ジーンズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/12 02:17 UTC 版)
歴史
米国
ゴールドラッシュに湧く北米の鉱山で働く多くの鉱夫の悩みのひとつは、作業中にズボン(パンツ)がすぐに掏り切れてしまうことだった。1870年、仕立て屋のヤコブ・デービスは、既に設立されていたリーバイス社のリーバイ・ストラウスから仕入れたキャンバス生地を用いて銅リベットでポケットの両端を補強した仕事用パンツ(ワークパンツ)を発売し、これが鉱夫らの好評を博した。ジーンズは最初、鉱夫らの作業着であった。
類似品が出回ることを危惧したヤコブは、このリベット補強済みパンツの特許を取得しようとしたが必要な資金が無く、権利を折半するという条件でリーバイ・ストラウス社に特許申請を依頼し、特許申請は1873年5月20日に受理され、この「リベット補強済みパンツ」はリーバイ・ストラウス社製の製品として製造販売された。このパンツがジーンズの原型である。
1890年に「リベット補強済みパンツ」の特許は期限が切れ、そのアイディアは社会の共有財産となり、誰でもそれを製造してよい状態となり、多くの会社がリベット補強のパンツの製造・販売を開始した。
1900年代に入り、素材はキャンバス生地からインディゴ染めのデニム生地へと変遷し、縫製技術の進化等により1940年代には現在のジーンズとほぼ同様のデザインとなった。

1953年の映画『乱暴者』で主演のマーロン・ブランドがLevi's 501XXを、1955年の映画『理由なき反抗』でジェームズ・ディーンがLee RIDERS 101を着用した。これを見た若者が影響を受け、ジーンズは(米国の若者なりの主張を込めた)ファッションとして普及していった。当時米国では「反抗的な若者の象徴」と見なされたため、ジーンズの着用を禁止する学校が多かった。
現在では、単にカジュアルウェア、カジュアルウェアの中でもかなりくだけたもの、として着用されることが一般的で、1950年のように象徴的な意味が意識されることはほとんどなくなった。ただし、一般に正装とは見なされない。式典、格式の高いパーティなどではドレスコードで「ジーンズ着用者は入室禁止(参加不可)」とされることはしばしばある。また、一部では「アメリカの象徴」とされることがあり、韓国と北朝鮮の軍事境界線にある板門店では、ジーンズを穿いた韓国側からの観光客を、北朝鮮が「韓国はアメリカの手先」とプロパガンダに利用する恐れがあるとし、着用を一切許可していなかったことがある。
ドイツ
1997年、バイエルン州警察は男女警察官の通常勤務服ズボンとして、カーキ色のジーンズを追加採用した。従来型制服のスラックスが女性警察官の体格に合いにくいことに対処したもの。
日本
1923年(大正12年)山本彦太郎、ゑき夫妻がアメリカで「STAR OVERALL MFG CO.」を創業、日本人による初のデニムブランドとなる。 1926年(大正15年)生地の仕入れ方法、裁断、縫製など全ての技術を手に帰国。静岡県沼津市にて作業服製造販売会社「合資会社山本被服製造所」を創業した。民間企業としては日本初の工業被服工場となる。 1931年(昭和6年)に商標登録。
1945年の敗戦後にアメリカ軍 (GHQ) が放出した古着の中の大量のジーンズ、そして一気に流入したアメリカの映画や音楽等が普及のきっかけとなった[要出典]。敗戦後の占領時代、闇市だったアメ横の店には、米兵相手の娼婦たちが客からもらった中古衣料を売り払いに訪れ、その中にあったブルーの作業スボンをその界隈ではGIパンツ、通称ジーパンと呼んだ[3]。
外交官だった白州は1930年代にアメリカでジーンズを知り、戦後PXで購入したジーンズ姿で寛ぐ写真が1951年に公開され、日本中に知れ渡った[3]。
1956年、栄光商事(後のEIKO)(港区北青山一丁目)がジーンズの輸入販売を開始[要出典][注 1](その後は米軍やその家族の放出品であるセコハンジーンズを扱う店がアメ横に登場)ロカビリー歌手やGS(グループ・サウンズ)の人気グループ御用達の店として、また長きに渡って一般客にも愛された[要出典]。1957年には輸入衣料の規制が緩和され、栄光商事や大石貿易がリーやリーバイスと販売契約を結び、大量のジーンズが日本に流入した[3]。
1958年に岡山県倉敷市児島のマルオ被服(現:ビッグジョン) が受託生産を開始[要出典]。マルオは学生服製造の傍ら、アメ横の米軍放出品販売店から持ち込まれるジーンズの丈直しを手掛けていた関係から、早くからジーンズ製造に関心が高かった[3]。1960年にマルオ被服がジーンズの生産発売を開始。同年に千葉県の高畑縫製がジーンズのEIGHT-Gを生産販売した[要出典]。(「1961年に東京の常見米八商店(現:エドウイン)がビッグジョンより先に販売した」とする説もある[要出典]が、当時アメリカ中古ジーンズの販売を行っていた常見米八商店は息子をジーンズ生産の技術を学ぶために縫製会社の取引先であったマルオ被服に弟子入りさせていたので、あいまいである。)
「キャントン」は、1965年にマルオ被服が、アメリカの中古ジーンズを販売していた大石貿易と取引のあったキャントンミルズ社のデニム生地を買い国内で生産発表したジーンズの名である。大石貿易はいち早くアメリカ産デニムの独占輸入権を取得しており、1964年にジョージア州の布地会社キャントンミルズをパートナーに東京工場で日本市場向けジーンズ「キャントン」を作り始め、その西日本での製造販売契約をマルオと結んだ[3]。当時の日本人には肌さわりが悪くゴワつくジーンズは受けいれられなかったため、マルオ被服 は「ワンオッシュ」という現在のジーンズ生産に重要となる技術を世界で初めて採用し、現在の日本製ジーンズだけでなく世界のジーンズ技術の礎となった。当初、マルオのワンオッシュジーンズは洗濯済みの商品を並べることに抵抗のあった百貨店からは拒絶されたが、1967年にマルオがビッグジョンのブランド名で米国コーンミルズ社のデニムを使った国産ジーンズをデビューさせると値段の手頃さもあって好調に売り上げた[3]。その後1971年には1500万本のジーンズが売れ、1973年には4500万本と日本国内のジーンズ市場は急拡大を見せた[3]。一方で、1970年に米国で布地の輸出が規制され、さらに1971年のニクソン・ショックによる円高でアメリカ産デニム生地は品薄・価格高騰となり、クラボウは広島のカイハラと組んで国産デニムを開発、アメリカ産と遜色ない出来に米国リーバイスからも発注を得た[3]。1972年にはリー・ジャパン(堀越商会)、ラングラー・ジャパン(ヴァン・ジャケット、東洋紡、三菱商事)が設立され、日本ブランドもビッグジョン、エドウィン、ボブソン、ジョンブル、キャピタル、ベティ・スミス、バイソンなど多数出揃い、1970年代半ばには大手三社だけで300億円近くを売り上げる市場規模に成長した[3]。
現在の日本でのジーンズ生産量1位の地域は、岡山県である[4]。(岡山県はビッグジョン が所在している)[注 2]。
1970年代以降は男性のみならず、若い女性もジーンズをはくようになった。1977年に大阪大学でアメリカ人講師がジーンズを履いた女学生を教室から退室させたことから「阪大ジーパン論争」が起こった。この論争は「ジーパンは作業着で、女性には似つかわしくない」という講師と「ジーパンはもはやファッションの一部」という女学生の主張が真っ向から対立し、最終的に講師が阪大を去るという結果となった[4][5]。
1980年代には1950年代のリーバイス501などビンテージジーンズのブームが始まり、アメリカの古いジーンズが大量に輸入され、1990年代には数十万円を超える高価で取引されるまで沸騰した[6]。それにともなって、ビンテージモデルを再現した新しいジーンズのリリースも始まった[6]。1980年にビッグジョンが日本初のセルビッジ・デニムを使ったビッグジョン・レアを発売(布幅の狭いセルビッジデニムは手間がかかり大量生産に向かないため本国米国では廃れていた)、売上的には失敗したが、そのセルビッジ・デニム開発を手掛けたクラボウはその自社デニムをフランスのブランドに販売、このフレンチ・ジーンズをきっかけに、1987年にはリーバイス・ジャパンはクラボウのデニムを使って自社の1936年型501XXのレプリカモデル701XXをリリースした[6]。大阪アメリカ村では、のちに「OSAKA5」と呼ばれる5つのショップが相次いでレプリカジーンズやビンテージの風合いを持つジーンズを相次いでリリースした(1982年田垣繁晴ステュディオ・ダ・ルチザン、1988年林芳亨ドゥニーム、1991年山根英彦エヴィスジーンズ、1992年辻田幹晴フルカウント、1995年塩谷兄弟ウエアハウス)[7][6]。なお、セルビッジ・デニムを復活させたクラボウはその後も開発を続け、1985年に、大量生産時代以前のムラ糸(ジーンズ愛好者が好む「縦落ち」と呼ばれる色落ちを可能にする)を現代の技術で復活、セルビッジ・デニムでは日本は世界をリードするに至った[6][8]。
こうしたビンテージにこだわるレプリカジーンズは世界的となったが、2007年にリーバイス・ストラウス社が日本のジーンズメーカー10社以上を商標権侵害で訴える騒ぎがあり、レプリカブームは過ぎ去った[9]。セルビッジデニムを使った高額なプレミアムジーンズのブームも終わり、2009年にはGUが990円のジーンズを売り出し話題となった[6]。
注釈
- ^ 現在は多様な店舗展開により北青山一丁目の本店は閉鎖されている。
- ^ 正確な表記は 501Ⓡ(Rの丸囲み文字)。特殊文字のため本文では代替表記を行った。なお、アメリカ製の501や505などの中にはタブの刺繍がこのⓇ(サークルR)のみのものが一定の確率で存在した。
- ^ ただし正式型番は 501 ではなく、55501、71501などのように原型の年式が頭に付く。
- ^ 当時日本製品に 501 の名を使用できなかったため止むなく 502 となったと言われている。以降同様に701XX、504Z、503B、503Z、50s(1950年代の501)などの復刻が続き、近年のものでも正式型番が「501」のみの日本製品は発売されていない。
出典
- ^ a b Oxford Dictionaries
- ^ a b ジョアン・フィンケルシュタイン『ファッションの文化社会学』成実弘至訳 せりか書房 2007年、ISBN 9784796702799 pp.50-53.
- ^ a b c d e f g h i 『アメトラ』デーヴィッド・マークス、DU BOOKS、2017、4章ジーンズ革命p112-142
- ^ “女生七嘴八舌嚷「解放」 老教授硬是不准入課堂” (Chinese). The Kung Sheung Daily News. (1977年5月27日) 2019年2月25日閲覧。
- ^ “大阪大学講師 過去にジーンズ姿の女子大生の受講を拒否” (Japanese). NEWSポストセブン. (2011年4月9日) 2020年10月10日閲覧。
- ^ a b c d e f 『アメトラ』デーヴィッド・マークス、9章ビンテージとレプリカp287-322
- ^ アメリカ村『新しい息吹の集まるまち』【1985年前後】
- ^ What is Selvedge Denim?Tod Shelton, October 29, 2019
- ^ ジャパンデニムの分岐点!2007年Levi’s(リーバイス)事件FAsion Pathfinder, 2019-05-27
- ^ スキニーデニム - goo辞書(デジタル大辞泉)、2020年9月24日閲覧。
- ^ 日経スペシャル ガイアの夜明け 第480回 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分) テレビ東京、2011年8月23日
- ^ メリアム=ウェブスター辞典オンライン版:"Selvage." Merriam-Webster.com. Merriam-Webster, n.d. Web. 15 Aug. 2014. http://www.merriam-webster.com/dictionary/selvage.
- ^ Heddels Dictionary 2014-08-16閲覧
ジーンズと同じ種類の言葉
- ジーンズのページへのリンク