の後を追うようにしてベッティが亡くなっている。フィビフの遺骸は現在、ヴィシェフラトの墓地に彼の妻(ベッティ)と共に埋葬されている。



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